まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

まなびピア2012福島分科会開催

2012-10-31 19:53:27 | 教育のエチカ
もう10月も終わり。

今年もあと残すところわずか2ヶ月となりました。

11月も10月から引き続きイベント盛りだくさんとなりそうです。

今週末にはうちの陸上部所属のゼミ生が関わっている、

「ももりんダッシュNo.1」 が開催されます。

私としても大いに応援&宣伝しようと思っていたのですが、

ふと気づくと申し込み締め切りはとっくに終わってしまっていたようで、

出鼻をくじかれてしまいました。

まあ、今から出場はできませんが、子どもたちが走る様子を応援しに行ってあげてください。

大学からは 「生涯学習ネットワークフォーラム まなびピア2012」 のお知らせが届きました。

東北各地でそれぞれのテーマで開催されるみたいですが、

11月10日 (土)、11日 (日) にコラッセふくしまで福島分科会が開催されます。

テーマは 「若者達が活躍する 『持続可能なまち・地域・社会』」。

3.11以降、さまざまな復興の取り組みに関わってきた学生の皆さんにも関心のあるテーマじゃないでしょうか。

ホントは私も行きたいところなのですが、その週末は日本カント協会の学会のため、

関西に遠出していて顔を出すことができません。

特に2日目の 「熟議」 というのが気になっています。

「倫理学概説」 でちょこっとやったようなワールドカフェみたいなことするのかなあ?

ああ、気になるなあ、残念

ぜひ皆さん、私の代わりに参加してきてください。

昨年、倫理学概説の単位をもらった人、この後期に私から単位をもらいたい人はぜひっ

定員があって参加申し込みが必要なようです。

ちょっとめんどくさいですが、こちらから参加申し込みのほどよろしくお願いします。



生涯学習ネットワークフォーラム まなびピア2012

開催日 : 2012年10月10日 (土) 11日 (日)

会 場 : コラッセふくしま

テーマ : 「若者達が活躍する 『持続可能なまち・地域・社会』」

1日目 : ●ポスターセッション      〔10:30~12:00〕
      ●オープニングセレモニー 〔13:00~13:30〕
      ●基調講演          〔13:30~14:30〕
      ●小会議            〔15:00~17:00〕

2日目 : ●熟議              〔10:00~14:45〕
      ●クロージング         〔15:00~15:30〕

Q.心ってどこにあると思いますか?

2012-10-30 23:44:07 | 哲学・倫理学ファック
実は、この問いに対する答えは以前にもう書いたことがあります。

ただし、そのときはこういう問いでした。

Q.人は死んだらどこへ行くのだと思いますか?

この問いに対して私は次のように答えました。

「A.どこへも行きません。天国へも地獄へも行きません。

   骨や灰などの物質だけが残り、意識も心も消滅してしまうだろう、と私は考えています。」

その理由として以下のようにも述べました。

「私は、人間の意識や心は脳の働きにすぎないと考えていますので、

 脳細胞が死に、脳みそが燃やされてしまえば、

 意識や心は消失するだろうと単純に信じています。

 これらのことは証明できないので、

 もちろんBのように、意識や心が残ると考えたり信じたりすることも可能なのですが、

 しかし、脳がなくても意識や心がありうるのだとすると、

 そもそも人間に脳みそなんて必要なくなっちゃうんじゃないの、

 と逆に考えてしまうので、どうしてもBの可能性は信じ切れないわけです。」

この中にすでにほとんど答えが書いてありましたね。

けっきょく心というのは脳の働きだと思うのです。

もちろんこのことは証明することはできません。

が、諸々の状況証拠から考えるに、やはり脳と心が無関係と考えることはできないと思うのです。

ただし、今回の質問は 「どこにあると思いますか」 ですので、

この問いにはどうやって答えたらいいかちょっと困ってしまいます。

働きとか機能って 「○○にある」 とはなかなか言いにくいからです。

さて、何と答えましょうか?

こんなふうにお答えしておきましょう。

A.心は脳の働き、脳の機能だと思います。

  脳にあるという言い方をしていいかどうかはビミョーですが、

  脳があるから心はあるのだと思います。

橘高校 「人間とは何か?」

2012-10-29 23:40:55 | 人間文化論
今日は橘高校で 「学問分野別講義」 をしてきました。
昨年も呼ばれましたが、2年連続での登板です。
今年は78名の皆さんに聴講していただきました。
皆さん、どうもありがとうございました。
今年も吉永先生と一緒に呼ばれていて、受講者数ははるかに及びませんでしたが、
まあ、張り合うようなことではないので結果は冷静に受け止めましょう。
(↑どう考えても張り合ってるとしか思えない?)

