スティーヴンソン著『声たちの島』には、ボルヘスによる序文と、「声たちの島」「壜の小鬼」「マーカイム」「ねじれ首のジャネット」の四篇が収録されている。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の17巻で、私にとっては8冊目の“バベルの図書館”の作品だ。
スティーヴンソンの作品といえば、『宝島』と『ジキル博士とハイド氏』の二作が圧倒的に有名だろう。私などは、その二作しか読んだことがない。
『ジキル博士とハイド氏』は、児童向けに訳された本(多分ポプラ社)と、映像化作品から受けた印象は記憶に残っているが、同時期に読んだ『宝島』については、正直なところ殆ど覚えていない。そんなわけで、私にとってスティーヴンソンとは、長年『ジキル博士とハイド氏』の人以外の何者でもなかった。
『ジキル博士とハイド氏』の映画化については、ボルヘスの“その映画化を試みた人はいつもきまって一人の役者を使ってきた。しかし、二人が実は同一人であるとわかるほうがもっと驚くべきことなので、二人の役者にやらせたほうがもっと効果的だったのではあるまいか”との弁に、全面的に賛同である。
当時小学生だった私が『ジキル博士とハイド氏』で最も戦慄したのが、まさに二人が同一人であるという事実そのもので、それに付随するハイド氏の蛮行やジキル博士が追い詰められていく過程などについては、それほど恐ろしいとは思わなかった。一つの肉体の中で二つの人格が拮抗しているという状態への、生理的ともいうべき嫌悪感は30年以上たった今でもまだ生々しい。
犯罪者の言いがちな、「魔が差した」とは次元が違う。全身の細胞の一つ一つに異物が混在しているようで、受け入れ難いくらい気持ち悪かった。ということで、ヘンリー・ジキルの手記には、そりゃそうなるよね、という憐憫混じりの同情を覚えたものである。
去年の4月に読んだグラビンスキの『狂気の巡礼』にも、これと同様の、深く考えたら発狂しかねない恐怖を感じたので、私はこの種の自身の内側から起こる怪異にとことん弱いのだと思う。
『ジキル博士とハイド氏』と同様に本書の四作も、読みやすい構成で、情景を脳内にイメージしやすかった。スティーヴンソンの作品が映像作家の創作意欲を掻き立てるのがよくわかる。
ただ、どういう訳か、映像化した作品を観たらコレジャナイ感が強くなってしまうのが、観る前から解ってしまうのだ。この感じは何なのだろう。原作を読んだ時点で、見てきたように鮮やかに自分の内でイメージが固まってしまうからだろうか。
更に自分でも意外だったのが、『ジキル博士とハイド氏』と雰囲気の近い「マーカイム」より、南の島を舞台にした「声たちの島」と「壜の小鬼」の方が面白かったということである。子供時代にはピンとこなかった『宝島』も、今読んだら面白いかもしれない。
1890年に保養の必要から南洋諸島のサモアに渡ったスティーヴンソンは、そこから帰ることなく四年後に生涯を終えた。
サモアの原住民は、スティーヴンソンにトゥシタラ(物語をする人という意味)という綽名を進呈したのだそうだ。「声たちの島」と「壜の小鬼」は、その美しい綽名にふさわしい幻想美に彩られた魔術の物語だった。
「声たちの島」
モロカイ島の魔術師カラマケは、見るからに異様な男だった。
彼はモロカイ島とマウイ島の高貴な家系の直系子孫であったが、肌の色は白人よりも白かった。髪は枯草色で、目は赤く殆ど盲目だ。
彼は魔術によって、国王をはじめ王国中の人々から様々な相談を持ち掛けられていた。また、彼ほど人に恐れられる人物もいなかった。彼の呪術によって病気にかかり、痩せ細った者もいれば、体も魂も消え失せて、骨ひとつ見つからない者もいたからだ。
カラマケの娘と結婚したケオラは、義父の助手として共に暮らすうちに、義父の富の秘密を知る。
カラマケは魔術を使って不思議な島に行き、そこで拾い集めた貝殻をピカピカの銀貨に変えていたのだ。義父の弱みを握ったと思ったケオラは、彼を強請り、その魔術を利用しようとする。
しかし、相手は伊達にハワイ中で恐れられている魔術師ではなかった。
驚異的な方法でカラマケに殺されかけたケオラは、カラマケの魔手から逃れるためにあちこちを転々とするが、移動の度に事態は深刻になっていく。ケオラが逃亡の果てに辿り着いたのは、なんとあの貝殻の島だった。そこは人々から「声たちの島」と呼ばれていた…
「壜の小鬼」
ハワイ島にケアウェという男がいた。
ある日、彼は散歩中に丘の上で素敵な屋敷を見つけた。こんな屋敷に住んでみたいと覗き込んでいたら、中から屋敷の主人が出てきた。
主人は何故か見ず知らずのケアウェを中に招き、羨ましそうにしているケアウェに、「あんたはこれよりもっと立派な家を手に入れることが出来る」と言った。そして、牛乳瓶ほどの大きさの壜をケアウェに見せると、打ち明け話を始めた。主人は、この小鬼の閉じ込められている壜によって、欲しかったものをすべて手に入れたのだという。そして、その壜を50ドルでケアウェに譲るという。
そんなうまい話があるものだろうか?それに、何もかもを手に入れたのだというのなら、なぜ、主人は暗い顔でため息ばかりついているのか?
