澁澤龍彦編集『変身のロマン』は、幻想小説アンソロジー『暗黒のメルヘン』のいわば続編にあたる短編集だ。
今回は、『暗黒のメルヘン』とはやや趣向を変えて、メタモルフォーシスの主題で全体を統一している。
また、『暗黒のメルヘン』は収録作すべてが日本文学であったが、『変身のロマン』においては、日本文学八篇、ラテン文学一篇、フランス文学二篇、イギリス文学一篇、ドイツ文学一篇、北欧文学一篇という内訳である。
さらに詳しく分類すると、人間が動物(魚、鳥、獣など)に変身する物語が七篇、植物に変身する物語が四篇、無機物(声、壁)に変身する物語が二篇、人間が人間のまま極端に小さくなってしまう物語が一篇となる。
構成としては、最初に澁澤龍彦「メタモルフォーシス考」、最後に花田清輝「変形譚」を配して、二つの変身論で変身文学をサンドするという形をとっている。
収録順は、澁澤龍彦「メタモルフォーシス考」、上田秋成「夢應の鯉魚(雨月物語より)」、泉鏡花「荒野聖」、中島敦「山月記」、阿部公房「デンドロカカリヤ」、中井英夫「牧神の春」、蒲松齢「牡丹と耐冬」、オウィディウス「美少年ナルキッソスとエコ(転身物語より)」、ジャック・カゾット「惡魔の恋」、ギョーム・アポリネール「オノレ・シュヴラックの失踪」、ジョン・コリアー「みどりの想い」、フランツ・カフカ「断食芸人」、アンデルセン「野の白鳥」、花田清輝「変形譚」。
巻末に澁澤龍彦の編集後記が付いている。
知る人ぞ知る、ではなく、多くの人が知っている有名作ばかりでアンソロジーを組んでいるのが、澁澤らしいというか。アポリネール「オノレ・シュヴラックの失踪」なんて、恐怖小説アンソロジーの類で何度読んだことか。
幻想文学のゲートウェイを意識して編纂したのかもしれないが、奇を衒わないラインナップに澁澤の選本に対する絶対的な自信を感じたりもする。
「メタモルフォーシス考」において、澁澤はメタモルフォーシスを、以下の五つに区分している。
一、罰(神罰)による変身。――例)アルテミスの裸身を見たために鹿に変えられたアクタイオーン。近親相関の罪により梟に変えられたニュクティメネ。人肉食の罪により狼に変えられたリュカオーン。
二、神聖あるいは記念としての変身。――例)ヘルメスに殺されたのち、ヘラにより孔雀に変じられたアルゴス。ゼウスを厚遇した功により、死後二本の樹木となったピレモンとパウキスの夫妻。
三、保護のための変身。――例)ヘラの嫉妬を恐れたゼウスにより、牝牛に変えられたイオ。母とは知らず牝熊になったカリストーを殺そうとし、ゼウスによって母と共に星座に変えられたアルカス。
四、予防のための変身。――例)パンに追われ、葦に身を変じたシュリンクス。アポロンに追われ、父にその身を月桂樹に変えてもらったダフネ。ポセイドンの求愛から逃れるうちに、アテナによって鳥に変じられたコロニス。
五、衰弱による変身。――例)友パエトンの墜落死を嘆いて、白鳥となったキュクノス。ナルキッソスに失恋して、声だけとなったエコー。アポロンに軽蔑され、憔悴しヘリオトロープとなったクリュティエー。
もっと詳しく分類することも可能だ。
生きているうちに変身する者もあれば、死んでから変身する者もある。時間をかけて徐々に変身する者もあれば、窮地において瞬時に変身を遂げる者もある。集団での変身もあれば、一時的に変身して、また元に戻る者もある。
澁澤は、もっとも重要な鍵となるものは、動機の分類とともに、変身後の結果の分類だという。
鹿になったアクタイオーンのように動物界に移行する者もあれば、ナルキッソスやダフネのように植物界に移行する者もある。岩に変えられたバットスのように鉱物界に移行する者もあれば、アレトォーサのように液体になる者もある。カネンスのように気体と化す者もあれば、カリストーとアルカスの親子のように天体となる者もある。
