まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

いまだかつてない公開シンポジウム!

2016-11-15 22:48:31 | カント倫理学ってヘンですか?
日本カント協会の福島大会が終わったということは、

私の公開シンポジウム提題者の大役も終了したということです。

今年のシンポジウムのテーマは、「3.11後の『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」 でした。

いいテーマだとは思いますが、自分がこのテーマで何か語りたいとは思いません。

今回は1人開催校ですし、3年前にシンポジウムの提題者を務めたばかりでもありましたので、

当初固辞していたのですが、いつものように 「小野原さん、福島だから」 の一言で押し切られました。

今回のメンツは私のほかに、日本カント協会の会長であらせられる大橋容一郎氏、

盟友であり腐れ縁でもあるふなちょこと舟場保之氏です。

大橋さんは当初、司会だけのはずだったんですが、

もう1人の提題予定者がドタキャンになったための急遽ピンチヒッターです。

この3人でどんなシンポジウムが繰り広げられるんでしょうか?

私がシンポジウム準備どころではなかったということもあって、

ギリギリまでどんなふうにシンポジウムを運営するかという話し合いも行われなかったのですが、

直前の話し合い (メールでの) のなかで、ふなちょが提題者はパワポで発表しましょう、

1人の発表時間は20分にして討論の時間をたくさん取りましょうと提案してくれて、

準備が間に合いそうもないと思っていた私は、渡りに船とその提案に飛びつき、

学会のメインイベントたるシンポジウムの慣例とは大きく外れて、

提題者の発表時間が一般研究発表よりも短いという異例のシンポとなりました。

しかも、その後のやり取りのなかで、ふなちょは自分は15分で終えますと宣言し、

大橋さんはそのセリフが頭に残っていたのか、

シンポジウム冒頭の説明では 「提題者の発表時間は15分です」 と言ってしまい、

ただでさえ短めに作ったパワポをさらに端折りながら発表することになりました。

3年前のシンポのときは3人の提題者がみんな完全原稿を用意し、

25分の持ち時間を大幅に超えて (私の超過時間はほんの数分だったはずですが) 発表したため、

全体での討論の時間はあまり取れなかったのでした。

それに比べると、いや、これまでの40回のどのシンポジウムと比べても、

今回ほど提題者の発表時間が短かくて、

その分討論にゆっくり時間を使えたシンポはなかったろうと思います。

そう言えば、シンポジストが全員パワポで発表したというのも初めてのことじゃないかな?

法政哲学会に続いて日本カント協会でも歴史に名を残してしまったかもしれません。

さて、シンポジウムの提題発表は、プログラムの掲載順序とは変わって、

まずは大橋さんの 「カントの公共性とケア的公共性」 からスタートしました。



カントの公共性概念が自由とか自立 (自律) に定位するものであるのに対して、

この世界には必然的にケアを必要とする自立できない不自由な存在者が多数おり、

その人たちを含めた公共性を考えていかなくてはいけないのではないかという、

日本カント協会の会長にあるまじき (笑)、

カント倫理学を真っ向から否定するような刺激的な発表からのスタートです。

続く舟場さんの発表は、「手続きとしての公開性がもつポテンシャリティ」。



これも聞く前からふなちょ色満載で、

ある意味、カントの形式主義をそのまま受け継いでいるとも言えるし、

だけどカントの道徳主義を全否定しているとも言える超過激な内容です。

こんな2人が矢面に立ってくれたので、1人開催校の私はあまりボコボコにされずにすみました。

心優しいお2人に感謝です。

私の発表は、「〈3.11〉 後の 「公共」 とカント的公共性の闘い」。

〈3.11〉 後にあちこちで発表させられた内容を紹介したりしながら、

もしもカントがこの福島の状況を見たら何て言うかを考えて (Kant in Fukushima)、

「反原発の定言命法」 なんていう刺激的な議論も投げかけてみました。



そして、カント的公共性を担うものとして哲学カフェの活動などを紹介しつつ、

それが現在の国家的公共の前ではいかに無力で、敗戦を余儀なくされているかという、

きわめてペシミスティックな色彩の強い報告をさせていただきました。

3人の提題後はたっぷりと1時間半近くフロアと議論を交わすことができました。



大半の質問は大橋さんと舟場さんに集中し、

特に舟場さんにはカント的道徳主義からの批判が殺到して、質疑応答は相当盛り上がりました。

私に対してもけっこう原理的な質問というか批判が出ていましたが、

福島色を前面に押し出すことによって何とかそれをかわし、

あとは大橋さんや舟場さんに議論を委ねていました。

私の頭の中は、次の懇親会の幹事として、食べ物やお酒は足りるだろうかとか、

懇親会の司会として、誰に乾杯の音頭を頼もうかとか、ついつい考えてしまっていました。

とにかくフロアとのやりとりの時間が長かったので提題者 (私を除く) は疲れ切っていましたが、

フロアの皆さんにはそれなりに満足いただけたのではないでしょうか。

懇親会の場や、その後の二次会、三次会の場では、内容的にはいろいろと注文もついたものの、

これまでのシンポジウムと違うスタイルだったことに対しては、おおむね賛辞を賜ることができました。

月曜日に大学に登校してみると、シンポジウムの行われた土曜日の日付でメールが届いていました。

福大生として唯一一般参加してくれた学生さんからのメールです。

ご本人の許可を得て、下記に引用してみます。

(以下、引用)
突然のメールすみません。前期の倫理学概説を受講していた、行政政策学類2年の○○です。
今日のシンポジウムに参加して今まで感じていた疑問に対するヒントとなるような話がたくさん出て来て、自分の考えが深まりました。
大橋先生の話では、今まで「哲学をどう自分自身のものとして引き受けていくか」という疑問に対して、ケアという考えから、哲学を現実といかに結び付けるかということをさらに考えるポイントになりました。
また、舟場先生の話は、多くの論点が専門家の間ではあるのかもしれませんが、今日のテーマである「公共」について、哲学を政治 (学) などと結び付けるものだと感じました。カントの学会で道徳 (法則) が嫌いと言う舟場先生には、常に「それはどうなの?」と問う哲学の営みを感じました。小野原先生が前期の倫理学概説で、倫理学者は倫理を問う、学問は問うことを学ぶものだというような話をしていましたが、それが今日の舟場先生だったのかな、と思いました。
そして小野原先生の話は、これから始まる高校の新教科「公共」でどのような授業を作っていくか、という自分の問いに対する大きなヒントになりました。3.11以後、同じ共同体に属する人々が、社会が、分断「させられていく」という状況は、公共性について考えていくうえで、とても重要な問題だと思います。その状況に対して、市民性や、「公共性」の持つ複数の意味からもう一度作り直していくために「哲学」そして「哲学カフェ」があるのではないか、と思いました。
長々と個人的な思いを羅列してお疲れのところ申し訳なく思っています。人生初めてのシンポジウム、(学会)に参加して、興奮が抑えきれないので、今日の準備をしていただいた小野原先生に連絡させてもらいました。本当にありがとうございました。大橋先生、舟場先生そして小野原先生、学会の皆様に貴重な経験をさせてもらいました。ありがとうございます。
哲学・倫理学に興味があるものの、まったくの素人があのような専門的な場に参加して良いものか、ギリギリまで悩んでいたのですが、参加して本当に良かったと思っています。
ブログにコメントしようと思ったのですが、個人的な思いなので、メールで伝えさせてもらいました。また機会があれば、参加してみたいと思います。今日は本当にありがとうございました。
(引用終わり)

大学2年生が日本カント協会の公開シンポジウムに来てくれたこと自体驚きなのですが、

こんなにいろいろと感じ取ってくれたなんて、本当に望外の喜びです。

惜しむらくはこの学生さんがうちの学類生じゃないということですね。

まあでもこんな若者にここまで考えを深めてもらえたのですから、

今回のシンポジウムは大成功だったと言えるのではないでしょうか。

ご参加くださったてつカフェ常連の皆さまにもいずれ感想をお聞きしてみたいです。

わざわざ足をお運びくださり誠にありがとうございましたm(_ _)m。

私はもう燃え尽きました。

あれを学会誌のために原稿化するなんて絶対にムリです。

1人5役で頑張ったことに免じて、パワポのシートをそのまま掲載することで、

学会誌への投稿とさせていただけないでしょうか?

編集長の舟場先生、何とぞ御高配のほどよろしくお願い申し上げますm(_ _)m。

日本カント協会@福島大学かろうじて終了‼︎

2016-11-14 19:46:43 | カント倫理学ってヘンですか?
先週の土曜日は日本カント協会第41回学会が福島大学で開かれました。
すでにお伝えしましたように、2日前には公開シンポジウム提題の発表準備は終わり、
前日も雨のなかずぶ濡れになりながら何とか準備を終わらせるや
すぐさま街に繰り出して、前日入りしているカント協会会員の皆さまの接待をしたのでした。
一緒にシンポジストを務める大橋会長や舟場さんをはじめとする何名かを、
「会津郷土料理 楽」 にお連れして、福島の地のものと地酒を堪能していただきました。
そのあとは 「Cocktail BAR 和醸」 などディープな福島をご案内して午前様になりました。
その晩はものすごく疲れていて眠くてしかたないのに、
アルコールが切れた3時半ごろに目が覚めてしまってからはなかなか眠りにつくことができず、
極度の寝不足のまま朝を迎えてしまいました。
何とかリフレッシュしようと珍しく朝風呂を入れて入ったところ、
なんかこれでバッチリ目が覚めてしまって、その後は1日ミョーなハイテンションで過ごしました。
7時35分の電車で登校すると、いい天気のなか自作の案内表示に出迎えられました。



うん、我ながらなかなかいい出来じゃないか。
けっこう目立ってます。
あの雨のなか剥がれたりせずにちゃんとくっついててくれたんですね。
皆さん目にしてくれたようで、
多くの方から 「あんなところに張っちゃっていいの?」 と聞かれましたが、
これは福島市の土地を借りて福島大学が立てたものだそうで、
ちゃんと福島大学の施設課におうかがいを立てて張り出したものなんだからノープロブレムです。
福島大学の敷地に入るあたりに立てた中規模立て看もちゃんと倒れずに立ってくれていました。



