まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.哲学と倫理学ってどう違うんですか?

2008-10-26 23:03:15 | 哲学・倫理学ファック
この問いにきちんと答えるためには,
「哲学って何ですか?」 という根源的な問いに答えないといけないんですが,
それはまだ先に取っておくことにして,
ごくごく簡単にお答えすることにしましょう。

A-1.倫理学は哲学の中の1部門です。

現在では 「哲学」 には,広い意味での使い方と狭い意味での使い方があります。
広い意味での哲学は大きく2つに分けることができます。
理論哲学と実践哲学です。
読んで字のごとく理論哲学は理論的なことを扱います。
例えば,人間はどうやって真理を認識することができるのかとか,
世界はどうなっているのかとか,
時間とは何か,
神や霊魂は存在するのか,などなどです。
これに対して実践哲学は人間の行為 (実践) に関わることを扱います。
人間は何を為すべきか,
人はどう生きるべきか,
人間が従うべき規範 (ルールや法則) は何か,
善いこと悪いこととは何か,
正しいこと不正なこととは何か,
何が許され,何が許されないのか,
それらを判別する基準は何か,
そもそもなぜ善いことをしなければならないのか,
などなどについて考えていくのが実践哲学です。

このように広い意味での哲学には理論哲学と実践哲学が含まれているわけです。
そして狭い意味での哲学というのはこのうちの理論哲学のほうを指しています。
これに対して実践哲学のほうが倫理学になります。
(実践哲学=倫理学というのはちょっと怪しいところもありますが,
 とりあえずはそう理解しておいてください。)
つまり,図にするとこんな感じです。

                理論哲学 = (狭い意味での) 哲学 
              / 
(広い意味での) 哲学
              \
                実践哲学 = 倫理学

このように整理してみると,先ほどの答え (A-1) は
倫理学と (広い意味での) 哲学との関係を述べていたということがわかりますね。
(狭い意味での) 哲学と倫理学との違いを述べるならばこうなるでしょう。

A-2.実証科学になれなかった学問の中で,
    理論的な問題を扱うのが哲学で,実践的な問題を扱うのが倫理学です。

日本の大学の学科名称も広い意味の場合と狭い意味の場合があります。
東京大学や東北大学などは文学部の中に哲学科と倫理学科があります。
(東大の場合はさらに美学科も別に分かれています)
しかし多くの大学では倫理学科は存在せず,哲学科しかないという場合が一般的です。
私の個人的な意見を言いますと,
東大のように哲学科と倫理学科を分けてしまうのはいかがなものかという気がします。
というのも,実際の研究者たちを見てみると,
理論的なことだけを扱っている人や,実践的なことだけを扱っている人というのはまれで,
だいたい皆さん理論的なことと実践的なことどちらも研究しているからです。
だから 「あなたは哲学科に進みますか倫理学科に進みますか」 と選択を迫るのではなく,
みんな一緒に哲学科に進んでおいて,その中で理論的なことも実践的なことも学ぶ,
というのが理に適ってもいるし,現状に合ってもいるように思うのです。

以上のことを踏まえると,
倫理学だけを研究している倫理学者というのは意外と少ない,
ということがわかってもらえるでしょうか。
倫理学者と呼ばれている人たちは,実は 「倫理学もやってる哲学者」 なのです。
では私はというと,出身は哲学専攻ですが,
これまで書いたものを振り返ってみると,理論的な問題を扱った論文は皆無で,
ことごとく実践的な事柄ばかり問題にしてきていますので,
真の意味で倫理学者 (倫理学研究者) であると言えるでしょう。
これは仲間内ではあまり自慢できることではないのですが,
希少価値があるということは何にせよいいことだと思うので,
これからもこの路線でがんばっていきたいと思います。

「9.11」後の世界と倫理

2008-10-24 09:37:25 | グローバル・エシックス
シセラ・ボクの『共通価値 文明の衝突を超えて』に続き、共著書が出版されました。
『グローバル・エシックスを考える 「9.11」後の世界と倫理』です。

「9.11」が勃発し、すぐに対アフガニスタン報復戦争の話が持ち上がってきた頃、
私の親しい研究者たちが中心となって、この状況に対して何か物申さねばということになり、
2001年の12月から「〈9.11〉を多角的に考える哲学フォーラム」というのを始めました。
1年に3~4回のペースで2007年までに22回のフォーラムを開催しています。
残念ながら、できるだけ多くの一般市民の参加を得てという
所期の目的は達成できませんでしたが、
しかし、さまざまな専門分野の研究者を集めて継続的に討議できたことは、
大きな成果だったと思います。
途中の4年間は科学研究費補助金を得ることができ、
それぞれの分野の第一人者をお呼びして話をうかがうこともできましたし、
2005年には『中間報告書』、2007年には『成果報告書』も出すことができました。

今回の著書はこの『成果報告書』が出版社の目に止まり、
単行本として刊行されることになったものです。
上記のリンク先で本書の詳しい目次も見ることができますので、
ご覧頂いて興味ある論考がありましたらぜひお買い求めいただければと思います。

私は本書に「カントとテロリズム」と題する論文を寄稿しました。
テロリズムという語は現代では、いわゆるテロリストが行うテロ行為を指しますが、
もともとカントの時代においては、
フランス革命時に革命政府が行った恐怖政治のことを意味していました。
そこで私はカントの議論を援用しつつ、
現代的な意味でのテロ活動と、国家の側が行う恐怖政治と(報復戦争も含む)、
そのいずれをも禁止できるような論理を探っていこうとしたのです。
恐怖と不信によって人を支配することは可能かもしれませんが、
それで人類の未来を築いていくことはできないでしょう。
理性と相互信頼に基づく関係を構築する以外に、
私たちが生き残っていく術はないだろうと思うのです。

