ウェルズ著『白壁の緑の扉』は、ボルヘスによる序文と、「白壁の緑の扉」「プラットナー先生綺譚」「亡きエルヴシャム氏の物語」「水晶の卵」「魔法星」の五編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の8巻で、私にとっては18冊目の“バベルの図書館”の作品である。
ウェルズは、ヴェルヌと並ぶSF界の大家である。
ウェルズの主要作『タイムマシン』『モロー博士の島』『透明人間』『宇宙戦争』などは、SFとしては古典の部類で、SFの基本的なアイデアの大半は、ウェルズが出していると言っても過言でない。
ウェルズは1866年、ケント州に生まれた。
当時のイギリスは、18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命によって形成された能率優先的な文化に支配されており、物質や効率が何よりも優先されていた。
富める者はより富み、貧しい者は赤貧に喘ぐ格差社会で、ウェルズは小商いの父と女中の母という下層中産階級の家に生まれ育っている。貧困と病苦とを身をもって知るウェルズの作品には、機械文明への警告、物質主義への批判が多く含まれている。
本書に収められている五編は、そんなウェルズによる幻想小説だ。
これらの作品の世界観は、SFよりも児童向けファンタジー小説のそれに近い。しかし、いかにも子供の好みそうな異界往復譚や変身譚を描きながら、その根底には絶対的な冷酷さとある種独特な幸福が横たわっているのだ。
「白壁の緑の扉」は、少年時代に一度だけ迷い込んだ扉の向こうの美しい世界の幻に、生涯囚われた男の物語だ。
世の中の人間を勝ち負けの二組に分けるとすれば、ライオネル・ウォーレスは間違いなく勝ち組の人間であった。
彼の人生は成功の連続だった。幼少期から大学まで優秀な成績を収め続けた彼は、社会に出た後も、いとも無造作に世間的成功を手に入れ続け、若くして国会議員になった。亡くなったのはまだ四十にも届かない歳であったが、もし生きていれば新内閣の閣僚になっていただろうと評された。
彼は工事現場の穴に落ちて死んだ。
その一ヵ月前に私は、彼から不思議な打ち明け話を聞かされていた。実に不可解な内容だったが、少なくとも彼自身はこの話を真実だと信じていると感じられた。
二歳の時に母親を亡くし、厳格な父親と叔母、家庭教師に育てられたウォーレスは、将来偉くなることだけを期待されて育った。頭は良くても、彼の人生は暗く退屈だったのだろう。五歳のある日、彼はふらりと家を出た。
ウェスト・ケンジントンのどこをうろついたのか、その経路も覚えていない。
ただ、白壁と緑色の扉だけはくっきりと記憶に残っている。たくさんの汚い小店の並ぶ通りに、その扉はあった。
迷いつつも扉を押し開けた彼の眼前には、その後の人生をずっと支配し続ける信じられないほど美しい庭園が広がっていた。
豊かな緑に囲まれたその世界では、光もこの世より暖かく、透明で、柔らかかった。動物たちは人懐っこく、人々は親し気で優しかった。彼はそこで初めて遊び仲間に出会ったのだ。何もかもが優しく美しいその世界で、彼はそれまで知らなかった幸福という概念を知った気がした。彼はそこで見たすべてのものを今でも覚えていると語った。
ところが、そのうちに、青白い顔をした陰気な女がやって来て、彼の上に被さって額にキスをした。その瞬間、美しかった世界は掻き消え、彼はひとり、元の陰気な小汚い通りに立っていたのだった。実に惨めだった。この灰色の世界に引き戻されたのが悲しかった。
それからの人生で、緑の扉は度々彼の前に現れた。場所はその都度バラバラだった。
しかし、それはいつも彼がどうしても外すことの出来ない要件に追われている時で、その向こう側に行くことは叶わなかった。緑の扉を諦める度に、その代償のように、彼はどんどん出世していった。恋愛もいくつか経験した。