うん、いいぞいいぞ。
目立ってるんじゃないかい。
キャンパス内にあちこち立てた案内表示もみんな無事でした。



会員の方々からは、駅からの道案内がひじょうにわかりやすくてよかったとの、
過分なお誉めの言葉を頂戴いたしました。
そして、M棟前の巨大立て看。
これも一夜の風雨に打ち克って最後まで屹立していてくれました。
おそらく私がこの人生のなかで作りだした最も大きな仕事 (work) ですので、
ニッコリ笑って一緒に記念撮影をしておきました。



最後のほうは風に吹かれてビニールが若干剥がれかかったりもしましたが、
倒壊とかせずにすんだのでそれで十分よしとしましょう。

それにしても1日で何役こなしたんだというくらい慌ただしい1日でした。
開催校として各会場で研究発表が滞りなく行われるようサポートするのが一番の務めですが、
開催校の会員が私ひとりしかいないなか、受付、会場、控室などすべてになかなか目が届きません。
空調もつければ暑いし止めれば寒いし、
なかなか発表をしたり聞いたりするのに最適な環境を提供することができません。
と思っていたら大トラブルが発生しました。
お昼の会員総会と最後の公開シンポジウムを開く予定だったL-1教室の空調が作動しないのです。
カギを差し込んで回せば動くからと言われていたとおりにしてもうんともすんとも言わないのです。
相当粘っていろいろ試してみましたがダメで、あとは何とか解決してくれる人はいないかと、
学内中に電話をかけまくりましたが、もとより土曜日なので事務の方は誰も出勤していません。
けっきょくL-1の空調は動かずじまいで、ギリギリの段階で (午前の一般研究発表が終わる直前)、
L-1で総会とシンポを行うのはあきらめ、午前中に使っていたM-2教室でやることにし、
そのための張り紙を急遽作成したり、発表が終了した部屋で告知したりなど対応に追われました。

そんな感じでお昼にはやるべきことが山ほどあったのですが、
私は委員の1人として委員会に出なければなりません。
しかも、お昼のあとの総会では私が開催校会員として議長を務めなければならないのです。
そのためには委員会の議論をきちんと聞いておく必要があります。
今回は、学会の存続に関わるものすごく大きな議題があったのですが、
会長と事務局のみごとな議題整理のおかげで、
委員会でも総会でも大もめにもめることはなくすみました。
先送りしただけでもありますので今から来年のことが思いやられますが、
まあ来年は私は開催校ではありませんのでよしとしましょう。
委員会は少し延びてしまいましたが、総会のほうは私がサクサクと議事を進め、
2時からの共同討議の前にちょっと空き時間を作れるほどでした。

共同討議が始まってからは少し息がつける予定でしたが、
ここからは懇親会幹事としての労働 (labor) が待ち受けていました。
学会ってあらかじめ開催通知を送ったときに、
学会と懇親会について参加・不参加を返信してもらうのですが、
まあこれをちゃんと送ってきてくれる人なんて全然いないんですよね (私もそうですしね)。
しかし、初めて開催校をやってみるとこれがどれだけ大事かというのが本当によくわかりました。
ちゃんと懇親会に参加しますとハガキやメールを返してくれたのは今回たった16人だけですよ。
16人で予約しちゃっていいんですか?
料理もお酒もほんのちょびっとになっちゃいますよ。
まあいくら福島開催とはいっても30人は懇親会に出てくれるんじゃなかろうかと予想し、
いちおう生協グリーンには30人の宴会メニューを頼んでおきました。
だけど、もしもこれが本当に16人しか来なかったら大赤字ですからね。
こんなに頑張った私が42,000円も自腹切んなきゃいけないんですか?
なんて思っていたところ、当日申し込みの人が殺到してくれて、
懇親会参加者は40人になってしまいました。
赤字にならずにすんだのはいいものの、
今度は料理が足りなくなってしまうかもしれません。
というわけで急遽大学会館に走り、グリーンと交渉して料理を増やしてもらいました。
当日にお願いしてできることは限られていますが、
生協さんも知恵を絞ってできることをすべてやってくださいました。
本当にありがたいことです。
それにしてもあとからあとから気の休まるヒマがありません。
そうこうしているうちにあっという間にシンポジウム開催時刻が近づいてきました。

公開シンポと言いながらあまり一般参加者が来てくださることを期待していなかったのですが、
時間が近づいてくると会員以外の方々がだんだん集まってきてくださいました。
その多くは、いつもてつカフェに参加してくださっている方々です。
「おお、みんなありがとう」 ということで私の 「仕事」 の前で記念撮影をしておきました。



てつカフェの常連さんはまだ他にもいらっしゃいましたし、
常連さんが連れてきてくださった方などもいて、私にとってはとても心強い応援団でした。
いよいよ公開シンポジウムの開始ですが、もうだいぶ長くなってしまったので、
その報告はまた稿を改めることにいたしましょう。
最後に、今日になって気がついた大ポカを記しておくことにします。
研究室の冷蔵庫にこんなものが入っていました。



オーマイガッ
これは共同討議とシンポジウムのときに司会者と提題者の方々にお出しするはずだった水です。
せっかく発表してくださる皆さんには冷たい水をご用意しようと、
ギリギリまで研究室の冷蔵庫で冷やすことにしておいたのです。
L-1教室で総会をやっているあいだに取りに行って、
共同討議を開催するM-1教室、M-2教室にセットしておくようにと、
バイトの学生たちには指示してありました。
そして、共同討議をやっているあいだに今度はL-1にシンポジウム用のセッティングをし、
そのときに水を並べるというふうに完璧な計画が練られていたのです。
この計画がL-1が使えなくなってしまったことによってすべて崩壊してしまいました。
私も学生たちも教室を変更したり、そのためにパソコンを入れ替えたりなどの労働に追われ、
すっかり水のことを忘れてしまっていました。
シンポジウムの最中にみんなから責められて喉が渇き、
隣のふなちょが自前のペットボトル飲料を持っているのを見て、
「いいなあ、ぼくも飲みたいなあ」 と思ったときも、この水のことは思い出しませんでした。
ま、しかたないでしょう。
いろいろありすぎましたからね。
提題者や司会者の皆さんも水がなかったことくらいは何とか許してくださるのではないでしょうか。
いろいろと行き届かない点はあり、けっして無事終了と言えるようなありさまではありませんが、
とにかく何とか終えることができたということを慶びたいと思います。
1人開催校、1人開催校と言い募ってきましたが、
もちろん1人の力ではやり遂げることはできませんでした。
力をお貸しくださった皆さまに心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
そしてお疲れさまでございました。
2度とこの手の学会がやってこないことを心より願っております。

カント学会準備完了?

2016-11-11 18:01:20 | カント倫理学ってヘンですか?
今日はゼミ生たちに手伝ってもらって、明日の学会の準備でした。

あいにくの雨の中、ずぶ濡れになりながらの作業でした。

そして、学生時代だって立て看の作成なんてしたことなかったのに、

この歳になって初めてのお使いですよ。

もうヘトヘトです。

まあでも、皆さまのご協力もあって何とかやり遂げることができました。

もう暗いからわかりにくいですが、これが大学構内に入るところの、

90×180cmくらいの中規模立て看。



続いてM棟前に立てられた、90×300cmくらいの巨大看板。



もう腰が痛いっす(T-T)。

なんせ素人による初めての作品ですので、明日までちゃんと立っていてくれるか心配です。

しかし、立て看はまだ針金で縛ってるからいいけど、

もっと心配なのは会場の方向を示す案内表示です。

雨の中、水で貼り付いてたから作業時点では大丈夫でしたが、

雨がやんで乾いてきてもちゃんとくっついててくれるかどうか。

こういうやつね。



まあ剥がれちゃってたとしてももうどうでもいいや。

ぼくは十分がんばった。

もう真っ白な灰になりました。

明日現れなくても探さないでください。


公開シンポジウム 「3.11後の 『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」

2016-11-10 06:06:37 | カント倫理学ってヘンですか?
また、大学に泊まっております。

もう日が替わって10日の木曜日になってしまいましたから、

日本カント協会第41回学会は2日後ということになります。

昨日の夜にやっとはかどりネコさんがやってきてくれて、

なんと一気にシンポジウム発表用のパワーポイントが完成してしまいましたっ

内容的にはちょっと荒すぎるというか薄すぎるというか、

けっして満足のいくような代物ではないのですが、

まあ今回はとても研究一筋に打ち込めるような環境ではありませんでしたので、

先日恐れていたように、シンポジウムに発表原稿が間に合わないとか、

1人開催校の人間が当日まさかの失踪をしてしまうといったことがなくてすみ、

もうそれだけで拍手喝采、万々歳だと言えるでしょう。

実を言うとパワーポイントが完成したのは日が替わる前のことで、

あと10分早ければ終電に間に合ったのにというくらいの時間でした。

まあ終電の時間を忘れてしまうくらい集中していたからこそ完成させることができたのでしょう。

その後は学会当日用の張り紙を作成したり、

バイト学生に渡す前日と当日の仕事のフローチャートを作成したりと、

はかどりネコさんのパワーはとどまるところを知りません。

明日、じゃなくてもう今日か、今日は2限に授業があるっていうのに、

こんなに一睡もしてなくて大丈夫なんでしょうか、私?


さて、今回私が提題者までやらされるシンポジウムのテーマは、

「3.11後の 『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」 となっております。

自分が提題者でさえなければぜひ聞いてみたくなるようなとても刺激的なテーマです。

今年のシンポジウムは公開シンポジウムということになっております。

学会員だけではなくて、一般市民の方にも公開されるのですね。

日本カント協会のシンポジウムはいつも公開されているわけではなくて、

例えば去年なんて学会創設40周年という記念すべき大会だったのに、

公開シンポではありせんでした。

牧野先生がシンポジストに呼ばれた一昨年も公開ではなく、

私が提題者を初めて務めた3年前は公開シンポジウムでした。

なんか私が公開されやすい体質なんですかね?