ていうか、終わってから感想用紙を読ませてもらって初めて気がついたのですが、
去年聞いてくれたのに今年もまた聞きに来てくれた方もいらっしゃったのですね。
まさかそんな人がいるとは思わず、完全に去年とまったく同じ話をしてしまったので、
なんだかものすごく恥ずかしいです。

●昨年も同じゼミをきいて、内容をほとんど覚えていたので、やっぱり興味関心のあるお話だったのだと思います。また機会があれば、ちがうお話もおききしたいと思いました。

●実はこの講義を聴くのは2年目です。倫理学が大好きなあまり、今年も聴かせて頂きました。改めて感謝することの大切さに気付きました。ありがとうございました。

●小野原先生の講演がもう一度ききたくて今回の講演に参加しました。”人間は本能の壊れた動物” というのはやはり印象に残りました。”伝えていくこと” が ”本能の壊れた” 人間にとっては生きる意味であり使命なんだと感じました。将来、このようなことを学びつづけていきたいです!! ありがとうございました。

いやあ、なんで同じ話を2回も聞きに来ちゃうかなあ。
また聞きたくてと言ってもらえるのはたいへんありがたいですが、
昨年とまったく同じタイトルなんだから、完全に同じ話だと予想できただろうに…。
まあでも私も大学時代、面白い講義を2年続けて聞きに行ったことがあったので、
あれと似たような気分だったんでしょうね。
去年のノートを横に置きながら講義を聴いていたら先生にものすごーくイヤそうな顔されましたが、
その気分が今ごろになってやっとわかりました。
まあ、来年もまた依頼が来るなんていうことはないだろうと思いますが、
万一また頼まれた場合は違う話をしなきゃいけないなと肝に銘じました。

初めて聞いてくれた方々には講義の仕方についてお褒めの言葉を頂きました。

●とてもおもしろかったです。本能で聴いていたわけじゃないけど、全然苦にならず、楽しんで聞くことができました。

●順を追った内容でやかりやすかった。例も身近なものが多く、すんなりと理解できた。

●マインドマップを使って講義する人は初めてだったので新鮮だった。

内容もいつもの話ですが、初めて聞いて頂いた方々にはそれなりに新鮮な印象を与えられたようです。
そして、文化を学ぶこと、伝えることの大切さも少しはわかっていただけたようです。


●「本能の壊れた動物」 ということを聞いて、びっくりした。私も文化を伝える1人になりたい。答えのない問題を解くために、今、答えのある問題を解いているのだ、ということがわかった。また、人間発達文化学類についてよくわかった。とてもおもしろい講演だった。もっと知ってみたい。そのために、今、勉強をがんばろうと思う。

●動物と人間のちがいは多くあるけど、”伝える” とか ”教える” という部分で大きくちがうきがした。動物は自分の子供とか、小さいコミュニティ内でしか伝えたり、教えたりできない。でも、人間はやる気になれば、全世界の人々に伝えたり、教えたりできるステキな生き物だと思った。人間は複雑に発達した社会に生活しているから、答えのない問題を考える能力を身につけなくてはならない、ということが印象的だった。高校までは答えがあるけど、これからはどんどん明確な答えが出せない問題に立ち向かうことになるんだなと、あたり前だけどあまり考えてなかったことに気づいた。

●「学ぶこと」 の意味がやっと分かりました。私も次の世代に 「文化」 を伝えていけるようになりたいです。自分が将来どんな職業に就くかわかりませんが、誰かに 「文化」 を伝えられるような職に興味をもちました。「学問」 ができるように頑張ります。先生の話はとても有り難かったです。

すでに何人か触れてくださっていますが、「ありがたい話」 もやはり人気でした。

●あたり前のことがあたり前ではないと聞き、これから部活を運営する上で、昨年のやり方に執着せずに、新しいことも取り入れながら頑張ろうと思いました。

こんなふうに自分の生活に取り込んでもらえると講師冥利に尽きますね。
また、私の講義を聴くよりも前から哲学や倫理学の話に興味をもっていた人もいるようで、
たいへん頼もしく感じました。

●人間の深いつながり (運命など) に興味があり、自分で勝手に哲学として考えることが好きです。今まで考えてきたことは 「どこかで全てつながっている」 ということに気づいた時、とても達成感に似た感情がありました。「答えのない問題」 を自分の考えでつなげていくこと、とても楽しいです。先生の話を聞いて共感する話があってとても楽しかったです。これからも個人個人の運命とか勝手に考えていきたいです。ありがとうございました。

今回の満足度は4.66でした。
昨年より0.1ポイント下がってしまっていますが、
去年と同じ話でいいやという慢心がこの微妙な差を生み出してしまったのでしょうか。
やはり来年以降は新しい中身にチャレンジしていかなくてはいけないなと思いました。
なお、講義のなかで話すつもりだったのがつい忘れてしまったために、
次のような質問をいただいてしまいました。

●質問 : 哲学と倫理の違いは何ですか?

