青い花

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祈願の御堂

2019-04-25 07:35:56 | 日記
キプリング著『祈願の御堂』には、ボルヘスによる序文と、「祈願の御堂」「サーヒブの戦争」「塹壕のマドンナ」「アラーの目」「園丁」の5編が収録されている。

児童書のイメージの強いキプリングであるが、『ジャングル・ブック』の人くらいのイメージで読み始めると、大変苦労をすることになる。
本書はボルヘス編集“バベルの図書館”(全30巻)の27巻で、私にとっては14冊目の“バベルの図書館”の作品にあたるが、ここまで手強い作品はこのシリーズでは初めてである。出来れば最後であって欲しい。

キプリングの作品(少なくとも本書収録の5編)は、読み進めてかなり経っても物語がどこに向かっているのか分からない。中には終盤になって漸くテーマが理解できる作品もある。
暗中模索状態から少しずつ事態が露わになるという書き方の作家は珍しくはないのだが、キプリングほど何も見えない状態で延々と読者を歩かせる作家はそうそういないのではあるまいか。ボーっと読んでいたら最後まで何も掴めない。忍耐力と集中力を要求されるのでたいへん疲れる。

序文に、“死を前にして、彼はいわゆる主義主張のはっきりした作家であることの虚しさを、なにがしかの憂愁をこめて理解した”とある。それがそのまま彼の作品の特徴になっていて、特に女性が主人公の作品、「祈願の御堂」と「園丁」に顕著に表れていると思った。
彼女たちは、慎み深く、感情を露わにしない。読者に解り易いメッセージを送ってもくれない。うっすらと退屈な日常の描写の下で、何か大切な信号を送ってきているような気がするが、それが何なのかはよく分からない。もどかしい読書体験が延々と続く。
ところがある水深まで到達すると、ありきたりな人生を送って来たように見えた彼女たちの秘密が露わになり、世界が反転する。謎を解く鍵は、決定的な証拠として読者に提示されることはなく、さり気ない会話に中に隠されていて、注意深く読んでいないと探し当てることは出来ない。探し当てたとしても、本当の意味が理解できるとは限らない。

多分、キプリングの作品を読んだ殆どの人が、読了して間を置かずに衝撃を引きずったまま読み直すことだろう。
私自身もその例にもれず、読み返しながら、あれはこういうことだったのかと気づくことがいくつもあったし、まだまだ気づいていない謎があるはずだとも思った。再読、三読程度では、取りこぼしがあると思う。さすが、ボルヘスが“キプリングは、想像力、職人芸、音感、無駄のない言葉、誠実さ、どれをとってもむらがなく、まことに称賛に値する”と絶賛するだけのことはある。


「祈願の御堂」は、自分の足の病気は恋人の怪我を引き受けたものだと語る老婦人の話。

ミセス・アシュクロフトは、久々に訪ねてきた旧友のミセス・フェットレイと想い出話に花を咲かせる。自身の健康について。反抗期の孫について。そして、報われなかった恋について。

ミセス・アシュクロフトは、かつてハリーという男に恋をしていた。
ある時、ハリーが仕事中に足に大怪我を負った。このまま不具になってしまったら、彼は仕事を失ってしまう。
彼のために何かしたいと願った彼女は、“祈願の御堂”を思い出した。
以前、彼女が激しい頭痛に苦しんでいた時に、近所の少女がジプシーの娘から教えられた“祈願の御堂”にお願いして身代わりになると言い出したのだ。
“祈願の御堂”のベルを鳴らし、郵便受けのスリットから祈願したいことを伝える。ただし、自分のために祈ってはいけない。“祈願の御堂”に住む遊魂は、誰か他の人の苦しみを引き受けるという願いのみを叶えてくれるのだ。
その話を信じたわけでは無いけれど、とにかく彼女は“祈願の御堂”に出向いて、ハリーの足の怪我を引き受けることを願った。だって、彼の心は冷めかかっていたし、彼の母親からは嫌われていたので、他に出来ることなんて何もなかったのだ。

暫くすると、ハリーは奇跡的に回復した。
その一方で、ミセス・アシュクロフトは足の痛みに苦しむことになった。その痛みは何度も何度もぶり返し、その度に症状は重くなっていった。
それでも彼女は、ハリーのために自分の身を犠牲にすることが出来たと満足だった。
まさに、その足の病気を理由に、彼から結婚を申し込まれなかったのだけど。そして、彼は何も知らないまま、他の女性と結婚してしまったのだけど。それらはすべて、「ハリー・モックラーに取り憑いている疫病をぜんぶ身代わりにわたしに移してください」という祈願が受け入れられた証拠に違いないのだ。

だけど、ミセス・フェットレイは知っているのだ。
ミセス・アシュクロフトの足の病気は“祈願の御堂”の奇跡でも何でもなく、偶々罹った癌であることを。そして、来年のホップ摘みのシーズンには、ミセス・アシュクロフトはきっとこの世にいないということも。
もしかしたら、ミセス・アシュクロフト自身も解っているのかもしれない。
それでも、その痛みに意義を見出したい。自分の恋が、自己犠牲の精神が、無駄ではなかったと信じたい。それをミセス・フェットレイに知っておいて欲しい。

