立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズムー純愛と母性ー」の第6回「男はつらいよ」と寅さんの純情と献身、を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
幼い時に、母と別れた男の子が成長して作家になると少なくない割合で母を恋い、思慕の情を強める。長谷川伸は3歳で母と生き別れた。谷崎潤一郎は31歳の時に母親が亡くなった。母への思慕を主題とした作品(春琴抄や吉野葛)に描かれているのは実在の母でなく、虚構の母である。山田洋次監督の母は大人になってから亡くなった。寅さんは優しく、虚構の母が描かれている。
「続・男はつらいよ(2作・昭和44)」で、寅さんが生みの母・お菊(ミヤコ蝶々)に会いに行くシーンからビデオ放映した。「男はつらいよ(48作・平成7)」で、寅さんが奄美大島の加計呂麻島からリリー(浅丘ルリ子・4回目の登場)を連れて柴又へ帰る。しかし、ふとしたことで喧嘩してリリーが島へ帰ろうとするシーンからビデオ放映した。48作目の渥美清はすでに肝臓ガン、しかも肺に転移していた。医者は「出演はもう不可能」と診断したのを押しての出演だった。そのために48作の寅さんは座っているシーンが多かった。渥美清は平成8年(1996)8月4日死去、68歳だった。
「男はつらいよ」がなぜ国民的人気映画になっていったのか。シリーズ全体を通じて「優しさ」で貫かれていることだった。少々柄は悪いが寅さんは周りの人々に対して優しさと気配りを見せる。殺人や傷害を描かなかった。欲情やセックスとも無縁で、寅さんのマドンナに寄せる純愛と献身の慕情は全48作の26年間、変わることがなかった。
渥美清の死の5年前に藤山寛美が肝硬変で亡くなっている。そして、笑いたいが笑わせる喜劇人がいなくなった。藤山寛美の死後、中座が売却され道頓堀も衰退した。宗右衛門町は風俗の街になってしまった。人間が住まいしていない地域は衰退する。天神橋筋は天満天神繁昌亭ができたこともあるが、職住一体の街で、繁栄している。
幼い時に、母と別れた男の子が成長して作家になると少なくない割合で母を恋い、思慕の情を強める。長谷川伸は3歳で母と生き別れた。谷崎潤一郎は31歳の時に母親が亡くなった。母への思慕を主題とした作品(春琴抄や吉野葛)に描かれているのは実在の母でなく、虚構の母である。山田洋次監督の母は大人になってから亡くなった。寅さんは優しく、虚構の母が描かれている。
「続・男はつらいよ(2作・昭和44)」で、寅さんが生みの母・お菊(ミヤコ蝶々)に会いに行くシーンからビデオ放映した。「男はつらいよ(48作・平成7)」で、寅さんが奄美大島の加計呂麻島からリリー(浅丘ルリ子・4回目の登場)を連れて柴又へ帰る。しかし、ふとしたことで喧嘩してリリーが島へ帰ろうとするシーンからビデオ放映した。48作目の渥美清はすでに肝臓ガン、しかも肺に転移していた。医者は「出演はもう不可能」と診断したのを押しての出演だった。そのために48作の寅さんは座っているシーンが多かった。渥美清は平成8年(1996)8月4日死去、68歳だった。
「男はつらいよ」がなぜ国民的人気映画になっていったのか。シリーズ全体を通じて「優しさ」で貫かれていることだった。少々柄は悪いが寅さんは周りの人々に対して優しさと気配りを見せる。殺人や傷害を描かなかった。欲情やセックスとも無縁で、寅さんのマドンナに寄せる純愛と献身の慕情は全48作の26年間、変わることがなかった。
渥美清の死の5年前に藤山寛美が肝硬変で亡くなっている。そして、笑いたいが笑わせる喜劇人がいなくなった。藤山寛美の死後、中座が売却され道頓堀も衰退した。宗右衛門町は風俗の街になってしまった。人間が住まいしていない地域は衰退する。天神橋筋は天満天神繁昌亭ができたこともあるが、職住一体の街で、繁栄している。