ぶっちゃけ体質だから?

まあ今年はテーマが公共性ですから、公開シンポジウムになるのもわからないではありません。

ドイツ語だと 「公共性」 と 「公開性」 は同じ言葉 (Öffentlichkeit) ですからね。

というわけでカントとは縁もゆかりもない皆さまにも公開されていますので、

興味がある方もない方もぜひご来場くださいませ。

公開シンポジウムは11月12日 (土) の15時40分から、

福島大学のL-1教室で開催されます。

本大会の予稿集はウェブ上で入手することができます (こちらをクリック!)。

せっかくですので私が書いた予稿もここに掲載しておきましょう。

これを読んで聞きに来たくなる方がいらっしゃるかどうかはまったく定かではありませんが、

ふなちょはふなちょ節が炸裂だし、

日本カント協会会長である大橋さんも 「ケア」 概念を打ち出してカントと真っ向対決モードだし、

私のにぎやかし発表はさておいても楽しいシンポジウムになるだろうこと請け合いです。

ぜひ老若男女お誘い合わせの上、初めての福島大学でのカント学会にお越しください


 〈3.11〉後の「公共」とカント的公共性の闘い

            小野原雅夫(福島大学)

 〈3.11〉という未曾有の複合災害は、日本に「公共」のインフレをもたらしたかのように見える。さまざまな立場の人々がさまざまな観点から公共性や公共的精神、公共への奉仕を強調するようになった。あれほどの被害を生み、5年経った今も未だに回避されない危機にさらされ続けているのであるから、私や個よりも公共が優先されるのは仕方のないことなのかもしれない。問題はその場合の公共が何を意味しているかである。齋藤純一によれば「公共性」にはofficial、common、openという3つの含意があると言う(『公共性』岩波書店、2000)。このうちとりわけ喧しいのは第1の含意、国家的公共への忠誠を要求する声である。このような危機の時代だからこそ公共性を重んじ、各人が果たすべき義務を遂行し、全体のために尽くせと言うのである。このような風潮のなかで権利の回復や生活の救済、人権の擁護を求める者は、あたかもフリーライダーであるかのように国家からも世論からも攻撃にさらされ続けている。
 実は〈3.11〉の発生するずっと以前から、国家的公共の押し付けは進んでいた。高橋哲哉はそれを「犠牲のシステム」と名付けたが(『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書、2012)、〈3.11〉以前はこの犠牲のシステムは「安全神話」等によって巧妙に隠蔽されていた。〈3.11〉によって現実に大量の犠牲者が発生した時、国家的公共は犠牲者を救済する方向にではなく、それまでの隠蔽をかなぐり捨ててあからさまに犠牲を強要する方向へと舵を切った。国家的公共とは一線を画すべき公共放送も、「政治的中立」を騙る言論統制に屈して大政翼賛体制の片棒を担ぐに至っている。
 このような状況を目の当たりにしてカントは何を思うであろうか。理性の私的使用と公的使用という対概念を用いて国家的公共をいち早く批判、相対化したのがカントであった。公共性の残り2つの含意に即して言うならば、みんなに共通(common)であるべき公共とは、その時々の多数派や支配的政権や単一の国家のことではなく、少数派も反対派も含んで普遍化可能な国民全体であり、さらには一国家を超えて普遍化可能な世界市民社会でなければならない。また、みんなに開かれて(open)あるべき公共は、隠蔽されたり情報操作されたりすることがあってはならず、すべてが公開の討論の場で批判に服さなければならない。しかしながら、このような世界市民的・公開的公共性は〈3.11〉後の「公共」の前で絶滅の危機に瀕している。その絶望的な闘いについて報告したい。

日本カント協会福島大会開催!

2016-11-08 09:20:52 | カント倫理学ってヘンですか?
人生で一番きつい1週間を送っております。

なんと今週の土曜日 (11月12日)、福島大学で日本カント協会第41回学会が開催されるのですっ!



東北哲学会であれば10年に1度、福島で開催しておりますが、

哲学・倫理学系の全国規模学会が福島大学で開かれるのはたぶんこれが初めてのことです。

しかも、私が福島大学に赴任したときは私のほかにもう2人哲学の先生がいらっしゃいましたが、

順次定年退職になられたあと、後任の先生を取ることができませんでした。

折からの公務員削減、人件費削減の嵐のなかで、どうしても必要というポストの補充が優先されて、

哲学の後任補充は後回しにされてしまったのです。

私としてはそのお2人のポストに関して、もう後任は取らないと決めてしまったわけではなく、

当面後任補充はできないけれどもその2つのポストはまだなくなってしまったわけではない、

ということを当局ならびに大学全体に確認してもらうというところまでで精一杯でした。

というわけで、2008年の3月末 (内田詔夫先生のご退職時) をもって、

福島大学は 「哲学のない大学」 になってしまっているのです。

思わずグチになってしまいましたが、

要するに現在、福島大学には哲学・倫理学系の専任教員は私しかいないのです。

そのたった1人の孤立無援状態で全国学会の開催準備をしなければならないのです。

しかも、うちには大学院博士課程もありませんから、研究者を目指している院生もいません。

私の研究室のゼミ生たちも研究者を目指しているわけではないので学会に入っていないどころか、

学会がどういうところか見たことも聞いたこともないのです。

当日は彼らに手伝ってもらうつもりですが、そこまでの準備はほぼ1人でやるしかありません。

そんな状態だというのに、先ほどのポスターをご覧になってお気づきいただけたでしょうか?

なんと私は公開シンポジウム 「3.11後の 『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」 において、

提題者も務めなければならないのです

シンポジウムというのはいわば学会のメインイベントです。

学会のなかの最もエライ先生方が選りすぐられて最新かつ最重要な話題を提供し、

それに対して全学会員が集中砲火を浴びせるという世にも恐ろしい儀式です。

この提題者に選ばれるというのはたいへん光栄なことではありますが、

それだけ荷が重く、激しいプレッシャーのかかる重責でもあります。

そんな大役をなんで初めて学会の開催校を引き受けるという一会員に押し付けるんですか?

しかも私はほんの3年前にシンポジウムの提題者を務めたばかりじゃないですか

あれで十分じゃなかったんですか?

福島大学での初めての学会をつつがなく成功させるだけじゃダメなんですか?

「テーマがテーマだから小野原さん頼むよ」 って、これって福島差別ではありませんか?

被災者イジメになっていませんか?

とまあ、先週に続いて昨晩も大学に泊まり徹夜してしまったので精神が崩壊しております。

はぁ、ダメだ…。

間に合わない…。

もしも今週の土曜日、学会の準備が何も整っていなくて、

ぼくが大学に姿を現さなかったとしても誰も探しに来ないでください。

学会当日に大学がもぬけの殻で、シンポジウムの提題者が無断欠席したりしたら、

学会の歴史に未来永劫名前が残るだろうな。

うん、それもいいかもしれない…。

はたして日本カント協会福島大会は予定通り開催されるのかっ

シンポジウム 「3.11後の 『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」 はちゃんと執り行われるのかっ

興味のある方はぜひ11月12日 (土)、福島大学にお越しくださいっ

Q.幸福であることはなぜ義務になりえないのですか?

2016-07-10 13:56:32 | カント倫理学ってヘンですか?
こんな質問をいただきました。

Q.「幸福であること」 はなぜ義務になりえないのか? 具体的な作品名は伏せるが、いわゆる 「ディストピアもの」 とされる作品を見てきて、この問いが頭に浮かんで以来、数年間自分なりの答えが出せないでいます。先生ならどう答えますか?

なんで具体的な作品名を伏せちゃうのかなあ?

それがわからないとどういう文脈でこの問いが生まれてきたのかがわからないじゃないですか。

どんな作品だったんでしょうね。

マンガとかアニメなんでしょうか?

ディストピアというのはユートピア (理想郷) の逆の社会のことですね。

どんな物語で、それが今回の質問にどう結びついたんでしょうか?

わからないので、こちらで勝手に答えられることを答えるしかありません。

質問者の意図にぴったりのお答えを出せるかどうかわかりませんが、

カント主義者としてごくごくカント的にお答えしていくことにしましょう。

カントは、幸福である (幸福になる) ことは義務ではない、と考えた哲学者の代表ですので、

なぜそれが義務でないのかに関してもひじょうにクリアに説明してくれています。

カントによれば、幸福であることが義務ではない理由は大きく言って2つあります。

まずはひとつめ。


A-1.幸福は、すべての人間がすでに現に有している目的であるがゆえに、
    わざわざそれを義務として強制的に課す必要がないので、
    幸福は義務にはなりえないのです。


例えば、「呼吸することは人間の義務である」 と言ったとしてもそれは無意味ですよね。

義務であろうがなかろうが人間は呼吸をしてしまうのですから。

同様に、食べたり飲んだりすること、寝ること、排泄することを義務とする必要もありません。

誰もが必ずしてしまうことを義務とすることはできないのです。

逆にこれらを禁ずることもできません。

呼吸しないこと、飲食しないこと…等々を義務にすることはできません。

そんなことは不可能ですから。

これらをもう少し限定して、1日に3回深呼吸することとか、1日に3度食事をすることとか、

肉は食べずに野菜だけを食べることとか、

ノンアルコールの飲み物だけを飲むこと (アルコール飲料は飲まないこと) とかであるならば、

それを義務とすることはできます (もちろん義務にしないこともできます)。

つまり、人が必ずすることを義務にするのは無意味であり、

人が必ずすることを禁ずる義務を課すことは不可能であって、

義務になりうるのは、するかしないかを選択可能であるような行為のみなのです。

そして、カントに言わせれば、幸福を目的とすること、幸福でありたいと願うことは、

すべての人間が不可避的にそれを求めざるをえない事柄であるために、

わざわざ義務として強制する必要がない、ということになるのです。

これがひとつめのバージョンの答えです。

続いてふたつめ。


A-2.どんなにすべての人間が幸福になりたいと思っているとしても、
    何が幸福かはひとりひとりまったく異なっているし、
    したがって幸福になるために具体的に何をすればいいかも明らかではなく、
    しかも幸福になれるかどうかは外的状況に依存する部分が多く、
    本人の行動や努力だけではコントロールできないので、
    幸福であること (幸福になること) は義務にはなりえないのです。