これに関しては以下の2つのブログ記事をご覧ください。

まずは、倫理と倫理学の違い。
  「倫理学を一言でいうと何ですか?」

そして、哲学と倫理学の違い。
  「Q.哲学と倫理学ってどう違うんですか?」

橘高校の皆さん、机を後ろに向けたりせずに最後までご静聴いただきありがとうございました
ぜひ1年半後や2年半後に福島大学の人間発達文化学類でまたお会いしましょう!

追悼エマニエル夫人

2012-10-27 05:58:35 | 性愛の倫理学

先週、女優のシルビア・クリステルさんが亡くなりましたね。
この話題、ブログに取り上げようかどうしようかちょっと悩んでいたんですが、
ぶっちゃけ体質の私としては、やはり書かないわけにはいかないでしょう。
シルビア・クリステルといえば 『エマニエル夫人』 です。
言わずと知れた、1974年に公開された大ヒット官能映画です。
1974年当時、私は12歳、中学校1年生でした。
ちょうど性に目覚め始める頃ですよ。
そんな頃にたんに一部の男性だけでなく、女性からも支持を集め、
マスコミでも大々的に取り上げられたのが 『エマニエル夫人』 でした。
あの♪ターララ、タララ、ターララ、ターラララーン♪というメロディは街中に溢れていましたし、
中学生の私は映画を見たわけではありませんでしたが、
籐の椅子に座って胸をはだけ脚を組んだあの写真↑は街中どこでも見かけることができました。
今のように性の情報がそこかしこに垂れ流されている時代ではありませんでしたので、
中学生にとっては 「11PM」 よりも露骨な性の世界への入口が 『エマニエル夫人』 だったのです。

で、酔った勢いでぶっちゃけてしまうのですが、中1だったか中2だったかの私は、
ある日、行きつけの本屋さんに重大な決意を秘めて入店していきました。
最近ではあまり見かけなくなった、
うちの研究室の広さがあるかないかくらいのいわゆる町の本屋さんです。
その日のミッションは小説 『エマニエル夫人』 を買うことでした。
これは誰に言われたのでもない、自ら自分に課した使命でした。
もしも買うことができれば、それは私にとって生まれて初めてのエロ本ということになります。
たしかその本の表紙には、あの写真が使われていたような気がします。
それが原作小説だったのか、ただの映画のノベライズだったのかわかりませんが、
とにかく、しばらく前からその本がその本屋さんにあることはずっとわかっていました。
欲しくて欲しくてしょうがなかったのですが、なかなか買う勇気はありませんでした。
しかし、私の心の中で何かが沸点に達したとき、
どうしてもこれは買わなければならないと覚悟を決めたのです。

とはいえ、これがエロ本の類いを買う初体験です。
本当に心臓がバクバクしました。
不自然なくらい長時間、『エマニエル夫人』 のある書棚のあたりをウロウロしていました。
他のお客さんがいるときはもちろん買うことなんて絶対にできませんが、
かといって他のお客さんが誰もいなくなってお店の人と2人っきりになってしまうと、
それはそれで気まずくてあの本を手に取ってレジに持っていく勇気が湧いてきません。
だいたい子どもがエロ本を買おうとして売ってもらえるものなのでしょうか。
まさか警察に突き出されたり学校に通報されたりはしないでしょうが、
いろいろ説教されたあげく売ってもらえなかったりしたら恥どころの騒ぎではありません。
そういうアホな逡巡をけっこうしばらくのあいだ続けていて、
もうこれ以上ここに長居していたらそれこそ怪しまれるんじゃないかという心配も出てきた頃、
ついに決心し、ものすごい早業で書棚から 『エマニエル夫人』 を抜き取り、
何も言わずに目も合わさないようにしながらスッと店員さんの前に差し出しました。
私の記憶では、店員さんは本と私とを何度か交互に見比べていたような気がするのですが、
それが本当の記憶なのか私の頭のなかで作り上げられた記憶なのかは定かではありません。
とにかく私にとっては無限とも思える長い間のあとでようやくゆっくり紙袋に入れられ、
本の値段が告げられて、私はお金を支払い、その本をやっと買うことができたのでした。

うーん、すっかり忘れていたけど懐かしい思い出だ。
その本にはその後たいへんお世話になりました。
もちろん小説を読みながら思い浮かべていたのはシルビア・クリステルさんでした。
シルビア・クリステルさんというのは私にとってそういう思い出の女優さんだったのです。
AVどころか家庭にビデオデッキなんていうものがまったくなかった頃のほろ苦い思い出です。
その後何年か経ってから映画も実際に見る機会がありました。
たしかに女性が見てもOKなくらいのソフトなポルノと言えるのかもしれませんが、
中学生の頃に見ていたとしたら十分刺激的だったことでしょう。

