まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

知らなくてもよい真実はあるのか?

2013-11-30 12:07:17 | 哲学・倫理学ファック

本日は第20回 「てつがくカフェ@ふくしま」 です。

テーマは 「知らなくてもよい真実はあるのか?」。

こんなご時世だからてつカフェをやる前に結論を断言してしまいます。

そんなものはないっ!

国民に知らせることのできない情報を国がもつようになったら、

その国はもはや民主主義国家ではないと思います。

もちろん政治の運用上、一時的に秘密にしなければならないことはあるにせよ、

民主主義国家がやるべきは秘密を厳重管理することではなく、

秘密にすることを厳重に管理することのはずです。

これだけの国民の反対と懸念の声のなかで、

強引に国民に対して秘密を管理する法律を強制するのは狂気の沙汰としか言いようがありません。

今日もどんな議論になるか楽しみです。

二次会は荒れるだろうなあ。



P.S.

今回のポスターは真実とか秘密とかを表す画像があまり思いつかなかったので、

上記のような怒りとはほど遠い出来映えとなってしまいました。

福島オペラ協会 第7回メンバーズコンサート

2013-11-29 14:57:07 | 人間文化論
「文化創造論」 では全チームのプレゼンが終了しました。
授業でも言いましたが、これから年末、年度末にかけてコンサートや展覧会、スポーツの大会など、
さまざまなイベントが目白押しです。
せっかく 「異文化交流プレゼン」 でお互いの文化に触れ合ったのですから、
今度は実際の演奏や作品、試合を見に行ってみるようにしましょう。
私のところに情報をくれればこのブログでもイベント告知をするようにいたします。
すでに美研や混声合唱団など、いくつか開催情報をゲットしていますので、
開催日が近づいてきたら適当な時期にアップしたいと思います。
まずは、2年生からもらった情報ではありませんが、
開催が来週の土曜日に迫ってきたオペラ・ガラ・コンサートについて。
「ガラ・コンサート」 がどういう意味なのかについては昨年調べました
去年は行けなかったけど今年は行けるんじゃないかな。
声楽チームのプレゼンで、どういう声質の人が主役を務めたり悪役を務めたりするのか、
ということも教えてもらいましたので、そんなことも気にしながら聴いてみたいと思います。
楽しみです。




福島オペラ協会 第7回メンバーズコンサート
オペラ・ガラ・コンサート


~歌劇王ヴェルディのアリアとモーツアルト「魔笛」の世界~

■出演者
公演監督 : 竹沢嘉明
指揮 : 橋裕之
ナビゲーター : 佐藤一成
合唱 : 福島オペラ協会合唱団、福島男声合唱団(賛助出演)
室内楽 : 福島大学管弦楽団有志他
ピアノ : 朝田順子、磯村多恵子、梅津彩音、倉金侑香、志田智子他

■開催日時
平成25年12月7日 (土)
 13:30開場/14:00開演

■会場
福島県文化センター 大ホール

■入場料
全席自由 1,500円(学生・前売1,000円)

■問合先
福島オペラ協会
 TEL・FAX:024-548-8231
 e-mail:fukushimaopera@yahoo.co.jp

我が家の除染

2013-11-28 17:33:38 | グローバル・エシックス
原発事故から2年半、我が家にもやっと除染の手がさしのべられました。
ベランダの除染をしてくれるとのことです。
喘息もちの私は洗濯物を外に干すことができませんので、
(我が家のベランダは車通りの多い道に面していますし)
入居以来ほとんどベランダに出たことはありません。
したがって特に必要を感じたことがないので、掃除もしたことありません。
入居してからかれこれ7年ぐらい経っていますが、
たぶんベランダの掃除って一度もしたことないのではないでしょうか。
もちろん原発事故後はよけいにベランダに出たことありませんし、
我が手でベランダを何とかしようなんていう気にもなりませんでした。
はたして我が家のベランダはどんなことになっているんでしょうか?
除染前におそるおそる計測してみることにいたしました。


(エアコン室外機のところ)


(避難はしごのところ)


(排水口のところ)

どこも 0.08μSvです。
なんだ、ほとんど室内と一緒じゃないですか。
ビビって損しました。

当日は作業員の方が2人やってきてくれました。
除染といっても特別な機械とかを使うわけではなく、
要するにフツーに掃除してくれただけでした。





所要時間は1時間ほど。
なんせ7年分の汚れがたまっていましたので作業はけっこう大変そうでした。
申しわけない気持ちでいっぱいになります。
作業終了後、もう一度放射線を測定しました。


(エアコン室外機のところ)


(避難はしごのところ)


(排水口のところ)

室外機と避難はしごのところは 0.06μSvと若干放射線量が減ってくれました。
が、排水口のところは 0.08μSvで変わりなしです。
まあ常々言っているように 「除染」 なんていうことはありえなくて、
「集染」 にすぎないのですから、ベランダを水で洗い流したら、
放射性物質は排水口のところに集まってくるだけにきまっています。
排水口のまわりに堆積していた落ち葉等を除去したので、
作業前より放射線値が上がらずにすんだということではないでしょうか。
とはいえ、除染の効果のほどはわかりませんが、
作業前と比べてベランダが見違えるほどキレイになったことは間違いありません。
タダでベランダ掃除をしてもらったと思えば、
ちょっと儲かった気になれるのでした。
作業員の皆さん、本当にありがとうこざいました。

Q.霊能者によって言うことが違うのはなぜ?

2013-11-27 10:02:38 | 哲学・倫理学ファック
ネットでこんな記事を見つけてしまいました。

「霊能者によって言うことが食い違う霊視の謎」

二人の霊能力者に、自分の前世や人生の傾向などをみてもらったという人が、

その霊視の食い違いに 「どちらを信じれば良いのかわかりません」 と、

「霊能者によって言うことが違うのはなぜ?」 かを尋ねているのです。

この問いがすでに笑えるんですが、これへの答えがまた爆笑ものでした。

まあ前世のこととか霊能力とかは証明することも反証することもできないのですから、

何を言おうが書こうが自由と言えば自由ですが、

一番素直に出てくるはずのひとつの答えに一切触れられていないのがツボでした。

私は質問者の方に端的に教えてあげたかったです。

前世も霊視も霊能力も存在せず、すべてはイカサマであるという可能性もありますよ、と。

そういえば以前、看護学校の学生さんからこんな質問をいただきお答えしたことがありましたね。

「Q.占い師の占いは本当に当たるのか?」

ぜひ読んでみてください。

要するにコールドリーディングなわけで、

自分がどんな人間かについては何人に見てもらっても大概似たような答えをもらえるでしょう。

しかし、前世のことについても未来のことについても、

そうした人間が過去のどんな人間に似ているか、

将来どんな人生を歩む傾向があるかを、

それぞれの経験と知識にもとづいて当てずっぽうで言うしかありませんので、

何人かに見てもらうとその人数分、言うことが食い違ってくるでしょう。

1人の霊視で満足せず、複数人に見てもらったという時点で、

すでにこの方は霊視や霊能力を心の底から信じてはいません。

ましてや異なる結果が出たことによって、懐疑の心が芽生えてしまったわけですから、

もういっそひと思いにこちらの世界 (懐疑の世界=哲学の世界) に来てみたらいかがですか。

11月30日 (土) に 「てつがくカフェ@ふくしま」 という催しが開催されます。

ぜひこちらの世界ものぞいてみてください。



P.S.