先ほどの答えは、ある種普遍性のある、誰もが納得する (可能性のある) 答えでしたが、

今度の答えはきわめてカントの幸福観に依拠した、カント固有の答え方となっています。

つまりカントは幸福というものを主観や経験によって大きく左右される不安定なものと考えており、

したがって、幸福になれと言われても、それをどうやって手に入れたらいいか、

そのために具体的にどんな行為をしたらいいかを客観的に定めることはできないと考えています。

そしてけっきょくのところ幸福は個人個人の主体的努力によって確実に得られるものではなく、

外的偶然によって結果的にもたらされるものだと考えています。

そのようなカントの幸福観に従うと、私たちは幸福になるために何かをすることはできないので、

何らかの私たちの行為と結びつくような幸福になる義務を考えることはできないし、

したがって、そういう義務を守ることもできない、ということになるのです。

例として適切かどうかよくわかりませんが、例えば 「カッコよくなれ」 と言われても、

何をカッコいいと言うのか人によって異なります。

見た目のカッコよさを考える人もいれば、言動のカッコよさを考える人もいたり、

性格や人間としてのカッコよさを思い浮かべるひともいるでしょう。

見た目のカッコよさに限定しても何をカッコいいとみなすかは千差万別でしょう。

そういう主観的な概念を用いてすべての人間に当てはまる義務を述べることはできません。

また 「金持ちになれ」 の場合、確実に金持ちになるにはどうしたらいいかがわからず、

どんなに頑張ったとしても最終的には外的偶然に左右される部分が多いでしょうし、

たとえ一時的に金持ちになれたとしても、いつまでも金持ちでいられるかどうかもわかりません。

そういう経験的・偶然的・結果論的概念も人間の義務を構成することはできないでしょう。

幸福というのは両者の性質を有するきわめて曖昧な概念なので、

「幸福になれ」 と言われても私たちは具体的に何かの義務を遂行することができないのです。

というわけで、カントの幸福観に従うならば、幸福であることは義務たりえないわけです。

カントの幸福観を離れて、もっと別の幸福観に立つならば、幸福になるための手段を特定し、

それを為せと義務として命ずることは可能になるかもしれません。

しかしその場合は、A-1で論じたことに戻っていくことになります。

幸福とは何かが全人類に共有されていて、しかも幸福になるための手段も明らかだとするならば、

その手段を選ばない人なんているでしょうか?

誰もがその手段を選択するに決まっていますよね。

だとすると 「幸福になれ」、「幸福になれるような行為を選択せよ」 という義務は、

誰に命じられるまでもなくみんなが実行してしまうのであって、

そのような義務は義務としては無意味ということになるのです。

以上が、幸福である (幸福になる) ことが義務になりえない理由です。

はたしてディストピアものの物語を読んで懐いて以来、数年間考え続けている問いに、

これでお答えしたことになるのか、もしもまだ追加の質問があるようでしたら、

もうちょっと質問の背景を説明した上で追加質問してみてください。

授業のワークシートでもいいですし、このブログのコメント欄でもいいですし、

直接メッセージやメールを送ってくださってもOKです。

さて、それではそろそろ選挙に行くことにしようかな。

みんな、ちゃんと投票に行きましたか?

幸・不幸は人それぞれかもしれませんが、棄権したら確実に不自由になりますよ。

Q.自ら立てた普遍的法則を破ることは自由ではないのか?

2016-06-17 23:49:07 | カント倫理学ってヘンですか?
「倫理学概説」 でいただいた自由に関する質問です。

正確には次のように聞かれていました。

「Q.カントの意志の自律において、「個人が自ら立法した普遍的法則に自ら従う」 とあるが、
   自ら立てた普遍的法則を破ることは自由ではないのか?
   過去の自分が立てた普遍的法則を破ることは、自らの自由を害するのか?」

みんなどうしても自由というと、一切の制限なしにありとあらゆることをしてもいいという

「無制限的自由」 のことしか考えられないようですね。

そんな自由は私たちが生きるこの社会のなかではまったく無意味で、

誰ひとり自由に生きることのできない 「万人の万人に対する戦争」 状態しか生み出せないと、

あれほど口を酸っぱくして言っているのになかなかわかってもらえないようです。

自分の感性 (欲求・欲望) を自分の理性でコントロールするという、

カントの 「自律としての自由」 というものはそうした無制限的自由から最も遠いものなのですが、

どうしてもそっちに引きつけて考えたくなってしまうのですね。

ま、結論から言うとこうなります。

A.カントの意志の自律の倫理学にしたがえば、
  自ら立てた普遍的法則を自ら破ることは自由でも何でもなく、
  むしろ感性 (欲求・欲望) への屈従として自らの自由を侵害するものとみなされます。

自らの感性 (欲求・欲望) をコントロールして理性的に振る舞うことがカントにとっての自由ですので、

自らの感性 (欲求・欲望) に支配されてしまっている状態はまったく自由ではありません。

ましてや自ら立てた普遍的法則を自ら破ってしまうなんて不自由の最たるものにほかなりません。

例えばアルコールやタバコや薬物に依存する中毒患者は、

本人は好きでそれを選んでいると思っているかもしれませんが、

はたしてそれは自由な選択なのでしょうか?

それは自らをコントロールできなくなっているという意味でむしろ不自由な状態と言えるでしょう。

さらに、人の物を盗むのは他人の自由を侵害することだからけっして泥棒はしないようにしようとか、

人の命を奪うことは他人の自由・人権を根底から破壊する行為だから人殺しは絶対にしない、

と自ら普遍的法則を立てて自らに課し、法で裁かれるからとか刑務所に投獄されるからとは関係なく、

そうしたことをしないように生きてきた人が、どういう事情か知りませんが突然その法則をなげうって、

急に盗みを働きだしたり、人殺しに手を染めてしまったりしたとき、

その人は自由になったと言えるのでしょうか?

カントはそうではなく、自ら立てた普遍的法則に自ら従っていたときこそが自由なのだと考えました。

私はカント主義者ですのでカントのこの議論にはある程度賛成しています。

ただし、この議論を採用するためには、自由概念を二重化 (または多重化) する必要が出てきます。

意志の自律としての自由概念だけだと、

行為の責任を問う (帰責の) ための根拠としての自由について語れなくなってしまうからです。

自律的自由概念の下では、

普遍的法則 (道徳法則) に従った善い行為をした人は自由であると言えますが、

それに反したり故意に破ったりした人は不自由な人ということになりますから、

その人の責任を問えなくなってしまうのです。

そういう問題点を残しているし、前回バーリンとの関連で論じたような危険性もありますが、

それでも私はこの意志の自律としての自由という考えは、

倫理学史上とても魅力的な自由論であると思っています。

カントの友情論 ・愛と尊敬のバランス

2015-01-30 12:35:16 | カント倫理学ってヘンですか?
看護学校の講義ではよく話している鉄板ネタなんですが、自分のブログを検索してみたところ、
どうやらまだここに書いたことはなかったらしいので、今さらながら書き留めておきたいと思います。
それはカントの友情論です。
友情というのは大事な倫理学的テーマのひとつですが、
カント自身は友情についてそれほど頻繁に語っているわけではありません。
ところが晩年の 『人倫の形而上学・徳論』 という、それこそカントの最後の著作に近い本のなかで、
しかもその結論部分で唐突に友情について語られているのです。
このカントの友情論は、「友情」 をそのまま 「恋愛」 や 「結婚」 に置き換えても通用する話なので、
結婚披露宴のスピーチで話したり、
男女問題で悩んでいる看護学生たちに話してあげたりしているわけです。

カントの友情論の核心部分はこうです。

「友情とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。」

「相互に等しい愛と尊敬」 というところがミソです。
そして、この愛と尊敬の話を説明するためにカントは自然界の力に譬えています。
愛は引力であり、尊敬は斥力 (せきりょく) である、とカントは言うのです。
愛が引力、引きつけ合う力だというのはわかりやすいでしょう。
斥力というのは、引力の反対で、遠ざけよう、離れていこうとする力です。
斥力の例としては遠心力のことを思い浮かべてもらえればいいでしょう。
カントは愛を引力に、尊敬を斥力に譬えたのです。

人間関係を自然界のもので譬えるというのは、洋の東西を問わずよく行われてきたことでした。
引力と斥力の比喩もよく用いられていました。
ただし、カント以前の哲学者たちはカントとは違ったふうに対応させていました。
愛が引力であるのは同じなのですが、斥力のほうは憎しみであると捉えられていたのです。
愛の力 (=引力) によって人々は引きつけ合い、
憎しみ (=斥力) によって離反していく、というふうに説明されていたのです。
この譬えはある種わかりやすいと言えるでしょう。
この場合、引力がプラスの力、斥力がマイナスの力と捉えられています。
しかしカントは斥力をたんなるマイナスの力、ただの悪いものとはみなさなかったのです。
むしろ人間関係を維持する上で重要な要素だと解釈したのでした。

カントのこの考え方の背景には当時明らかになりつつあった天体の運行理論があります。
例えば、太陽と地球の関係を考えてみましょう。
太陽と地球のあいだに引力しか働いていなかったらどうなるでしょうか。
互いに引きつけ合って衝突し、地球は太陽に呑み込まれてしまいます。
そうならずにすんでいるのは地球が太陽のまわりをグルグル回り遠心力が働いているからです。
しかし、引力がなくなって遠心力だけになってしまったらどうなるでしょうか。
今度は逆に地球は太陽系から放り出され、どんどん遠ざかっていってしまうことになります。
引力と遠心力 (=斥力) がちょうど釣り合っているからこそ、
地球は太陽と一定の距離を保ってそのまわりをずっと回り続けていられるのです。
このように引力と斥力はどちらが良い力、どちらが悪い力ということはなく、
両者のバランスが取れていることこそが何よりも重要なのです。