けれども、あの魔法の庭園は千回も夢に見た。忘れることなどできなかった。どれほど他人から評価されようと、彼の主観では、人生は失望の連続だった。大きな犠牲を払ったことを痛感していた。
あの扉の向こうに確かに存在する、平安の世界、歓喜の世界、夢も及ばない美の世界、地上の人間には理解も出来ない優しさの世界。それを拒否して手に入れた成功に、彼は何一つ歓びを感じることが出来ない。
“わかるさ。わかってるんだ。ぼくはもう、あの仕事をやりぬくしかない。せっかく大事な瞬間が訪れたときにぼくを縛ってしまった仕事に、しがみついていくしかないんだ。ぼくは成功者だというのかい――人には羨ましがられていたって、こんなに俗悪で、安っぽい、退屈な生活をしているのに”
緑の扉の向こう側から戻された瞬間から、彼にとって現実の世界は、それまで以上に無味乾燥なものとしか思えなくなっていたのだ。それはそうだろう。ひとたび至上の世界を味わった者に、現実の世界が色づいて見えることなどありはしないのだ。彼はその後の三十数年の孤独と倦怠によく耐えたと思う。
抑えようがない後悔に苛まされる。夜、あまり人目につかない時間を選んで、こっそり外出する。人に知られたらどう思われるだろうとは思うけど、悲しみに暮れて、時には嘆きの声を上げながらふらつくことが止められないのだ。一枚の扉を、その向こう側にあるあの美しい庭園を探して。
彼の死体は早朝、イースト・ケンジントン駅近くの深い穴で発見された。
地下鉄を延長する工事に伴って掘られたその竪穴には、板囲いがしてあったのだが、労働者の出入りのための扉が付けてあったのだ。
夜、彼は議事堂から歩いてきたのだろう。そして、粗末な板囲いの扉を、あの緑の扉と思いこんだのかもしれない――。
若き政治家の不慮の死は、人々の間で話題になった。
あの白壁の緑の扉というのが本当にあったのかは分からない。それは病んだ精神が見た幻覚だったのかもしれない。でも、この世とは全く別の、比較を絶した美しい世界に通じる秘密の扉が存在しないと、誰に決めつけることが出来よう?
“われわれは、この世を常識で見ている。板囲いは板囲い、穴は穴だとしか思わない。われわれの白昼の基準で考えれば、彼は安全な場所から闇へ、危険の中へ、死へと転落していったのだ。
だが、彼はそう考えただろうか?“
現実世界の基準で云えば、ウォーレスは非業の死を遂げたことになる。
だが、ウェルズは物語の最後に、その物差しに疑問を投げかけている。ウォーレスは、夢みる力、幻想や想像力に恵まれた人にしか見つけることの出来ない扉を、遂に開くことが出来たのかもしれない。少なくとも、人生の最期の瞬間、彼が幸福に包まれていたことを決定的に否定する材料など誰も持ってはいないのだ。
私は子供時分にそれなりの数の異界往復譚を読んだものだが、それらの多くにはある決定的な不満を感じていた。
この種の児童文学では、主人公はだいたい元の世界に帰って来てハッピーエンドになるのである。そんな馬鹿な?至上の美と愉しさを知った者を満足させられるものなど、この世界にあるものか。彼らはなぜ、嘆きもせずにその後の人生を生きていくことが出来るのだろう?なぜ、再びあの世界に戻りたいと熱望しないのだろう?そのこと一つをもってしても、これらの作品には、子供心に所詮は子供だましだなという印象をぬぐえなかった。
それに比べて、「白壁の緑の扉」のリアルな心情描写には、深い共感と満足を得られた。ウォーレスという男の孤独と熱望が、我が事のように感じられたのだ。私は、彼が緑の扉を開くことに成功したことを願わずにいられない。
「プラットナー先生綺譚」は、理科の実験中の爆発事故で、九日間だけ異次元に飛ばされた中学教師の物語。
