青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

2018-10-12 07:37:22 | 日記
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は、1999年公開のドイツ・アメリカ・フランス・キューバ合作のロードムービー。
ヴィム・ヴェンダースが友人のライ・クーダーと共に、伝説の老ミュージシャン“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”のアルバムの制作やコンサートの映像、キューバの街の風景、そこで働き生活する人々の姿、メンバーへのインタビューをつなぎ合わせるシンプルな構成で、キューバ音楽の魅力を鮮明に伝えている。

監督・脚本 ヴィム・ヴェンダース
出演 ライ・クーダー(ギター)
  ヨアキム・クーダー(パーカッション)

   コンパイ・セグンド(ボーカル、トレス)
イブライム・フェレール (ボーカル、クラーベ)
  ファン・デ・マルコス・ゴンザレス(バンドマスター、トレス、ボーカル、ギロ)
   ほか、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのメンバー 

ライ・クーダーがプロデュースしたアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」がベースになっている。キューバ国外にほとんど知られていなかった老ミュージシャンが、このアルバムの大ヒットにより世界的に注目されることとなった。

1998年4月アムステルダム カレ劇場にてブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのコンサートが開かれた。
その映像の合間に、白髪頭に帽子を被り、粋なスーツを纏って葉巻をふかすコンパイ・セクンドがキューバの街を移動する姿が映し出される。
彼はゆっくりとオープンカーを運転しながら何かを探している。そんな彼に通りすがりの人々が声をかける。彼は伝説のミュージシャンなのだ。
コンパイ・セクンドは街中で車を停めると、道端の老人たちに近づいて話しかけた。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブはどこに?」
「とっくにないよ」
「そのクラブは――確かこの先にあった48番地にある建物の中だ 今はもうなくなっている」
「捜してみよう」
「建物はまだある」
「この通りを行った先にあったの」
「そこで踊った?」
「踊ったわ 生まれも近所なの」
「すぐに分かるよ ドアにラインが入った建物だ」
「クラブでよくパーティーがあったのを覚えているよ 当時はキューバでも指折りのバンドが演奏していた」

場面が1998年3月のハバナに切り替わる。
サイドカーを付けたオートバイが海岸沿いを走り抜ける。
オートバイに乗っているのは、ライ・クーダー。サイドカーに乗っているのは、息子のヨアキムだ。
道路脇に止められた何台ものクラシックカーは潮風で錆び付き、かつてはピンク、青、緑、黄とカラフルであっただろう建物の壁面は塗装が褪せている。
埃っぽい街には派手な色のシャツやワンピースを纏った男女がたむろし、野良犬たちがうろついている。上を見上げれば、錆び付いたベランダの柵に洗濯物が乱雑に干され、はためいている。商店の窓ガラスには、チェ・ゲバラのポスターが張られている。
キューバ革命の時代から文化も経済も停滞したかのような街で、同じ音楽を同じように繰り返し演奏し、年老いてきた人たち。それがブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのメンバーたちだ。

オートバイがレコーディングスタジオにたどり着く。
ライ・クーダーがキューバを訪れたのは、アルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のレコーディング以来2年ぶりである。長年音楽業界にいるライにもヒットの秘訣などは分からないが、キューバ音楽のスタンダードナンバーを収録した「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は、世界中で400万枚という売り上げを記録し、グラミー賞を受賞した。
今回のキューバ行の目的は、メンバーであるイブライム・フェレールのソロアルバムのレコーディングに参加することだ。ライは、イブライムをキューバのナット・キング・コール、めったに出会えない逸材だと賞賛している。ライはイブライムの歌声を世に届けたいのだ。
カメラは彼らのレコーディングやコンサートの場面を追い、更には彼らの人生やキューバの歴史をも描いていく。


ラテンアメリカ文学が好き。ヴィム・ヴェンダースは『パリ、テキサス』が良かったな。このくらいのふんわりした動機で観た映画だった。当然のことながらブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブについての知識はゼロである。
それでも、粋な老人たちの奏でる陽気なのにどこか物悲しい音楽と、時代の流れに取り残されたような街並みが醸し出す懐かしさには心惹かれるものがあった。行ったことの無い街、初めて聞く音楽になぜ郷愁を感じるのだろう。
キューバ音楽の魅力とミュージシャンたちの活き活きとした姿を、風景の映像を織り交ぜながら詩情豊かに撮影している。メンバー一人一人の口から語られる彼らの人生を通して、その背景にあるキューバの歴史まで描いている。