この知見をカントは人間関係にも当てはめました。
愛というのは引きつけ合う力、できるだけそばにいたい、一緒にいたいと思う力です。
しかも愛は、自分よりも小さいもの、弱いものに向けられがちです。
日本語で 「可愛い」 という言葉に 「愛」 という文字が使われているのが象徴的です。
愛らしいものはできるだけ自分の手元に置いて愛でてあげたいと思います。
それが引力としての愛です。
これは人間にとってとても大事な力ですし、特に一方が子どもの場合は不可欠なのですが、
しかし、これが行き過ぎるとパターナリズムに陥ってしまいます。
大人どうしの関係になると、一方的に弱い者扱いされ、庇護されっぱなしだと耐え難くなるでしょう。
また恋愛などでも、最初のうちはできるだけ一緒にいたいと思うでしょうが、
しばらく経ってくると自分ひとりの時間や他の友人たちと過ごす時間も大事になってくるでしょう。
いつまでも闇雲にただ2人だけで一緒にいるというのでは、その関係は長続きしないのです。

そこで重要になってくるのが相手に対する尊敬の感情です。
尊敬というのは斥力、つまり相手を遠ざけ、距離を置こうとする態度です。
そういう言い方をするとマイナスな感じに聞こえるかもしれませんが、
例えば 「敬遠」 という言葉があります。
この語もマイナスなイメージがあるかもしれませんが、
野球で言う 「敬遠」 とは、相手の打者の力を認め、
ここで勝負をするとひどい目にあってしまうかもしれないから、
(タイムリーヒットやホームランを打たれるかもしれない)
相手のことを敬って相手を遠ざけ、直接勝負することを避けて、
どうぞ一塁に行ってください、と故意にフォアボールを与えることです。
このように相手のことを尊敬していると、無闇に相手に近寄ってしまわず、
相手を尊重し自然と相手からほんの少し距離を取ることになるでしょう。
つまり、尊敬とは、相手を自分の思い通りになる人間として扱ったりせず、相手の人格を承認して敬い、
相手を尊重し、相手から進んで学ぼうとする態度であると言えるでしょう。

以前に私は、上下関係のあるなかで恋愛は生まれやすいという話を書きました。
その場合、片方が一方的に相手のことを尊敬し、他方は一方的に相手を愛らしく思っている、
という構図になります。
しかしながら、こういう関係は長続きしないということも書きました。
それはつまり、カントの言う 「相互に等しい愛と尊敬」 の関係になっていないからです。
片方が一方的に相手のことを尊敬し、他方は一方的に相手を愛らしく思うのではなく、
お互いがお互いを愛し慈しむと同時に、お互いに尊敬し合ってもいるという関係を築けてこそ、
2人の間は、太陽と地球のようにずっと一定の距離を保って長く安定的なものとなるのです。

カントはこのような関係を友情に限定して議論していましたが、
私はこれは人間関係全般に当てはまることだと思っています。
特に恋愛や結婚など男女関係にもみごとに適用可能でしょう。
このカントの友情論は看護学生たちにも好評で、彼氏との関係を考え直してみたいと思います、
といった感想をよくいただきます。
いかがだったでしょうか。
主語をいろいろと置き換えて、自分の身の回りの人間関係を問い直してみてください。

友情とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。

恋愛とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。

結婚とは、互いに異なる二つの人格が、相互に等しい愛と尊敬によって結ばれることである。

ドキュメンタリー映画 『アクト・オブ・キリング』

2014-09-09 15:48:29 | カント倫理学ってヘンですか?


ドキュメンタリー映画に詳しい方から薦められた映画 『アクト・オブ・キリング』 を見てきました。
話を聞いて面白そうと思う一方で、見たくない気持ちも相当ありました。
映画は1965年にインドネシアで起こったクーデターの際、
100万人以上を虐殺したとされる首謀者たちに、
自ら演じてそのときの再現フィルムを制作してもらおうというものです。
基本的に映画にはポジティブな楽しさかヒューマンドラマしか求めていない私としては、
ホラー映画や戦争映画ですらムリなのに、
虐殺事件のドキュメンタリーだなんてちょっと耐えられるかわかりませんでした。
しかし、見てよかったです。
さすがは数々の賞を受賞しているだけのことはあります。
最初のうちはとても辛かったし、ものすごく納得いかない思いが駆け巡りましたが、
最後まで見終わってみて、ホントに見てよかったと思うし、いろいろな意味で学びがありました。

まず何よりも驚いたのが、当時の首謀者、実行者たちというのが、
現在でもインドネシアの政治や社会の中枢で優雅に暮らしているのですね。
で、カメラの前に堂々と素顔を晒して当時の様子を嬉々として語るのです。
この時点でポカーンという感じです。
悪いことをしただとか捕まるかもしれないといった罪悪感は微塵もありません。
そんな心配をしなくてもいい社会がこの世に存在しているということにショックを受けました。
「人権」 とか 「法」 とかが一顧だにされない世界です。
現代日本とは似ても似つかぬ世界ですが、しかしよく考えてみると、
日本が今目指している先にあるのがこういう世界ではないかという気もして、
それも笑えない感じでしたし、空恐ろしい感じが否めませんでした。

ところが撮影が進んで行くにつれていろいろと綻びが生じてきます。
まずは撮影方針で内輪もめが生じます。
当初は史実通りに虐殺を再現しようという方向で撮影していました。
しかし、そうすると自分たちが一方的に残虐な殺戮を繰り返したことが浮き彫りになってしまいます。
当時、新聞社で 「共産党支持者は残虐だから排除すべし」 という情報操作を行っていた者たちは、
こんな映画を作ったら我々の言ったことがウソで残虐だったのは自分たちだったとバレてしまう、
と当時の宣伝に合致するような脚色を施すべきだと提案します。
しかし、今回の映画の一番の首謀者は歴史のありのままの姿を記録することに固執します。
(むしろその姿は今の日本の指導者たちやマスコミに見せてあげたいくらいでした。)
それはもちろん自分たちがしたことに対して罪悪感がまったくないからなのでしょう。
歴史を改竄しようとする者は何か引け目を感じているということですよね。
どっちもどっちですが、歴史の記録ということに関していろいろと考えさせられました。

そして、撮影終盤にさしかかってみんなに少しずつ変化が生じていきます。
映画のはじめの頃の嬉々としてあの事件を振り返る彼らとは別人のようになっていきます。
特にその一番の首謀者が被害者役を演ずる場面が一番の転機で、そこで大きな変化が訪れます。
私はここでカントの定言命法のことを思い出していました。
「同時に普遍的法則として妥当しうる格率にしたがって行為せよ」。
自分がしたいことをただするだけでなく、相手が自分に同じことをしたとしても許せるか?
誰もがみなあなたと同じことをしたとしても問題なくみんなが共存できるか?
そのような普遍化可能な行為のみが許されるのであって、
自分の行為が普遍化可能であるかどうかをまず問うてみよ。
カントの定言命法はそのように命ずるのですが、
その第1段階が相手の立場に立って考えるということです。
長い間そんなことをまったくしてこなかった彼らが、
誰に糾弾されたわけでも誰に告発されたわけでもないのに、
自分たちがやってきたことを演じ、その相手役も演じるうちに、
いつの間にか自然と相手の立場に立って考え始めていました。
映画のなかに描かれているのはまだその端緒にすぎず、
彼らの反省も後悔もまだ浅薄なものにすぎませんが、
しかし、彼らはこれまでとはまったく異なる次元に立っています。
私はこれを自己中心主義 (=利己主義) から脱した 「道徳的観点」 と呼んでいます。
ロールプレイングによって道徳的観点を獲得する可能性を示したという意味で、
この映画は私にとってひじょうに教育学的な意味をもつものでした。

とまあ前半は筋金入りの悪が今もなお実在していることを見せつけられて辛かったですが、
最後は (ほんのわずかですが) 善への希望が仄見えて救われました。
フォーラム福島で金曜日まで上映中です。
今日は19時00分の回がありますが、明日からは12時20分の回だけになります。
大学生はまだ夏休み中でしょうから、この機会にぜひ見てみてください。

カントバッシング、哲学バッシング?

2014-08-06 16:06:33 | カント倫理学ってヘンですか?
佐世保で高校生による同級生殺害事件が起こったり、

昨日には理研の笹井副センター長が自殺をしたりと大きな事件が続いたので、

すでに世間から忘れられているのなら今さら蒸し返したくはないのですが、

いちおうカント研究者として触れておかなくてはならないでしょう。

なんかもうすっかり旧聞に属してしまった感のある倉敷の女児監禁事件ですが、

逮捕直後、マスコミは容疑者の自宅に美少女アニメのポスターが貼ってあったことを報道しました。

これに対してネットでは 「事件に関係ないだろう」 とかオタクバッシングだとか、

さらには警察の失態をごまかすための意図的リークだったとの言説が飛び交いました。


女児監禁事件、部屋に美少女アニメポスターと報道 「事件と関係ないだろ」 とネットで反発の声

岡山小5女児監禁事件でマスコミが 「オタク差別」 を繰り返すのはなぜか

岡山県の小5女児監禁事件、「壁一面に少女アニメポスター」 という報道は警察のミス隠しだった! 母親から事前情報があったのに対策せず!