そのためにも「グローバル・エシックス」すなわち、地球規模の倫理というものを、
人類は案出し共有していかなければなりません。
私の論考も、また本書に収められた他の論考も、
グローバル・エシックスを具体的に提示することには至っていません。
地球規模の倫理を考えていく上であらかじめ押さえておくべきことを指摘し、
確認したという段階であろうと思います。
その意味ではこの研究はやっとスタートラインに立ったところであり、
今後も継続していかなくてはならないのだろうと思います。
たとえば、シセラ・ボクが唱えた「共通価値」は、
地球規模の倫理を提起する試みのひとつだったと言えるでしょう。
すでにどのような試みがなされているかについては、
第1章の寺田論文が簡単に紹介していますが、しかしボクの試みも含めて、
人類に共有されたグローバル・エシックスなどまだどこにも存在しません。
かすかな可能性を信じて、グローバル・エシックス探求の道を歩んでいきたいと思います。

科学という文化についてQ&A

2008-10-23 14:37:07 | 人間文化論
「科学技術と環境の倫理学」という授業の中で出された質問に対してお答えします。
いずれはこのブログではなく、受講生専用の場所に移すつもりですが、
準備が整うまでしばらくはこちらでご覧ください。

Q.宗教→学問→科学という流れが印象に残りましたが、今も宗教を信じている人もいるし、そういう人も科学を否定しているわけでもないと思うのですが?
A.たしかに歴史の流れとして「宗教→学問→科学」という説明の仕方をしてしまったので、誤解を与えてしまったかもしれません。学問が登場したときにも、宗教が全部すたれてしまったわけではありません。たぶん人間には「信じてしまう人間」と「疑ってしまう人間」がいるのでしょう。後者の人たちが「哲学者」となったわけですが、前者の人たちもあいかわらず存在し続けました。今でも存在しています。そしてそういう人たちは、宗教の教義と反しない限りにおいて、科学の知見も取り入れています。うまく科学と信仰が両立しているのです。しかし、科学の教えが宗教の教義と対立してしまったときは科学のほうを否定することになります。あのアメリカですら、キリスト教原理主義の人たちは進化論を否定していて、あくまでも神が人間を創造したという教義に固執しており、学校で進化論を教えることにも強硬に反対しているのです。このように宗教はいざというときには科学を否定します。やはり信と知は最終的には相容れないものであると言えるでしょう。

Q.科学とは理系の分野を総括する言葉なんじゃないですか?
A.たしかに狭い意味では、science は自然科学を指します。科学革命が起こったとき、まずは自然に関する学問でそれが始まったと言いましたが、それは自然に関する学問のほうが観察や実験によって実証しやすいからです。自然現象は再現性が高いので実験をしたり追試を行ったりすることが容易です。ですから、science の代表格は自然科学になるわけです。それに比して、人間が関わる社会現象などは1回限りのものが多く、実験・観察や追試が困難です。しかし、学問の世界では、まず最初に自然に関する学問において革新や進歩があると、人間に関する学問においてもそれをある程度マネすることによって、けっこう進歩するということがあります。そうやってある程度実証化された学問が社会科学や人文科学なのです。したがって、広い意味での science はそうした社会科学や人文科学も含むことになるわけです。

Q.データ等により証明できない倫理学・哲学は本当に科学なのだろうか?
A.科学ではありません。少なくとも実証科学とは言えないでしょう。学問の中で実証科学になれなかったものが、未だに哲学(倫理学もその一部)として残っているわけです。ただし「科学」という言葉は日本語に固有の言葉であって、science という語は「実証科学」のことも、実証科学になる前のすべてを含んでいた「学問」のことも意味していますので、倫理学も哲学もそういう広い意味の science の中には含まれているわけです。先の答えの中に出てきた「人文科学」という言葉も「科学」という訳語を当てていますが、広い意味での science だと捉えるならば「人文学」と訳した方がよかったのかもしれません。そう訳すならば間違いなく哲学・倫理学は「人文学」の一員であると言えるでしょう。

Q.私は最初、宗教と科学の違いについて考えたとき、「思想」が関わっているかが大きな違いだと考えていました。今回の講義では「思想」には一切触れていなかったと思いますが、「思想」も超自然的なものの1つに入るのでしょうか?
A.「思想」というのは英語で thought、ドイツ語で Gedanke、どちらも「考える think, denken」という動詞の過去分詞から作られた名詞であり、「考えられたもの」「考えられた事柄」を意味しています。これは宗教家でもいいし、学者(哲学者)でもいいので、誰かが考えたものはすべて「思想」です。したがって「思想」には超自然的なものからそうでないものまでいろいろなものがある、ということになります。ただし、科学者が実証的に提示した事柄はただたんに考えられただけではなく、きちんと証明されたものですので、「思想」と呼ぶのは失礼にあたるでしょう。したがって科学の産物にはあまり「思想」という呼称は使われません。だから、科学と「思想」が相容れないもののように思えるのでしょう。しかし、では「思想」がただちに超自然的なものばかりかというとそうとは限らないのです。哲学は実証科学にはなっていない(なりえない)ものですが、だからといって必ずしも超自然的なものに頼って説明しようとするわけではありません。近代以降の哲学は概ね、超自然的なものに頼らずに物事を説明しようとしています。そういう「思想」もあるわけですし、もちろんキリスト教思想や仏教思想のように超自然的な神や前世などを用いて説明しようとする「思想」もあるわけです。