変身のきっかけとなった事件や変身者の性格・性別・年齢と移行先の世界には、相応の理由と必然性が認められる。彼らは成るべくして鉱物になり、植物になっているのだ。
あらゆるタイプのメタモルフォーシスの中で、植物的メタモルフォーシスは、最も重要なタイプの一つであるらしい。
植物的メタモルフォーシスという現象は、個々の特定の植物の上に留まらず、同じ品種の植物全体に起る。つまり、すべての月桂樹がダフネであり、すべてのアネモネがアドニスなのだ。この点が、他のメタモルフォーシスと決定的に異なる。
種、球根、地下茎、株分け、枝挿し、葉挿し……旺盛に増殖していくそれらのすべてが、元は同じ人物だったと考えると、その獰猛な生命力に神秘以上に不気味さを感じてしまう。
人間は植物に変身すると、その生命を植物の生命と連続させて、ある種の不死不滅の力を獲得することが出来るのだ。
澁澤は、植物的メタモルフォーシスとキリスト教以前の植物崇拝との関連についても触れている。
人間の歴史の中で最も早く、聖なるものと結び付けられてきたのは植物だ。
寺院や神像などが礼拝の対象になるよりも以前に、植物は聖なるものとして崇拝の対象になっていた。オリエントの造形美術には、樹木の中に神そのものが顕現するというモチーフさえあったようだ。
神そのものの植物と、植物に変身する人間。
聖なるものを媒介として、人間と植物の生命は、無限に交流している。この聖なるものとの融合が、他のメタモルフォーシスには見られない現象なのだろう。
中井英夫「牧神の春」について、澁澤は「ことさら奇を衒わない単純な筋と自然な語り口が、おそらく、この小説を好ましい一篇の現代メルヘンとして成功されている原因のような気がする」と評している。
子供の変身ごっこには呪文がつきものだ。変身アニメなど必ずと言っていいほど、何か唱えている。
「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱えることで、牧神と化した若者がこの物語の主人公だ。この呪文が、石油を喰う微生物の名であることが、この物語のポイント。
こう書くと、どこが「奇を衒わない単純な筋と自然な語り口」なのかと訝しまれるかもしれないが、実際何の違和感もなく主人公の状況を受け入れられる語り口なのは、読めば理解できると思う。
“なにしろ、そのころ貴の考えることと言ったら、役立たずという言葉そのもので、そのくせ一度それにとりつかれると、いつまでも抜け出せないで堂々めぐりをするという風だった。”
貴は、子供の心のままに大きくなったような青年だ。
彼が街中で「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱えだしたり、「おれは早く土星に行かなくちゃ」と思い立ったりする必然性が、最初の一ページ目で読者に受け入れられる下地作りに成功しているあたりが、中井の凄さだ。
歌人らしく、自然の描写も秀逸。
作中の季節が春でなければならない理由も、その春の明るく埃っぽい街の描写や、牧神と化した貴が辿り着いた自然動物園の陽光と水と緑の木立の描写など、一篇の長い詩のように美しい。
貴が自然動物園で出会ったフーテン娘に、自分の裸身をさらす場面の瑞々しいエロティシズム。牧神の裸身を見た娘もまた、裸身となりニンフと化すのだ。
この二人の会話が実に洒落ていて、スタイリッシュな小説とはこういう作品のことをいうのだなと得心したのだった。
ジョン・コリアー「みどりの想い」は、肉体が植物と融合した男が、時間の経過とともに精神までも徐々に植物化していく過程を描いた変身怪談の傑作である。
