ジャック・ロンドン著『死の同心円』は、ボルヘスによる序文と、「マブヒの家」「生命の掟」「恥っかき」「死の同心円」「影と光」の五編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の5巻で、私にとっては12冊目の“バベルの図書館”の作品だ。
ある作家との出会いが大きな喜びとなるか、そうでもないまま終わるかは、読者の年齢が大きく関係すると思う。本書を読みながら、私はロンドンと出会うべき時期を既に失っていたのだと残念に思った。
大変うまい作家なのだ。
10代から20代前半に読んでいたら、多分この作家をとても好きになれたと思う。しかし、40を超えた現在の私は、ロンドンの作品の根底に横たわる野蛮と暴力への憧憬にあまり親しみを感じない。
私が元々ロンドン的な感性を持ち合わせていなかったのなら、「相性が良くなかったね」で終わるのだが、はるか遠い昔には確かに私の中にも野蛮と暴力への憧憬があったと記憶している。「こういうのが好きだった頃もあったのになぁ」という、そこのところに勿体なさを感じる。
ロンドンは40歳で自殺している。
冒険や危険への憧れとか、いわれのない暴力と野蛮、残虐さへの崇拝というのは、人生のある時期まで来たら嫌でも卒業しなければならない期間限定のものなのかもしれない。
ボルヘスは、本巻には、ロンドンの力量と多方面にわたる才能を示すような物語を選んだと述べている。
五編はそれぞれ方向性こそ異なるが、暴力と残虐への憧憬を孕んでいる点は共通していると思う。それは、ラテンアメリカの作家たちの日常の風景としての凶暴性とは異なる。リラダン伯爵の特権階級的な冷たい残虐性とも異なる。憧れ追い求めている時点で、本人の血と肉ではないのだと思う。そこに少しの切なさを感じた。
何れもストーリーの骨子はしっかりとしているので読みやすい。五編の中では、「恥っかき」と「影と光」が、私の好みだった。
「恥っかき」は、タイトルが秀逸。
最後の最後まで読まないと、この汚名を冠せられた人物が誰なのか分からない。私などは途中までは、単純に主人公スビエンコフのことだと思っていた。最後まで読んで、このスビエンコフという男は、クズ中のクズだと思うと同時に、生涯恥っかきの汚名を着せられることになった人物への憐憫を禁じ得なかった。
スビエンコフは、ポーランドの独立運動を夢見た時から一貫して野蛮な生活を送ってきた無頼漢だ。
ワルシャワで、サンクトペテルブルグで、シベリアの炭鉱で、カムチャツカで。
彼はどこに行っても理不尽な暴力を行使することで生き延びてきた。国境を超えるためにゆきずりの旅行者を殺害して旅券と金銭を奪ったこともあった。他人の血で己の生命を贖って来たのだ。
そうして毛皮泥棒にまで身を落とした彼は、現在、自らが野蛮な仕打ちによって搾取してきたインデアンからの逆襲に遭い、身を拘束され、仲間たちが一人一人と拷問によって命を落として行くのを目の当たりにさせられているところなのだった。
インデアンがスビエンコフへの私刑を最後に回したのは、当然彼を最も恨んでいるからで、ヤカガという男などは、数日前に彼に鞭で殴られた痕を顔面につけた状態で、彼への復讐を今か今かと待ち構えている。
目の前では大男のイワンが拷問の苦痛に耐えかね、獣のような声で泣き叫んでいる。
スビエンコフは、死ぬのは怖くないのだ。彼はただ、自制心を失い、肉体的苦痛に気が動転し、訳の分からないことを喚き散らし、畜生になり果てるのが恐ろしいのだ。
拷問の苦痛を回避し、潔く冗談の一つも言って死ぬ――その望みを叶える為にはどうすればよいのか?スビエンコフは、酋長のマカムックを相手に一世一代の賭けを試みるのだった。
スビエンコフは、たった一つの願いを叶える為に、すべてを投げ出した。