“「大事なことよ、そうでしょ、痛みがあるということは?」”


「園丁」は、事故死した弟に変わって育てた甥を戦争で喪った女性が墓参する話。

ボルヘスは、“本書のために選んだ短編のうちで、おそらく私がいちばん心を動かされるのは『園丁』である”と述べている。
終末のさり気ない一言で、主人公が長年隠し通してきた嘘と、彼女を包む救済が明らかになる。この場面に至るまでの様々な描写と「園丁」というタイトルに秘められた意味に気づいた瞬間に襲われる衝撃は、きっと忘れられないものになるだろう。

“ヘレン・タレルが誰に対しても、とりわけ立派に、ただ一人の弟の不幸せな息子に対して、すべきことはしてやったということは、村の誰もが知っていた。”

ヘレンは、身持ちの良くなかった弟が遺した甥のマイケルを女手一つで育て上げた。
ところが、マイケルは大学在学中に招集され、フランスで戦死してしまう。
遺体が見つからないうちは死亡とは限らない、と望みをかけていたヘレンだったが、遂に彼女の元に、マイケルの遺体が発見され、ハーゲンゼーレ第三陸軍墓地に埋葬された、という趣旨の公式通知が届けられる。

ヘレンは英仏海峡を渡り陸軍墓地を訪れるが、膨大な数の墓標のうちのどれがマイケルのものなのかが分からない。
迷っている彼女の目に、一人の男が墓石の背後で跪いているのが映った。園丁と思われた。男は立ち上がると、彼女に誰を捜しているのかと尋ねた。

“「マイケル・タレル中尉です――わたしの甥ですわ」とヘレンは、生涯ずっと幾度となくそうしてきたように、ゆっくりと一言ずつ言った。
その男は視線を上げ、無限の同情をこめて彼女を見やったあと、播種された芝生から、立ち並ぶ黒い十字架の裸木のほうに視線を移した。
「わたしと一緒に来なさい」と彼は言った。「そうすれば、あなたの息子さんのいる処を教えてあげよう」“

マイケルはヘレンの実の息子だったのだ。
これまでこの物語の中で描写されてきたヘレンのすべてが、この罪を隠すための偽りだった。誰も見抜くことが出来なかったその嘘を、園丁だけが見抜いた。園丁は誤解でも聞き間違いでもなく、正しく彼女の本当の姿を見抜いたのだ。
罪と嘘に塗れたヘレンの人生(読み返してみると、彼女の嘘は吃驚するくらい巧妙だ)は、果たして醜悪なものだったのだろうか。

ヘレンの真実が明るみになった瞬間、彼女に救いが訪れる。
彼女の罪はまた、彼女の善性の証でもあった。園丁は、聖書の彼だったのだ。キリストは、彼女の魂は救済に値すると判断した。
墓参の前夜に、スカーズウァース夫人がヘレンに語った「嘘にひどく疲れてしまったんだもの…何年も何年も、口に出す言葉はみな注意をして、次にはどんな嘘をつくか、懸命に考えなければならなかったんです」という言葉は、ヘレンの懊悩を代弁したものでもあったのだろう。夫人もまた、ヘレンを救済へと導くために引き合わされた存在だったのかもしれない。

「園丁」のラストシーンは、ヨハネ伝第20章15節の描写そのものだ。
ヨハネ伝第20章は、キリストの墓参りに来たマグダラのマリアが、墓石が取り除けてあるのを発見するところから始まる。墓穴にはキリストの遺体がなかった。マグダラのマリアが泣いていると、いつの間にか後ろに男が立っていた。マグダラのマリアは彼を園丁だと思った。15節で、園丁らしき男は彼女に「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」と尋ねた。園丁は復活したキリストだったのだ。
マグダラのマリアは、多くを愛することで多くの罪をゆるされた。
ヘレンもそうなのだろう。罪を犯し、嘘に嘘を重ね続けた彼女だったけど、彼女が愛情深い人だったことは誰もが知っていたのだから。

“共同墓地を離れるとき、彼女はこれで見納めと振り向いた。遠くの方で例の男が、若木の上に身を屈めているのが見えた。彼は園丁なのだわと彼女は考えながら帰路についた。”

「園丁」は、本書収録作品の中では最も読みやすいので、キプリングはしんどいと思われる方も、これだけは読んでみてはどうだろうか。
本当にさり気ない描かれ方で、注意して読まないと、老女が園丁に墓の場所を教えてもらっただけの話のように読めてしまう。が、彼女の真の人生と園丁の正体に気が付くと、結びの文で魂を揺さぶられる。キリスト教徒ではない私にも、この物語の尊さがいくらかは理解できるのだ。
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