その後私は哲学・倫理学の道に進むことになりました。
長い遠回りの末にやっと辿りついた研究対象がドイツの哲学者イマヌエル・カントでした。
イマヌエル・カントですよ。
ものすごい名前です。
ドイツでのイマヌエルはフランスだとエマニエルとなります。
アメリカのジョージがドイツだとゲオルクになるのと同じ原理ですね。
実際フランス語版のウィキペディアを引くと Immanuel Kant ではなく、
Emmanuel Kant と、人名であるにもかかわらずスペルが勝手に変えられてしまっています。
要するにイマヌエルはエマニエルなわけです。
そして、カント。
英語に詳しい人にはよく、ものすごいもの研究してんなあと言われたりするのですが、
英語圏ではカントという発音の単語で真っ先に思いつくのは cunt です。
知らない人は調べていただければと思いますが、これはもうモロど真ん中の下ネタワードです。
あるサイトによれば、あまりにも直球すぎて英語圏ではけっして使ってはならない卑猥語だそうです。
というわけでイマヌエル・カントは、ドイツを離れて国際的な感覚で読み替えてみると、
「エマニエル夫人のオ○○コ」 という意味になってしまうではありませんか。
うーん、出会うべくして出会ったという気がするな。
きっと中学生のあの日からずっと私はイマヌエルのカントに憧れていたのでしょう。
出会わせてくれたシルビア・クリステルさんに深く感謝いたします。
ご冥福をお祈り申しあげます。

ジョージ・オーウェル 『動物農場』

2012-10-26 16:56:47 | 哲学・倫理学ファック

明日、第3回 「本 de てつがくカフェ」サイトウ洋食店で開催されます。
課題図書はジョージ・オーウェル『動物農場』
渋い選択だなあ。
今回さすがに参加申込者が少ないのは、この渋すぎる選書のせいでしょうか?

『動物農場』。
私がこの本と出会ったのはデヴィッド・ボウイを介してでした。
彼の作品に 「1984年」 という曲があるのですが、
これがジョージ・オーウェルの小説 『1984年』 にインスパイアされて書かれた曲だったのです。
私が大学生の頃だったでしょうか、当時デヴィッド・ボウイは私にとって神でしたから、
その神様をインスパイアした小説ということで、すぐに買って読みました。
全体主義による支配を描いた物語で、
自由を求めて反逆していた主人公がけっきょくその支配に屈していくという、
ひじょうに救いのないお話なのですが、恐怖とともに強烈に印象に残る作品でした。
大学時代といえば、東京外国語大学のロシヤ語学科にいて、
当時のソ連という国の全体主義的支配を目の当たりにしていた頃でしたので、
たんなる空想上のディストピアとしてでなく、
現実に起こりうる未来の選択肢とみなしていたように記憶しています。

その同じジョージ・オーウェルの前作が 『動物農場』 という作品であるということは、
『1984年』 の解説を読んで知りました。
登場人物がすべて動物でありながら、
痛烈なソ連批判、全体主義批判の政治的寓話になっているという話を読んで、
これはすぐに読まねばと思い、古本屋で買い求め一気に読了したのでした。
今回、本 de カフェの課題図書にしたということで久しぶりに読み返しているのですが、
ポスト3.11の観点から読んでみると、ここで描かれているのは、
たんにソ連のスターリン体制のことでもなければ、
全体主義批判や独裁政治批判だけでなく、
いかなる形のものであれ権力というものはすべからく独善に陥り、暴走を始め、
腐敗していくという不可避的な道筋でした。
その際に直接的暴力よりも情報操作のほうが有力な武器となるという点も、
きわめて示唆的だと思います。
今だからこそこの政治寓話を読み返してみる意味があるのではないでしょうか。
これから入手して明日までに読み終わって参加するのは難しいかもしれませんが、
かつて読んだことのある方、まだ残席ありますのでぜひお越しください。


第3回 「本 de てつがくカフェ」

課題図書 : ジョージ・オーウェル 『動物農場』

日 時 : 2012年10月27日 (金) 16:00 ~ 18:00

場 所 : サイトウ洋食店


参加費 : ドリンク代300円

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

2年ぶりの 「5年研」

2012-10-25 12:29:43 | 教育のエチカ
一昨年、「吐血大講演会」 についてご報告しましたが、
それ以来2年ぶりとなる 「5年研」 に昨日行ってまいりました。
5年研というのは、5年間教職経験を積んだ先生たちのための研修会で、
私の場合は中学、高校の社会科、地歴科、公民科の先生方が対象です。
昨年も講師を依頼されていたのですが、
研修が行われる福島県教育センターは東日本大震災で壊滅的な被害を受けた、
福島市では数少ない建物のひとつで、もうこんなん↓になってしまいましたから、



