先日、橘高校の管弦楽部のコンサートに行って参りました。
高校のオケのコンサートなんて今まで聴きに行ったことは一度もありませんでしたが、
例の加藤先生が始めた研究会で知り合った国語のF先生が指揮をするというので、
ちょっと見てみたいなあと興味を引かれたというわけです。
彼は市民オーケストラの活動にも参加していて、そこではビオラを弾いているらしいのですが、
嘘か本当か、あんまり練習せずに本番を迎えてしまったときは、
弾いてるふりだけして実際には音を出さないようにしている (いわゆるエア・ビオラ)
なんていう話をしてくれていましたので、
お、なんだなんだ今度はエア・タクトかあ?とか、
いやそもそも指揮というのはエアなんだとか、
仲間内でそんなやりとりをしていたところでしたので、
暑気払いの酒の肴にぐらいの軽い気持ちで 「見に行く」 ことにしたわけです。
(「聴きに行く」 ではなく。)
ところが、行ってみて圧倒されました。
まあ高校のオケってどこもこんな感じなのかもしれませんが、とにかく大編成です。
ステージ上に100名くらいいます。
これだけの大勢の楽団員が、なかには初心者もいるにもかかわらず、ちゃんと合奏しちゃうのです。
それはそれはみごとなものでした。
そしてF先生も指揮の大役をみごとに果たしていました。
チャイコフスキーの交響曲第4番 (の特に第1楽章) なんて、
素人が聴いていてもとっても振りにくそう曲でしたが、
全身を使って100人の大オーケストラを引っ張っていっていました。
これは本当に見て聴くだけの価値のあるコンサートだったなあと思いました。
ところでその指揮をしたF先生ですが、
パンフレットに生徒たちへのメッセージを寄せていました。
彼は国語の先生なのですが、なぜか私とは公民科学習研究会で出会ってしまったわけで、
彼の文章を読んでいただくと、
彼がそういう所へ顔を出すのも納得していただけるのではないでしょうか。
とてもいい文章でしたので、ご本人の承諾も得て転載させていただきます。
共にあること
深瀬 幸一
哲学の業界には、他者問題という難問があるそうです。近代の哲学は、「自己」 (自我) から出発しましたが、自己にとって他者 (他我) とは何かを問う者は長い間あらわれなかったそうです。少し前には 「自分探し」 などという言葉が流行しました。まるで本当の自分がどこかに隠れてでもいるかのようです。しかしそうでしょうか?
わたくしという現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失われ)
これは宮沢賢治 『春と修羅』 の最初の詩ですが、「わたし」 とは 「風景やみんなといっしょに」 ある存在としてとらえられています。「風景やみんな」 がいなければ 「わたし」 は存在しないのです。現代の哲学者は、そのような 「わたし」 を 「相互主観性」 とか 「間主観性」 等といい、そのような人間の存在を 「共同存在」(レーヴィット) と呼びます。
音楽とは、そのような人間の存在のあり方を端的に示す営みだと言えます。「私」 は、「他者」 とともにあり、「私」 を根底的に規定するのは 「他者」 である。そのように一人一人の奏者は多くの他の奏者とともに存在しているのです。
とても高度な内容です。
はたして高校生はこの文章の意味を理解できるのでしょうか。
少なくとも私の授業を取っている福大生には、
ここに書いてあるようなレベルの話をしてあげたことはありませんが、
橘高校の生徒さんたちは、特に管弦楽部の皆さんは毎日こういう話を聞かされているのでしょうか。
こんな哲学をもっている先生に管弦楽の指導をしてもらったり、
国語を教えてもらえるというのは素晴らしいことですね。
私たちはこの世にただひとりで存在しているのではなく、
他のたくさんの同胞との関係性のなかで存在しているということ、
音楽というのはそういうことを五感を通じて実感できる 「活動」 なのかもしれません。
高校のオケのコンサートなんて今まで聴きに行ったことは一度もありませんでしたが、
例の加藤先生が始めた研究会で知り合った国語のF先生が指揮をするというので、
ちょっと見てみたいなあと興味を引かれたというわけです。
彼は市民オーケストラの活動にも参加していて、そこではビオラを弾いているらしいのですが、
嘘か本当か、あんまり練習せずに本番を迎えてしまったときは、
弾いてるふりだけして実際には音を出さないようにしている (いわゆるエア・ビオラ)
なんていう話をしてくれていましたので、
お、なんだなんだ今度はエア・タクトかあ?とか、
いやそもそも指揮というのはエアなんだとか、
仲間内でそんなやりとりをしていたところでしたので、
暑気払いの酒の肴にぐらいの軽い気持ちで 「見に行く」 ことにしたわけです。
(「聴きに行く」 ではなく。)
ところが、行ってみて圧倒されました。
まあ高校のオケってどこもこんな感じなのかもしれませんが、とにかく大編成です。
ステージ上に100名くらいいます。
これだけの大勢の楽団員が、なかには初心者もいるにもかかわらず、ちゃんと合奏しちゃうのです。
それはそれはみごとなものでした。
そしてF先生も指揮の大役をみごとに果たしていました。
チャイコフスキーの交響曲第4番 (の特に第1楽章) なんて、
素人が聴いていてもとっても振りにくそう曲でしたが、
全身を使って100人の大オーケストラを引っ張っていっていました。
これは本当に見て聴くだけの価値のあるコンサートだったなあと思いました。
ところでその指揮をしたF先生ですが、
パンフレットに生徒たちへのメッセージを寄せていました。
彼は国語の先生なのですが、なぜか私とは公民科学習研究会で出会ってしまったわけで、
彼の文章を読んでいただくと、
彼がそういう所へ顔を出すのも納得していただけるのではないでしょうか。
とてもいい文章でしたので、ご本人の承諾も得て転載させていただきます。
共にあること
深瀬 幸一
哲学の業界には、他者問題という難問があるそうです。近代の哲学は、「自己」 (自我) から出発しましたが、自己にとって他者 (他我) とは何かを問う者は長い間あらわれなかったそうです。少し前には 「自分探し」 などという言葉が流行しました。まるで本当の自分がどこかに隠れてでもいるかのようです。しかしそうでしょうか?
わたくしという現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失われ)
これは宮沢賢治 『春と修羅』 の最初の詩ですが、「わたし」 とは 「風景やみんなといっしょに」 ある存在としてとらえられています。「風景やみんな」 がいなければ 「わたし」 は存在しないのです。現代の哲学者は、そのような 「わたし」 を 「相互主観性」 とか 「間主観性」 等といい、そのような人間の存在を 「共同存在」(レーヴィット) と呼びます。
音楽とは、そのような人間の存在のあり方を端的に示す営みだと言えます。「私」 は、「他者」 とともにあり、「私」 を根底的に規定するのは 「他者」 である。そのように一人一人の奏者は多くの他の奏者とともに存在しているのです。
とても高度な内容です。
はたして高校生はこの文章の意味を理解できるのでしょうか。
少なくとも私の授業を取っている福大生には、
ここに書いてあるようなレベルの話をしてあげたことはありませんが、
橘高校の生徒さんたちは、特に管弦楽部の皆さんは毎日こういう話を聞かされているのでしょうか。
こんな哲学をもっている先生に管弦楽の指導をしてもらったり、
国語を教えてもらえるというのは素晴らしいことですね。
私たちはこの世にただひとりで存在しているのではなく、
他のたくさんの同胞との関係性のなかで存在しているということ、
音楽というのはそういうことを五感を通じて実感できる 「活動」 なのかもしれません。