人間が花と化す物語は、本書収録の蒲松齢「牡丹と耐冬」と同じであるが、「牡丹と耐冬」が艶美なエロティシズムを湛えているのに対して、「みどりの想い」は、同じテーマをひたすらグロテスクな怪奇現象として描いている。
蘭という植物は、熱帯出身であることといい、艶やかで肉厚な葉といい、エイリアンの顔みたいな花といい、触手のように鉢からはみ出している根といい、ひどく貪婪な雰囲気を醸し出す植物だ。マナリング氏が変身したのが牡丹か薔薇だったとしたら、こんな気色の悪い物語にはならなかっただろう。
植物学者のマナリング氏は、探検旅行中に失踪した友人から送られた蘭を自宅の温室に移植する。
それは未だかつて誰も見たことのない気味悪い蘭で、蠅の頭のような貧相な花を咲かせていた。
マナリング氏は、珍奇な蘭の新種を発見したことと、その命名者となりうる嬉しさとで胸をワクワクさせながら観察を続ける。
数日経たぬうちに、同居する従妹ジェインの愛猫がいなくなった。
暫くすると、蘭は猫の頭のような花を咲かせた。
それからさらに数日たつと、今度はジェインが姿を消して、蘭は馬鹿々々しいほど巨大な蕾を付けた。
蘭はジェインの顔をした花を咲かせ、マナリング氏をも己の中に取り込む。
蠅の頭のような花の描写が出た時点で、普通に読んでいれば、この辺までは容易に予測できる。
しかし、物語が独特な方向に動き出すのは、マナリング氏が人間としての生涯を終え、身動き出来ない人面花と化した場面からなのだ。
作中には、マナリング氏より後に蘭に呑み込まれた鼠が、どのように元の姿からグロテスクな花に変身を遂げたかが、克明に描写されている。まだ人間としての自我が消滅していないマナリング氏が見守るかたちで描かれているものだから、気色悪さも一入だ。自分もこのように変化したのだという答え合わせを見せられるのは地獄かと思う。
身体の変化が精神に及ぼす影響は強力だ。
蘭の旺盛な生命力と、それに呑まれた人間の自我が縮小し、別の存在に組み替えられる過程の活写が、耐えがたく不穏な作品だった。
今回は、『暗黒のメルヘン』とはやや趣向を変えて、メタモルフォーシスの主題で全体を統一している。
また、『暗黒のメルヘン』は収録作すべてが日本文学であったが、『変身のロマン』においては、日本文学八篇、ラテン文学一篇、フランス文学二篇、イギリス文学一篇、ドイツ文学一篇、北欧文学一篇という内訳である。
さらに詳しく分類すると、人間が動物(魚、鳥、獣など)に変身する物語が七篇、植物に変身する物語が四篇、無機物(声、壁)に変身する物語が二篇、人間が人間のまま極端に小さくなってしまう物語が一篇となる。
構成としては、最初に澁澤龍彦「メタモルフォーシス考」、最後に花田清輝「変形譚」を配して、二つの変身論で変身文学をサンドするという形をとっている。
収録順は、澁澤龍彦「メタモルフォーシス考」、上田秋成「夢應の鯉魚(雨月物語より)」、泉鏡花「荒野聖」、中島敦「山月記」、阿部公房「デンドロカカリヤ」、中井英夫「牧神の春」、蒲松齢「牡丹と耐冬」、オウィディウス「美少年ナルキッソスとエコ(転身物語より)」、ジャック・カゾット「惡魔の恋」、ギョーム・アポリネール「オノレ・シュヴラックの失踪」、ジョン・コリアー「みどりの想い」、フランツ・カフカ「断食芸人」、アンデルセン「野の白鳥」、花田清輝「変形譚」。
巻末に澁澤龍彦の編集後記が付いている。
知る人ぞ知る、ではなく、多くの人が知っている有名作ばかりでアンソロジーを組んでいるのが、澁澤らしいというか。アポリネール「オノレ・シュヴラックの失踪」なんて、恐怖小説アンソロジーの類で何度読んだことか。
幻想文学のゲートウェイを意識して編纂したのかもしれないが、奇を衒わないラインナップに澁澤の選本に対する絶対的な自信を感じたりもする。
「メタモルフォーシス考」において、澁澤はメタモルフォーシスを、以下の五つに区分している。