昨年予定されていたセンターでの研修はすべて中止になってしまったのでした。
昨日行ってみたら、まだ建物によっては補修工事中で、
わかりにくいかもしれませんが、建物と建物をつなぐ渡り廊下は、
あいかわらずこんなふうに↓歪んだままでした。



とはいえ昨年から比べるとだいぶ改修は進んだそうで、
各種研修もここで再開されており、私も2年ぶりの登壇となったわけです。

ただ、久しぶりだったからかなあと思ったのですが、
どうも今回の研修は思うように進行しませんでした。
8時半から12時まで午前中まるまる3時間半の時間帯が用意されていたのですが、
なんだか押してしまって、その時間でやりたかったことが全部できません。
最後に 「思考力・表現力を高める社会科の実践方法を構想してみよう!」 ということで、
KJ法の手法を使ってみんなでワークショップをやってもらったのですが、
アイディア出しの時間も、それを整理してまとめる時間も全然足りないのです。
これはヤバイと思い途中から、整理するのはもういいから、
とにかくみんなで話し合って新しいアイディアをできるだけたくさん出してください、
と朝令暮改で指示を変えたりしてしまいました。
もうこのスタイルで何回もやってきていたのに、
なんで今年はこんなに時間が足りなかったのだろうと不思議に思っていたのですが、
先ほど一昨年の自分のブログ記事を読んでみてやっとその原因に気づきました。
今までは1時から5時まで4時間もやっていたのですね。
そうなんです、これまでは午後に私の講座が組まれていました。
今年は午前中にお願いしますと依頼され、特に何も考えずにいいですよと変更したのですが、
午前と午後では時間枠が違っていたのですね。
いやあビックリです。
終わった翌日にそんな大事なことに気づくなんて
そりゃあ時間が足りなくなるはずです。
ファシリテーター失格ですね。
受講者の皆さん、そしてセンターの先生方、本当に申しわけありませんでした

そんな大失態にもかかわらず、受講者の皆さんは最後まで真面目に参加してくださいました。
例年はワークシートは回収せず、
したがってワークシートには氏名の記入欄も設けていなかったんですが、
こんなにドタバタしたらいろいろ不満があっただろうなあと思い、
これも朝令暮改で、急遽回収しコピーをいただくことにしました。
しかし、さすが皆さん大人であり教育者でもあるからでしょうか、
ファシリテーターへの恨み言を書いてくださった方はいらっしゃいませんでした。
最後のまとめや感想、要望欄に書かれたコメントをご紹介しましょう。


●「学ぶとは何か?」 というテーマについて、認識が深まった。何となく考えていたことが明確になった。あるテーマについて話し合う (合わせる) ことが、自分の考えを深めるのに有効であることに気づいた。実際に授業で活かせそうなテーマをいくつも提示してもらえたので持ち帰りたい。

●学ぶ意味、意義から、子どもたちに考えさせることまで基本に立ち返ることができました。考えさせること、書かせることの意味を再確認できました。細かな事象に深入りしがちな私ですが、「そもそも○○って何だろう」 と考える習慣を大切にしたいと思いました。

●人は学ばないと、人間で在り続けられない。これを根底に、生徒としっかり向きあい 「教育」 活動の一端を担っていきたいと思いました。また、「何故学ばなくてはならないのか」 の講演をぜひ、進路講演会でやっていただきたいと強く思いました。

●どうして人は学ぶのかが具体的に分かりました。中学生と同じ内容で分かりやすかった。

●内容と関連させた形で、思考力・表現力を培うことのできる授業方法をもっともっと考えて実行していく必要性を感じました。「無限大の可能性」 があるからこそ、やり方もたくさんあるし、どんどん失敗していってもいいんだなと楽になりました。いろいろと行き詰まっている私ですが、やはり 「対話」 から生み出していくことの重要性を感じました。

●なぜ学ぶのか?という根本の問いに立ち返ってみることで、教員の使命という原点に立ち帰ることができた。思考力・表現力を養うことを難しく考えていたが気楽に考えることで多くのアイディアが出たことに驚いた。

●普段、なぜ学ぶのかを考える機会が少なく、時々問われると、ありきたりな答えしか言えなかったので、今日の研修で人間は、文化の習得と伝達を長時間 (期間) する必要があるという観点から考えると、説明がしやすいと思いました。一度だけ保護者からも聞かれ、その保護者からは学ぶことは必要ないと言われたので、保護者にも説明が必要な場合もあると思いました。

●なぜ学ぶのか (勉強するのか) という問いへの一つの答えをいただくことができたこと、他の教員と意見の交換することで、何を学ばせたいのか考えることができた。「知識を問えば、知識が重要と思われる」 との言葉にハッとさせられた。「暗記が目的じゃない」 と言いながら暗記させるジレンマから、抜け出すきっかけとしたいと思っている。