本書に収められた作品の中では、異色なほど剽軽な語り口だった。特にプラットナー先生が、異次元に飛ばされた時と同様の乱暴な形で帰還した場面では笑いが漏れた。しかし、コミカルな雰囲気とは裏腹に、爆発事故と失踪事件を起こしたプラットナー先生への学校側の対応は世知辛いものだったので、彼は帰って来なかった方が幸せだったなとは思った。
「水晶の卵」は、水晶の中に偶々見つけた世界を眺めているうちに、その世界の観察に耽溺し、遂には死体で発見された小商いの物語。
ケイヴ氏もまた、「白壁の緑の扉」のウォーレスのように、特別な秘密の逃走路を見つけることに成功したのではないだろうか。他人の評価では成功者だったウォーレスに対して、ケイヴ氏の人生は、誰がどう見ても酷いものだった。そのせいもあってか、彼の死に顔には微笑が浮かんでおり、幸福な死であったことがはっきり分かるように表現されている。どのような経緯を経て死に至ったのかは謎であるが。
「亡きエルヴシャム氏の物語」は、他人の人生を乗っ取る薬を開発した老学者エルヴシャム氏と、彼に人生のすべてを盗まれた若者イーデンの物語。
よくもまあ、こんな恐ろしい物語を思いついたと思う。肉体を自由に取り換えるという設定は、SFでは割とよく見るが、これを最初に思いついたのもウェルズなのだろうか。
遺産相続を餌に、学費と生活費の捻出に汲々している苦学生を釣る。そして、健康な若い肉体という何物にも代えがたい宝を騙し取る。エルヴシャム氏としては、乗っ取った若者の肉体が老いる度に別の若者の肉体の乗っ取りを繰り返し、もちろん、その間に築いた財産は次の肉体に相続させて、永遠の若さを謳歌するつもりだったのだろう。
が、そうは問屋が卸さない。胸糞悪くなりそうな展開になる寸前で、因果応報ともいえるオチがついたので、読後感は不快ではなかった。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の8巻で、私にとっては18冊目の“バベルの図書館”の作品である。
ウェルズは、ヴェルヌと並ぶSF界の大家である。
ウェルズの主要作『タイムマシン』『モロー博士の島』『透明人間』『宇宙戦争』などは、SFとしては古典の部類で、SFの基本的なアイデアの大半は、ウェルズが出していると言っても過言でない。
ウェルズは1866年、ケント州に生まれた。
当時のイギリスは、18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命によって形成された能率優先的な文化に支配されており、物質や効率が何よりも優先されていた。
富める者はより富み、貧しい者は赤貧に喘ぐ格差社会で、ウェルズは小商いの父と女中の母という下層中産階級の家に生まれ育っている。貧困と病苦とを身をもって知るウェルズの作品には、機械文明への警告、物質主義への批判が多く含まれている。
本書に収められている五編は、そんなウェルズによる幻想小説だ。
これらの作品の世界観は、SFよりも児童向けファンタジー小説のそれに近い。しかし、いかにも子供の好みそうな異界往復譚や変身譚を描きながら、その根底には絶対的な冷酷さとある種独特な幸福が横たわっているのだ。
「白壁の緑の扉」は、少年時代に一度だけ迷い込んだ扉の向こうの美しい世界の幻に、生涯囚われた男の物語だ。
世の中の人間を勝ち負けの二組に分けるとすれば、ライオネル・ウォーレスは間違いなく勝ち組の人間であった。
彼の人生は成功の連続だった。幼少期から大学まで優秀な成績を収め続けた彼は、社会に出た後も、いとも無造作に世間的成功を手に入れ続け、若くして国会議員になった。亡くなったのはまだ四十にも届かない歳であったが、もし生きていれば新内閣の閣僚になっていただろうと評された。
彼は工事現場の穴に落ちて死んだ。