Q.「科学」の"科"という字は学問が科目に分かれたことから来ていて、学問(昔の哲学)の1部分を切りとったものということがわかりました。では、○○科学というものは科目に分かれたものからさらに分けたものを言っているのでしょうか?(例えば社会科と社会学ってどう違うのでしょうか?)
A.「科目」という言葉を使ったために若干誤解を与えてしまったようです。「科目」というのは学校で教えられている「教科」や「科目」と同じではありません。小・中・高での教科や科目は、細分化して独立してしまった諸科学を小さい子どもたちにわかりやすく紹介するために、あとからある程度大きな括りでまとめあげて作られたものです。学問上の括りと教育上の括りが一致しているのは数学くらいで、他の教科はいろいろな学問の寄せ集めと言うことができるでしょう。その最たるものが社会科ですね。社会科の中には歴史学、地理学、政治学、経済学、社会学などの内容が含まれています。部分的には哲学、倫理学の内容も含まれていますし、高校公民科の「倫理」の中には心理学の要素も含まれています。また「地理」の中の自然地理的な内容というのは自然科学の中の地学に近いものも含んでいます。つまり、社会科という学問がまずできてそれがさらに分かれていったのではなく、細分化した学問をひとつひとつ別々に教えていったら子どもたちがかわいそうなので、社会科学(一部は人文科学)の中のいくつかを用いて「社会」についていろいろな方面から考察させていく教科として編み出されたのが社会科なのです。なお社会学については、うちの大学には専門家がたくさんいますので(特に行政政策学類に)ここで下手な説明をするのはやめておきますが、「社会学」というネーミングはあまりにも漠然としすぎているので(社会学は社会科学の中の1つにすぎないのに「社会についての学問」という大風呂敷を広げてしまっている)不適切な命名だったんではないかと個人的には思っています(いかんいかん、専門家全員を敵に回している)。

以上、お答えしてきましたが理解できたでしょうか。ちょっと説明が難しかったかな(特に最後の2つに対しては)。よくわからなかったら、どこがどうわからないかコメントを書き込んでください。さらなる疑問がわいてきた場合もコメントしてください。

Q.倫理学を学んで役に立つことって何ですか?

2008-10-21 10:23:04 | 哲学・倫理学ファック
この質問もたぶん半分は、質問というより反語なんだろうなあ。
「倫理学を学んで役に立つことはあるのか(いや何もない!)」
一昔前の教授たちなら、
「役に立つかなんてチャチなことをゴチャゴチャ考える前に黙って勉強しろっ!」
って答えたんだろうけれど、
今どきの教員は説明責任を果たして、
どんな役に立つのかちゃんと答えてあげられなければいけない、と私は思っているので、
こういう意地悪な質問にもお付き合いしたいと思います。

まず、倫理学に限らずどんな学問でもその学問を学んで役に立つことは、

A-1.考える力が身に付く

ということだろうと思います。
人間が社会に出て自分の力で生きていこうとするとき、
単純な肉体労働ってもはやほとんど存在しませんから、
どうしたって頭を使わなくてはなりません。
農業を営もうが、工場で働こうが、ファミレスで接客をしようが、
けっきょくのところ肝心な部分は頭脳労働です(どうやったら生産性が上がるのか)。
家庭の中で家族や親戚と付き合っていくのにも、
やっぱりいろいろなことを考えて、1つ1つ問題解決していかなくてはなりません。
そういうときに、大学で学んだ知識がそのまま役立つことはめったにないかもしれませんが、
様々な問題を考え抜いていく力を鍛えておくことはとても大事なことでしょう。
特に、

A-2.それぞれの学問固有の考え方、ものの見方が身に付く

と実生活のいろいろな場面で有利になることは間違いありません。
それぞれの学問には、特有の概念(=ことば)があります。
その概念は、その学問なりの世界の見方、ものの見方を体現しています。
そうした概念をうまく使うと、それまで見えていなかったことわからなかったことが、
急にはっきりと見えてきたり、新しい発見ができたりするのです。

ここからやっと本題に入りますが、倫理学を学ぶと、

A-3.倫理学特有の考え方、ものの見方が身に付く

わけであり、それは人生を生きていく上でとても役に立つものだと私は確信しています。
倫理学固有の概念としては、善と悪、正と不正、動機と結果、権利と幸福、
価値判断と事実判断、等々いろいろあります。
正義、人権、平和、平等、福祉、功利なども元はといえば倫理学の概念ですが、
これらは今では他の学問でもお目にかかることができるようになっています。

これらを学ぶとどういういいことがあるかというと、
例えば、目的と手段という概念を例にとって説明してみましょう。
目的と手段なんてふだんよく耳にすることばだと思いますが、
これも元はといえば倫理学の概念です。
目的と手段に関して倫理学は様々なことを教えてくれます。
手段とは本来、目的を達成するための行為や道具のことですね。
そんなことは当たり前のような気がしますが、
人間は日常生活の中で、本来の目的を見失い、
手段にすぎなかったものを目的と勘違いしてしまうことがある、
というのは倫理学が教えてくれる教訓です。
お金というのはそもそも何か必要なものを入手するための手段にすぎないのですが、
いつの間にかお金をもうけることそのものが目的になってしまうとか。
国家試験に合格するというのは、看護師になるためのたんなる手段にすぎず、
本来の目的は、リッパな看護師になって病気の人に行き届いた支援を提供し、
そういう仕事を職業とすることで自らの人生を豊かにしていくことだったはずなのに、
看護学校で勉強しているうちに、
国家試験に合格することが目的であるかのような錯覚に陥ってしまうこともありますね。
(教員志望者にとって教員採用試験合格が目的化してしまうという現象も同様です)

こういう人を見かけると私はよく言うのですが、
試験に合格するなんていう低いハードルを目的にしてしまうと、
その低い目標すら達成できなくなってしまう危険があるので要注意です。
ただ試験に合格するために覚えた知識や技術は皮相(上っ面だけ)です。
そうではなく現場に出たときに現場でフルに活用するために、
知識や技術を頭や身体や心に深く刻み込んでいく必要があります。
そのためには、
○○さんのようなきめ細かい看護のできる看護師になること、
□□先生のように誰からも信頼される教師になること、
といったもともと自分が持っていた目的を思い出す必要があるでしょう。
その本来の目的を見失わずにそれに向かって日々努力を続けていれば、
国家試験や教採に合格するなんていうたんなる手段は、
ひとつの通過点としてあっさりパスすることができるのではないでしょうか。

ほら、どうです?
倫理学的な考え方は人生に役立つような気がしてきたでしょう?
ほかにも倫理学には、「目的は手段を正当化しない」という鉄則があって、
いくら善い目的を達成するためであっても、不正な手段を用いることが許されたりはしない、
ということを教えてくれます。
政治家や企業のトップがちゃんと倫理学を学んでいたら、
あんなバカなことやこんなバカなことをしでかさずにすんだかもしれませんね。
どうです、倫理学はけっこう役に立つ学問なんです。
もっと学んでみようという気になってきたんじゃないですか?

