「Q.どこからが哲学なんですか?」 に対する第2バージョンのお答えです。
授業のなかでも代表質問に対してお答えしたとおり、
哲学のはじまり、出発点は 「何にでも疑問を持ち自分で考えること」 でした。
これは人類にとって偉大な一歩だったと言えるでしょう。
この一歩を踏み出さなければ、私たちは未だに神話の世界に住んでいたかもしれません。
そして、この一歩は学問の始まりの第一歩でもありました。
ギリシア語の 「フィロソフィア」 は日本語では 「哲学」 と訳されていますが、
この訳語は 「フィロソフィア」 の元の意味である 「知への愛」 の感じを、
うまく表現できていないのではないかと私は思っています。
そのことは 「Q.哲学って何ですか?」 のところに少し書いておきました。
「哲」 という漢字がどういう意味であるかを知っている人は少ないので、
「哲学」 と言われてなんらかのイメージを持てる人はまずいませんし、
それは 「知への愛」 のことなんだよと説明したとしても、
日本人には 「知=疑」 であるという図式もなかなか理解してもらえないのです。
そこで私は 「フィロソフィア」 を 「学問」 と訳すべきだったんじゃないかと提唱しています。
「学問」 とは 「問いを学ぶ」、「問うことを学ぶ」 と書きます。
二字熟語のなかに 「疑問」 を表す言葉が入っているのは、
とてもうまく 「フィロソフィア (知への愛)」 の感じを表現できているように思うのです。
しかも、実際に長い歴史のなかで、フィロソフィアはずっとすべての学問のことを意味していました。
その点については昨年、NHK文化センターの 「哲学って何だろう?」 という講座で話しましたので、
まずはその第2回講座のブログを読んでみてください。
そこでは19世紀の初めくらいまではフィロソフィアはすべての学問を意味していた、
ということを書いておきました。
ですから、フィロソフィアを 「哲学」 なんて呼ばないで 「学問」 と訳せばよかったんだ、
という私の主張はあながち間違ってはいないだろうと思うのです。
しかし、19世紀以降、フィロソフィアはちょっと変わっていきます。
というか、フィロソフィアが変わったというよりも、学問が変わっていってしまったのです。
そのあたりのことは第3回講座のブログに書きました。
そのなかの 「3.科学の発展史」 のところを読んでみてください。
学問がたんに、与えられた答えを疑い自分で新たな答えを考え出す試みであったあいだは、
みんながそれぞれ自説を述べあうばかりで何が正しいという決着はなかなかつかずにいたのですが、
観察や実験に基づいて 「実証する」 という手法が採り入れられることによって、
学問はものすごい勢いで進歩し始めることになりました。
「実証化」 によってみんなが納得できる正しい答えがどんどん獲得されていきましたので、
学問は一気に高度化し、それによって 「分業化」 もせざるをえなくなりました。
実証化によって分業化した学問が 「科学」 です。
16世紀頃から、さまざまな科学が哲学のなかから独立していきました。
それでも18世紀くらいまではあいかわらず、
科学も含めてすべての学問は哲学と呼ばれていたのですが、
19世紀に入ると科学は哲学から完全に独立して、
「実証科学」 という名の、哲学とは別の学問群を形成することになりました。
したがって、19世紀以降の哲学は、
科学がどんどん分離独立化してしまったあとに残された学問のことだけを指すようになります。
つまり、実証化できなかった学問が哲学として残ったのです。
実証化できないというのは、観察や実験によっては答えが出せないということです。
実証化は学問の発展にとっては不可欠の要素でしたが、
しかし、すべての問題が観察や実験によって答えが出せるとは限らないのです。
そうでない問題はたくさんあります。
例えば、死んだらどうなるのかということは経験によって知ることはできません。
神様がいるかどうかということも観察によって答えが出るようなことではありません。
よい生き方、悪い生き方はどういうものかというのも、
アンケート調査して答えがわかるというような性質の問題ではありません。
このように実証的には答えの出せない問題はまだまだいくらでも残っているのです。
それを扱っているのが現在の哲学なわけです。
実証的には答えが出せないので、あいかわらずみんながそれぞれ自説を述べあうばかりで、
何が正しいという決着を出せずにいるため、
他の諸科学に比べて、何やってるのかよくわからないという印象を与えてしまっていますが、
しかし人間は実証的に答えが出せない問題もやはり考えていかなくてはならないのです。
というわけで、第2バージョンの答えとして次のように答えておきたいと思います。
A-2.実証的に答えの出せない問題について深く考え続けていくのが哲学です。
ホントはもうちょっと付け加えたいところですが、
