アラルコン著『死神の友達』には、ボルヘスによる序文と、「死神の友達」「背の高い女」の2編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の28巻目にあたる。私にとっては10冊目の“バベルの図書館の作品”である。
ボルヘスはスペイン文学について以下の様に述べている。
“スペインは、幾多の著名なロマン主義作家たちに霊感をあたえておきながら、自身は、ロマン主義運動を反映するものとしては、わずかばかりの貧しい遅咲きの作品しか生み出さなかった。その栄誉ある例外をなす作家としてはロサリア・デ・カストロがいて、彼女の高貴な表現は、こんにちなお人気が高いとはいえ文学的に型にはめられた方言ではなく、生まれ育った故郷の言葉にこそあるのだし、(略)グスタボ・アドルフォ・ベッケル、ホセ・デ・エスプロンセダ、そしてペドロ・アントニオ・アラルコンらもそうした作家である。”
落ちぶれ貴族の出身であるアラルコンは、1833年にグアディスに生まれた。
独学で文学を習得したアラルコンは、20歳にも満たない年齢で日刊紙「西方の風の便り」を創刊する。アフリカの戦争に志願兵として入隊した時の体験から書かれた『アフリカ戦争の一証人の日記』は、初版が5万部に達し、27年間も売れ続けた。54歳で文筆活動を停止するまでの間に、彼は代表作『三角帽子』をはじめ夥しい文学作品を生み出した。
本書には『嘘のような物語』から「死神の友達」「背の高い女」の2編が選ばれている。これらは、アラルコンがグアディスの山羊飼いから直接聞いた民間伝承をもとに描かれている。
確かにスペインには世界的に知られた作家が少ない。
私もスペイン人以外の作家によるスペインを舞台とした作品ならいくつか知っているが、スペイン人によるスペインの物語を読むのは恐らく今回が初めてだ。本書の二作のうち「死神の友達」は、いい意味で読者の予測を裏切る作品で、これが民間伝承をもとに書かれているとは、スペインとはなんと想像力溢れる国であることかと感嘆してしまう。
実のところ、第一部終了までは、「死神の友達」のことはハズレだと思っていた。
主人公ヒル・ヒルの両親についてとか、フェリーペ五世を取り巻く状況とかの説明が冗長で退屈だったのだ。それでも物語の進行上必要な説明なのだろうと思って読み進めていたら、ひと段落したところで、それらのエピソードはこの物語と関係が無いなどと言われて、いったい何なのかとストレスが溜まった。それと、翻訳に問題があるのか、原文からそうなのかは分からないが、文章の癖が強くて読み難かった。
ところが、この物語は残り頁数三分の一辺りから唐突に面白くなるのである。この超展開が民間伝承のままなのか、アラルコンによるものかは分からない。
貧しい靴職人の息子ヒル・ヒルは、14歳で父親を亡くしてから、亡母のお得意だったリオヌエーボ伯爵の下に従者として引き取られる。
伯爵の元で教育を受けたヒル・ヒルは、伯爵の根回しのおかげで、破産した由緒ある家の息子として宮廷に出入りするようになり、女王陛下の覚えもめでたかった。ヒル・ヒルが実はしがない靴職人の息子であることなど、誰も夢にも思わない。なので、モンテクラロ公爵の娘エレーナと恋に落ちた時も、反対する者はおらず、彼の前途はあらゆる意味で安泰と思われた。
ところが、それから三年後にリオヌエーボ伯爵が急死したことで、ヒル・ヒルの人生は暗転してしまう。
伯爵はあれほど目にかけていたヒル・ヒルに何も残さなかったのだ。ヒル・ヒルは彼を心から憎む伯爵夫人から、すぐさま出ていくように宣告される。ヒル・ヒルはその後の二年間を貧しい靴職人として耐え忍ぶが、現状の惨めさとエレーナと会えなくなった悲しみに耐えきれなくなり自殺を決行する。
ヒル・ヒルが靴屋の道具である濃硫酸の容器を口にした次の瞬間、不意に冷たい手が彼の肩に置かれ、甘く優しい声でこう言ったのだ。
“――やあ、友達!”