こんなこと言ってまた世界中のスピリチュアル系の人を敵に回してしまったかもしれないな。

まあでも、反証できない代わりに実証もできないんですからお互いさまということで…。




(以下は保存のための記事の引用)

霊能者によって言うことが食い違う霊視の謎     2013年11月24日

チャネリングの世界ならバシャールのダリルアンカや、シルバーバーチのモーリスバーバネル。日本の心霊研究では、美輪さんや江原さんなど。霊能力者という存在は時に時代のなかでもてはやされます。最近、二人のある霊能力者に、自分の前世や人生の傾向などをみてもらったというnoname#186311さん。ですが、その霊視の食い違いに「どちらを信じれば良いのかわかりません」と相談されています。

「霊能者によって言うことが違うのは何故?」

■ミスリーディングか、霊能力の種類の違いか?

「ある意味霊的な事って言った者勝ちみたいな所がありますからね」(Epsilonさん)

「どちらかもしくは両方がリーディングを誤ったのでしょう」(shiren2さん)

「霊能者と呼ばれる人に本物はほとんどいない気がします」(nekosan0000さん)

と、少々懐疑的な回答が並びます。他には、

「背後霊などから聞く方。神様から聞く方。予言に近いビジョンが見える方などいろんなタイプが居ます」(kyo-moguさん)

という回答も。確かにニューエイジ思想から流行したバシャールのような高次生命体といわれる存在にチャネリングする方法や、江原さんのような、相手の守護霊を見る方法など、色んな霊能力がありそうです。ただ、どれを信じるかは、自分次第ともいえそうですが…。

■霊視の見方は人によって違いますか?

質問者さんによれば、前世は「明治時代に日本で生きていた」と言う見方と「日本で生があったことはほとんどなく、唯一わかるのは、江戸時代に遊び人のような人間であったことがある」という見方に分かれているそう。

「こうなったら10人くらいに見てもらって平均を求めたらどうでしょう」(KoalaGoldさん)

と、やや乱暴な意見も出るなか、michael-mさんは、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話、「群盲象を評す」を例にあげ、「目の見えない人はゾウを見ることが出来ませんが、私達は霊を見ることは出来ません」と、同じものを見ていても、見ている部分は違うという、なるほどな意見も出てきます。また、長年占い師をしていたという39haruさんによれば、

「占いにしても、占う人間が違えば全く違う答えが出ます。(でも、同じ人間だと、結構似た答えなんですけど)それで、若い頃はよく言い合いになりましたが、年を重ねて、その占いの結果を長く見守っていると、お互い当たっていたように思います」

と、話されます。回答をみれば、霊能力者との相性だけでなく、相手に相談しながらも、ある程度は自分自身の人生を読み解くスキルも求められるような気もします。そう思うと本末転倒な気もしますが、二人の霊能力者に高いお金を使ってしまったという質問者さん。

結局は、自分の都合のよいところだけ取り入れ、今後は霊能力者には頼らず、「今幸せに生かされていることに感謝して、毎日を淡々と生きていけばよい」との結論に達します。

霊能力の是非は別として、ちょっと憧れてしまいそうな特殊な力。あなたなら、その違いをどう受け止めますか?

天城毅彦(Amashiro Takehiko)

教員の邪悪な喜び (その2)

2013-11-26 07:24:24 | 教育のエチカ
教員という仕事には邪悪な喜びが伴うという話を昨日書きましたが、その話の続きです。
昨日はもっと別の喜びで代替しようというとてもまじめな話で終えましたが、
今日のはそれとはちょっと違う方法です。
先日の講演 「まさおさまの幸福の倫理学」 のなかで、
「②-1 欲求・欲望をコントロールする」 という方法をご紹介しました。
それの応用編です。
特権を行使し人を支配することは楽しいことだと認め、
その欲求・欲望はどんどん肥大化して歯止めが利かなくなりがちだということも理解した上で、
この邪悪な欲求をできるだけ小さく抑え、
他人に実害を加えなくてすむくらいにコントロールしながら楽しむというやり方です。
これは、いつものように私が講義をしているときにふと発見してしまった方法です。

私の講義はむちゃくちゃ板書が多いです。
M教室の4面の黒板を用いて書いては消し書いては消し、
延々と板書をしていきます。
で、ときどき大事なキーワードや記号なんかを書くときに、
白のチョークではなく黄色や赤の色チョークに持ち替えて書くことがあります。
そうすると学生たちはみんな一斉に、
筆箱をガチャガチャ言わせながら色ボールペンを取り出すのです。
別に私は 「ここは色を変えてノートしておいてね」 と指示したわけでもないのですが、
みんなちゃんとペンを持ち替えてくれるのです。
私の振る舞いによって70~80人が一斉に動き出すのを見ているとものすごく気持ちいいです。
ああ、みんな俺の言いなりだ、今俺はこれだけの人間を支配してるんだ、と感じられます。
それは小っちゃいけれど十分邪悪な喜びです。
しかも誰にも実害は与えません。
ノートのなかのキーワードが赤ペンで強調されることによって、
むしろ彼らは利益を得ています。
私が心のなかで邪悪な喜びに打ち震えているのも知らないで、
彼らは単位を取る上で重要な単語を記憶に刻みつけているのです。

昔一度だけ、エスカレートしたがる邪悪な欲求に負けて、
キーワードでも何でもないところを黄色いチョークで板書したことがありました。
するとやはりみんな一斉にペンを持ち替えて書いてくれました。
こんな単語、大事でも何でもないことなんかちょっと考えればわかりそうなものなのに、
やっぱりみんな俺の言いなりなんだ、と邪悪な欲求は一瞬満たされましたが、
しかしすぐに後悔と自責の念に囚われてしまいました。
で、「ゴメン、ゴメン、ここはキーワードじゃなかった」 とすぐに謝り訂正することになりました。
昨日も言ったとおり邪悪な喜びは長続きしないのです。
特に相手に実害を与えるような振る舞いは一瞬しか喜びをもたらしてくれないと知り、
その後はそんな馬鹿なマネはきっぱりやめ、
邪悪な欲求がこれ以上肥大化していかないようコントロールしています。

学生たちにこの話もしてあげました。
邪悪な喜びに打ち克てない人は、こんなことでもその喜びを得られるから、
それ以上エスカレートしないようにこれぐらいで満足していようね、と。
この話を授業でしたのが、福大祭のあとでしたから2、3週間前のことだったでしょうか。
その後、授業をするときに何かちょっと違和感を感じていました。
その違和感が何なのかよくわからないのですが、何かいつもと違う感じがしていたのです。
その正体が先週の授業のあとやっとわかりました。
ある学生さんがワークシートにこんなふうに書いてくれていたのです。

「授業の内容とは関係なくてごめんなさい。
 先生が、『色を使ったときにみんながガチャガチャするのが気持ちいい』
 といったようなことを以前おっしゃっていました。
 その後、色を使うとき (今日の 「>」 など) に、みんなが密かに抵抗をしているのか、
 ペンケースから音を立てないようにひっそりと取り出している感じがして
 すごくおもしろかったです。
 かく言う私も、音を立てないようについ気をつけてしまいます。」