ブレーキのかけ方

2008-10-17 14:05:32 | ドライブ人生論
アクセルを踏むときはみんな加減しながら踏みますね。
めいっぱい踏み込むなんてことは長年運転していても、
そうめったにしたことはないでしょう。
10段階から20段階くらいのグラデーションがあって、
そうっと踏むとか、軽く踏むとか、ちょっと強めに踏むとか、
その場に合わせて適切な踏み込み具合を測っているはずです。

ところがブレーキになると、踏むか踏まないか、オンかオフかのどっちかしかない、
みたいな踏み方をする人をときどき見かけます。
こういうのを「カックンブレーキ」と呼ぶそうですが、
そういう人の車に乗せてもらうとブレーキのかけ方がきついので、
減速したり停車しようとするたびに身体がカックンと前につんのめり、
クルマに弱い人などはすぐに車酔いになってしまったりもします。

ブレーキを踏む場合もやはりグラデーションを意識して、
せめて10段階くらいの力の入れ方を使い分ける必要があるでしょう。
そうやって考えると、10段階のうちの8~10なんてふだん使うことはまったくありません。
よっぽど危機回避のため急ブレーキをかけなきゃいけないような危険的状態でもないかぎり、
ブレーキをめいっぱい踏み込むなんてことは必要ないのです。
赤信号などでクルマを完全に停止させる場合も、
最後は10で踏んでいるかというと実はそんなことはありません。
5か6くらいで踏んでいればクルマは停止します。
最後完全に止まるときはそこからさらに少し力を抜くくらいのほうが、
スムースに止まることができます。
一般的に言って、停車するときはできるだけ時間をかけて、
ゆっくり止まるようにしなければいけません。、
まずはエンジンブレーキを使い、次に4~6くらいのブレーキを使ってゆっくりと減速していき、
慣性の法則による「カックン」が起こらないようにしながら、
そうっと止まるというのが、正しい止まり方だと思います。
特に同乗者がいるときはこの静かな止まり方を心がけたほうがいいでしょう。

クルマを止めるときだけでなく、人生において何かをやめようとする場合、
やはり時間をかけてゆっくりと止まるようにするというのが大事だと思います。
特に同乗者、つまり関係者がいる場合には、それが相手への思いやりというものでしょう。
会社で働いているような場合に、
突然「今日で会社を辞めます」なんていうことは、
いっしょに働いている人々に多大なショックと迷惑を与えることになるでしょう。
恋愛関係や結婚生活にある場合にも、
何の前触れもなく、突然「今日で別れましょう」なんて言われたら、
相手は途方に暮れてしまいます。
場合によったら相手はストーカーと化してしまうかもしれません。
人の心にも「慣性の法則」があるので、急ブレーキを踏まれてしまうと、
思いっきり前につんのめってしまうのです。

だから、もうダメだなと感じたら、できるだけ時間をかけてそういう雰囲気を醸しだし、
少しずつ相手にも「あれヤバイかな」と思わせるようにし、
もはや順調ではなく止まるかもしれないのかな、
いやもう本当に止まりかけてる、
ああ止まる止まる、あ完全に止まった、
で最後の瞬間にはブレーキを踏む力を少し抜く、
くらいのデリケートさがないと、物事を上手に終えることはできないのです。

これは偏見かもしれませんが、女性には急ブレーキで物事をやめる人が多いように感じます。
本人的には前々から「もうムリ」という感覚はあったのかもしれませんが、
傍目にはわからないようにいつも通り振る舞っていて、
それがある日突然急ブレーキになってしまう。
本人的にはとにかく止まれればそれでいいのかもしれませんが、
同乗者がそれについていけないということは往々にしてありますので、
ブレーキのかけ方には十分注意するようにしましょう。

Q.倫理学者にはどうやったらなれますか?

2008-10-14 22:41:01 | 哲学・倫理学ファック
この質問もけっこうよくされます。
すごーく細かいこんな質問もありました。
「Q.倫理学の先生になるにはどんな学校で何科で学ぶのか。
 そこでは倫理学の先生になる以外にはどんな職業に就いて社会に出ていくのか。」
倫理学者になるのと倫理学の先生になるのでは、
これまた本当なら答え方がちょっと変わってくるんですが、
まあこれらは一括して答えてしまいましょう。

たぶんこういう質問をしてくれた人は、
自分が倫理学者や倫理学の先生になりたいというわけではないと思うので、
これを聞いたからといって、自分がその道に進んでみたいわけではないのでしょう。
それでもこういうことを聞きたくなるというのは、
やはりそれぐらい倫理学の先生というのは特殊な存在というか、
「こいつら何者?」という奇異の念がぬぐいがたいのでしょうね。

まずは細かい質問のほうから。
だいたい皆さん、文学部の哲学科出身の方が多いようです。
私は外語大のロシヤ語学科というまったく関係ないところの出身で、私のように、
学部時代はあんまり哲学や倫理学と関係ないことを学んでいたという人もいますが、
そういう人でも、大学院は人文科学研究科等の哲学専攻に進む人がほとんどです。
大学院は必ず出なきゃならないというわけではないかもしれませんが、
やはり大学院で専門的に原書を使って哲学・倫理学を読むという訓練を積み、
さらにゼミの先生や先輩から論文を書くための指導を受けてこないと、
なかなかこの道に進むのは難しいだろうと思います。
(なお、哲学と倫理学の違いについては別の機会に書きます)
というわけでさしあたりの答えは、

A-1.まずは大学院の哲学専攻で学んでください。

です。
では、こういうところ出身の人でこの道に進まなかった人はどういう職に就くのか?