ほぉと思いながら第三者的にこの議論の行く末を見守っていたところ、

対岸の火事とは言っていられないような報道が飛び込んできました。


カント愛した元院生、存在感薄く 岡山・女児監禁容疑者
朝日新聞デジタル 2014年7月26日10時30分

監禁容疑者、20年前まで有能な独哲学研究者
YOMIURI ONLINE 2014年08月05日 09時28分

【小5女児監禁】 哲学と倫理学を愛した容疑者、転落のきっかけは ”哲学部では就職できない” という現実


うーん、そう来ましたか。

カントを愛し、哲学・倫理学を愛していたんですか。

一気に親近感わいちゃったなあ。

ぼくは外語大から法政の大学院へ進んだので全然面識はありませんでしたが、

年は近いので、ちょっと間違えば先輩-後輩の仲になっていてもおかしくありませんでした。

たまたまあるカント哲学を愛し美少女アニメを愛好していた人がこういう犯罪を犯したからといって、

カント哲学研究者や美少女アニメ愛好家がみんながみんな犯罪者予備軍というわけではありません。

哲学・論理学の世界ではそのような推論は 「単称汎化の過ち」 として、

太古の昔から誤謬推理の一種であることが明らかにされています。

要するに、ある集団に属するある個体がある性質を持っていたりある行動をしたときに、

それをある個体の問題に留めておかずに集団全部に当てはめてしまうという過ちです。

まさおさまがある日、短パンとTシャツで大学に来ていたからといって、

福大の教員はみんなラフな恰好で登校する無礼者ばかりだ、などと決めつけてはいけません。

漢字を読めない総理大臣がごくまれにいたとしても、

日本の総理大臣はみんな日本語を知らない、ということになるわけではありません。

こういう例ならみんなすんなり理解できると思うんですが、

犯罪がらみになるとなんかみんなごくフツーの推論ができなくなっちゃうんだよなあ。

格闘ゲームばかりやっている子はみんな暴力的になるだとか、

アダルトビデオの愛好家は性犯罪に走りやすいだとか…。

人間はわかりやすい答えを求めてしまいがちな動物ですが、

この世の出来事にそんなに単純な解なんてないということを肝に銘じておきましょう。

いろいろ複合的な事象が複雑に絡まり合って出来事は生成していきます。

単一の原因に帰してしまうような簡単な図式はたいがい間違っていますので、

大学生の皆さんはそうした論調に軽々しく乗っけられないよう気をつけてください。

道徳的行為をしたことによって得られる幸福感

2014-06-14 11:19:37 | カント倫理学ってヘンですか?
前回、道徳主義と快楽主義 (=幸福主義) の対立について述べ、
道徳的によく生きるとはどういうことか説明しました。
道徳主義と快楽主義 (=幸福主義) の対立は根深く、相互に激しく批判し合っています。
快楽主義 (=幸福主義) の側から道徳主義に対してよく向けられる批判は次のようなものです。
道徳的によく生きると言っても、道徳的によいことをするのが幸せなのではないか、
道徳的によいことをしたことによって幸福感を得ているのではないか、
だとしたらけっきょくそれは幸福を求めていることになり、
道徳主義は幸福主義に還元できるのではないか、という批判です。
幸福の感じ方が人それぞれだとするならば、肉体的な快楽を幸せと感じる人もいれば、
読書や内面的成長など精神的な快楽を幸せと感じる人もいるし、
それと同様に、道徳的行為を行うことによって幸せを感じる人だって大勢いるでしょう。
みんなの幸せのために自己を犠牲にするという極端な場合ですら、
そのことに喜びを感じて進んで行うという人も中にはいるかもしれません。
そうやって考えるとけっきょくは道徳主義も快楽主義、幸福主義の一種ということになるはずだ、
と快楽主義 (幸福主義) の人々は主張するのです。
みんなのワークシートでも、道徳的によく生きることが幸福だっていうのはまったく理解できない、
と書いてくれた人が大半でしたが、
その一方で、周りの人を幸せにしてあげることに幸せを感じるとか、
ボランティアはされる方よりもする方が幸せを感じるのではないかと書いてくれた人もいました。
道徳的によく生きることと気持ちよく生きること、あなたの幸福観はどちらですかという質問に対し、
けっこう多くの人が道徳的によく生きるの方を選んでくれていました。

道徳的によい行為をする人もけっきょくは幸福を感じ求めているのではないかという批判に対して、
これに反論するための手立てが一次的幸福と二次的幸福の区別でした。
カントも道徳的行為を行うことによって幸福を感じることがありうると認めています。
それをカントは 「道徳的満足感」 と呼んでいます。
そのような幸福は二次的な幸福です。
道徳的行為をしたことによって二次的幸福が結果として得られることはありうる、
しかし、道徳的満足感を得ることをはじめから目的としてはならない、とカントは主張します。
つまり、結果として感じることはかまわないが、はじめからそれを求めてはならない、と言うのです。
行為を行う前にあらかじめ目的として立てられる幸福が一次的幸福です。
どのような種類の幸福であれ、一次的幸福を最初から目指してはいけません。
道徳的満足感を得ることを目的として道徳的行為を行うというのは、前回例に出したような、
あとで謝礼がもらえるかもとか有名になれるかもといった動機で人助けを行うのと同じく、
けっきょくは自愛の傾向性にもとづく行為にほかならず、
そもそもそれは道徳的行為ではないということになるのです。

このような区別を設けることによってカントは道徳主義を純粋に保つように努力しました。
けっきょくよい行いをすることに変わりはないのだから、
ここまで厳格に区別する必要がないという考え方もあるでしょう。
カントはよく 「リゴリズム (厳格主義)」 であると批判されます。
私もその通りだと思います。
しかし、私自身はカントのような純粋な道徳主義を貫くことはできませんが、
これくらい厳格な立場はあって然るべきだと思います。
道徳的なよい生き方のなかに (どんな種類であれ) 幸福を求めることを容認してしまうと、
道徳的なよさはすべてあっという間に崩壊してしまうような気がするのです。
結果として得られる幸福とはじめから目的として求める幸福ははっきりと区別しておく、
これは倫理学として大事な考え方ではないかと思います。

道徳的によく生きるとは?

2014-06-12 18:20:22 | カント倫理学ってヘンですか?
「倫理学概説」 では前回から幸福とは何かについて考え始めました。
その冒頭で、快楽主義と道徳主義 (=人格主義) の区別について話しました。
幸福論は基本、快楽主義の立場になりますから、
道徳主義のほうについてはあまり詳しく説明しませんでした。
そのためか、「道徳的によく生きる」 ってどういうことかイメージがつかめませんでした、
という感想ないし質問をいくつか頂戴しました。
倫理学の歴史のなかで道徳主義、人格主義を代表するのはイマヌエル・カントですので、
カント倫理学のさわりの部分をご紹介することによって質問にお答えすることにしましょう。

カントは完全に快楽主義の立場を否定します。
もちろん、カントも人間には快楽や自己利益や幸福への欲求があることを認めています。
いや、他の思想家よりもはるかにカントは、
人間の幸福への根深い欲求のことを理解していたと言えるでしょう。
そうしたものが人間のなかにあることを重々認めた上で、
カントはそうしたものを基盤として倫理学を構築してはならないと考えたのです。

そこでカントは自らの倫理学の中核に 「善意志」 を据えました。
何か行為の結果として得られる快楽や利益や幸福などをまったく度外視して、
ただひたすら善のために善を為す純粋な意志が善意志です。
善のために善を為すってちょっと何言ってんのかわからないかもしれません。
カントによれば、義務に対する尊敬の念にもとづいて義務を遵守すること、
道徳法則が命じていることであるがゆえに道徳法則に従うこと、
これが 「意志の自律」 であり、そうした意志が善意志であって、
道徳的によく生きるというのはそういうことです。
例えば、困っている他者を助けてあげることが義務であり道徳法則の命令であるとすると、
自分の利益や幸福を度外視してその義務を遂行しなくてはいけないわけですから、
場合によっては自らを犠牲にしてでも他者を救うという、
利他主義的な行為も必要となってくるかもしれません。

自己犠牲までいかなかったとしても、
カントは動機に不純なものが紛れ込んでくることを徹底的に排しました。
困っている他者を助けてあげるという義務を実行する際に、
ただひたすらあの人を助けてあげようということだけを動機としているのならいいのですが、
人間というのは弱い動物ですので、ほんのちらっと、助けてあげたら感謝されるかもとか、
何か見返りがあるかもとか、みんなから賞賛されるかもといった邪念が頭をかすめるかもしれません。
そうしたものがほんの少しでも混ざってしまうと、
いくら人助けをしたとしてもそれはもはや善意志と呼ぶことはできません。
道徳的によく生きたことにはならないのです。

さらに言えば、助ける相手が家族だったり友人だったりした場合に、
自分の快楽や利益なんてまったく関係なく、純粋な愛情や友情から助けてあげる、
なんていう場合もあるかもしれません。
自己犠牲という行為はそうしたケースで発動されやすいといえるでしょう。
しかし、カントはそうした行為にも道徳的価値はないと言います。
愛情や友情といった感情にもとづく行為は、
カントの言う、義務に対する尊敬の念にもとづく行為には認定されないのです。
ここまで来ると本当に 「ちょっと何言ってんのかわからない」(by サンドウィッチマン)
感じがしてくるかもしれません。
道徳主義や人格主義がすべてがすべてここまで厳格であるとは限りませんが、
カントの言う 「道徳的によく生きる」 というのはこれぐらい厳密なものなのです。
(カント倫理学については以下の記事も読んでみてください。
 「Q.心がキレイな人ってどんな人?」「カント倫理学の魅力と限界」

このように道徳主義の考え方は快楽主義や幸福主義とは完全に対立しています。
したがって倫理学の歴史のなかではこの両者は相容れることなく、
大きな二大潮流を作り続けてきました。
現代の語感で言うならば、カントのような 「道徳的によく生きる」 のことを、
「幸福」 と呼べないというのは理解していただけたでしょう。
「幸福」 の語源は 「よく生きること (オイダイモニア)」 であり、
ソクラテスが言っていたオイダイモニアもおそらく「道徳的によく生きること」 だったと思われますが、
その後の倫理学の歴史の中で 「道徳的によく生きること」 と 「幸福」 はまったくの別物となりました。
とりあえず、この基本的区別のことは頭に入れておいてください。
これを踏まえた上で補足としてお話しした、一次的幸福と二次的幸福という厄介な問題が出てきます。
これについても質問を頂戴しておりますので、また説明することにいたしましょう。