クソー、そうだったのか!
そうなんですよ、色チョークを使ったときに得られる快感が薄れていたのです。
色チョークを使うとみんなペンを持ち替えているのは見えますから、
それで気づかなかったのですが、
みんなが一斉にガチャガチャ言わせるあの音があまり聞こえないから、
それで邪悪な喜びが半減してしまっていたのでした。
なるほど、やはり人はどんなことであれ人から思い通りに操られるのはキライなんだな。
だけど授業前にみんなで話し合ったわけでもないだろうに、
みんながみんな揃ってそんな行動を取っていたとは…。
やはり人を支配しようなんて思ってはいけませんね。
必ずしっぺ返しを食らいます。
というわけで教員の邪悪な喜びに身を委ねるのはやめて、
やはり人の成長を助け人の成長を見届けるという、
教員にとっての正当でかつ最大の喜びを追求するようにいたしましょう!
どうしてもやりたい人はネタバレしないよう気をつけてください。

教員の邪悪な喜び (その1)

2013-11-25 09:13:30 | 教育のエチカ
私は講義科目の一番最初の時間に 「教室の倫理」 について話をします。
そのなかで 「教員の完全義務」 として 「教員の特権を不正に行使しない」 を挙げています。
教員は学生に対して特権というか権力をもっています。
いろいろあるなかで一番強力なのが単位認定権です。
学生に単位を与えるも与えないも教員の匙加減ひとつです。
これを効果的に使うと学生を思い通りに支配することができます。
この授業の単位がもらえないと卒業できなくなるというような、
瀬戸際のところで単位認定権をちらつかせると、
学生のほうは言いなりになるしかありません。
そういった権力関係のなかでセクハラアカハラが発生するわけです。

私の授業の受講者は教員志望者の比率が高いですので、
ただ 「そんなことをしてはいけない」 と倫理を教え込むだけでなく、
もうちょっと突っ込んだ話もしてあげています。
それは、特権を濫用するのは楽しいことだ、ということです。
人を支配することには邪悪な喜びがあります。
そのどす黒い事実をきちんと知っておく必要があります。
たんに 「特権を濫用してはいけない」 などときれい事を並べても、
現場での不祥事を抑止することはできません。
邪悪な喜びに打ち克つためには、それなりの心構えと準備が必要だからです。

特権を濫用したり人を支配したりすることには邪悪な喜びがあると知った上で、
どうしたらそれに溺れずにすむかを考えておく必要があります。
私はこんなことを付け足したりしています。
まず、邪悪な喜びというのは何にせよすぐに失われやすく、
したがって邪悪な欲求を一度解放してしまうと、どんどんその欲求は肥大化してしまい、
歯止めが利かなくなってしまうので、けっきょくは身を滅ぼすことになる、
ということをあらかじめ知っておくべきでしょう。
ちょっと戯画化されすぎてはいますが、『悪の教典』 はまさに、
邪悪な欲求が最初は大したことなくて、むしろ現代の学校のなかでうまく機能していたのに、
それがどんどんエスカレートしていき、最後ははちゃめちゃなことになる様を描き出していました。
タバコやドラッグと同じように一度手を出すと歯止めが利かなくなってしまうので、
最初から手を出さないように気をつけておく必要があるのです。

そして重要なのが、教員という仕事には、邪悪な喜びとはまったく異質な、
もっと大きな喜びがある、ということを知っておくことです。
それは、人の成長を助け、人の成長を目の当たりにすることができる、という喜びです。
これはものすごいプラスの喜びです。
そして、ちょっとしたことでこの喜びを手に入れることができます。
さらにはこの喜びに付随して、
相手に感謝されるとか尊敬されるなんていうオマケがついてくることもありますが、
これはあくまでもオマケであって、
特に感謝なんかされなくても尊敬なんかされなくても十分に喜びを味わえます。
これを知ってしまうと病みつきになります。
学校の先生のなかには管理職への道を進まずに、
生涯一教員として現場に留まり続ける人がいますが、
そういう人は、人の成長を助け人の成長をこの目で見るという喜びが、
他の何ものにも代えがたいということに気づいてしまった人たちです。
この喜びに比べたら、特権を濫用し人を支配することで得られる喜びなんて、
本当に吹けば飛ぶようにちっぽけなものです。

実はこれは教員に限った話ではありません。
どんな職場でも何年か経てばだんだん中堅からベテランになっていきますし、
そうすると後輩の面倒をみたり、部下を育成したりする必要が出てきます。
そのような上下関係のなかでも特権や権力が発生してきますから、
邪悪な喜びに負けてしまうこともありえるのですが、
それ以上に後輩や部下の成長を助け、成長を見届けるという大いなる喜びがあるのです。
邪悪な喜びは自分ひとりだけのものですが、
人の成長を助けることで得られる喜びは自分ひとりだけのものではなく、
相手とともに喜びあえるものですので自分が感じている以上に何倍にもふくらみます。
そういう人間の成長・発達を支援する喜びにみんなが目覚めてほしいものだと思います。

ええっと、この話を書き始めたとき、こんなまじめな話をしたかったわけではないんです。
が、長くなってしまったので今日のところはまじめなまま筆を置きたいと思います。
一番書きたかった話はまた明日にでも。

Q.正戦と聖戦はどう違うのですか?

2013-11-24 11:43:14 | グローバル・エシックス
「戦争と平和の倫理学」 で前回は正戦論について考えてもらいましたが、
次のような質問をもらいました。

「授業では 『正戦』 という言葉が使われているが、
 『聖戦』 とは意味が異なるのでしょうか?」

A.はい。正戦と聖戦は違います。

どう違うかというと文字通りです。
つまり、正戦は正しい戦争、聖戦は神聖なる戦争です。
「神聖な」 という形容詞は基本的には宗教がらみでしか使えない用語です。
したがって、神の命令とか宗教的教義にもとづいて行われる戦争が聖戦です。
神や宗教が間違うわけはないので (その宗教を信仰している人たちから見れば)、
聖戦はみな正しい戦争、つまり正戦ということになります。
しかし、逆は成り立ちません。
正戦と判定される戦争がすべて宗教がらみとはかぎらないからです。
つまり、「聖戦 ⊂ 正戦」 という関係になります。

ウィキペディアでも別の単語として項目を分けて説明されています。
まずは 「聖戦」 のほうを見てみてください。

  ウィキペディア 「聖戦」

冒頭で 「聖戦とは、宗教的に神聖とみなされる、正義のための戦争を意味する語である」
と定義されていて、神聖であり、かつ正しいという2つの含意がはっきりと書いてあります。
続いて 「正戦」 のほうを見てもらいましょう。

  ウィキペディア 「正戦論」

最初に 「聖戦とは概念が重なる場面もあるが、多くは別枠で論じられる」 と注意書きがあり、
「正戦と聖戦」 という項目が立てられていて、2つの違いが説明されています。
その中で、言葉の定義の違いというよりも、戦争のあり方の違いとして、
次のように書いてあることが重要です。

「正戦論はできるだけ戦争を限定することにより、戦争の害悪を少なくしようとする理論であると捉えられる。一方、聖戦は非限定戦争になる蓋然性が高くなる。」

聖戦は、神様や宗教によって正しいとお墨付きをもらっている戦争なので、
敵を殲滅するまで徹底的にやってしまう可能性があるわけです。
そう考えると、概念としては 「聖戦 ⊂ 正戦」 という関係になりますが、
実体としては、「聖戦 ≠ 正戦」 ということもありえるわけです。
以上です。
ご理解いただけたでしょうか?