それは、ゆったりとした長い上衣を纏った33歳くらいの、背の高い、青白い美しい顔をした人物で、長い髪をしているが、女性には見えなかった。かといって、男性とも思えなかった。それは性を持たない人間、魂のない肉体、というか寿命のある肉体を持たない魂みたいだった。つまりは死神なのである。
死神の言うことには、ヒル・ヒルは肉体が灰に変わらないうちに死神が近づくことのできた最初の人間で、たった一人の死神の友達なのだ。死神は、ヒル・ヒルに自分の言うことを聞いて幸福と永遠の救いを得られる道を学ぶよう勧めてくる。
幸福と永遠の救い――ヒル・ヒルにとってそれはエレーナのことだった。
死神は、ヒル・ヒルに力を与えると同時に、ヒル・ヒルが実はリオヌエーボ伯爵と亡母との間に出来た不義の子で、伯爵は死ぬ前にちゃんとヒル・ヒルに財産を残していたこと、しかし、遺言書がヒル・ヒルを憎む伯爵夫人に隠されてしまったことを教える。
ヒル・ヒルは、死神の力で、医者として元スペイン国王フェリーペ五世の元に出入りできるようになった。
そして、死神と関係を持ったことに何のためらいも感じないまま、フェリーペ五世がフランス国王の王冠を授かることが出来るよう、死神にルイス一世の魂を連れて行かせた。それと前後して、伯爵夫人を死に至らしめ、彼女が息を引き取る直前に、伯爵がヒル・ヒルのために残していた遺言書の在処を告白させ、更にはエレーナの婚約者である伯爵夫人の甥も死亡させた。
伯爵夫人の言った場所で見つけた遺言書やそのほかの書類のおかげで、ヒル・ヒルは伯爵の息子として認知され、晴れてエレーナとの結婚が認められる。
とはいっても、ヒル・ヒルはまだ幸せではなかった。
死神が花婿の付添人を務めようと申し出ていたからである。もう二度と死神とは会いたくない。恩知らずだろうが、死神との関係を絶つ必要がある。ヒル・ヒルは、一心に考えた結果、死神に連れて行かれる可能性のある生きた人間、つまりは自分とエレーナ以外の人間がいない土地に逃げれば良いのではないかと思いつく。この考えが気に入ったヒル・ヒルはさっそく次の日に、グアダラーマ山脈の麓の美しい別荘で、新婚生活を開始したのだった。
ここまでが第一章である。
ここまでは、個人的には、世話好きな死神という設定が面白かったくらいで、他は特に見るべきところがなかった。“バベルの図書館”全巻読了という目標がなかったら、途中で放り出していたところである。
しかし、この物語はこの先から劇的に面白くなるのだ。作中でも、“しかし、この物語が本当に面白くなり、明白になり出すのは実はここからなのである”と述べられている。
昼ドラにちょっとホラー要素をまぶしたような陳腐な作風から一転して、SFと聖書の世界が融合した壮大な世界が広がるのである。何というギャップであろうか。本当にこれが200年近く前に書かれた物語なのだろうか。今読んでも斬新である。
ヒル・ヒルの目論見は失敗し、あっさり死神に捉えられる。計画の段階からちょっと何を言っているのか分からない感じだったから当然の結果だ。
ヒル・ヒルは、愛するエレーナを残して死神と共に時間旅行をすることになる。別荘から連れ出されたヒル・ヒルは、人骨で作られた車に乗せられる。車は宙を浮き、北東へ向かい、三時間で地球を一周する。ヒル・ヒルは、死神の解説を聞きながら地上の様々な国、都市、集落を見ていく。
“それぞれ生きている市や、町や、村の傍らには、ちょうど影がいつも肉体の傍らに寄り添うように、かならず死んだ市や、町や、村がある。(略)にもかかわらず君たちは量を、つまり人口の数を間違えるだろう。つまりだ、生きている市よりも死んだ市のほうに、はるかに多くの人が住んでいるということを。生きている市にはせいぜい三世代の人がいるだけだが、死んだ市のほうには、時によると数百世代の人が積み重なっているからね。”
北海に入る前に、太陽が見たいと言い出したヒル・ヒルのために、死神は少し後戻りをすることにする。