永遠平和への道・資料

2014-02-18 18:24:22 | カント倫理学ってヘンですか?
アーレントに続き、カントについても、
「社会思想入門」 のときに配ったレジュメ資料をアップしてきましたが、
その最終便となる第2回目講義のときの資料です。
この資料は 「戦争と平和の倫理学」 のカントの回に配っている資料とほとんど同じです。
「戦争と平和の倫理学」 では抵抗権の話にはまったく触れずに、
戦争と平和の話だけに限定して話しているのです。
わかりやすいという意味では 「社会思想入門」 のように2回分話したほうが、
いろんな意味でわかりやすくなるとは思うのですが、
「戦争と平和の倫理学」 は盛りだくさんな内容なのでどうしてもカントについて1回話すのが限度です。
自分の一番大好きな話を禁欲的に我慢している自分ってエライなあ。
ところで今回のこの資料、「戦争と平和の倫理学」 で配っているものとほとんど同じなのですが、
ほんのわずかに、でもものすごく根本的なところがちょっとだけ違っていたりします。
持っている人は比べてみてください。



         カント②「永遠平和への道」 資料

1.『永遠平和のために』目次

第1章「この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む」
 第1条項「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。」
 第2条項「独立しているいかなる国家 (小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない) も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。」
 第3条項「常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」
 第4条項「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。」
 第5条項「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。」
 第6条項「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる。」

第2章「この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む」
 第1確定条項「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。」
 第2確定条項「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。」
 第3確定条項「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されねばならない。」

第1補説「永遠平和の保証について」
第2補説「永遠平和のための秘密条項」
付論1「永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について」
付論2「公法の超越論的概念による政治と道徳の一致について」

2.『永遠平和のために』『道徳形而上学』より

①戦争と平和
「戦争とは、自然状態において (この状態においては、法的な効力をそなえた判決を下す裁判所がない)、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段にすぎない。またこの状態においては、両国のいずれも不正の敵と宣告されることはありえないし (なぜなら、それはすでに裁判官による判決を前提とするから)、どちらの側が正義であるかを決定するのは、戦争の結果でしかない。」(『永遠平和のために』)

「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。なぜなら、その場合には、それは実はたんなる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである。平和とは一切の敵対行為が終わることで、永遠のという形容詞を平和につけるのは、かえって疑念を起こさせる語の重複とも言える。」(同上)

②永遠平和の実現手段としての国際連盟
「理性は道徳的に立法する最高権力の座から、紛争解決の手続きとしての戦争を断固として処罰し、これに対して平和の状態を直接の義務とするが、それでもこの平和状態は、諸国民の間の契約がなければ、樹立されることも、また保障されることもないのである。それゆえ、平和連合とでも名づけることができる特殊な連合が存在しなければならない。」(同上)

「国際法は自由な諸国家の連盟の上に基礎づけられるべきである。…これは国際連盟と言われるものであろうが、しかしながらこの連盟は決して諸民族合一国家であってはならないであろう。」(同上)

「このような平和を維持するための若干の諸国家の統一は、常設的な諸国家の会議と名づけられうるものであって、近隣の諸国家はいずれもこれに加入することを許されている。…だが会議というは、ここでは、ただ各種の諸国家の、任意の、いつでも解消しうる会合のことだけを意味しているのであって、(アメリカの諸州の統合のように) 国家的体制に基づき、それゆえ解消しえないような結合のことを意味しているのではない。―こういう会議によってのみ、諸民族の係争を民事的な仕方で、いわば訴訟によって解決し、(未開人たちの仕方にならって) 野蛮な仕方で、すなわち戦争によって解決したりしないという、諸民族の間に設定されるべき公法の理念は、実現されるのである。」(『道徳形而上学・法論』)

③世界帝国による平和実現の危険性
「国際法の理念は、それぞれ独立して隣り合う多くの国家が分離していることを前提とする。こうした状態は、(諸国家の連合的合一が、敵対行為の勃発を予防する、ということがない場合には) それ自体としてはすでに戦争状態であるが、しかしそれにもかかわらず、まさにこうした状態の方が、理性の理念によるかぎり、他を制圧して世界帝国を築こうとする一強大国によって諸国家が溶解してしまうよりも、ましなのである。どの国家 (あるいはその元首) も専制政治を望んでおり、こうした仕方でできれば全世界を支配し、それによって持続する平和状態に移行しようと望んでいる。しかし法は統治範囲が拡がるとともにますます重みを失い、魂のない専制政治は、善の萌芽を根だやしにしたあげく、最後には無政府状態に陥るのである。」(『永遠平和のために』)

④理念としての永遠平和
「個々の人間たちの間の自然状態と同様、諸民族の間の自然状態は、そこから脱出がなされて、ある法則的状態が結成されなくてはならない。それ以前には、諸民族の一切の権利ならびに一切の外的な所有権はまだ単に暫定的であり、したがってそれは、(一民族を国家たらしめる統一と類比的に) ただ一個の普遍的な諸国家の統一においてのみ、決定的に有効となって、ある真実の平和状態を現出することができるのである。だが、こういう諸民族合一国家が広い地域にわたってあまりにも拡大されると、その統治は、したがってまた各成員の保護もついには不可能とならざるをえず、かくしてそこに所属する一群の諸社団は再び戦争状態を惹起するのであるから、永遠平和はもちろん一個の実現不可能な理念である。だが、そういう目標をめざしていく政治的諸原則、すなわち、そういう目標への連続的な接近に役立つような諸国家の諸結合を形成するための政治的諸原則は、実現不可能ではなくて、そういう接近が人間たちと諸国家との義務に基づいて、したがってまたそれらの権利に基づいて設定された課題である限り、たしかに実現可能である。」(『道徳形而上学・法論』)
 
「普遍的にして永続的なかたちで平和を樹立することは、単なる理性の限界内における法論の一部分を成すのみならず、その全究極目的を成す、と言われうる。というのは、平和状態のみが、多数の相互に隣り合った人間たちにおいて、各自の所有権が諸法則の支配のもとに保証され、したがって彼らが相共に一つの憲政組織のうちにある状態だからである。…もしその実現が革命的に、ある飛躍によって、すなわち、これまで存立してきた不完全な憲政組織の暴力的な転覆によってではなく、…確固たる諸原則に基づく漸次的改革によって企てられ遂行されるならば、この理念は連続的接近というかたちで、政治的最高善へと、すなわち永遠平和へと導きうるのである。」(同上)

3.参考文献
〈カントの翻訳書〉
 ・『永遠平和のために』(宇都宮芳明訳、岩波文庫)
 ・理想社版『カント全集 第13巻』(『永遠平和のために』所収)
 ・岩波書店版『カント全集 第14巻』(同上)
 ・理想社版『カント全集 第11巻』(『道徳形而上学』=『人倫の形而上学』所収)
 ・岩波書店版『カント全集 第11巻』(同上)
〈カント社会思想の解説書・研究書〉
 ・日本カント協会『カントと現代』(晃洋書房)
 ・シセラ・ボク『戦争と平和 カント、クラウゼヴィッツと現代』(法政大学出版会)

永遠平和への道 ―国際連合の理念と現実―

2014-02-14 09:42:42 | カント倫理学ってヘンですか?
「社会思想入門」 という授業で2回にわたってカントの話をしたときの2回目のレジュメです。
先日、1回目のレジュメ資料をアップしましたので、まだ未読の方はそちらを先にどうぞ。
カントのどこが好きって、理想の捉え方のところが一番好きなので、
前回の理想と現実の二元論の話、
そして今回の、現実と理想が食い違っているときにどうしたらいいかという話、
このへんの話は自分で書いた文章にもかかわらず、読んでるとテンション上がりまくるなあ。
この熱い思いが読者の皆さんにも伝わってくれるといいのですが…。


 カント②「永遠平和への道 ―国際連合の理念と現実―」

Ⅰ.カントの抵抗のしかた

 抵抗権・革命権を認めず、暴力的抵抗行為を否定して、平和的手段による漸次的改革を唱えたカントですが、果たしてそのような生ぬるい方法で現実を変えていくことができるのでしょうか。カントは「言論の自由こそは国民の権利を擁護する唯一の守護者である」(「理論と実践」) と主張したわけですが、その言論の自由すらをも許さずに、検閲などの方法によって思想統制しようとしてくる絶対主義権力が存在した場合に、カントは為す術を失ってしまうのでしょうか。
 じっさいカントは1794年に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世から直々に、「宗教・神学に関する著述や講義を今後一切行ってはならない」 という勅令を下されてしまいました。これは平穏だったカントの人生の中でも最も劇的な、そして最も危険な事件でした。
 当時のプロイセン政府はルター教会と結びついていました。フランス革命の勃発前から、フランスでの啓蒙主義運動の高まりに対抗するように検閲令や宗教勅令を発して、ドイツでの啓蒙思想の流行を抑えようと必死になっていました。これに対してカントは、理性宗教の立場を唱えて、特定の宗派 (啓示という歴史的事実に依拠する経験的宗教) を越えた普遍的な宗教的連帯の必要性を訴えていたのです。カント自身は啓示宗教を否定したり批判したつもりはなかったのですが、政府はこれを危険な思想とみなし、カントには厳しい禁令が下されました。当時の人々はカントにさらに重い処分 (禁書、解雇、投獄等) が下されるのではないかと心配していたようです。
 このような弾圧に直面してカントはどう対処したのでしょうか。カントはこのような状況下でも言論の力 (説得による理性的・平和的改革) を信じたのでした。翌1795年、カントは 『永遠平和のために』 を出版します。これが禁令後はじめてのカントの公的発言になったわけですが、その中身は徹頭徹尾、政治に対する哲学的提言 (理想主義的立場からする現実政治の批判) となっています。当時の政府が宗教的発言を禁じたのは、それが政治批判へとつながりかねないからでした。しかしカントはまさにその点を逆手にとって、自分が禁じられたのは宗教・神学に関する発言である、だからそれに関しては口をつぐみ、自分は法や政治を論じるのだ、と自己の行為を正当化しつつ、堂々と政治哲学書の刊行に及んだのです。たしかにこれは理屈上は合法的な行為でしたが、これを政府がどのように受け止めるかは明々白々でした。つまりこの出版行為そのものが、政府の蛮行に対するカントの抵抗だったと言えるのです。以下、『永遠平和のために』 の内容を見ていくことにしましょう。