コンパイ・セクンドがブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの建物を探す場面で、街の人々が当時の想い出を懐かしく語り、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの近所で育ったことを誇りに思っているのが表情に現れているのが良い。そんな彼らに、コンパイ・セクンドが唐突に健康の秘訣のブラック・スープについて話し出すのもチャーミングだ。
登場人物の殆どが老人で、街には貧困があふれているというのに、少しも湿っぽくない。メンバー達の口から語られる彼らの人生も困難に満ちたものだったが、不幸自慢でもなく自己憐憫でもなく、淡々とした口調だった。時折見せる笑顔が眩しい。
社会主義国家のキューバは、民主主義国家の人間の眼には貧しく閉塞的に見える。しかし、メンバーたちは、その土地に根を張り、音楽と自らの人生を熟成させてきたのだ。人生の選択肢が少ないからこその純粋さだろうか。

NO MUSIC, NO LIFEなんてタワーレコードのキャッチコピーがあったけど、実際にこのフレーズがしっくりくるミュージシャンは少ないだろう。
しかし、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのメンバーの人生には、誕生の前から音楽があったのだ。両親が、祖父母が、先祖代々が音楽を愛してきた。彼らは音楽そのものなのだ。音楽は美しく、人間も美しい。異国人の私が彼らの音楽に懐かしさを覚えるのは、そこに人類共通の何かを感じるからなのだろう。それが何なのかはまだ分からないけど。

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風邪っぴきと猫

2018-10-09 08:17:40 | 日記
娘コメガネから風邪をうつされて、先週の半ばから寝たり起きたりの状態です。
日中は37度台だからまだ動けるのですが、夕方になると38度を越えるので少々キツイですね。
お医者さんにはちゃんと寝ましょうと言われましたけど、平日はなかなか難しいです。
週末は三連休だったので夫にお料理を任せてずっと寝かせてもらいました。
お掃除だけは私がしましたよ。と言いますのも、夫は料理好きな一方で、お掃除や整理整頓にはトンと関心がないからです。埃じゃ死なないとか本気で言っていますし、部屋が散らかっていても全然気にならないみたいなのですよ。ちょっとは気にしろと思いますが、そういう家庭に育った人なので、まぁ…。神経質な人よりは付き合いやすいのですけどね。


私の枕に乗る桜。
私の部屋は現在桜と共有状態です。1日のうち部屋で過ごしている時間の割合を考えれば私の方が居候かもしれません。
桜は雌猫なのに縄張り意識が強いらしくて、部屋に他の猫が入るのを嫌がります。蓬が何度か入って来たことがあったのですが、その度に桜が鬼婆面で怒るので来なくなってしまいました。柏は賢いので最初から来ません。
桜は夫やコメガネが入って来るのも嫌みたいで、出窓の上に逃げちゃいますね。部屋に入って良いのは私と凜ちゃんだけのようですよ。
犬は人につき猫は家につくと言いますが、我が家の犬猫は逆の感じがします。
桜はとにかく私にべったり。
夜寝る時には必ず私の顔の横で添い寝してきます。顔の近くにくるのは特に懐いている証拠だそうで、とても嬉しい。でも、就寝中に顔の上に乗るのは苦しいので止めて欲しいです。




寝ているのに飽きたので桜の撮影をしました。
ゴロンゴロン…変な寝姿です。


本が読めない…。


おまけの蓬&柏。
ヨモ氏はケージで寝る時はだいたい前足で柵に掴っています。顔を柵に押し付けるのも好きで、そんな時は歯茎がめくれあがって滅茶苦茶ブサイクな寝顔を晒していますよ。
ヨモ氏を枕にして寝ているのが柏です。
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美しい水死人

2018-10-05 07:40:21 | 日記
ガルシア・マルケス他『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』

アルフォンソ・レイエス著「アランダ司令官の手」
オクタビオ・パス著「波と暮らして」
フアン・ルルフォ著「犬が鳴いてないか」
カルロス・フェンテス著「生活費」
ホルヘ・イバルグエンゴイティア著「カナリアとペンチと三人の死者のお話」
サルバドール・エリソンド著「包誠による歴史」
ホセ・エミリオ・パチェーコ著「遊園地」
アウグスト・モンテローソ著「ミスター・テイラー」
ガブリエル・ガルシア=マルケス著「美しい水死人」
フリオ・ラモン・リベイロ著「記章」 
マヌエル・ローハス著「薔薇の男」
ホセ・ドノーソ著「閉じられたドア」
オラシオ・キローガ著「羽根枕」 
フェリスベルト・エルナンデス著「水に浮かんだ家」
マヌエル・ムヒカ=ライネス著「旅行者――1840年」
アドルフォ・ビオイ=カサーレス著「パウリーナの思い出に」
フリオ・コルタサル著「山椒魚」