●人の考えを聞く、意見を交流させるだけでもかなり学び合うという活動になるということを感じた。現場に出てしまうと生徒に話し語りかける時間ばかりなので、たまには大学の先生の 「講義」 をもう少し長い時間きいてみたいと感じた。久しぶりに刺激をうけた感じがした。

●人が学ぶということはどういう意味があることなのか、根本的なことを知ることができました。また考えさせること、それを発表する方法は無限にあり、挑戦することが大事であると痛感しました。

●人間は本能の壊れた動物であり、そのかわりに文化をつくりあげ、次世代に伝達してきた。文化の伝達・習得なしには、言いかえれば教育なしには、人類は生存できない。話、面白かったです。思ったのは、文化とは明確なものではなく、その時その時の時代の要請から創造されるものなのではないかということです。さらに創造された文化が人間の生存にとって有益であるという保障はないということです。その時、その時代をどうとらえ、文化をどう創造していくか、「社会科」 の使命は重いと思いました。


皆さん、グダグダな感じで終わってしまいましたが、
最後までお付きあいくださいましてありがとうございました。
また何かの機会にお会いできることを楽しみにしております。
時々、「地歴・公民学習研究会」 とか 「哲学カフェ」 などをやっておりますので、
関心があってヒマな場合にはぜひご出席ください。

陰部洗浄演習

2012-10-24 06:38:37 | 生老病死の倫理学
先週から気になっていたんですが、看護学校の教室にある掲示が。

【陰部洗浄演習のお知らせ】

一目見たときから目が釘付けでした。

机間巡視のフリをしながら何度も熟読してしまいます。

最初に実施日と3人1組の班分けが記されています。

1人が実施者、1人がサポート役、もう1人が患者役でその役割分担も決められています。

いろいろと注意書きが記されていました。

「*授業前にお湯以外の必要物品を準備する」

「*患者役の学生は、短パン等のうえに陰部モデル、紙オムツを装着し、病衣 (パジャマ) を着用する」

「*担当教員に、自己評価した演習チェック表を提示し、自分の課題を明らかにしてから行う」

「*女性用陰部モデルを装着して実施する」

「*紙オムツは、模擬便、尿取りパッドも使用する」

なんだかもう素人には目眩く神秘の世界という感じで目の遣り場に困ってしまいますが、

もちろんそんなふうに思うのは私が邪 (よこしま) な人間だからであって、

調べてみると、「陰部洗浄」 というのはとっても大事な看護の基礎技術のひとつです。

たいていの看護学校では人形を使って練習しているみたいですが、

装着できる陰部モデルなんていうものがあるんですね。

こうやって看護学生さんたちはいたって真面目に技術の習得に励んでいるのです。

そのおかげで私たちは安心して入院し彼らに下の世話を委ねることができるわけです。

看護学校の皆さん、がんばってこの高度に洗練された文化を身につけ、

弱者をケアするという人間に固有のきわめて人間性にあふれた仕事に就いてください。

Q.授業中よく歩いているけど、歩くの好きなんですか?

2012-10-23 06:21:00 | がんばらないダイエット
これも初めていただいた質問ですねえ。

私、そんなに歩き回っていますか?

昔、中萬学院で働き始めた頃、研修で模擬授業させられて、

先生方からの講評で、「教壇でふらふら動き回りすぎ。こっちが気が散ってしかたない。

ビシッと一箇所に立ってろ」 と怒られたことがありました。

もうかれこれ25年以上前の話だけど、四半世紀経っても人間って変わらないんでしょうか?

特に看護学校の授業ではワークシート記入の時間が多いので、

みんなに書いてもらってるあいだこっちはどうしても手持ちぶさたになっちゃって、

やることないから歩き回っちゃうんでしょうかねぇ。

私の場合、机間巡視してみんなが何を書いてるかチェックして、

いい答えを書いてる人がいたらみんなに発表してもらおう、とか考えているわけではありませんので、

歩き回る必要なんてまったくないと言ったらたしかにその通りなんですが、

でもどうしても歩き回っちゃうんですねぇ。

やっぱり気になりますか?

教卓のところでじっとしていたほうがいいのかな?