A-2.ありとあらゆる職業に就いています。

よく聞くのは出版関係とか教育関係 (高校や塾の先生) とかですが、
IT関係に進む人もけっこういますし、とにかくいろいろです。
日本では大学 (や大学院) で哲学を学んだというと変人を見るような目で見られがちですが、
欧米では哲学を学んだ人は思考の訓練を積んだ人とみなされ、
実業界においても一目置かれたいへん重宝されています。
「哲学博士号」をもっているというのはとても栄誉のあることとされています。
(これは実は別の問題も絡んでいます。それもまた別の機会に。)
日本ではそういう特別扱いは受けられませんが、
それでも哲学科の卒業生や大学院修了生はいろいろな分野で活躍されているようです。

さて、倫理学者になりたい場合、大学院で学んだ後どうするのか?

A-3.倫理学の論文を書いて発表してください。

たぶんこれで倫理学者になれるはずです。
倫理学者あるいは倫理学の研究者になるだけでいいのならこれで十分でしょう。
できれば学会などに入って、学会誌に自分の論文が載っかるとパーフェクトですが、
これには若干の競争などもあって少しハードルが高いですし、
学会誌に載らないとダメかというとそんなこともないので、
自分たちで作った同人誌に論文を載せてもいいし、
自費出版で本を出してもいいし、
とにかく論文を発表すれば、もう立派な倫理学研究者です。

そういう意味ではここまではわりと簡単にクリアできるでしょう。
しかし、ここから先は厳しいです。茨の道です。
どうやったら倫理学の先生になれるのでしょうか?

A-4.ただひたすら運です。

とにかく日本では哲学や倫理学の先生がどんどん減らされています。
そのわりに研究している大学院生やオーバードクターと呼ばれる人たちは、
相当たくさんいます。
ですので、大学の先生になるのはとてつもなく大変です。
とにかく公募に応募し続け、宝くじに当たるのを待つしかありません。
もちろん優れた論文を書いたり、できるだけたくさん論文を書くことによって
ほんの数%確率が高まるかもしれませんが、
ほとんど誤差のレベルというか、有意な差は生じないでしょう。
ひたすら運です。
したがって私はあまり人にこの道をお奨めすることはできません。

とにかく何でもいいから大学の先生になりたいんだという人には、
哲学や倫理学などよりも別の研究分野に進むことをお奨めします。
どの分野でも大学教員になるのは狭き門のようですが、
哲学・倫理学はとにかく最難関です。
可能なことなら避けて、日本政府ウケのするような、
最近流行りのオシャレでかつ金儲けに直結するような学問分野を選んだ方がいいでしょう。

いや、他の学問では絶対にイヤだ、
何が何でも哲学・倫理学を研究したいんだという人は、
一生宝くじが当たらないことも覚悟して、
哲学・倫理学研究とは別に手に職をつけて、
そこそこ食べていけるぐらいの収入をどこからか得るよう算段をしておくべきだと思います。
私は1999年第7の月に世界が滅びると信じていたので、
10年ちょっとくらいは何とか食っていけるだろうと思って、
この道に進む決心をしました。
それに塾でのアルバイトでそこそこの収入を得ていましたし、
最悪の場合は銀座か歌舞伎町でバーテンでもして稼いでいく覚悟もできていました。
だから、ドクターコース (博士課程) を受験する相談をしにいったとき、
恩師の先生からは 「就職はないよ」 と断言されましたが、
「あ、いいんです、ぼくは」 と即答したところ、
「そうかね。だったら受けたまえ」 と言っていただけました。
これぐらいの気持ちでないと、
コツコツ頑張っていればいつかは報われるだろう、なんていう甘い見通しでは、
とうてい頑張りきれないでしょう。

というわけで、倫理学者 (倫理学研究者) になる方法については、
かろうじて何とかお答えすることができるのですが、
倫理学の先生になる方法については 「答えはありません」 というのが答えです。
ちょっと最後は熱くなりすぎたかもしれませんが、
これだけは声を大にして言っておきたかったので、
またまた長いお答えになってしまいました。
もちろん皆さんはそんな道に進もうなんて思っていませんよね。
自分の人生設計をよく考えて、幸せなキャリアを築いていってください。

ありがたい話

2008-10-10 16:53:38 | 幸せの倫理学
よく授業中に話す小ネタの中でも、一番評判のよいというか、
わりとみんなが覚えていてくれる話が、この「ありがたい話」なので、
それを披露しましょう。

①人間は「本能の壊れた動物」である。

他の動物に比して人間の赤ちゃんはまったくの無能状態で生まれてきます。
魚の赤ちゃんは孵化した瞬間に泳ぎ始めますし、
馬の赤ちゃんも生まれた瞬間に立ち上がります。
それに比べて人間の赤ちゃんはまったく何もできず、
親が面倒をみてくれなかったらほんの数日も生き延びることができないでしょう。
人間は基本的な本能が壊れています。
生存本能すら壊れているので、人間は自殺してしまうこともできるし、
種の保存本能も壊れてしまっているので、
性行動(セクシャリティ)と生殖活動(子どもをつくる)が分離してしまっています。

②人間にとって当たり前なことは何もない。

本能が壊れているということは、つまり自然によって決定されていないということです。
あたかも自然法則によって定められたことであるかのように思えることも、
実は人間にとってぜんぜん当たり前のことではないのです。
「人間なんだから○○して当然」とふつう思われていることも、
実は、文化として人々がそう決めたというだけの話であって、
自然によって決定されているわけではないのです。
ただ生きていくということですら、人間にとって当たり前ではありません。
むしろ日本人は百年ちょっと前には、
「(場合によっては)自殺することが当たり前」という切腹文化を作りあげていましたし、
60年ぐらい前には、神風特攻隊という文化も作り出しました。
自分の命を守るということですら、
人間にとっては自然によって定められた当たり前のことではなく、
文化によっていくらでも変更可能なことなのです。