P.S.
そういえばワークシートに正戦のことを 「征戦」 と書いている人がいました。
征戦とは 「戦いにおもむくこと」 ですので、これはまったく別の言葉です。
お間違えなく。

日本カント協会公開シンポジウム 「カントと日本国憲法」

2013-11-23 06:38:19 | 哲学・倫理学ファック


というわけで (どういうわけだ?) とうとう今日が日本カント協会第38回学会です。
いやあ、苦しみました。
けっきょく研究室に2連泊してしまいました。
ずっと来なかったはかどりネコさんでしたが、最後の最後でやっと来てくれて、
なんとか間に合わせることができました。
ていうか、前日 (金曜日) の昼には出来上がりましたので、
それまでのありえない遅れぐあいからするならもうミラクルと言ってもいいくらいです。
他の提題者や司会者の方々に何とか事前にファイルを送り、
(むろん私が一番ビリでしたが)
印刷して丁合もしっかり終えました。
事務局に問い合わせたところ、会員で学会に来るのは100名くらいだけど、
今回は公開シンポジウムなので200部資料を用意してくれとのことでした。
いやいや、そんなに一般の方がこんな学会なんかに来てくれるわけないでしょう、
と思いましたが、まあ指示なのでしかたありません、200部作りました。
2時間近くかかりましたよ。

日本カント協会というのは、カント研究者である私にとってはある種メインの学会なんですが、
その学会でシンポジウム (これは学会のメインイベントです) の提題者を依頼されるというのは、
もちろん初めての栄誉ですし、まさか私がそんな場に呼ばれるとは思っていませんでした。
(妻には年取ったってことやね、と言われました。)
その初めての晴れ舞台が何の因果か、公開シンポジウムだなんて
日本カント協会のシンポジウムが公開になることなんてそうそうあることではありません。
そんなめったにないチャンスに当たってしまうなんて
頼まれたときも特に 「今回は公開ですけど」 と言って頼まれたわけではありませんでした。
冒頭のポスターが送られてきて初めて知ったくらいで。
なお、事務局に問い合わせてみたところ、非会員の方が参加する場合、
参加費 (資料代って言ってたかな?) として500円が必要だそうです。
この話を聞いて純ちゃんが聞きに来ると言い出すし…。
まあ、ぼくの駄話くらいは福島でいくらでも聞かせてあげられるけど、
山室先生のお話を直接聞けるのはめったにないチャンスかもしれないのでいい機会でしょう。
東京近郊の方で興味のある方はぜひっ!

ところで冒頭に掲示したポスターですが、
けっこうセンスいいと思うんです。
この絵のカントはちょっと精悍すぎて私のイメージと違いますけど、
ま、でもポスター的にはカッコいいと思うんです。
ただ1つ気に入らないことが…。
最初の3行の欧文ですが、これ読める方いらっしゃいますか?
カントなのでドイツ語です。
だけど一般語学でドイツ語を履修していたとしても、
この文字がなんと書いてあるかわからない人がけっこういらっしゃるのではないでしょうか。

これはヒゲ文字です。
(正式名称は知りません。私はそう教えられてきました。)
ドイツ語には他の言語にないウムラウトという点々のついた文字とかがありますが、
そういうのとは関係なく、普通のアルファベット文字をちょっと崩して、
何となくエラそうというかカッコよく表したのがこのヒゲ文字です。
フツーの文字とはちょっと違いますから、初めて見るとまったく読めませんが、
だんだん慣れてくると頭のなかでフツーのアルファベットに置き換え可能になってくるので、
読めるようになってきます。

これに初めて出会ったのは東京外国語大学の図書館ででした。
4年生になりカントで卒論を書き始めた私は、
理想社版のカント全集などで純粋理性批判とかを読んでましたが、
ある日、どうしても解釈に困って原文を知りたくなり、
図書館で原書のカント全集を探したらヒゲ文字に出会ったのでした。
カントを原書で読むときに一番権威があるのは、
アカデミー版カント全集というやつで、
これはディルタイという生の哲学者が20世紀の初頭に刊行を始めて、
今もなお完結してないというものすごい全集なのですが、
これが徹頭徹尾ヒゲ文字なんですよ。
表紙のタイトルだけとかじゃなくて、中の文も全部ヒゲ文字です。
ホント、驚きました。
初心者には何のことやら、まったく1文字も読めないのです。
そんなバカなことをやってるのはアカデミー版カント全集くらいで、
他のところから出ているカントの原書はフツーの文字です。
ドイツ語の力が足りないからたしかに読みこなせないけど、
1個1個の単語くらいはわかるんです。
そして、知らない単語が出てきたら辞書で引くこともできるんです。
スペルがわかるんですから。
ところがヒゲ文字だとそもそもスペルが何て書いてあるかがわからないのです。

これには苦労させられましたねぇ。
カント研究の世界では、カントから引用するとき、
アカデミー版カント全集の頁付けを記すという慣行がずっと昔からあります。
(それくらい権威のある全集なわけです。)
だからカントで論文を書こうと思うとヒゲ文字が読めないとお話にならないのです。
これはホント大変でした。
スラスラ読めるようになったのはいつぐらいからだったでしょうか。
とまあ、それぐらいヒゲ文字っていうのは、
カント研究者にとっての最初の躓きの石だったわけです。

そんな文字をポスターに使う意味はあるのでしょうか?
しかも今回は公開シンポジウムですよ。
誰も読めないじゃないですか。
まあ最初の3行が読めなくてもホントに聞きに来たいと思ってる人には関係ないと思いますが…。
しかし、わざわざ日本国憲法をシンポジウムのテーマに取り上げて、
一般の人にも参加してもらいたいと思っているのだとしたら、
今回ヒゲ文字を使う意味はあったのでしょうか?
私にはその意味が見えません。
ただでさえ遠い存在であるイマヌエル・カントを、
より遠く感じさせる効果しかなかったんじゃないでしょうか?
アカデミー版カント全集に親しんでいて、
それがヒゲ文字で書かれているということを知っているコアなカント研究者以外に、
あのポスターはなんらかのメッセージを届けることができたんでしょうか?

せっかくですのでフツーの文字に変換しておきますね。
あ、ヒゲ文字見たいですか?
もう一回画像掲げておきます。



    38.Jahrestagung
Japanische Kant-Gesellschaft
    Tokyo 11.23.2013


こうやってフツーの字で見てみるとどうってことないですね。

1行目は 「第38回学会」(年に1度の大会)、
2行目は 「日本カント協会」
(Gesellschaft はゲマインシャフトとゲゼルシャフトのゲゼルシャフトです)
3行目は東京で今日やるよってことです。
というわけで今日やりますので、どなたでもご参加ください。

快挙! バスケットボールのルール改正

2013-11-22 08:26:11 | 人間文化論
まずはこの動画↓をご覧ください。

「あるバスケット選手のシュートシーン」

これは以前にもご紹介したことあるんですが、

3年前に 「ダンクシュートっておかしくない?」 っていう記事を書いたときに引用したものです。

これはダメですよね?

これはバスケットボールって言えますか?