その一ヵ月前に私は、彼から不思議な打ち明け話を聞かされていた。実に不可解な内容だったが、少なくとも彼自身はこの話を真実だと信じていると感じられた。
二歳の時に母親を亡くし、厳格な父親と叔母、家庭教師に育てられたウォーレスは、将来偉くなることだけを期待されて育った。頭は良くても、彼の人生は暗く退屈だったのだろう。五歳のある日、彼はふらりと家を出た。
ウェスト・ケンジントンのどこをうろついたのか、その経路も覚えていない。
ただ、白壁と緑色の扉だけはくっきりと記憶に残っている。たくさんの汚い小店の並ぶ通りに、その扉はあった。
迷いつつも扉を押し開けた彼の眼前には、その後の人生をずっと支配し続ける信じられないほど美しい庭園が広がっていた。
豊かな緑に囲まれたその世界では、光もこの世より暖かく、透明で、柔らかかった。動物たちは人懐っこく、人々は親し気で優しかった。彼はそこで初めて遊び仲間に出会ったのだ。何もかもが優しく美しいその世界で、彼はそれまで知らなかった幸福という概念を知った気がした。彼はそこで見たすべてのものを今でも覚えていると語った。
ところが、そのうちに、青白い顔をした陰気な女がやって来て、彼の上に被さって額にキスをした。その瞬間、美しかった世界は掻き消え、彼はひとり、元の陰気な小汚い通りに立っていたのだった。実に惨めだった。この灰色の世界に引き戻されたのが悲しかった。
それからの人生で、緑の扉は度々彼の前に現れた。場所はその都度バラバラだった。
しかし、それはいつも彼がどうしても外すことの出来ない要件に追われている時で、その向こう側に行くことは叶わなかった。緑の扉を諦める度に、その代償のように、彼はどんどん出世していった。恋愛もいくつか経験した。
けれども、あの魔法の庭園は千回も夢に見た。忘れることなどできなかった。どれほど他人から評価されようと、彼の主観では、人生は失望の連続だった。大きな犠牲を払ったことを痛感していた。
あの扉の向こうに確かに存在する、平安の世界、歓喜の世界、夢も及ばない美の世界、地上の人間には理解も出来ない優しさの世界。それを拒否して手に入れた成功に、彼は何一つ歓びを感じることが出来ない。
“わかるさ。わかってるんだ。ぼくはもう、あの仕事をやりぬくしかない。せっかく大事な瞬間が訪れたときにぼくを縛ってしまった仕事に、しがみついていくしかないんだ。ぼくは成功者だというのかい――人には羨ましがられていたって、こんなに俗悪で、安っぽい、退屈な生活をしているのに”
緑の扉の向こう側から戻された瞬間から、彼にとって現実の世界は、それまで以上に無味乾燥なものとしか思えなくなっていたのだ。それはそうだろう。ひとたび至上の世界を味わった者に、現実の世界が色づいて見えることなどありはしないのだ。彼はその後の三十数年の孤独と倦怠によく耐えたと思う。
抑えようがない後悔に苛まされる。夜、あまり人目につかない時間を選んで、こっそり外出する。人に知られたらどう思われるだろうとは思うけど、悲しみに暮れて、時には嘆きの声を上げながらふらつくことが止められないのだ。一枚の扉を、その向こう側にあるあの美しい庭園を探して。
彼の死体は早朝、イースト・ケンジントン駅近くの深い穴で発見された。
地下鉄を延長する工事に伴って掘られたその竪穴には、板囲いがしてあったのだが、労働者の出入りのための扉が付けてあったのだ。
夜、彼は議事堂から歩いてきたのだろう。そして、粗末な板囲いの扉を、あの緑の扉と思いこんだのかもしれない――。
若き政治家の不慮の死は、人々の間で話題になった。
あの白壁の緑の扉というのが本当にあったのかは分からない。それは病んだ精神が見た幻覚だったのかもしれない。でも、この世とは全く別の、比較を絶した美しい世界に通じる秘密の扉が存在しないと、誰に決めつけることが出来よう?
