『 私の花見 』
最近の私はもう何処へも花見などには行かない。それでも一昨年までは
表通りに出る路地には大きな桜がかぶさって咲き誇り、もう結構これで
花見は十分だった。しかしだんだん切られてきて今年はこんな有様だ。
桜の木の病気なのか老衰なのか、それとも花ビラが散って困るとか、
枝が茂って日当たりがなんていう苦情に抵抗できなかったのかも知れない。
今に花見というのは個人のものは無くなって、公立公園やお寺などだけに
なってしまいそうだ。スーパーでワンカップを買っての帰り道に、無残に
満身創痍の木をしばし見入る。それでもきれいな花を少々つけているのが
何んともいじらしい。
さて、呆けの症状にはいろいろあるらしい。可愛いのもあれば憎たらしいのもあるのだろう。
出来れば、どうせなら可愛いやさしいボケになりたいものだ。
物忘れが始まるとその人の元々の人格が、自責的な人は落ち込み,他罰的な人は失くし物でも
人が盗ったと思うし、おおらかな人は何事にも気にしなくなってしまうと言われている。
そんな話の連想から昔のこんなエピソートを思い出した。
大学時代だったが九州出身の学友に聞いたことだ。九州の大学の高名な学者教授で、謹厳実直、
堅物、真面目を絵に描いたような方が居られて皆の尊敬を集めていたそうだ。
先生の前に出ると皆は緊張して難しい話もあまり耳に入らない位だったという。
その先生が急に倒れられて、だんだん意識も薄くなり、危篤状態になった。
教授方や弟子たちは、悲愴な思いで緊張して枕辺に集まったそうだ。
こうした偉い大先生のことだから、あの楽聖の様に「もっと光を」とか何か崇高な言葉を残される
かと皆で耳をそばだてていたら、先生は息を引き取る間際に、TVでも新聞でも我々の日常会話でも
禁句でもあるあの「0000」の4文字を何度もつぶやかれたという。その場にいた弟子たちの驚きと
おかしさはいかばかりであったろうか。何時もの謹厳な厳しいお顔で穏やかな最期だったという。
お宅を辞して駅前の酒場に集まった時には、顔を見合わせて思わず大笑いになったそうだ。
涙を流しながらも笑ったそうだ。
私など呆けたら(まだ呆けてないと思っているのは自分だけかもしれないが)、どんな正体を現して
しまうのだろう。あの人はどうだろう、この人はどうだろうなんて想像もしてしまう。
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