一、罰(神罰)による変身。――例)アルテミスの裸身を見たために鹿に変えられたアクタイオーン。近親相関の罪により梟に変えられたニュクティメネ。人肉食の罪により狼に変えられたリュカオーン。
二、神聖あるいは記念としての変身。――例)ヘルメスに殺されたのち、ヘラにより孔雀に変じられたアルゴス。ゼウスを厚遇した功により、死後二本の樹木となったピレモンとパウキスの夫妻。
三、保護のための変身。――例)ヘラの嫉妬を恐れたゼウスにより、牝牛に変えられたイオ。母とは知らず牝熊になったカリストーを殺そうとし、ゼウスによって母と共に星座に変えられたアルカス。
四、予防のための変身。――例)パンに追われ、葦に身を変じたシュリンクス。アポロンに追われ、父にその身を月桂樹に変えてもらったダフネ。ポセイドンの求愛から逃れるうちに、アテナによって鳥に変じられたコロニス。
五、衰弱による変身。――例)友パエトンの墜落死を嘆いて、白鳥となったキュクノス。ナルキッソスに失恋して、声だけとなったエコー。アポロンに軽蔑され、憔悴しヘリオトロープとなったクリュティエー。
もっと詳しく分類することも可能だ。
生きているうちに変身する者もあれば、死んでから変身する者もある。時間をかけて徐々に変身する者もあれば、窮地において瞬時に変身を遂げる者もある。集団での変身もあれば、一時的に変身して、また元に戻る者もある。
澁澤は、もっとも重要な鍵となるものは、動機の分類とともに、変身後の結果の分類だという。
鹿になったアクタイオーンのように動物界に移行する者もあれば、ナルキッソスやダフネのように植物界に移行する者もある。岩に変えられたバットスのように鉱物界に移行する者もあれば、アレトォーサのように液体になる者もある。カネンスのように気体と化す者もあれば、カリストーとアルカスの親子のように天体となる者もある。
変身のきっかけとなった事件や変身者の性格・性別・年齢と移行先の世界には、相応の理由と必然性が認められる。彼らは成るべくして鉱物になり、植物になっているのだ。
あらゆるタイプのメタモルフォーシスの中で、植物的メタモルフォーシスは、最も重要なタイプの一つであるらしい。
植物的メタモルフォーシスという現象は、個々の特定の植物の上に留まらず、同じ品種の植物全体に起る。つまり、すべての月桂樹がダフネであり、すべてのアネモネがアドニスなのだ。この点が、他のメタモルフォーシスと決定的に異なる。
種、球根、地下茎、株分け、枝挿し、葉挿し……旺盛に増殖していくそれらのすべてが、元は同じ人物だったと考えると、その獰猛な生命力に神秘以上に不気味さを感じてしまう。
人間は植物に変身すると、その生命を植物の生命と連続させて、ある種の不死不滅の力を獲得することが出来るのだ。
澁澤は、植物的メタモルフォーシスとキリスト教以前の植物崇拝との関連についても触れている。
人間の歴史の中で最も早く、聖なるものと結び付けられてきたのは植物だ。
寺院や神像などが礼拝の対象になるよりも以前に、植物は聖なるものとして崇拝の対象になっていた。オリエントの造形美術には、樹木の中に神そのものが顕現するというモチーフさえあったようだ。
神そのものの植物と、植物に変身する人間。
聖なるものを媒介として、人間と植物の生命は、無限に交流している。この聖なるものとの融合が、他のメタモルフォーシスには見られない現象なのだろう。
中井英夫「牧神の春」について、澁澤は「ことさら奇を衒わない単純な筋と自然な語り口が、おそらく、この小説を好ましい一篇の現代メルヘンとして成功されている原因のような気がする」と評している。
子供の変身ごっこには呪文がつきものだ。変身アニメなど必ずと言っていいほど、何か唱えている。