ぼくも 『SLAM DUNK』 はキライじゃないんで、

(金谷川駅前の 「たんぽぽ」 で人知れず涙を零しながら全巻読破しました!)

ダンクシュートにある種の美学を感じないでもないんですが、

しかし、よく考えるとダンクシュートの行きつく先って冒頭のシュートシーンになってしまうと思うんです。

先の記事では私はこのように主張しました。

「身長2m31cmだそうです。
 こうなったらもうお手上げじゃないですか。
 彼はたぶん2万本のシュート練習なんてしなかったでしょう。
 彼はバスケットボールをやっていて楽しいのでしょうか?
 バスケットボールの神髄を楽しむためには、やはりどんなに背が高い人でも
 ボールを投げ上げなきゃいけないくらいバスケットを十分高くするか、
 あまりにも身長の高い人は排除するか、
 それではかわいそうなので、身長による階級を設けるか、
 (チェ・ホンマン級とかトム・クルーズ級など、それぞれの級によってゴールの高さを変える)
 なんらかの対策を講じる必要があるように思うのです。
 バスケットボールの構成的ルールは、
 高いところにある駕籠にボールを投げ入れて点を競うというところにあり、
 したがって、投げずに点を入れることはできないようにするべきだ、
 というのが今日の私の主張でした。」

こんなことを3年前から思っていたわけですよ。

そうしたら先週、今年も 「文化創造論」 で 「異文化交流プレゼン」 をやってもらっているところですが、

バスケットボールチームのプレゼンがあって、そこで衝撃の事実を知ってしまいました。

2020年の東京オリンピックからルール変更が行われるのだそうです。

身長160cm以下、190cm以下、無制限の3段階に分けた

「身長別試合」 というシステムが導入されると言うのです。

しかも、「バスケットゴールの高さをこれまでの3050mm (10ft) の1.5倍である

4575mm (15ft) にした 『ハイバスケット』 にする」 んだそうです。

まさに私の言ってた通りじゃないですか

素晴らしい。

快挙だっ!

これはものすごい英断です。

国際バスケット連合やるなあ…
















と思い、このニュースの出所を探してコピペしとこうと思ったわけですよ。

「バスケットボール」、「ルール改正」、「東京オリンピック」 でググッてみましたよ。

そうしたら元ネタが出てきました。

こちら↓です。

「2020年の東京オリンピックからバスケットに新ルール採用が決定」

うん、たしかにあったね。

ん? あれ?

それにしてもおかしいなあ、これしか引っかかってこないな。

ふつうニュースってあちこちの新聞社やテレビ局のサイトで複数ヒットするはずなのに。

これはどこのニュースだ?


って、「未来新聞」 じゃないですか

2018年10月11日の記事になっています。

下のほうにはこんな注意書きが付いています。

「※本記事は、対象となっている事柄について、無限に広がる未来の可能性の中のたった1つを描いているに過ぎません。 ですから、決して記事の内容を鵜呑みにしないでください。 そして、もし本記事とは異なる未来を想像したのなら、それを別の記事として書いていただけると幸いです。 このプロセスを通じて、私たちは未来についての視野を広げ、未来の可能性を切り開いていくことができるでしょう。」

おーい、バスケットボールチーム、これをプレゼンで使っちゃったのかあ?

ぼくも含めてあのプレゼン聞いたみんな全員これ信じちゃってるぞ。

てか、君たちも東京オリンピックに向けて、

身長別のチーム編成で練習とか試合とか始めちゃってるんじゃないのか?

バスケ部、しっかりしろぉ。

S浦先生に告げ口しちゃうよ。

いやあ、それにしてもビックリしました。

あまりにも私の思っていた通りになってくれてたので…。

そして、やっぱり世の中って自分の思い通りにはならないんだということを、

イヤというほど思い知らされてしまったので…。

とりあえず、あのプレゼンをそのまま鵜呑みにして世界に発信してしまわないでよかったぁ。

危うく大恥かくとこだった。

ホント、バスケチーム頼むよぉ。

専門家にあんなこと言われたらこっちはコロッと信じちゃうんだから。

今後はこれがウソから出た真になるように、

バスケットボール協会とかに働きかけていってもらいたいと思います。

2018年までにはホントに実現するといいね!

『憲法9条の思想水脈』

2013-11-21 12:16:07 | グローバル・エシックス

もう明後日は日本カント協会の公開シンポジウムで提題しなければなりません。

まだ原稿はできていません。

あらかじめ完成原稿を他の提題者や司会者の方々にお送りしておくのが礼儀でしょうが、

礼を失することになるのはもはや火を見るよりも明らかです。

この期に及んでまだはかどりネコさんは来てくれません。

このあいだの夏と同様、研究室に泊まり込んでバリスタ・コーヒーを大量摂取して待っていますが、

どうも筆が進まないのです。

頭のなかに全体の構想はできあがっているんですが、ひとつひとつの文として着地してくれません。

で、集中できずに Facebook に手を出したりブログに手を出したりするもんだから、

よけいにネコさんは姿を現すことができないという悪循環です。

木曜日は2限と4限があるし、金曜日は夜に学長選挙の候補者質問会があってその実行委員だし、

ホントにもう十分追いつめられているのに…

もう原稿が本当に間に合わなかったら、冒頭に掲げた本を朗読でもしようかな。

3人いる提題者のうちのおひとりが山室信一先生で、

その方の御高著がこの 『憲法9条の思想水脈』 です。

山室先生は哲学・倫理学畑ではなく、法学畑の方で (特に法思想史)、

日本カント協会の会員ではないのですが、まさにこの本を世に問われていることから、

今回のシンポジウムにふさわしいということで外部からお招きすることになった方です。

この本が面白いんです。

憲法9条の源流ということでカントも含む西洋の平和思想がたどられたあとで、

日本思想史に目を転じ、幕末から日本国憲法制定に至るまでの、

日本近代史のなかに現れたさまざまな非戦思想や永久平和思想が紹介されていきます。

その数がハンパじゃありません。

先日の私の授業とブログで、戦争を全否定する人はそれほどいるわけではない、

なんて言ったり書いたりしてしまいましたが、そんなのとんでもありません。

日本のなかに (しかも戦前の!) これだけ脈々と非戦・平和の思想が受け継がれていたのかと、

本当に目から鱗が落ちる思いで驚かされました。

日本国憲法はよく押しつけられた憲法だという言われ方をしますが、全然そんなことはない、

むしろ日本人の血脈から生まれるべくして生まれてきたんだという気になってきます。

ねっ、私のアイディア勝負のカント解釈、日本国憲法解釈なんかよりよっぽど面白そうでしょ?

そう思うとよけいに筆が進まなくなるわけです。

しかも、自分の提題後はこんな大先生やフロアの皆さん方と、

「今、なぜ、日本でカントか?」 という大問題をめぐってやり合わなければなりません。

気が重くなってくるのもおわかりいただけますでしょうか。

ああ、困った。

どうしよう。

やっぱり朗読だな…。

それにしてもこの本、今どきの本にしては1,300円とたいへんお手頃価格になっています。

それでいてこの面白さ。

第11回司馬遼太郎賞を受賞したそうです。

「戦争と平和の倫理学」 を受講している人は全員買って読むように!