でもこれで歩き回るのやめたりしたら、いよいよ太っちゃうよなあ。

ふだんまったく運動しないので、授業中に歩き回るくらいが私のカロリー消費のすべてなのです。

そりゃあ歩き回らなきゃいけませんって感じでしょ。

私はいつもいつもというわけではありませんが、ときどきMBTという靴を履いています。

これは普通のウォーキングをジム並みの運動に変えるというすぐれもので、

看護学校にもたまに履いていったりしています。

これを履いてるときは特に少しでも多く歩き回ったほうがいいんですね。

ま、そんなこと意識してるわけじゃなくて、たんにクセでフラフラしてるだけなんですが…。

というわけで最終的にこんなふうにお答えしておくことにしましょう。


A.歩くのは好きではありません。

  でも、じっとしているのはもっとキライなので、ついついフラフラ動き回ってしまうのです。


こんな答えで理解していただけたでしょうか?

今回も自分の 「盲点の窓」 に気づかせてくれる質問をありがとうございました

「反原発」 の定言命法

2012-10-22 17:40:54 | グローバル・エシックス

土曜日に東北哲学会でシンポジウムやってきました。
「ポスト3.11の哲学・倫理学的課題」 です。
この看板と同じくらい、なんて重たくてバカでっかいテーマなんでしょう。
私なんて災害とか科学技術とか原発とかの専門ではないので、
勘弁してくださいと固辞していたのですが、
「小野原さん、福島なんだから」 というよくわからない理由で押し切られてしまいました。
私以外の若手2人がそれぞれ御専門の立場から発言してくださることになっていましたので、
私は前座として、現地の人間の雑駁な思いをダラダラ話すだけでよければということで、
けっきょくお引き受けすることになりましたが、準備を始めてみてやはり後悔しました。

苦悩のプロセスは若干ご報告させていただきましたが、
いろいろ悩んだ挙げ句、まずは①福島 (市) から見た 「3.11」 について語り、
②そこで一番問題であったこと、困ったことの源泉を探り、
そこから③福島に今なお暮らす者として一番伝えたいことを言い、
最後に④若い哲学・倫理学研究者の皆さんに課題を託すという形で話を作りました。
当日の朝に大トラブルが発生するなど一時はどうなることかと思いましたが、
とにかく何とか切り抜けることができました。

話の内容を簡単にご紹介すると、
① 「3.11」 は、東日本大震災と福島第一原発事故という、
 まったく性質を異にする2つの災害から成っており、
 地震・津波は 「目に見える危機」 であるが、
 原発事故は 「目に見えない危機」 であるということ。
②放射線被害は目に見えないため、情報や知識や専門家の意見が大事になってくるが、
 今回の事故ではそれらがことごとく信じられなかったため、
 福島県民は振り回され、分断され、棄てられてしまった。
 その意味で今回の原発事故は私たちにとっては 「情報災害」 でもあったということ。
 その情報災害を生み出した背後には 「原子力ムラ」 という巨大権力が存在した。
③原発事故と放射線被害を目の当たりにして、改めて原発というものを考えてみると、
 本来、科学というのは失敗や誤謬から学んで進歩していくべきものであり、
 また正確な情報の公開によって支えられているものであるはずだが、
 原発は一度たりとも事故を起こしてはならず、
 その危険性のゆえにそもそもすべての情報を公開することができないということは、
 原発は科学とは言えない、つまり 「非科学」 なのではないか。
 また、放射性廃棄物というまったく制御不可能な産物を生み出し、
 その最終処分方法を提示できずにいるということは技術としても完成されていない、
 「非技術」 なのではないか。
 地方住民や被曝労働者や未来世代の犠牲と差別の上に構築されているという意味で、
 「反民主主義的システム」 であったのではないか。
 したがって、あのような事故が起きなかったとしても、
 原発は許されるものではないのではないか。
 ましてや福島のこの惨状を見たら、もはや 「反原発」 という答えしかないのではないか。
 問題は原発に賛成か反対かではなく、原発をやめるのは当然のこととして、
 いかにして安全にすべての原発と放射性廃棄物を処分することができるか、
 それを真剣に考えるべき時代になっているのだということ。
④しかし、原発を推進しようとする巨大権力は情報や世論を操作することができるので、
 「反原発」 を唱えるためにはそれに対抗できるような強力な武器が必要である。
 哲学・倫理学は新しいものの見方を提供できる学問として、
 環境倫理学、生命倫理学、情報倫理学、科学倫理、情報倫理、正義論、ビジネスエシックス等、
 個別の応用倫理学を統合した新しい 「攻めの倫理学」 を構築してほしい。
 私にはムリなので、若い研究者の皆さんにぜひそういうものを生み出してもらいたい。
という感じで、最後は聴衆に投げっぱなしで話を終えました。

③の話をするときに 「反原発の定言命法」 という概念を用いました。
「反原発」 はすべての人間にとって絶対的・無条件的命令であるという意味です。
この内実を示すためにいくつかの 「反原発の定言命法」 の実例も紹介しました。