の17の短編が収録されている。

訳を手掛けた木村榮一による解説は、ラテンアメリカ諸国の歴史的背景にまで触れていて大変参考になる。これを丸暗記できれば、ラテンアメリカ文学について一席ぶつことが出来るんじゃないだろうか。
本書の収録作はスペイン語で書かれた作品ばかりなので、本来ならイスパノアメリカ文学と称すべきなのだが、イスパノアメリカという名称が日本では浸透していないので、あえてラテンアメリカを用いたのだそうだ。

コロンブスに発見されて以来、約三世紀にわたってスペイン・ポルトガルに統治され続けた新大陸は長く小説の不毛地帯だった。小説に対する厳しい規制が解けるのは独立戦争以後、19世紀も10年代に入ってからのことで、それまでは小説を書いて出版するどころか輸入すら禁止されていたのである。新大陸を独立運動に駆り立てた要因の一つがロマン主義の思想的影響で、独立後の文学者たちはまず、フランスのロマン主義を手本に創作を始めた。
ここで紹介されているキローガの「完璧な短編を書くための十戒」がなかなか楽しい。キローガの初々しい気負いは、そのままラテンアメリカ文学の精神の基礎になっているのだろう。
ブエノスアイレスとモンテビデオを中心とするラプラタ河流域では、19世紀後半からゴシック小説をはじめ欧米の幻想小説や怪奇譚が小ブームを起こした。その影響を受けている現代のラプラタ河幻想文学の作家たちは特に私の好みである。
多くの作家が過酷な環境の中で生きる様々な人々の悲惨や痛苦を描き出しているが、それもまたラテンアメリカの現実に基づいているのだ。神経症的な作品しか生まれなくなった先進国の文学と異なり、ラテンアメリカ文学は悲惨さも含めて図太く健康的である。
幻想性と地に足の付いた逞しさの融合がラテンアメリカ文学の魅力なのだろう。

17篇の中では、フアン・ルルフォ著「犬が鳴いてないか」、ガブリエル・ガルシア=マルケス著「美しい水死人」、フリオ・コルタサル著「山椒魚」が既読だった。収録作の中でもこの3編の完成度が抜きん出ていると思った。
特に表題作の「美しい水死人」は、アンソロジーの顔になるのが納得の傑作である。
海辺の村に流れ着いた大男の水死体を村人たちが弔うまでを描いた物語は、素朴な美と優しさに包まれていて、最後の“あそこがエステーバンの村なのですよ”のくだりで毎回目頭が熱くなる。この物語をぜひ美しい絵本にして欲しいと思った。

その他の作品では、オクタビオ・パス著「波と暮らして」、アウグスト・モンテローソ著「ミスター・テイラー」、フリオ・ラモン・リベイロ著「記章」、ホセ・ドノーソ著「閉じられたドア」が気に入った。

「波と暮らして」は、海から連れ帰った波と暮らす若い男の物語。どことなく山尾悠子を思わせるシュールな作風だ。
波との暮らしは最初から波瀾万丈だったが、時には穏やかな愛情めいたものを感じる時間もあった。ところが、波が寂しいと言ってふさぎ込むようになるにつれて、男は彼女が疎ましくなっていく。すると、男の心変わりを察知した波が悪態をつきながら猛り狂う。男はますます波を持て余すようになる。という悪循環を経てのラストが残酷だなと思う反面、男の立場に立てば仕方のないことだったかもしれないとも思えた。今更いじらしい姿を見せられても、一度冷めた心はもう元には戻らないということで。

「ミスター・テイラー」は、アマゾンの密林で首狩りをやって有名になったパーシー・テイラー氏の物語。
ボストンから姿を消したテイラー氏は7年後アマゾン地方に姿を現し、原住民と交わって暮らし始める。原住民から奇妙な干し首を受け取ったテイラー氏は、それを祖国の叔父に送る。干し首が好事家相手の商売になると踏んだ叔父によって、その後もどんどん干し首を送らされることになる。数か月後には空前の干し首ブームが巻き起こり、やがて供給が需要に追い付かなくなる。それに伴って物語は悪夢の様相を呈してくる、というブラックユーモア。

「記章」は、偶々銀製のバッジを拾ったことから得体の知れない結社の一員になってしまった男の物語。
男が最初から最後まで自分の所属する結社について何も分からないまま、とんとん拍子で出世していく様が、滑稽であり不気味でもある。男は物語の最後には、結社の会長にまで上り詰める。結社員からは閣下と敬われ、数多の召使と美女に囲まれた悠々自適の生活だ。だが、いくらそんなものがあろうと、男は今でも何も分からないままだし、それはこれから先も変わらないだろう。だから、誰かに組織の意味を問いかけられても口を濁すしかない。だけど、曖昧なことを言っておけば、どのようにでも解釈できるので、特に問題はないのだ。