③人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことは何もない。

自分が生きていくということですら人間にとって当たり前ではないのですから、
ましてや、人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことなんて何ひとつありません。
もしもある人が誰かに何かをしてあげたのだとしたら、
それは自然法則に従って当たり前のこととして行ったのではなくて、
意志の力でやってあげようと思って自発的に意図的にしてあげたことです。
母性本能とか父性本能という言葉がありますが、
人間の場合、親に子どもの面倒をみるという本能が備わっているわけではありません。
ですから、たいていの親は子どもの世話をしますが(それはひとえに文化のおかげ)、
中には子どもを捨ててしまったり、育児を放棄してしまったり、
さらには自分の子どもに虐待を加えたり、
そして殺してしまったりする親も存在するのです。
親が子どもの面倒をみることすら本能的にやっていることではないのですから、
人間が他人のためにすることで自然な当たり前のことなんて何もありません。

④他人のために何かをしてあげるというのは有ることが難しいこと。

したがって、誰かが他の人のために何かをしてあげたとするならば、
それはよくある当たり前のことなんかではまったくなく、
めったに起こることのない、「有ることが難しいこと」、
すなわち、「有り難い(ありがたい)こと」なのです。

⑤「有り難い」から「ありがとう」

だからそれに対して私たちは「ありがとう」と言うのです。
誰かが何かをしてくれたら、やってくれて当然じゃん、ではなく、
それはとても「有り難い」ことなのだということは知っておいたほうがいいでしょう。
ご両親がお金を稼いできてご飯を作ってくれ学費を払ってくれたとしたら、
それはとても有り難いことですし、
友だちが朝あいさつしてくれたり、自分の話ににっこり笑ってくれたりしたら、
それはとても有り難いことなのです。
コンビニの店員さんがマニュアル通りに「いらっしゃいませ」と言ってくれることですら、
それはやはり自然本能でやっていることではなくて、有ることが難しいことなのです。
そう思えば、日々のほんの小さなすべてのことに対して、
感謝の気持ちが湧き上がってくるのではないでしょうか。
「ありがとう」という言葉はそういう気持ちが込められた、
とてもいい日本語だと思います。
だから私は、毎日できるだけたくさん「ありがとう」と言うようにしています。
人との関係において、
やってくれて当たり前、ああしてくれて当たり前、こうしてくれて当たり前、
という感覚を少しずつ減らしていき、
むしろ、やってくれないのが当たり前、思い通りにやってくれなくても当たり前、
もしも自分のためにちょっとでも何かやってくれたら「ありがとう」、
こんなことまで、あんなことまでやってくれたら「本当にありがとう」、
そういう気持ちで生きていけると、とっても幸せな気分になれますよ。

以上です。
どうです?「ありがたい話」だったでしょ。

Q.倫理学者は倫理的な人ばかりですか?

2008-10-08 21:14:55 | 哲学・倫理学ファック
この質問をもっと専門的な感じで、
「Q.倫理学者は、規範、原理、規則を重んじるのだろうか?」
と質問してくれた人もいました。
この人はたぶん倫理か倫理学を勉強したことあるんでしょうね。
なかなかいい質問ですが、答えるのはとても難しいです。
この質問には3段階くらいで答えなければなりません。

まず第1段階。
前回のブログで、
「倫理学とは、人間の生き方や人々のあいだのルールについて問い直す学問です」
とお答えしました。
つまり倫理について問いを発し疑問をぶつけるのが倫理学です。
だから、「倫理学者」は既存の倫理を疑ってかかるような人でなければなれません。
それに対して「倫理的な人」というのは一般的に言って、
既存の倫理を信じてそれを実行している人なわけです。
ということは倫理学者は倫理的ではありえないし、
倫理的な人は倫理学者にはならない、ということになるでしょう。
したがって、

A-1.倫理学者は倫理を疑ってかかる人なので倫理的ではありません。

というのが第1段階の答えです。
このことはたいがいの学者に当てはまります。
経済学者はみんな金持ちかというとそんなことはありませんし、
教育学者はみんな授業がうまくて教育熱心かというと決してそうとは限りません。
学問というのはそもそもそういう性質をもっているのです。
だから倫理学者がぜんぜん倫理的でなくたってまったく驚くには当たらないのです。

次に第2段階。
上記の第1段階では「既存の倫理を疑ってかかる」という言い方をしました。
どんな集団にも倫理は生じてきてしまうのだけれども、
集団によってそれぞれいろいろな倫理ができあがってしまうし、
その倫理も時代によってどんどん変わっていってしまう。
ある時代のある国に生まれたからといって、そこに生きている人はみんな、
その時代のその国で通用している「既存の倫理」を必ず守らなければならないのか、
むしろ広い目で見たらその倫理自体が間違っているということもあるのではないか。
「既存の倫理」への懐疑というのはそういったあたりから出発します。

そして、多くの倫理学者はそのような懐疑から出発して、
では国や時代という制限に縛られずに普遍的に考えて、
いつの時代にもどんな国でも必ず通用するような倫理というものが、
何かあるのではないだろうか、というふうに考えを進めていきます。
つまり、既存の倫理は疑うけれど、それで終わりにならずに、
本当の普遍的な倫理を追い求めていくわけです。
自然法思想とかカントの定言命法というのは、そういうタイプの倫理思想になります。
この場合は「既存の倫理」のレベルでいうならば、
それに素直に従うわけではないので「倫理的でない」ということになりますが、
「本物の倫理」のレベルから見るならば、
人類は皆それに従うべきであると主張し、自らも率先してそれに従うのですから、
「きわめて倫理的である」ということになるでしょう。
つまり、第2段階の答えはこうです。