「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱えることで、牧神と化した若者がこの物語の主人公だ。この呪文が、石油を喰う微生物の名であることが、この物語のポイント。
こう書くと、どこが「奇を衒わない単純な筋と自然な語り口」なのかと訝しまれるかもしれないが、実際何の違和感もなく主人公の状況を受け入れられる語り口なのは、読めば理解できると思う。
“なにしろ、そのころ貴の考えることと言ったら、役立たずという言葉そのもので、そのくせ一度それにとりつかれると、いつまでも抜け出せないで堂々めぐりをするという風だった。”
貴は、子供の心のままに大きくなったような青年だ。
彼が街中で「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱えだしたり、「おれは早く土星に行かなくちゃ」と思い立ったりする必然性が、最初の一ページ目で読者に受け入れられる下地作りに成功しているあたりが、中井の凄さだ。
歌人らしく、自然の描写も秀逸。
作中の季節が春でなければならない理由も、その春の明るく埃っぽい街の描写や、牧神と化した貴が辿り着いた自然動物園の陽光と水と緑の木立の描写など、一篇の長い詩のように美しい。
貴が自然動物園で出会ったフーテン娘に、自分の裸身をさらす場面の瑞々しいエロティシズム。牧神の裸身を見た娘もまた、裸身となりニンフと化すのだ。
この二人の会話が実に洒落ていて、スタイリッシュな小説とはこういう作品のことをいうのだなと得心したのだった。
ジョン・コリアー「みどりの想い」は、肉体が植物と融合した男が、時間の経過とともに精神までも徐々に植物化していく過程を描いた変身怪談の傑作である。
人間が花と化す物語は、本書収録の蒲松齢「牡丹と耐冬」と同じであるが、「牡丹と耐冬」が艶美なエロティシズムを湛えているのに対して、「みどりの想い」は、同じテーマをひたすらグロテスクな怪奇現象として描いている。
蘭という植物は、熱帯出身であることといい、艶やかで肉厚な葉といい、エイリアンの顔みたいな花といい、触手のように鉢からはみ出している根といい、ひどく貪婪な雰囲気を醸し出す植物だ。マナリング氏が変身したのが牡丹か薔薇だったとしたら、こんな気色の悪い物語にはならなかっただろう。
植物学者のマナリング氏は、探検旅行中に失踪した友人から送られた蘭を自宅の温室に移植する。
それは未だかつて誰も見たことのない気味悪い蘭で、蠅の頭のような貧相な花を咲かせていた。
マナリング氏は、珍奇な蘭の新種を発見したことと、その命名者となりうる嬉しさとで胸をワクワクさせながら観察を続ける。
数日経たぬうちに、同居する従妹ジェインの愛猫がいなくなった。
暫くすると、蘭は猫の頭のような花を咲かせた。
それからさらに数日たつと、今度はジェインが姿を消して、蘭は馬鹿々々しいほど巨大な蕾を付けた。
蘭はジェインの顔をした花を咲かせ、マナリング氏をも己の中に取り込む。
蠅の頭のような花の描写が出た時点で、普通に読んでいれば、この辺までは容易に予測できる。
しかし、物語が独特な方向に動き出すのは、マナリング氏が人間としての生涯を終え、身動き出来ない人面花と化した場面からなのだ。
作中には、マナリング氏より後に蘭に呑み込まれた鼠が、どのように元の姿からグロテスクな花に変身を遂げたかが、克明に描写されている。まだ人間としての自我が消滅していないマナリング氏が見守るかたちで描かれているものだから、気色悪さも一入だ。自分もこのように変化したのだという答え合わせを見せられるのは地獄かと思う。
身体の変化が精神に及ぼす影響は強力だ。
蘭の旺盛な生命力と、それに呑まれた人間の自我が縮小し、別の存在に組み替えられる過程の活写が、耐えがたく不穏な作品だった。