主人によれば、その壜を死ぬまでに誰かに売らなければ、死後永遠に地獄の火に焼かれることになる。しかも買った時より安価で売らなければならない。何でも願いを叶えてくれる小鬼にも、不死だけは叶えることが出来ないのだ。
関わり合いにならない方が良いと判断したケアウェだが、主人にうまい具合に誘導され、結局壜を買ってしまった。
その後、ケアウェは壜の力で、まず土地を手に入れ、次に邸宅、更にその次に美しい妻と、欲しいものを手に入れる。が、その度に彼を取り巻く状況は悪化していく。
恐ろしくなったケアウェは、一度は壜の売却に成功するが、様々な不運が重なり、壜を底値で買い戻すことになってしまう。もう手に入れた時より安値で売ることは出来ない。このままでは、ケアウェは死後地獄に落とされてしまうのだが…
二作とも、短慮な男が軽率に魔性の者と関わり合って、絶体絶命のピンチに陥る。
主人公の七転八倒ぶりが、コミカルに描かれていてなかなか楽しい。彼自身は逃げるばかりで特に建設的な努力はしないのだが、彼のことを心から愛している妻の助けで、間一髪脅威を回避する。のび太とドラえもんみたいな夫婦である。
しかし、美味い汁だけ吸ってハッピーエンドなんてことがあるのだろうか?
一見めでたしめでたしのようだが、魔性の者が完全に消滅したという描写は無いのだ。スティーヴンソンの他の作品を読むと、この二作もハッピーエンドの向こう側に魔性の者が先回りしているような気もするのだが。
ボルヘスは、スティーヴンソンを文体の巧者と評していたが、構成も巧みでテンポが良く、大変読みやすかった。
序文では、本書収録作のほかに、『難破船』『新アラビア夜話』『パラントレイの若殿』『ハーミストンのウィア』『引潮』にも触れている。この中で特に心惹かれたのは、自殺クラブという不穏な単語の出てくる『新アラビア夜話』だ。『ハーミストンのウィア』は他所でもよい評判を聞いているので、こちらも折を見て読んでみようと思っている。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の17巻で、私にとっては8冊目の“バベルの図書館”の作品だ。
スティーヴンソンの作品といえば、『宝島』と『ジキル博士とハイド氏』の二作が圧倒的に有名だろう。私などは、その二作しか読んだことがない。
『ジキル博士とハイド氏』は、児童向けに訳された本(多分ポプラ社)と、映像化作品から受けた印象は記憶に残っているが、同時期に読んだ『宝島』については、正直なところ殆ど覚えていない。そんなわけで、私にとってスティーヴンソンとは、長年『ジキル博士とハイド氏』の人以外の何者でもなかった。
『ジキル博士とハイド氏』の映画化については、ボルヘスの“その映画化を試みた人はいつもきまって一人の役者を使ってきた。しかし、二人が実は同一人であるとわかるほうがもっと驚くべきことなので、二人の役者にやらせたほうがもっと効果的だったのではあるまいか”との弁に、全面的に賛同である。
当時小学生だった私が『ジキル博士とハイド氏』で最も戦慄したのが、まさに二人が同一人であるという事実そのもので、それに付随するハイド氏の蛮行やジキル博士が追い詰められていく過程などについては、それほど恐ろしいとは思わなかった。一つの肉体の中で二つの人格が拮抗しているという状態への、生理的ともいうべき嫌悪感は30年以上たった今でもまだ生々しい。
犯罪者の言いがちな、「魔が差した」とは次元が違う。全身の細胞の一つ一つに異物が混在しているようで、受け入れ難いくらい気持ち悪かった。ということで、ヘンリー・ジキルの手記には、そりゃそうなるよね、という憐憫混じりの同情を覚えたものである。
去年の4月に読んだグラビンスキの『狂気の巡礼』にも、これと同様の、深く考えたら発狂しかねない恐怖を感じたので、私はこの種の自身の内側から起こる怪異にとことん弱いのだと思う。
『ジキル博士とハイド氏』と同様に本書の四作も、読みやすい構成で、情景を脳内にイメージしやすかった。スティーヴンソンの作品が映像作家の創作意欲を掻き立てるのがよくわかる。
ただ、どういう訳か、映像化した作品を観たらコレジャナイ感が強くなってしまうのが、観る前から解ってしまうのだ。この感じは何なのだろう。原作を読んだ時点で、見てきたように鮮やかに自分の内でイメージが固まってしまうからだろうか。