そのため、ヒル・ヒルは逆行する時間という、とても興味深い光景を見ることになった。彼等の車は、地球がその軸を中心にして回るよりも、もっと早い速度で飛び続けていた。彼等は太陽の後を、太陽よりもずっと早い速度で追いかけているので、日没が夜明けの、西の夜明けの役をしているのだった。
エルサレムについた時は真夜中だった。
ゲッセマネ、ゴルゴダ。死神は、そこで生涯の重大な時を過ごしたことに思いを馳せる。キリストは蘇っていたのだ。死神は少し考えこんでから、彼の家のある北極に向かって車を飛ばす。そこでヒル・ヒルに告げなければならないことがあるのだ。
久遠の氷の地で、ヒル・ヒルは驚愕の事実を知らされる。
濃硫酸を口にした時、つまり死神に出会った時、なんと彼は自殺に成功していたのだ。しかもそれは600年も前のこと。18世紀はとうに過ぎ今年は2316年なのだった。エレーナはヒル・ヒルの不幸な最期を知って、悲しみのあまり死んでしまった。それからもう6世紀になる。死神との出会い、フェリーペ五世を訪ねたこと、ルイス一世の宮廷での様々な情景、エレーナとの結婚、そうしたことはみんな、ヒル・ヒルが墓の中で見た夢だったのだ。
そうして、明日は最後の裁判の日なのである。
最終章で、地球は榴弾みたいに破裂するのだが、死神との旅行からそこに至るまでの過程でヒル・ヒルが見聞したものの一つ一つが実に独創的で、こんなものが民間伝承を典拠に描かれるとは、しかもこれを書いた時のアラルコンの年齢が二十歳そこそこだったとは、と恐れ入ることしきりであった。特に逆向きの時間の中で見る太陽のシーンは、ため息が出るほど優美で神々しい。
前半のちまちました感じと後半の壮大なスケールとのギャップが激しいのだが、それも計算のうちだろうか。
私は大変な飽き性なので、20~30頁読んで気が乗らなかった本はその時点で諦めてしまうのだが、本作は踏み止まって良かったと心から思う。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の28巻目にあたる。私にとっては10冊目の“バベルの図書館の作品”である。
ボルヘスはスペイン文学について以下の様に述べている。
“スペインは、幾多の著名なロマン主義作家たちに霊感をあたえておきながら、自身は、ロマン主義運動を反映するものとしては、わずかばかりの貧しい遅咲きの作品しか生み出さなかった。その栄誉ある例外をなす作家としてはロサリア・デ・カストロがいて、彼女の高貴な表現は、こんにちなお人気が高いとはいえ文学的に型にはめられた方言ではなく、生まれ育った故郷の言葉にこそあるのだし、(略)グスタボ・アドルフォ・ベッケル、ホセ・デ・エスプロンセダ、そしてペドロ・アントニオ・アラルコンらもそうした作家である。”
落ちぶれ貴族の出身であるアラルコンは、1833年にグアディスに生まれた。
独学で文学を習得したアラルコンは、20歳にも満たない年齢で日刊紙「西方の風の便り」を創刊する。アフリカの戦争に志願兵として入隊した時の体験から書かれた『アフリカ戦争の一証人の日記』は、初版が5万部に達し、27年間も売れ続けた。54歳で文筆活動を停止するまでの間に、彼は代表作『三角帽子』をはじめ夥しい文学作品を生み出した。
本書には『嘘のような物語』から「死神の友達」「背の高い女」の2編が選ばれている。これらは、アラルコンがグアディスの山羊飼いから直接聞いた民間伝承をもとに描かれている。
確かにスペインには世界的に知られた作家が少ない。
私もスペイン人以外の作家によるスペインを舞台とした作品ならいくつか知っているが、スペイン人によるスペインの物語を読むのは恐らく今回が初めてだ。本書の二作のうち「死神の友達」は、いい意味で読者の予測を裏切る作品で、これが民間伝承をもとに書かれているとは、スペインとはなんと想像力溢れる国であることかと感嘆してしまう。