今日のところはこれくらいにしておきましょう。
授業のなかでも代表質問に対してお答えしたとおり、
哲学のはじまり、出発点は 「何にでも疑問を持ち自分で考えること」 でした。
これは人類にとって偉大な一歩だったと言えるでしょう。
この一歩を踏み出さなければ、私たちは未だに神話の世界に住んでいたかもしれません。
そして、この一歩は学問の始まりの第一歩でもありました。
ギリシア語の 「フィロソフィア」 は日本語では 「哲学」 と訳されていますが、
この訳語は 「フィロソフィア」 の元の意味である 「知への愛」 の感じを、
うまく表現できていないのではないかと私は思っています。
そのことは 「Q.哲学って何ですか?」 のところに少し書いておきました。
「哲」 という漢字がどういう意味であるかを知っている人は少ないので、
「哲学」 と言われてなんらかのイメージを持てる人はまずいませんし、
それは 「知への愛」 のことなんだよと説明したとしても、
日本人には 「知=疑」 であるという図式もなかなか理解してもらえないのです。
そこで私は 「フィロソフィア」 を 「学問」 と訳すべきだったんじゃないかと提唱しています。
「学問」 とは 「問いを学ぶ」、「問うことを学ぶ」 と書きます。
二字熟語のなかに 「疑問」 を表す言葉が入っているのは、
とてもうまく 「フィロソフィア (知への愛)」 の感じを表現できているように思うのです。
しかも、実際に長い歴史のなかで、フィロソフィアはずっとすべての学問のことを意味していました。
その点については昨年、NHK文化センターの 「哲学って何だろう?」 という講座で話しましたので、
まずはその第2回講座のブログを読んでみてください。
そこでは19世紀の初めくらいまではフィロソフィアはすべての学問を意味していた、
ということを書いておきました。
ですから、フィロソフィアを 「哲学」 なんて呼ばないで 「学問」 と訳せばよかったんだ、
という私の主張はあながち間違ってはいないだろうと思うのです。
しかし、19世紀以降、フィロソフィアはちょっと変わっていきます。
というか、フィロソフィアが変わったというよりも、学問が変わっていってしまったのです。
そのあたりのことは第3回講座のブログに書きました。
そのなかの 「3.科学の発展史」 のところを読んでみてください。
学問がたんに、与えられた答えを疑い自分で新たな答えを考え出す試みであったあいだは、
みんながそれぞれ自説を述べあうばかりで何が正しいという決着はなかなかつかずにいたのですが、
観察や実験に基づいて 「実証する」 という手法が採り入れられることによって、
学問はものすごい勢いで進歩し始めることになりました。
「実証化」 によってみんなが納得できる正しい答えがどんどん獲得されていきましたので、
学問は一気に高度化し、それによって 「分業化」 もせざるをえなくなりました。
実証化によって分業化した学問が 「科学」 です。
16世紀頃から、さまざまな科学が哲学のなかから独立していきました。
それでも18世紀くらいまではあいかわらず、
科学も含めてすべての学問は哲学と呼ばれていたのですが、
19世紀に入ると科学は哲学から完全に独立して、
「実証科学」 という名の、哲学とは別の学問群を形成することになりました。
したがって、19世紀以降の哲学は、
科学がどんどん分離独立化してしまったあとに残された学問のことだけを指すようになります。
つまり、実証化できなかった学問が哲学として残ったのです。
実証化できないというのは、観察や実験によっては答えが出せないということです。
実証化は学問の発展にとっては不可欠の要素でしたが、
しかし、すべての問題が観察や実験によって答えが出せるとは限らないのです。
そうでない問題はたくさんあります。
例えば、死んだらどうなるのかということは経験によって知ることはできません。
神様がいるかどうかということも観察によって答えが出るようなことではありません。
よい生き方、悪い生き方はどういうものかというのも、
アンケート調査して答えがわかるというような性質の問題ではありません。
このように実証的には答えの出せない問題はまだまだいくらでも残っているのです。
それを扱っているのが現在の哲学なわけです。
実証的には答えが出せないので、あいかわらずみんながそれぞれ自説を述べあうばかりで、
何が正しいという決着を出せずにいるため、
他の諸科学に比べて、何やってるのかよくわからないという印象を与えてしまっていますが、
しかし人間は実証的に答えが出せない問題もやはり考えていかなくてはならないのです。
というわけで、第2バージョンの答えとして次のように答えておきたいと思います。
A-2.実証的に答えの出せない問題について深く考え続けていくのが哲学です。
ホントはもうちょっと付け加えたいところですが、
今日のところはこれくらいにしておきましょう。