更に自分でも意外だったのが、『ジキル博士とハイド氏』と雰囲気の近い「マーカイム」より、南の島を舞台にした「声たちの島」と「壜の小鬼」の方が面白かったということである。子供時代にはピンとこなかった『宝島』も、今読んだら面白いかもしれない。
1890年に保養の必要から南洋諸島のサモアに渡ったスティーヴンソンは、そこから帰ることなく四年後に生涯を終えた。
サモアの原住民は、スティーヴンソンにトゥシタラ(物語をする人という意味)という綽名を進呈したのだそうだ。「声たちの島」と「壜の小鬼」は、その美しい綽名にふさわしい幻想美に彩られた魔術の物語だった。
「声たちの島」
モロカイ島の魔術師カラマケは、見るからに異様な男だった。
彼はモロカイ島とマウイ島の高貴な家系の直系子孫であったが、肌の色は白人よりも白かった。髪は枯草色で、目は赤く殆ど盲目だ。
彼は魔術によって、国王をはじめ王国中の人々から様々な相談を持ち掛けられていた。また、彼ほど人に恐れられる人物もいなかった。彼の呪術によって病気にかかり、痩せ細った者もいれば、体も魂も消え失せて、骨ひとつ見つからない者もいたからだ。
カラマケの娘と結婚したケオラは、義父の助手として共に暮らすうちに、義父の富の秘密を知る。
カラマケは魔術を使って不思議な島に行き、そこで拾い集めた貝殻をピカピカの銀貨に変えていたのだ。義父の弱みを握ったと思ったケオラは、彼を強請り、その魔術を利用しようとする。
しかし、相手は伊達にハワイ中で恐れられている魔術師ではなかった。
驚異的な方法でカラマケに殺されかけたケオラは、カラマケの魔手から逃れるためにあちこちを転々とするが、移動の度に事態は深刻になっていく。ケオラが逃亡の果てに辿り着いたのは、なんとあの貝殻の島だった。そこは人々から「声たちの島」と呼ばれていた…
「壜の小鬼」
ハワイ島にケアウェという男がいた。
ある日、彼は散歩中に丘の上で素敵な屋敷を見つけた。こんな屋敷に住んでみたいと覗き込んでいたら、中から屋敷の主人が出てきた。
主人は何故か見ず知らずのケアウェを中に招き、羨ましそうにしているケアウェに、「あんたはこれよりもっと立派な家を手に入れることが出来る」と言った。そして、牛乳瓶ほどの大きさの壜をケアウェに見せると、打ち明け話を始めた。主人は、この小鬼の閉じ込められている壜によって、欲しかったものをすべて手に入れたのだという。そして、その壜を50ドルでケアウェに譲るという。
そんなうまい話があるものだろうか?それに、何もかもを手に入れたのだというのなら、なぜ、主人は暗い顔でため息ばかりついているのか?
主人によれば、その壜を死ぬまでに誰かに売らなければ、死後永遠に地獄の火に焼かれることになる。しかも買った時より安価で売らなければならない。何でも願いを叶えてくれる小鬼にも、不死だけは叶えることが出来ないのだ。
関わり合いにならない方が良いと判断したケアウェだが、主人にうまい具合に誘導され、結局壜を買ってしまった。
その後、ケアウェは壜の力で、まず土地を手に入れ、次に邸宅、更にその次に美しい妻と、欲しいものを手に入れる。が、その度に彼を取り巻く状況は悪化していく。
恐ろしくなったケアウェは、一度は壜の売却に成功するが、様々な不運が重なり、壜を底値で買い戻すことになってしまう。もう手に入れた時より安値で売ることは出来ない。このままでは、ケアウェは死後地獄に落とされてしまうのだが…
二作とも、短慮な男が軽率に魔性の者と関わり合って、絶体絶命のピンチに陥る。
主人公の七転八倒ぶりが、コミカルに描かれていてなかなか楽しい。彼自身は逃げるばかりで特に建設的な努力はしないのだが、彼のことを心から愛している妻の助けで、間一髪脅威を回避する。のび太とドラえもんみたいな夫婦である。
しかし、美味い汁だけ吸ってハッピーエンドなんてことがあるのだろうか?
一見めでたしめでたしのようだが、魔性の者が完全に消滅したという描写は無いのだ。スティーヴンソンの他の作品を読むと、この二作もハッピーエンドの向こう側に魔性の者が先回りしているような気もするのだが。
ボルヘスは、スティーヴンソンを文体の巧者と評していたが、構成も巧みでテンポが良く、大変読みやすかった。
序文では、本書収録作のほかに、『難破船』『新アラビア夜話』『パラントレイの若殿』『ハーミストンのウィア』『引潮』にも触れている。この中で特に心惹かれたのは、自殺クラブという不穏な単語の出てくる『新アラビア夜話』だ。『ハーミストンのウィア』は他所でもよい評判を聞いているので、こちらも折を見て読んでみようと思っている。