実のところ、第一部終了までは、「死神の友達」のことはハズレだと思っていた。
主人公ヒル・ヒルの両親についてとか、フェリーペ五世を取り巻く状況とかの説明が冗長で退屈だったのだ。それでも物語の進行上必要な説明なのだろうと思って読み進めていたら、ひと段落したところで、それらのエピソードはこの物語と関係が無いなどと言われて、いったい何なのかとストレスが溜まった。それと、翻訳に問題があるのか、原文からそうなのかは分からないが、文章の癖が強くて読み難かった。
ところが、この物語は残り頁数三分の一辺りから唐突に面白くなるのである。この超展開が民間伝承のままなのか、アラルコンによるものかは分からない。
貧しい靴職人の息子ヒル・ヒルは、14歳で父親を亡くしてから、亡母のお得意だったリオヌエーボ伯爵の下に従者として引き取られる。
伯爵の元で教育を受けたヒル・ヒルは、伯爵の根回しのおかげで、破産した由緒ある家の息子として宮廷に出入りするようになり、女王陛下の覚えもめでたかった。ヒル・ヒルが実はしがない靴職人の息子であることなど、誰も夢にも思わない。なので、モンテクラロ公爵の娘エレーナと恋に落ちた時も、反対する者はおらず、彼の前途はあらゆる意味で安泰と思われた。
ところが、それから三年後にリオヌエーボ伯爵が急死したことで、ヒル・ヒルの人生は暗転してしまう。
伯爵はあれほど目にかけていたヒル・ヒルに何も残さなかったのだ。ヒル・ヒルは彼を心から憎む伯爵夫人から、すぐさま出ていくように宣告される。ヒル・ヒルはその後の二年間を貧しい靴職人として耐え忍ぶが、現状の惨めさとエレーナと会えなくなった悲しみに耐えきれなくなり自殺を決行する。
ヒル・ヒルが靴屋の道具である濃硫酸の容器を口にした次の瞬間、不意に冷たい手が彼の肩に置かれ、甘く優しい声でこう言ったのだ。
“――やあ、友達!”
それは、ゆったりとした長い上衣を纏った33歳くらいの、背の高い、青白い美しい顔をした人物で、長い髪をしているが、女性には見えなかった。かといって、男性とも思えなかった。それは性を持たない人間、魂のない肉体、というか寿命のある肉体を持たない魂みたいだった。つまりは死神なのである。
死神の言うことには、ヒル・ヒルは肉体が灰に変わらないうちに死神が近づくことのできた最初の人間で、たった一人の死神の友達なのだ。死神は、ヒル・ヒルに自分の言うことを聞いて幸福と永遠の救いを得られる道を学ぶよう勧めてくる。
幸福と永遠の救い――ヒル・ヒルにとってそれはエレーナのことだった。
死神は、ヒル・ヒルに力を与えると同時に、ヒル・ヒルが実はリオヌエーボ伯爵と亡母との間に出来た不義の子で、伯爵は死ぬ前にちゃんとヒル・ヒルに財産を残していたこと、しかし、遺言書がヒル・ヒルを憎む伯爵夫人に隠されてしまったことを教える。
ヒル・ヒルは、死神の力で、医者として元スペイン国王フェリーペ五世の元に出入りできるようになった。
そして、死神と関係を持ったことに何のためらいも感じないまま、フェリーペ五世がフランス国王の王冠を授かることが出来るよう、死神にルイス一世の魂を連れて行かせた。それと前後して、伯爵夫人を死に至らしめ、彼女が息を引き取る直前に、伯爵がヒル・ヒルのために残していた遺言書の在処を告白させ、更にはエレーナの婚約者である伯爵夫人の甥も死亡させた。
伯爵夫人の言った場所で見つけた遺言書やそのほかの書類のおかげで、ヒル・ヒルは伯爵の息子として認知され、晴れてエレーナとの結婚が認められる。
とはいっても、ヒル・ヒルはまだ幸せではなかった。
死神が花婿の付添人を務めようと申し出ていたからである。もう二度と死神とは会いたくない。恩知らずだろうが、死神との関係を絶つ必要がある。ヒル・ヒルは、一心に考えた結果、死神に連れて行かれる可能性のある生きた人間、つまりは自分とエレーナ以外の人間がいない土地に逃げれば良いのではないかと思いつく。この考えが気に入ったヒル・ヒルはさっそく次の日に、グアダラーマ山脈の麓の美しい別荘で、新婚生活を開始したのだった。