A-2.倫理学者は本物の倫理に関しては真の意味で倫理的である。

カントはまさにそういう人でした。
彼が生きていた18世紀のプロイセン王国(今のドイツ)では、
国民は国家(国王)に黙って従い、国政に口出ししないことがよいこととされていました。
しかしカントは、国民が宗教のことや国政に対して自由に物を言い、
みんなで少しずつ誤りを正していくのが人間本来の正しいあり方であり、
人はいつの時代でもどんな国にあってもそのように振る舞うべきだと信じており、
そしてそのとおりに実践したのです。
厳しい検閲制度が布かれているプロイセン王国の中で、
当時の宗教を批判し、国家のあり方を批判しました。
それによってプロイセン国王から直接に叱責を受け言論の自由を奪われてしまいました。
しかしそれでもなおカントは批判し続けたのです。
つまりカントは、当時のプロイセン国家から見たら「倫理的でない人」だったわけですが、
人類的な観点からするなら「真の意味で倫理的な人」だったと言えるでしょう。

さて、これで終われるといいのですが、そうはいきません。
最後に第3段階。
誰かが、既存の倫理は間違っていて、これこそが本物の倫理である、と主張したとき、
みんながそれを信じられれば話は簡単なんですが、
そこでも再び倫理学の問いが浮かび上がってきます。
あの人はこれが本物の倫理だと言ったけれど、本当にそれが本物の倫理なんだろうか?
つまり「本物の倫理」と呼ばれたものに対しても再び、
それが本当に本物の倫理なのか、という疑問を投げつけることが可能なのです。
けっきょくそうしたものも時代の中で生まれてきたものにすぎないし、
もっと別の倫理のほうが本来あるべき倫理なのかもしれません。
さらに言えば、本来あるべき本物の倫理なんてものは
そもそも存在しないのかもしれません。
こう考えていくと、倫理への問いは永遠に続いていくことになるのです。
倫理学者の中で最近流行りの問いは、
「なぜ倫理的でなければならないのか?」
「(どんな倫理であれ)なぜ倫理に従わなければならないのか?」
という問いです。
これに対して多くの倫理学者は何かしら「なぜ?」に答えてくれますが、
中には、そもそも倫理に従わなければならない理由なんて何もない、と答える人もいます。
倫理学の問いというのはこれほどに過激なのです。
「倫理的な人」であるためにはどこかのレベルで問うのはやめて、
倫理に従わなければならないでしょうが、
倫理学の問いはどこまでいっても決して立ち止まることを許さないのです。
したがって第3段階の答えはこういうことになるでしょう。

A-3.倫理学者はいつまでたっても決して倫理的にはなりえない。

ちなみに私はカント派なので第2段階レベルの倫理学者をめざしていますが、
でもカントはけっこう怪しいこともいろいろ言っていて、
そうするとどうしても新たな問いが湧き上がってきてしまうので、
第2段階に留まるのはなかなか難しいですね。
たいへん厳しい質問をどうもありがとうございました。
今回は確信犯的に長ったらしい答えにしてみましたが、
みんな、最後までついてこられましたか?

Q.倫理学を一言でいうと何ですか?

2008-10-07 21:13:36 | 哲学・倫理学ファック
例年、「倫理学って何ですか?」という質問を書いてくれる子は何人かいますが、
それがグループの代表質問として選ばれたことはありません。
いちおうお義理で(あるいは何も思いつかなくて)書いてみたけれど、
それほど優先順位の高い質問ではなかったのでしょう。
タイトルで挙げた質問もけっきょく代表質問としては選ばれませんでしたが、
「一言でいうと」という部分から気持ちがよく伝わってきました。
あまりダラダラとした詳しい学術的な説明を聞きたいわけではないので、
チャチャッとわかりやすく答えてくれ、ということなのでしょう。
うーん、難しい要求ですが、やってみましょう。

A.倫理学とは、人間の生き方や人々のあいだのルールについて問い直す学問です。

こんな感じでいかがでしょう。
まだ長いですか?
でもこれ以上短くまとめるのはムリだなあ。
これでもすでにいろいろ省きすぎていて、
専門家からはクレームが来そうなくらいですから。

語源のこととか説明しだすとギリシア語にさかのぼらなければなりませんが、
そんなことはやめて、日本語の「倫理」という漢字だけ見てみましょう。
「倫」とは「仲間、人々の集まり」を表しています。
「精力絶倫」という言葉がありますが、
あれは精力が「仲間うち」で絶している(ずば抜けている)という意味です。
「理」とはもともと「玉石を磨いたときに現れる筋のある模様」を表していました。
そこから、人間関係の中で通すべき「筋目」、つまり、
きまりごと、ルール、義務、といったようなものも意味するようになりました。
ですので「倫理」とは、
人々が集まってきたときに必ずできるきまりやルールのことなわけです。
習慣とか礼儀作法とか道徳とか義務とか法律とか、そういったものが「倫理」です。

では「倫理学」とは何でしょう?
「倫理学」には「学」がよけいに付いていますね。
これは「学問」の省略形です。
つまり「倫理学」というのは「倫理に関する学問」のことです。
「学問」というのはとてもいい言葉で、私は大好きなんですが、
これは「問いを学ぶ」、「問うことを学ぶ」と書きますね。
つまり学問というのは「答え」を学ぶものではなく、
「問い」を発して、「疑い」続ける営みなのです。
これは物理学だろうが経済学だろうが、すべての学問に言えることです。

ですから「倫理学」は、「倫理」すなわち「人々のあいだの決まりやルール」を
そのまま覚えたり身につけたりするのではなく、
「倫理」について「問い」を発し、「疑い」続ける営みです。
なぜこんなルールに従わなければならないんだろう、
時代や国によってさまざまなルールがあるけれど本当はどれが正しいんだろう、
そもそも本当に正しいルールなんてあるんだろうか、
そして、人間はどう生きるべきなんだろう、等々と、
「倫理」について考え続けていく「学問」が「倫理学」なのです。

「一言で」と頼んだのに延々話された?
でも短ければわかりやすいかというとそんなことはないでしょう?
「わかる」ためにはある程度いろいろと説明してもらったほうがいい場合もあるんです。
まあダラダラと書いた部分はたんなる補足説明なんだと思ってください。
とにかく一言でいうならば、
倫理学とは「人間の生き方や人々のあいだのルールについて問い直す学問」なんです。
おしまい。

Q.哲学・倫理学の先生になろうと思ったきっかけは?