この男は、煮ても焼いても食えぬろくでなしだ。現実には絶対に関わり合いになりたくないタイプだが、物語の主人公としては大変魅力的な人物である。
内省も他者への思いやりも毛ほども持たない彼の生き方は、インデアンよりも遥かに未開的で、それ故誰よりもシンプルで力強い。
「影と光」は、H・G・ウェルズの『透明人間』とは一味違う透明人間譚。
ボルヘスはこの作品を“不可視であることの可能性という、文学古来のモチーフを踏襲し、発展させている”と述べている。
まるで双子のように酷似した二人が互いを殺そうとして自滅していく物語は、パピーニの「泉水のなかの二つの顔」やポーの「ウイリアム・ウイルソン」のようなドッペルゲンガー譚として読むことも可能だ。
私にはかつてロイド・インウッドとポール・テイクローンという二人の幼馴染がいた。
ロイドは背が高く、痩せて、すらりとした体つきで、神経質で、黒髪と黒い瞳の持ち主だった。
ポールは背が高く、痩せて、すらりとした体つきで、神経質で、金髪と青い瞳の持ち主だった。
色が異なる点を別にすれば、二人は瓜二つだった。性格や嗜好も酷似しており、本人たちは決して認めないだろうが、能力も拮抗していた。彼らはいつも張り合い、互いを負かそうと懸命になっていたが、こうした競争が始まると彼らの努力や情熱には限りがなかった。
少年時代には素潜り対決で、対抗意識が過ぎで二人とも溺死するところだった。大学時代には同じ女性に恋をして、その張り合い方の激しさに二人とも彼女からフラれた。
二人は大学では化学を専攻し、共に先例がないほど熱心に研究に取り組んで、教授連中顔負けの論文を発表しては、本人と大学の名を世に鳴り響かせたものだった。
二人とも裕福だったので卒業後は職に就かず、それぞれの研究に没頭していた。
彼等の思考はとてもよく似ていたので、話し合うことなどなくても、自然と同じ研究に取り組むこととなっていった。それは、物体の不可視化である。二人はこのテーマに全く異なったアプローチを試みていた。
「色彩は感覚なのだ」とロイドは言う。
色彩は客観的実在ではなく、光がなければ色彩も物体そのものも見ることは出来ない。すべての物体は闇の中では黒くなるので、闇の中では物体を見ることは不可能だ。若し光が物体に当たらなければ、物体から光が跳ね返ることはなく、従って物体が存在するという視覚的証拠は無いということになる。
確かに日光の中で黒い物体は見える。しかし、それは完全に黒くないからだ。つまり、完全な黒、究極の黒を作り出すことが出来れば、その塗料を塗れば眩い太陽光の中でも物体は見えなくなる。完全な黒色は集中した光を防ぐので、絶対に目に見えないだろう。
ポールの方は、「透明。すべての光線を通過させる物体の状態若しくは性質」の実現を目指して、光の偏光、回折、干渉、単複屈折、あらゆる未知の有機化合物の研究に取り組んでいた。
透明な物体は影を作らないし、光波も反射しない。つまり完全に透明なものは反射しないのだ。だから集中した光を避ければ、物体は影を作らないだけでなく、光を反射しないから、目に見えなくなるはずである。
二人はそれぞれの理論に従って実験を重ねた結果――その実験に巻き込まれた哀れなベッドショー爺さんは発狂してしまったけど――物体の不可視化に成功する。
そして、その世紀の大発明を成し遂げた彼らが真っ先に試みたのが、互いの殺害なのだった。
白昼のテニスコートを舞台に二人の透明人間が殺し合う。
幼い頃の素潜り対決と違って、誰も二人を止めることが出来ない。透明人間同士の対決は、誰の眼にも見ることが出来ないからだ。最後に彼らの体がぶつかったらしい金網の動きが止まるとすべてが終わった。
巻き添えになった私は一時間後、発見された。召使たちは一斉に暇を取ってしまった。ベッドジョー爺さんは精神病院に監禁されている。
ロイドとポールの大発見も、二人が死ぬとともに秘密も消え、それぞれの実験室は親族によって取り壊された。私は自然の光で充分だと思っている。