「閉じられたドア」は、夢の世界に現れるドアを開くことを願いながら眠り続けた男の物語。
セバスティアン・デ・レンヒーフォは、赤ん坊の頃からよく寝る子供だった。思春期に入ってもそれは変わらず、趣味も友人も持たず学校から帰ると寸暇を惜しんで眠り続けるのだった。たまりかねた母のアデーラに詰問されると、自分は眠るために生まれてきた、などと言い出す。
すべての世界を明るく照らし出す光の世界を夢に見るけど、目が覚めた途端に、夢の世界に通じるドアは閉ざされてしまい、どんな夢だったのか思い出せない。夢の中で味わった幸福な感じを現実の世界に持ち込むには何とかしてドアを開かねばならない。そのためには眠り続けなければならない。セバスティアンにとってはそれが一番大切なことなのだった。
女手一つで苦労して育てた一人息子がこのざまである。
失望したアデーラはめっきり老け込んでしまった。それでも、セバスティアンはひたすら眠り続ける。成人し勤めに出るようになってからも、勤務時間以外はひたすら眠り続ける。職場の人間とは一切交流を持たない。このままではセバスティアンが職場で浮いてしまうと心配した上司のアキレス・マランビオの説得にも、アデーラに語った夢のドアの話をして呆れられてしまう。
この時、セバスティアンとマランビオは一つの賭けをした。
セバスティアンが結局何も見つけられずに死んだら、マランビオがセバスティアンの遺体を共同墓地に放り込む。セバスティアンが勝ったら、葬式の費用をマランビオが持つ。…どちらに転んでもマランビオが損をするような気もするが、それで賭けが成立した。
息子の体たらくに泣き暮らしたアデーラが絶望の中息を引き取ると、セバスティアンは会社も辞め、人生のすべてを眠りに捧げるようになった。
貧しい母子家庭のレンヒーフォ家には、蓄えなどあるはずもない。勤めを辞めたセバスティアンは忽ち困窮することになった。仕方なしに日雇い仕事についても、睡魔をコントロールすることが出来ず、仕事中に眠りこけて失敗を連発してしまう。当然、一銭も貰えず首になる。何処からも雇ってもらえなくなったセバスティアンは、物乞いにまで身を落としてしまうのだった…。

己の肉体の中に閉じこもる究極の引きこもり状態は、代表作『夜のみだらな鳥』と同じである。短編であり登場人物が少ないこともあって、本作には『夜のみだらな鳥』ほどの重厚感、酩酊感、錯綜感はない。ただ全体を覆う息苦しさと非人情、奇妙な滑稽味は本作にも感じられるので、これがドノーソの持ち味なのだろう。
人生の最期にセバスティアンは夢のドアを開くことが出来たのだろうか。
マランビオ家の玄関前で凍死したセバスティアンは、恍惚とした表情を浮かべていた。マランビオは警官を呼ぶと、名前も分からない浮浪者と告げながらも、葬式の費用を全額もってやったのだった。
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台風による修学旅行延期

2018-10-01 07:47:34 | 日記
関東も昨日の深夜から早朝にかけて台風の直撃を受けました。
本当は今日から娘コメガネは修学旅行でしたが、鉄道の復旧のメドがたっていないので、今回は延期になりました。先生達は二度手間になって気の毒です。
ふりかえは12月だそうです。行き先は日光ですよ。
今日明日は通常授業ですが、給食は無いので2日ともお弁当持参です。


画像はピンクのお弁当箱がコメガネ、黒のが夫のです。
今日のお弁当は、鶏肉の唐揚げ、チーズと枝豆入りはんぺん団子、うずらの卵とソーセージのピンチョス、おかかのおにぎり、葡萄です。はんぺんはマヨネーズ味、うずらの卵はカレー味にしました。
明日はどうしような…。

修学旅行は延期になりましたが、コメガネ的にはその方が都合が良かったです。と言いますのも、コメガネさんは先週半ばから体調を崩していて、金曜日には早退していたからです。
保健室に迎えに行ったら茹で蛸みたいな顔で寝ていて、修学旅行の参加は無理かなと思いましたよ。
その後病院に連れて行きしっかり休ませたところ、日曜日の朝には元気になったので、今日はとりあえず登校です。

ところで、コメガネさんの学校は電車で日光まで行きます。小学校の修学旅行と言えばバス移動だと思っていたので、ちょっと驚きました。
修学旅行の班割りは籤引きで、コメガネさんは昼の班では仲の良い子と一緒になれなくて不満タラタラでした。でも、夜の班は仲良しばかりなので、全部がハズレじゃなくてまだ良かったです。12月には万全な体調で楽しんで来て欲しいものです。
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