2008-10-06 06:18:52 | 哲学・倫理学ファック
学生からの質問で1番多いのは、
「なぜ哲学(or倫理学)の先生になろうと思ったのですか?」
「哲学(or倫理学)の先生になろうと思ったきっかけは何ですか?」
という問いです。
この問いはたぶん2番目に多い質問
「なぜ哲学(or倫理学)を研究しようと思ったのですか?」と
同じことを聞きたくて発せられたのだろうと思いますが、
しかし私の答えはそれぞれでまったく異なります。
2番目の質問にはいずれお答えすることにして、
まずは1番目の質問にお答えすることにしましょう。

A.哲学(or倫理学)の先生になろうと思ったことは一度もありません。

この答えは皆さんにとって意外なものかもしれませんが、
哲学・倫理学に限らず、大学の先生方のほとんどは、
たぶん私と同じ答え方をするでしょう。
どういうことかというと、
私たちは自分のことを「先生(教員)」というよりも「研究者」だと思っているのです。
だから大学院の修士課程(マスターコース)や
博士課程(ドクターコース)に進学するとき、
大学の先生になりたかったのではなく、
それぞれの学問の研究者になりたかっただけなのです。
研究者というのはつまり、ある学問について本を読んだり実験をしたりして、
新しい発見をし、それを論文に書いて発表する人たちのことです。
もしも研究だけしていられたら、本当に幸せなことでしょう。
しかし研究だけしてお金をもらえる仕事というのはそれほどありません。
研究所の研究員とかくらいでしょうか。
ただし日本にはその手の研究所というのが圧倒的に少ないのです。
理系の場合にはそれでも研究職というのはあるみたいですが、
文系の場合は研究所なんてほとんどありません(欧米にはけっこうあるのですが)。

それではどうするのか。
研究所の次に、研究でお金をもらえる職場が大学なのです。
大学は、研究所とちがって、日本中にたくさんありますね。
ただし大学は研究だけしていればよいところではありません。
大学というのは教育機関です。
大学生を教えなくてはなりません。
というかそれが第一の使命です。
でも私たちは別に教育の仕事がしたかったわけではないのです。
研究をしたかっただけなのですが、
研究を続けていくためには、
大学という職場に入れてもらうしかなかったというわけです。

大学の先生の授業がたいがいつまらないのもこれで説明がつきますね。
みんな教育者になろうと思ったことはないし、
教育者になるための訓練も受けていないし、
大学の先生になるのに教員免許とかも必要ないし、
そもそも自分のことを教員ではなく研究者と思っているのですから。
とはいえ教育の仕事をすることによってお金をもらっているのですから、
「私は研究者だ」とばかり言っているわけにもいきません。
最近では世間の風当たりも強くなって、
大学の先生方も教育に力を入れるようになってきました。
でもやっぱり心の奥底のほうでは、
「ああ研究だけしていられたらいいのになあ」と願っているのです。

というわけで、先生になろうと思ったことはありません、
というのが皆さんの質問に対するお答えでした。
たぶんこういうことが聞きたかったのではないだろうとは思いますが、
これからいろんな先生方とつきあっていく上で、
大学の先生というのがどういう人たちなのか、
知っておいても損はないだろうと思います。

哲学・倫理学ファック

2008-10-04 00:30:25 | 哲学・倫理学ファック
看護学校で「哲学」や「倫理学」の講義をするとき、
最初の授業で学生のみんなに、
「哲学・倫理学の先生に聞いてみたいこと」を出してもらって、
それに答えていくという試みをしています。
彼らは哲学や倫理学なんて自分には関係ないと思っていますから、
授業前は相当警戒しています。
そんなところへ、哲学とは何かとか、
倫理学の定義みたいな専門的な(?)話をいきなりぶつけたら、
あっという間にみんな眠りについてしまいます(経験者は語る)。

そこで、自分たちで聞いてみたいことを考えてもらい、
4~6人のグループで相談してもらってグループとしての代表質問を決めてもらい、
それに順番に答えていくようにしているのです。
自分たちが聞きたいことに答えてもらっているのですから、
彼らとしても寝てしまうわけにはいきません。

ここで大事なのは、
「哲学・倫理学について聞いてみたいこと」を考えてもらうのではなく、
「哲学・倫理学の先生に聞いてみたいこと」を出してもらうようにするということです。
そもそも哲学や倫理学について何らかの情報やイメージをもっている子はマレですから、
「哲学・倫理学について聞いてみたいこと」と言われても
ほとんど何も思い浮かばないでしょう。
そこで、「哲学(倫理学)をやってる人間なんて見たことないでしょ。
たぶん2度とないチャンスだよ。この機会に何でも聞いていいよ」
と水を向けると、みんなけっこういろいろな質問を思いついてくれます。
たぶん彼らは哲学や倫理学そのものには興味はないかもしれないけど、
人間にはものすごく興味があるので、
「哲学(倫理学)をやってる人間」(つまり私のことです)については
聞いてみたいことが出てくるのでしょう。

このやり方で1回めの授業が盛り上がるのはいいのですが、
どんな質問が飛び出してくるかわからないので、
こちらとしては非常に緊張します。
その場で的確な答え方ができるかどうかに、
この試みの成否がかかっています。
自分の力が試されていると言っても過言ではありません。
まあどこまでうまく答えられるかはわかりませんが、
学生たちの素朴で過激な質問を紹介していくことにいたしましょう。
新カテゴリー「哲学・倫理学ファック」です。
「ファック」とはもちろん「FAQ」、
すなわち「よくある質問(Frequently Asked Questions)」のことです。
発音記号では[fæk]、けっして[fΛk]ではありません。
それではどんな質問が飛び出すか、
そしてまさおさまはそれにどう答えるのか、
冷や汗流しながら頭をフル回転させている私を思い浮かべながら、
ゆっくりお楽しみください。