本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の5巻で、私にとっては12冊目の“バベルの図書館”の作品だ。
ある作家との出会いが大きな喜びとなるか、そうでもないまま終わるかは、読者の年齢が大きく関係すると思う。本書を読みながら、私はロンドンと出会うべき時期を既に失っていたのだと残念に思った。
大変うまい作家なのだ。
10代から20代前半に読んでいたら、多分この作家をとても好きになれたと思う。しかし、40を超えた現在の私は、ロンドンの作品の根底に横たわる野蛮と暴力への憧憬にあまり親しみを感じない。
私が元々ロンドン的な感性を持ち合わせていなかったのなら、「相性が良くなかったね」で終わるのだが、はるか遠い昔には確かに私の中にも野蛮と暴力への憧憬があったと記憶している。「こういうのが好きだった頃もあったのになぁ」という、そこのところに勿体なさを感じる。
ロンドンは40歳で自殺している。
冒険や危険への憧れとか、いわれのない暴力と野蛮、残虐さへの崇拝というのは、人生のある時期まで来たら嫌でも卒業しなければならない期間限定のものなのかもしれない。
ボルヘスは、本巻には、ロンドンの力量と多方面にわたる才能を示すような物語を選んだと述べている。
五編はそれぞれ方向性こそ異なるが、暴力と残虐への憧憬を孕んでいる点は共通していると思う。それは、ラテンアメリカの作家たちの日常の風景としての凶暴性とは異なる。リラダン伯爵の特権階級的な冷たい残虐性とも異なる。憧れ追い求めている時点で、本人の血と肉ではないのだと思う。そこに少しの切なさを感じた。
何れもストーリーの骨子はしっかりとしているので読みやすい。五編の中では、「恥っかき」と「影と光」が、私の好みだった。
「恥っかき」は、タイトルが秀逸。
最後の最後まで読まないと、この汚名を冠せられた人物が誰なのか分からない。私などは途中までは、単純に主人公スビエンコフのことだと思っていた。最後まで読んで、このスビエンコフという男は、クズ中のクズだと思うと同時に、生涯恥っかきの汚名を着せられることになった人物への憐憫を禁じ得なかった。
スビエンコフは、ポーランドの独立運動を夢見た時から一貫して野蛮な生活を送ってきた無頼漢だ。
ワルシャワで、サンクトペテルブルグで、シベリアの炭鉱で、カムチャツカで。
彼はどこに行っても理不尽な暴力を行使することで生き延びてきた。国境を超えるためにゆきずりの旅行者を殺害して旅券と金銭を奪ったこともあった。他人の血で己の生命を贖って来たのだ。
そうして毛皮泥棒にまで身を落とした彼は、現在、自らが野蛮な仕打ちによって搾取してきたインデアンからの逆襲に遭い、身を拘束され、仲間たちが一人一人と拷問によって命を落として行くのを目の当たりにさせられているところなのだった。
インデアンがスビエンコフへの私刑を最後に回したのは、当然彼を最も恨んでいるからで、ヤカガという男などは、数日前に彼に鞭で殴られた痕を顔面につけた状態で、彼への復讐を今か今かと待ち構えている。
目の前では大男のイワンが拷問の苦痛に耐えかね、獣のような声で泣き叫んでいる。
スビエンコフは、死ぬのは怖くないのだ。彼はただ、自制心を失い、肉体的苦痛に気が動転し、訳の分からないことを喚き散らし、畜生になり果てるのが恐ろしいのだ。
拷問の苦痛を回避し、潔く冗談の一つも言って死ぬ――その望みを叶える為にはどうすればよいのか?スビエンコフは、酋長のマカムックを相手に一世一代の賭けを試みるのだった。
スビエンコフは、たった一つの願いを叶える為に、すべてを投げ出した。
この男は、煮ても焼いても食えぬろくでなしだ。現実には絶対に関わり合いになりたくないタイプだが、物語の主人公としては大変魅力的な人物である。