ここまでが第一章である。
ここまでは、個人的には、世話好きな死神という設定が面白かったくらいで、他は特に見るべきところがなかった。“バベルの図書館”全巻読了という目標がなかったら、途中で放り出していたところである。
しかし、この物語はこの先から劇的に面白くなるのだ。作中でも、“しかし、この物語が本当に面白くなり、明白になり出すのは実はここからなのである”と述べられている。
昼ドラにちょっとホラー要素をまぶしたような陳腐な作風から一転して、SFと聖書の世界が融合した壮大な世界が広がるのである。何というギャップであろうか。本当にこれが200年近く前に書かれた物語なのだろうか。今読んでも斬新である。
ヒル・ヒルの目論見は失敗し、あっさり死神に捉えられる。計画の段階からちょっと何を言っているのか分からない感じだったから当然の結果だ。
ヒル・ヒルは、愛するエレーナを残して死神と共に時間旅行をすることになる。別荘から連れ出されたヒル・ヒルは、人骨で作られた車に乗せられる。車は宙を浮き、北東へ向かい、三時間で地球を一周する。ヒル・ヒルは、死神の解説を聞きながら地上の様々な国、都市、集落を見ていく。
“それぞれ生きている市や、町や、村の傍らには、ちょうど影がいつも肉体の傍らに寄り添うように、かならず死んだ市や、町や、村がある。(略)にもかかわらず君たちは量を、つまり人口の数を間違えるだろう。つまりだ、生きている市よりも死んだ市のほうに、はるかに多くの人が住んでいるということを。生きている市にはせいぜい三世代の人がいるだけだが、死んだ市のほうには、時によると数百世代の人が積み重なっているからね。”
北海に入る前に、太陽が見たいと言い出したヒル・ヒルのために、死神は少し後戻りをすることにする。
そのため、ヒル・ヒルは逆行する時間という、とても興味深い光景を見ることになった。彼等の車は、地球がその軸を中心にして回るよりも、もっと早い速度で飛び続けていた。彼等は太陽の後を、太陽よりもずっと早い速度で追いかけているので、日没が夜明けの、西の夜明けの役をしているのだった。
エルサレムについた時は真夜中だった。
ゲッセマネ、ゴルゴダ。死神は、そこで生涯の重大な時を過ごしたことに思いを馳せる。キリストは蘇っていたのだ。死神は少し考えこんでから、彼の家のある北極に向かって車を飛ばす。そこでヒル・ヒルに告げなければならないことがあるのだ。
久遠の氷の地で、ヒル・ヒルは驚愕の事実を知らされる。
濃硫酸を口にした時、つまり死神に出会った時、なんと彼は自殺に成功していたのだ。しかもそれは600年も前のこと。18世紀はとうに過ぎ今年は2316年なのだった。エレーナはヒル・ヒルの不幸な最期を知って、悲しみのあまり死んでしまった。それからもう6世紀になる。死神との出会い、フェリーペ五世を訪ねたこと、ルイス一世の宮廷での様々な情景、エレーナとの結婚、そうしたことはみんな、ヒル・ヒルが墓の中で見た夢だったのだ。
そうして、明日は最後の裁判の日なのである。
最終章で、地球は榴弾みたいに破裂するのだが、死神との旅行からそこに至るまでの過程でヒル・ヒルが見聞したものの一つ一つが実に独創的で、こんなものが民間伝承を典拠に描かれるとは、しかもこれを書いた時のアラルコンの年齢が二十歳そこそこだったとは、と恐れ入ることしきりであった。特に逆向きの時間の中で見る太陽のシーンは、ため息が出るほど優美で神々しい。
前半のちまちました感じと後半の壮大なスケールとのギャップが激しいのだが、それも計算のうちだろうか。
私は大変な飽き性なので、20~30頁読んで気が乗らなかった本はその時点で諦めてしまうのだが、本作は踏み止まって良かったと心から思う。