“われわれは、この世を常識で見ている。板囲いは板囲い、穴は穴だとしか思わない。われわれの白昼の基準で考えれば、彼は安全な場所から闇へ、危険の中へ、死へと転落していったのだ。
だが、彼はそう考えただろうか?“
現実世界の基準で云えば、ウォーレスは非業の死を遂げたことになる。
だが、ウェルズは物語の最後に、その物差しに疑問を投げかけている。ウォーレスは、夢みる力、幻想や想像力に恵まれた人にしか見つけることの出来ない扉を、遂に開くことが出来たのかもしれない。少なくとも、人生の最期の瞬間、彼が幸福に包まれていたことを決定的に否定する材料など誰も持ってはいないのだ。
私は子供時分にそれなりの数の異界往復譚を読んだものだが、それらの多くにはある決定的な不満を感じていた。
この種の児童文学では、主人公はだいたい元の世界に帰って来てハッピーエンドになるのである。そんな馬鹿な?至上の美と愉しさを知った者を満足させられるものなど、この世界にあるものか。彼らはなぜ、嘆きもせずにその後の人生を生きていくことが出来るのだろう?なぜ、再びあの世界に戻りたいと熱望しないのだろう?そのこと一つをもってしても、これらの作品には、子供心に所詮は子供だましだなという印象をぬぐえなかった。
それに比べて、「白壁の緑の扉」のリアルな心情描写には、深い共感と満足を得られた。ウォーレスという男の孤独と熱望が、我が事のように感じられたのだ。私は、彼が緑の扉を開くことに成功したことを願わずにいられない。
「プラットナー先生綺譚」は、理科の実験中の爆発事故で、九日間だけ異次元に飛ばされた中学教師の物語。
本書に収められた作品の中では、異色なほど剽軽な語り口だった。特にプラットナー先生が、異次元に飛ばされた時と同様の乱暴な形で帰還した場面では笑いが漏れた。しかし、コミカルな雰囲気とは裏腹に、爆発事故と失踪事件を起こしたプラットナー先生への学校側の対応は世知辛いものだったので、彼は帰って来なかった方が幸せだったなとは思った。
「水晶の卵」は、水晶の中に偶々見つけた世界を眺めているうちに、その世界の観察に耽溺し、遂には死体で発見された小商いの物語。
ケイヴ氏もまた、「白壁の緑の扉」のウォーレスのように、特別な秘密の逃走路を見つけることに成功したのではないだろうか。他人の評価では成功者だったウォーレスに対して、ケイヴ氏の人生は、誰がどう見ても酷いものだった。そのせいもあってか、彼の死に顔には微笑が浮かんでおり、幸福な死であったことがはっきり分かるように表現されている。どのような経緯を経て死に至ったのかは謎であるが。
「亡きエルヴシャム氏の物語」は、他人の人生を乗っ取る薬を開発した老学者エルヴシャム氏と、彼に人生のすべてを盗まれた若者イーデンの物語。
よくもまあ、こんな恐ろしい物語を思いついたと思う。肉体を自由に取り換えるという設定は、SFでは割とよく見るが、これを最初に思いついたのもウェルズなのだろうか。
遺産相続を餌に、学費と生活費の捻出に汲々している苦学生を釣る。そして、健康な若い肉体という何物にも代えがたい宝を騙し取る。エルヴシャム氏としては、乗っ取った若者の肉体が老いる度に別の若者の肉体の乗っ取りを繰り返し、もちろん、その間に築いた財産は次の肉体に相続させて、永遠の若さを謳歌するつもりだったのだろう。
が、そうは問屋が卸さない。胸糞悪くなりそうな展開になる寸前で、因果応報ともいえるオチがついたので、読後感は不快ではなかった。