Ⅱ.政治的最高善としての永遠平和

 カントは理想的国家のあり方ばかりでなく、国際的な平和秩序の構築についても思索をめぐらせました。この点がホッブズやロックと決定的に異なる点です。カントは 「いかなる戦争もあるべからず」 と断言した、世界史の中でも稀有な思想家の一人です。カントにとっては 「永遠平和」 が政治的な究極目的です。『永遠平和のために』 はそのような理想主義的な観点から政治のあるべき姿を論じた書物でした。
 この本の本論部分は2つの章から成っており、第1章は 「永遠平和のための予備条項」、第2章は 「永遠平和のための確定条項」 と題されていますが、これは当時の国際条約の形式を踏襲しています。第1章では、国家が行う個々の行為についてカントは注文をつけています。1つ1つ見てみると、そのどれもが、プロイセン政府のみならず、当時の諸国家が日常茶飯事のように行っていた政策を念頭に置いていることがわかります。裏切りや暴力的干渉をなくし、常備軍も撤廃していくべきだという主張は、当時だけでなく今日においてもひじょうにラディカルな考えだと言えるでしょう。かくして、たんなる一時的な休戦状態ではなく、まさに国同士の 「一切の敵対行為が終わる」 状態を作り出していくこと、それがカントの言う 「永遠平和」 という理想なのです。

Ⅲ.国際連盟の提唱

 ところでこの永遠平和という理想的な状態をどうやって実現したらよいのでしょうか。永遠平和を達成するためにカントが考えた方策が 「国際連盟」 の創設でした。第2章の第2条項でこの問題が詳しく論じられています。カント以前の平和思想においては、いずれかの国家やいずれかの宗教が全世界を平定し、国境や宗教の違いをなくすことによって平和な世界が樹立される、と考えられていました。カントはこのような世界帝国による強権的な上からの平和樹立という考え方に反対します。諸国家にはそれぞれの国民としてのまとまりがあり、その自由 (自律) が尊重されねばなりません。対等な国家どうしが永遠平和の樹立のために一堂に会して、様々な利害の対立を話し合いによって解決しようと努力する場、それがカントの言う国際連盟です。これをカントは 「平和会議」 とも言い換えています。永遠平和は、このような強制力をもたない会議の場でのねばり強い話し合いによって築かれていかなくてはならないのです。

Ⅳ.永遠平和への道のり

 このように強制力を持たない国際連盟を通じて永遠平和を樹立するなんて、とても無理な話のように聞こえるでしょう。カント自身もこれによってただちに永遠平和が実現されうるとは考えていません。しかしこれ以外の、力 (すなわち戦争) による方法では、原理的に平和を招来することはできないのですから、人類には他の選択肢はありえないのです。暴力の連鎖から脱却するためには、平和的手段によって平和を達成しようとしていく以外ないのです。とすると人間はこの課題を正面から引き受けて、どんなに遠い道のりであろうとも、どんな障害が現れようとも、ひるむことなくこの理念に向けて一歩一歩、歩みを進めて行くしかないでしょう。このようなユートピア実現に向けての無限に続く努力の過程、これがカントの歴史の考え方です。理想的な社会があっさり実現されるなどということはありえません。現実は常に何らかの欠陥を含んでいます。頭の中の純粋な理念に照らして現実を少しずつ改善していく長い長いプロセス、それが人類の歴史なのです。

カントとフランス革命・資料

2014-02-12 18:37:19 | カント倫理学ってヘンですか?
コロッと忘れていました。
昔 「社会思想入門」 という授業のために作った、
カントについてのレジュメと資料をアップしようと思っていたんでした。
昨年12月に2回分のうちの第1回目のレジュメをアップしました。
そのレジュメと合わせてご覧いただくべき資料をアップいたします。
第2回目のレジュメと資料も近いうちにアップしたいと思います。


        カント①「カントとフランス革命」 資料

1.カント略年譜

1724年 東プロイセン、ケーニヒスベルクにて生誕
1740年                         フリードリヒⅡ世(大王)即位
1776年                         アメリカ独立宣言
1781年 『純粋理性批判』
1784年 「世界市民的見地における一般史の理念」
1785年 『道徳形而上学基礎づけ』
1786年                         フリードリヒⅡ世死去
                             フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世即位
1788年 『実践理性批判』              宗教勅令、検閲令の発布
1789年                         フランス革命
1790年 『判断力批判』
1791年                         フランス人権宣言
1793年 『たんなる理性の限界内における宗教』    ルイ16世斬首
    「理論と実践」
1794年 カントの宗教に関する講述を禁ずる勅令発布
1795年 『永遠平和のために』                   普・仏 バーゼルの和約
1797年 『道徳形而上学』(第一部「法論」、第二部「徳論」)  フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世死去
                                     フリードリヒ・ヴィルヘルムⅢ世即位
1798年 『諸学部の争い』
1804年 死去


2.「理論と実践」目次

論文原題「理論においては正しくとも実践には役に立たないという俗説について」

 第1章「道徳一般における理論と実践との関係について (ガルヴェ教授の異議に答える)」
 第2章「国家法における理論と実践との関係について (ホッブズに対する反論)」
第3章「国際法における理論と実践との関係
      普遍的博愛の見地 ―換言すれば世界市民的見地において考察された
                 (モーゼス・メンデルスゾーンに対する反論)」


3.カント「理論と実践」『諸学部の争い』より

①理念としての社会契約
「今やここに根源的契約がある。この契約によってのみ市民的体制が、したがって首尾一貫した法的体制が人々の間に基礎づけられ、公共体が創設されうるのである。この契約 (原始契約あるいは社会契約と名づけられるもの) は、ある民族における各人の特殊な私的意志が、(たんに法的立法を目的として)一つの公的な共通意志として合一することである。しかしこうした契約は決して事実として前提される必要はない (じっさい事実としてはありえない)。もしそうだとしたら、ある民族がかつて実際にそのような契約を取り結び、これに関する確実な報告や証書を口頭なり文書なりで後世に残していなければならず、こうしたことがまず第一に歴史によってあらかじめ証明されていなくてはならないだろう。そのような歴史的事実ではなくて、根源的契約はたんなる理性の理念にほかならない。しかしたんなる理念であるとはいっても、この理念は疑いえぬ (実践的) 実在性をもっているのである。この実在性によって、おのおのの立法者は、彼が立法する法を全国民の合一した意志から発現しえたかのように立法するよう義務づけられるのであり、またおのおのの臣民は、彼が市民であろうと欲するかぎり、あたかも彼も全国民の合一した意志にともに同意したかのようにみなされるのである。」(「理論と実践」)

②抵抗権・革命権の否認
「最上の立法的権力に対する反抗、臣民の不満を行動によって示すように煽る扇動、暴動に化するような蜂起、これらはすべて公共体において厳罰に処せられるべき最高の犯罪である。なぜならそれは公共体の基礎を破壊するからである。」(同上)

「憲法が万一の場合に備えて、すべての特殊な法 (Recht) を発生せしめる根源であるところの体制を (たとえ契約が侵害されたと仮定しても)、覆すような権利 (Recht) を含んでいるというようなことは明らかな矛盾である。…国家におけるいかなる権利も、ひそかな留保―例えば陰謀―によって国民に知らしめずにおくことはできない、まして国民が憲法に属する権利として主張するようなものについてはなおさらである。およそ憲法の含むいっさいの権利は、すべて公的意志から発生したものと考えられねばならないからである。それだからもし仮に憲法が反乱を許容するとしたら、その憲法は反乱の権利を公的に言明せねばならないだろうし、またその反乱の権利をどんな仕方で行使するかを公的に言明せねばならないだろう。」(同上)

③フランス革命の評価
「われわれが同時代において目撃してきた才気煥発なる国民の革命は、成功しようが失敗に終わろうが、また思慮ある人ならば、これをもう一度企ててみたら成功させられるかもしれないという望みがあったとしても、これほどの犠牲を払った実験を繰り返すことを決議することはできないというほどに、この革命は悲惨と残虐行為に満ちたものであったけれども、―それでもなお私は言う、この革命は、すべての観察者 (自身はこの演劇に巻き込まれていなかった人々) の心のうちにほとんど熱狂にも近い、希望に満ちた共感をもたらしたのだ、と。しかもこの革命に対する共感を口にすることさえ危険を伴うほどであったにもかからず、人々はこうした共感を感じたのである。したがってこの共感の原因は、人類に内在する道徳的素質にほかなるまい。」(『諸学部の争い』)


4.参考文献
〈カントの翻訳書〉
 ・『啓蒙とは何か』(篠田英雄訳、岩波文庫)
 ・理想社版『カント全集 第13巻』(小倉志祥訳)
 ・岩波書店版『カント全集 第14巻』(福田喜一郎他訳)
    いずれも 「理論と実践」 他、政治・歴史・宗教関係の論文を所収
〈カント社会思想の解説書・研究書〉
 ・カント研究会編『現代カント研究5 社会哲学の領野』(晃洋書房)
 ・ハンス・ライス『カントの政治思想』(樽井正義訳、芸立出版)
 ・ハンナ・アーレント『カント政治哲学の講義』(浜田義文監訳、法政大学出版会)
 ・牧野英二『カントを読む ポストモダニズム以降の批判哲学』(岩波書店)
 ・坂部恵他編『カント事典』(弘文堂)