内省も他者への思いやりも毛ほども持たない彼の生き方は、インデアンよりも遥かに未開的で、それ故誰よりもシンプルで力強い。
「影と光」は、H・G・ウェルズの『透明人間』とは一味違う透明人間譚。
ボルヘスはこの作品を“不可視であることの可能性という、文学古来のモチーフを踏襲し、発展させている”と述べている。
まるで双子のように酷似した二人が互いを殺そうとして自滅していく物語は、パピーニの「泉水のなかの二つの顔」やポーの「ウイリアム・ウイルソン」のようなドッペルゲンガー譚として読むことも可能だ。
私にはかつてロイド・インウッドとポール・テイクローンという二人の幼馴染がいた。
ロイドは背が高く、痩せて、すらりとした体つきで、神経質で、黒髪と黒い瞳の持ち主だった。
ポールは背が高く、痩せて、すらりとした体つきで、神経質で、金髪と青い瞳の持ち主だった。
色が異なる点を別にすれば、二人は瓜二つだった。性格や嗜好も酷似しており、本人たちは決して認めないだろうが、能力も拮抗していた。彼らはいつも張り合い、互いを負かそうと懸命になっていたが、こうした競争が始まると彼らの努力や情熱には限りがなかった。
少年時代には素潜り対決で、対抗意識が過ぎで二人とも溺死するところだった。大学時代には同じ女性に恋をして、その張り合い方の激しさに二人とも彼女からフラれた。
二人は大学では化学を専攻し、共に先例がないほど熱心に研究に取り組んで、教授連中顔負けの論文を発表しては、本人と大学の名を世に鳴り響かせたものだった。
二人とも裕福だったので卒業後は職に就かず、それぞれの研究に没頭していた。
彼等の思考はとてもよく似ていたので、話し合うことなどなくても、自然と同じ研究に取り組むこととなっていった。それは、物体の不可視化である。二人はこのテーマに全く異なったアプローチを試みていた。
「色彩は感覚なのだ」とロイドは言う。
色彩は客観的実在ではなく、光がなければ色彩も物体そのものも見ることは出来ない。すべての物体は闇の中では黒くなるので、闇の中では物体を見ることは不可能だ。若し光が物体に当たらなければ、物体から光が跳ね返ることはなく、従って物体が存在するという視覚的証拠は無いということになる。
確かに日光の中で黒い物体は見える。しかし、それは完全に黒くないからだ。つまり、完全な黒、究極の黒を作り出すことが出来れば、その塗料を塗れば眩い太陽光の中でも物体は見えなくなる。完全な黒色は集中した光を防ぐので、絶対に目に見えないだろう。
ポールの方は、「透明。すべての光線を通過させる物体の状態若しくは性質」の実現を目指して、光の偏光、回折、干渉、単複屈折、あらゆる未知の有機化合物の研究に取り組んでいた。
透明な物体は影を作らないし、光波も反射しない。つまり完全に透明なものは反射しないのだ。だから集中した光を避ければ、物体は影を作らないだけでなく、光を反射しないから、目に見えなくなるはずである。
二人はそれぞれの理論に従って実験を重ねた結果――その実験に巻き込まれた哀れなベッドショー爺さんは発狂してしまったけど――物体の不可視化に成功する。
そして、その世紀の大発明を成し遂げた彼らが真っ先に試みたのが、互いの殺害なのだった。
白昼のテニスコートを舞台に二人の透明人間が殺し合う。
幼い頃の素潜り対決と違って、誰も二人を止めることが出来ない。透明人間同士の対決は、誰の眼にも見ることが出来ないからだ。最後に彼らの体がぶつかったらしい金網の動きが止まるとすべてが終わった。
巻き添えになった私は一時間後、発見された。召使たちは一斉に暇を取ってしまった。ベッドジョー爺さんは精神病院に監禁されている。
ロイドとポールの大発見も、二人が死ぬとともに秘密も消え、それぞれの実験室は親族によって取り壊された。私は自然の光で充分だと思っている。