映画 『陽だまりの彼女』 に見る秘密と真実

2013-11-20 11:54:24 | 哲学・倫理学ファック

映画 『陽だまりの彼女』 見ました。

義弟がこの映画の照明をやってるもので鑑賞券を頂戴したので、

原作のこととかまったく知らずにただ見に行ったんです。

(もちろん逃避のためです。)

ちなみに義弟は、名前でググるとこれまで携わった映画一覧が出てくるような映画人なんですが、

残念なことに世界的に一番売れたであろう 『ラストサムライ』 に関しては、

その他大勢の現地スタッフの1人として扱われたのかエンドロールでクレジットされておらず、

したがってこれまで携わった映画一覧のなかにもリストアップされてきません。

しかしまあ、その後に再び渡辺謙と組んだ 『明日の記憶』 なんかはけっこう有名だったのでは?

今回の映画ではタイトルどおり陽だまりのシーンが何度も映し出されていました。

(冒頭の画像の左側みたいなやつ)

あれって自然な太陽光に見えてたけど、義弟のお仕事だったんでしょうか?

それはさておき。

この映画、スゲェびっくりしました

こんなストーリーだったなんて。

原作は 「女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1」 というキャッチコピーで有名だった、

ということは映画を見終わったあとに知りました。

映画のほうのキャッチコピーは 「最初で最後の恋だった」 で、

「恋」 に 「うそ」 とルビがふってあるというのもあとから知りました。

ホントに何の情報も何の先入観もなく映画を見てしまったので、

まさかこんなストーリー展開になるなんてまったく予想できませんでした。

ヒロインに何か秘密があるらしいことは気づいていましたが、

こんなスゴイ秘密だったなんて

もっとフツーの恋愛映画になるのかと思ってました。

ああビックリした。

私以外のほとんどの人はストーリーを知ってるんでしょうから、ネタバレしちゃってもいいかなあ?

でもそれは反則だろうなあ。

ここまで読んでみて何のことかわからない人はぜひ見てみてください。

今度のてつカフェのテーマ 「知らなくてもよい真実はあるか?」 という問題にも、

ものすごく関わってくるようなお話でした。

ヒロインは最後まで自ら真実を語ろうとはしませんでした。

(「うそ」 というよりは 「秘密」 なんだと思います。)

しかし、隠されているほうは真実を知りたがりました。

たしかにこれは一方からとって見れば 「知らなくてもよい真実」 だったのかもしれませんが、

もう一方にとっては 「知るべき真実」 だったのです。

相手は知らなくてもよいとこちら側が一方的に判断を下すことは、

ものすごく危険なことであり、ものすごく傲慢なことでもあります。

現在の政治の最大の焦点である特定秘密保護法案にも関わってくる重大な問題です。

ほっこりビックリしながら日本の政治にも思いを馳せることのできる、そんな映画でした。

もうすぐ終わっちゃいそうですので、ぜひてつカフェ前にご覧になってご参加ください。



P.S.

ただのキャッチコピーなんだとは思いますが、

なんで 「女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1」 って言われるようになったんでしょう?

男子へのお薦めポイントがどこにあるのか私にはイマイチよくわかりませんでした。

誰か、恋愛の機微に疎い男子にもわかるように説明してくれませんか?

ちゃんと教えてくれないと、特定秘密保護法案とかと絡めてこの物語を解釈しちゃうよ。

Q.道徳と倫理の違いは何ですか?

2013-11-19 21:06:32 | 哲学・倫理学ファック
これは 「戦争と平和の倫理学」 を取っている学生さんからもらった質問です。
私の授業の内容とは直接関係ありませんが、道徳教育か何かの授業で問題になったらしいです。
どうお答えしましょうか。
意外とめんどっちい質問です。
西洋倫理学を専攻する者としての答えはある程度はっきりしていますが、
日本思想史や東洋思想史を専攻する人はたぶん別の答え方をするでしょうし、
うち (元教育学部である人間発達文化学類) の場合は、
日本の教育における 「道徳の時間」 と 「高校公民科・倫理」 のことも念頭に置く必要があります。
ああ、めんどっちい。

ちなみにWeb上の 「YAHOO!知恵袋」 のような質問コーナーにも、
「倫理と道徳の違いは何ですか?」 みたいな質問がいくつかアップされ、
それに素人の方々が各人の勝手な語感のみにもとづいて回答したりしていますが (例えばココ)、
その内容はほとんどデタラメです。
とりあえず、西洋倫理学研究者の立場からお答えしておきましょう。

A.訳語としての 「道徳」 と 「倫理」 は語源に遡れば同義なので違いはありません。
  思想家がそれぞれ独自の定義をすることによって使い分けたりしています。

「道徳」 は moral の訳語であり、moral の語源はラテン語の mores です。
「倫理」 は ethics (または ethic) の訳語であり、その語源はギリシア語の ethos です。
mores も ethos もどちらも 「慣習、習俗」 という意味なので元はと言えば同義なのです。
moral も ethics もその 「慣習、習俗」 という意味から発して、
しだいに、ある集団の中で守られるべきルールや行動様式全般のことを指すようになりました。
フランス語にもドイツ語にも英語にも、
ラテン語起源の moral に当たる語とギリシア語起源の ethics に当たる語の両方があるわけですが、
まったく同じ意味の言葉が2つあるのはもったいないので、
思想家は自分なりに定義して両者を使い分けたりしました。
例えば、カントは Moral を広い意味の言葉とし、
Moral (=道徳) の中に Recht (=法) と Ethik (=倫理) が含まれると定義しました。
ところが、ほぼ同時代のヘーゲルは逆に Ethik (=倫理) のほうを広い意味の語と定め、
Ethik (=倫理) の中に個人道徳である Moral と客観的な法体系である Recht が含まれる、
というふうにカントとは逆転させて使いました。
同時代の2人がまったく逆の使い方をしても許されるくらい、
元はと言えばどちらの語も大して違いはなかったということなわけです。

日本語の道徳と倫理にもほぼ同じようなことが言えます。
ですので、例えば辞書で 「倫理」 を引くとこう書いてあります。

「りんり 【倫理】
1 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「―にもとる行為」「―観」「政治―」
2 「倫理学」の略。」

このように 「倫理」 の説明の中に 「道徳。モラル」 と記されていたりします。
しかし、基本的に違いはないながらも、日本語としての道徳と倫理には、
ちょっとしたニュアンスの違いがあるように感じる人も多いでしょう。
そこで逆に辞書で 「道徳」 を引いてみると、その中には 「倫理」 という言い換えは出て来ず、
こんなふうに説明されていました。

「どうとく 【道徳】
1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。
3 《道と徳を説くところから》 老子の学。」

1の後半部分が重要です。
「法律と異なり、…内面的原理として働く」 と書かれています。
これは、ヘーゲル的な狭い意味での用語法になります。
辞書ではなく百科事典で 「道徳」 を調べてみるとこんな記述もありました。

「どうとく【道徳】
こんにちの用法では倫理という語と根本的な相違はない。倫とは仲間を意味し,人倫といえば,畜生や禽獣のあり方との対比において,人間特有の共同生活の種々のあり方を意味する。倫理とは,そういう人倫の原理を意味し,道徳もほぼ同様であるが,いずれかといえば原理そのものよりも,その体得に重点がある。すなわち,道とは人倫を成立させる道理として,倫理とほぼ同義であり,それを体得している状態が徳であるが,道徳といえば,倫理とほぼ同義的に用いられながらも,徳という意味合いを強く含意する。」

道徳と倫理は 「根本的な相違はない」 と言いながらも、
道徳は 「(倫理を) 体得している状態」 という意味合いが強いと書かれています。
先ほどの辞書で言う 「内面的原理」 というのもそういう意味合いを指しているのかもしれません。
やはり道徳というのはヘーゲルが言うように個人道徳のニュアンスが強くなるのでしょうか。
私はカント主義者なので、ヘーゲル的な使い方はあまり好きではないのですが、
一般の方々の語感を考えるとそうとばかりも言っていられず、
昨年出版した 『高校倫理からの哲学3 正義とは』 に書いた文章のなかでは、こう説明しました。

「『倫理』 という語の語源は、西洋語では 『習慣、慣習』 であるが、ここでは漢字の 『倫理』 についてのみ確認しておくことにしたい。『倫』 という文字は 『仲間』 とか 『人びとの集まり』 を表している。『絶倫』 というのは、仲間うちでずば抜けてすぐれているという意味である。『理』 という文字は、もともと 『玉石を磨いたときに現れる筋のある模様』 を表していた。そこから、人間関係の中で通すべき 『筋目』、つまり、決まりごと、ルール、義務、といったようなものも意味するようになった。したがって、『倫理』 とは、人びとが集まってきたときに必ずできる決まりやルールのことを意味するのである。習慣とか礼儀作法とか義務とか道徳とか法律とか、そういったものはすべて 『倫理』 である。
(中略)
『倫理』 という語のほかに 『道徳』 という語もある。この2つはほぼ同じ意味のことばである。『道徳』 という語の西洋語の語源もやはり 『習慣、慣習』 であるが、それよりも広く、『人のふみ行うべき道』 全般を指すことばとして使われている。なお現代では、『道徳』 は個人の内面的なものに限定し、『法律』 のように外的強制力をもつものとは区別するような使われ方が増えてきている。思想家によって語の定義の仕方は異なっているのだが、ここでは、習慣や道徳のような内面的なものも、法律のような外面的なものも合わせて、人びとの集まりの中に必ずできる決まりやルールなどをすべて 『倫理』 と呼ぶことにしたい。」

この文章は倫理と道徳の違いを説明したというよりも、カントやヘーゲルの場合のように、
自分としてはこの論文ではこういうふうに使い分けることにしますよと宣言した文章になっています。
けっきょくのところ、それぐらいの違いしかありませんよというのが、
今回の質問に対するお答えになるのではないでしょうか。
あまり役に立たない答えでゴメンね。


P.S.
ところで、先ほどの辞書の 「倫理」 の定義の中の2に、
「『倫理学』 の略」 と書かれていました。
私は一貫して 「倫理」 と 「倫理学」 はまったく違うものだと主張していますが、
一般には 「倫理」 とだけ言えばそれは 「倫理学」 のことを指すという理解もあるようです。
そう考えてみると、小中学校では 「道徳」 の時間が置かれていて、
子どもに 「善悪をわきまえて正しい行為をなすために守り従わねばならない規範」 を 「体得」 させる、
ということが目指されているのに対して、
高校では公民科という教科の中に 「倫理」 という科目が置かれて、
「人として守り行うべき道」 や 「善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの」 が、
はたしてどのようなものであるのかを考えさせることを目的としている、
というのは適切な使い分けであるのかもしれません。

【2ch】 抱腹絶倒厳選おもしろコピペ集

2013-11-18 07:08:18 | 幸せの倫理学
【2ch】 NAVERまとめサイトから、「抱腹絶倒厳選おもしろコピペ集」 です。
その中から私が笑えたものだけ拾ってみました。
もちろん今週の土曜日に学会発表が迫ってきての、完全なる逃避行動です。


【世界でいちばん大事なもの】
地元の小さい遊園地で、遊具の順番待ちの列に並びながら、
幼稚園に上がりたてぐらいの女の子とその父親。

父 「パパもママもねぇ、香奈が世界で一番大事なんだよ」
娘 「そうなのー?」
父 「そうだよ。パパとママにとって香奈より大事なものはないんだよ」
娘 「ふーん、ありがとー、香奈もパパとママ大好き」
父 「ありがとう。じゃ、香奈の一番大事なものもパパとママかな」
娘 「ううん、ネギトロかなー」



【コロスケ】
よく行くファミマで主人と2人で買い物をしていたら、主人が小声で
「柔らかいナリ! 柔らかいナリッ!」 と必死でコロスケのマネをしていた。
「はぁ? 何が柔らかいの?」 と聞くのに 「柔らかいナリ!」 と何度もしつこいので、
「だから! 何が柔らかいのか聞いてるのに!!」 と大声を出してしまった。
コンビニが一瞬にして静まりかえり焦る私に半ベソで主人は 「柔らかいナリ。」 と商品を手渡した。
良く見ると 「やわらか いなり寿司」 と書いてあった…。



【これが起源である】
なんかぁ
むかしぃ
バイクにぃ電飾つけてあそんでてぇ
そんでみんなやってるからぁ
車とかもあるしぃ
船でやってみたらぁ
イカあつまってきたんすよねぇ



【最期の望み】
俺には90のじいさんがいる。
先月癌で入院し、闘病中だったが昨日あることを言われた。
「死ぬ前に…クリームパンが食べたい…」
俺はすぐにコンビニへ走り、クリームパンを買って戻ってきた。
それをじいさんに食べさせると、一口食べたとたんに死んでしまった。
何よりも安らかな顔だった。
「死ぬ前に食べれて幸せだろう…」 と思い、
かじりかけのクリームパンを見てみると、クリームにとどいていなかった



【恐怖体験】
ホラー映画を見てたんだが、あまりにも恐すぎて、
本当に怨霊が出てきそうだったのでテレビの音を下げようとリモコンを押したら画面に

「 オ ン リ ョ ウ 」

ぎゃぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!!!!



【番号案内】
104のダイヤルで、電話番号を調べてもらうときに
「どういう漢字の人ですか?」 と聞かれ、
「おもしろくて明るい感じの人です」 と答えて、
電話局のお姉さんを1分間笑わせてしまった。



【なぞなぞ】
先生 「毎月定額料払えば使い放題なものはなーんだ?」

たかしくん 「正社員」



【なでしこJAPAN】
お前らナデシコJAPANのことブサイクとか言ってるけど、
鮫島とか川澄とか普通に可愛いし、  
大野だって小動物系で愛くるしいルックスしてる。  
ていうか、近賀ですら実際に見たら愛嬌があって可愛いよ。  
丸山なんか人妻の色気ムンムンだし、澤もドリブルが上手い。



【TUTAYA】
Q) ツタヤのホラーコーナーに、題名とか何も書いてない、
黒いパッケージのビデオが置いてあったんだけど、誰か観た人いる?
このビデオの存在知ってる?
すごく内容が気になります。

A) それは仕切り用のダミーです。



【あだ名】
中学の頃、大村君が苗字音読みでダイソンって呼ばれてて、
それが元で梅村君はバイソン、若村君はジャクソン、
下村君はアンダーソンとみんなかっこいいあだ名がついたのに、
津村君だけあだ名がバスロマンだったのはイジメに近いし、
今思うとバスロマンはツムラじゃなくてアース製薬。



【女の一生は球技のボールに譬えることができる】

18歳、女はサッカーボール
22人の男が彼女を追いかける

28歳、女はホッケーのパック
8人の男が彼女を追いかける

38歳、女はピンポンの球
2人の男が彼女を押し付け合う

48歳、女はゴルフ ボール
1人の男が彼女の後をトボトボついて歩く

58歳、女はドッヂボール
みんなが彼女を避けようとする

90歳、女はボーリング
みんなは静かにその姿を見送り、残した数字の大小に一喜一憂する



【オレオレ詐欺】
この前出かけてるときに、俺から家に電話があったらしい。
そうです、オレオレ詐欺です。

相手 「仕事でトラブっちゃって・・・」
母 「あんた仕事してたの!?」
相手 「・・・うん」



【これも起源である】
サルを完全に破壊する実験って知ってる?

まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。

ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。

餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。



のちのパチンコである



【プロポーズ】
俺は、いつ彼女にプロポーズするか悩んでいた・・・
同棲して3年。なかなかチャンスがこない。。。
そんな時、思いもよらないことからプロポーズのチャンスがやってきた。
暇だったので彼女と2人でしりとりをしていた。
何周りもしていたため、「け」 という言葉で1~2分詰まっていた・・・

俺  「け・・・け?」
彼女 「早く~。『け』 なんかいっぱいあるでしょ」
俺  「け、結婚しよう!」
彼女 「うんこ (即答)」



【バス停にて】
俺の恥ずかしい話なんですが…、
つい先日の事でバス停でバスを待っていたら一台の車が停まって、窓が開き
「駅に行くんですか? 駅に行くなら送ってあげますよ!」
という男性が現れ、急いでいた事もあり
「あ、ありがとうございます!」
とボクと後ろの2人が車に乗りました。

なんていい人なんだと感動していたら、
ボクの横に座った二人と運転の男性がやけにフレンドリー。
「いやぁ、助かったよ」 とか 「久しぶりだねー」 とか。

そう、彼は俺に対して言ったわけではなく、
後ろの2人の 「知り合い」 に声を掛けていたのです。
もう穴があったら入りたいとはこの事で、
「ところでこの方は誰?」 という雰囲気に満たされ、
もう死にたい気持ちでいっぱいでした。

わが糖質制限ダイエットの軌跡

2013-11-17 10:05:45 | がんばらないダイエット
6月3日に72kgの大台という人生の最大値を記録して、

これはヤバイと思って始めた今回の糖質制限ダイエットでした。

と言ってもすぐにちゃんと始められたわけではありませんでしたが、

しかし、そんなユルい始め方だったにもかかわらず、

6月8日には68.5kgまで減っていました。

たったの5日で3.5kg減 (実質4kg近い減) です。

さらに、6月12日には67kg台に届き、9日間で5kgの減量に成功したのでした。

このお手軽感、スピード感に病みつきになってその後も糖質制限を続けられたのだと言えるでしょう。

しかし、このあたりからだんだん減量スピードは失速していきます。

6月23日に初めて66kg台を記録しますが、すぐに67kg台に戻ったりして、

それまでみたいに一気にどんどん減量していくというのではなく、

日々増減を繰り返しながら少しずつ減っていくという感じに変わってきました。

なのでこれ以降は何日で何kg痩せたというふうにはっきり言えないのですが、

いちおう初めて何kg台を記録した日というのでカウントすることにすると、

6月23日に66kg台突入ですから、1kg減るのに11日かかったことになります。

またしばらくウロウロしたあと、7月8日に65kg台をマーク (15日で1kg減)。

7月17日に64kg台に突入 (9日で1kg減)。

8月2日に63kg台突入 (16日で1kg減)

その後、9月14日の朝に一瞬だけ62kg台を記録しましたが、

この日から北海道旅行に出かけ、その1週間は糖質制限ダイエットを解除したために、

すぐに64kg台まで戻してしまい、そのあたりを長らくウロウロしていました。

次に62kg台の数字を見ることができたのは9月29日のことでした。

つまり、1kg減らすのに8月、9月のほぼ2ヶ月を使ったということになります。

やはり旅館で朝からガッツリご飯を食べる生活を1週間続けるというのは、

ダイエットとはなじまないのでしょう。

その後、ゼミ合宿に出かける10月13日の朝に61kg台をマークしましたが (14日で1kg減)、

これもやはり合宿中の暴飲暴食がたたり、すぐに62kg台に戻り、

62kg台と63kg台のあいだを行きつ戻りつしました。

11月3日にようやく60kgに到達 (20日で1kg減)。

そして、11月13日にやっと59.7kgという金字塔を打ち立てることができました (10日で1kg減)。

2~3週間で1kg減というのはダイエットとしてはなかなか好成績なのかもしれませんが、

はじめの頃の9日で5kgというスピード感に慣れてしまった者にとっては、

けっこうじれったいものがあります。

最後のほうはもう本当に60kgを割ったら麺食いを再開してやるという執念だけで、

なんとか続けられたようなもんでした。

しかし、こうやって振り返ってみると、やはり停滞したのは旅行などに出かけて、

糖質制限を解除してしまったときで、朝から3食白いご飯を食べるという正しい日本人の食生活は、

まったく運動をしない人間にとっては肥満のモト以外の何ものでもないのでしょう。

今後は1日1食ぐらいは炭水化物を解禁にする一方で、

少しは運動を取り入れて 「ちょっとはがんばるダイエット」 に転換していきたいと思います。

カメムシ大発生

2013-11-16 22:50:05 | 人間文化論
今年の白河の看護学校では授業中にカメムシが現れ大騒ぎになりました。

そのときはたった一匹だったのでこんなに大騒ぎしなくてもと思っていましたが、

女子学生たちは授業そっちのけでカメムシの一挙手一投足に狂喜乱舞しておりました。

このあいだ川内村の若者ふるさと再生検討会に行ったとき、

やはり会議室にカメムシがいて、そのときは特に大騒ぎにはなりませんでしたが、

地元の方が今年はカメムシが多くてと嘆いていらっしゃいました。

妻が出張で島根に行ってきたんですが、島根県でもカメムシが大量発生中らしく、

会議室にもホテルの部屋にも常時カメムシが何匹かいるという状態だったそうです。

そして、島根の人たちに言われたことは、

「今年はカメムシが大量発生してるから、冬は大雪だねぇ」 だったそうです。

カメムシが大量発生すると冬が寒くなるんだそうです。

そんな言い伝え、皆さん聞いたことありますか?

私は初耳でした。

さらには、「カマキリが卵を高いところに産むと大雪になる」 なんていう言い伝えもあるそうです。

そうなんですか?

妻は出張から帰ってきて、島根でカメムシが大量発生していたことをお母さんに伝えたところ、

「そうなんだ、じゃあ今年は大雪だねえ」 と返されてビックリしたそうです。

東京にもそんな言い伝えがあったんですか。

お母さんも知ってたんならもっと早く娘に文化の伝承をしておけばよかったのに…。

ぽくはまったく聞いたことありませんでした。

うちの母親とか実は知ってたりするのかな?

本当にこの冬、大雪になるかどうか楽しみに結果を待ちたいと思います。