「作ってはいけないものは、作ってはいけないのだ」

これは1週間前の日本倫理学会の自由課題研究での高木哲也氏の発表タイトルです。
「ならぬことはならぬものです」という会津日新館の掟にも似た力強い言葉ですね。
このままではただのトートロジー (同語反復) と言われるかもしれませんが、
これを 「東京に作ってはいけないものは、福島にも作ってはいけないのだ」 と言い換えると、
差別と犠牲の構造がクリアになる気がして気に入っています。

「汝の行為の諸結果が、地上における真に人間的な生の永続性と一致するように行為せよ」

これは有名な環境倫理学者のハンス・ヨナスの
『責任という原理』 という本の中に掲げられた定言命法です。
そしてもうひとつ、原発事故が情報災害であったということに関連して、
カントによる公開性の原理も引いておきましょう。

「みんなに関わる事柄で公開できないようなものはすべて不正である」

カントの 『永遠平和のために』 の中の 「公法の超越論的原理」 というやつですが、
わかりやすくするためにちょっと超訳しています。
政府と東電に聞かせてやりたいセリフですね。

質疑応答ですが、私がトップバッターで30分の持ち時間のところ、
ほんの1、2分長く喋ってしまったら、
あとの2人がつられるようにどんどん発表時間を延長してしまい、
十分に議論を尽くすことはできませんでした。
おかげでボコボコにされるだろうなあという予想に比して、
それほどヒドイ目にあわずにすみました。
懇親会でも大御所の先生方が3名ほどスピーチされたのですが、
皆さん 「反原発の定言命法」 に言及してくださり、
1人は賛成、1人は反対、もうお1人は定言命法としてではなく、
仮言命法としての反原発には賛成とおっしゃってくださいました。
1勝1敗1引き分けといった感じでしょうか。
でもむちゃくちゃエライ先生方が私の発表内容に言及してくださっただけで感激です。
翌朝の会場では東北哲学会の会長である座小田豊先生が寄ってきてくださり、
東北大学の先生方で書かれた共著のシリーズ
「今を生きる 東日本大震災から明日へ! 復興と再生への提言
の第一巻 『人間として』 を献本してくださいました。



座小田先生によるまえがきや論文をはじめとして皆さん、
あの日の生々しい恐怖とその後の再生への苦闘を描いておられました。
私の発表を聞いてこれらを共有したいと思ってくださったのでしょうか。
だとするとこれに勝る栄誉はありません。
まったく筆が進まず気の重い学会発表でしたが、
なんとか大役を果たすことができホッといたしました。
懇親会からさらに国分町に流れてベロベロに打ち上げたことは言うまでもありません。


P.S.
そう言えば今回、何が驚いたって、当日の朝打ち合わせに行ってみたら、
発表者のうちのお一人、山本史華 (ふみか) さんとは初対面だったんですが、
なんと史華さん、男性だったんですね (↓一番左の方)。



打ち合わせのためのメールのやりとりは何度もしていたんですが、
ずーっと女性だと思い込んでおりました。
まだまだ先入見に囚われているなあ。
修業が足りんっ

クスクスと鶏肉の南仏煮込み

2012-10-21 22:58:43 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
本日は学会発表も終わり気分がいいので、
Bistro Suzuki の鈴木シェフがこないだのクッキングショーで披露していた、
「クスクスと鶏肉の南仏風煮込み」 を作ってみることにしました。
うろ覚えで怪しいところもありますがまあ何とか挑戦してみましょう。
まずは下ごしらえから。



赤ピーマン、黄ピーマン1個をさいの目切りに。
今日は3色入りを売っていたので赤、黄、オレンジです。
タマネギ2分の1個はみじん切りに。
骨付き鶏肉250gに塩コショウと小麦粉をまぶします。
ではいよいよ調理開始です。
フライパンにオリーブオイルを熱し、鶏肉を焼いていきます。



タイムを使っていたはずですが、どこの時点で使うのか忘れてしまったので、
とりあえずこの時点で鶏肉にタイムをふりかけてみました。
こんがり色づいたところで鶏肉を寄せます。



そして空いた部分につぶしたニンニクを入れ香りをつけたら、タマネギとカラーピーマンを投入します。
この料理はフライパンひとつだけでできるのがミソです。



タマネギに火が通ってきたら赤ワイン100ccを入れ、強火にしてアルコールを飛ばします。



ガス展ではやはり強火にするにはガスですよねと司会の方が言っていましたが、
オール電化の我が家のIHコンロだって捨てたもんじゃありません。



ここでトマトの缶詰1缶400g (ホールではなくカットのやつ)と、
ブイヨン100ccを入れて20~30分ほど煮込んでいきます。



とりあえずローリエとかタイムも追加投入しておきます。
そして、やっと主役の登場です。



クスクス200g。
ジュピターに売っていました。
クスクスとは小麦粉で作った粒状の粉食です。
鈴木シェフはフランスでの修業時代、お米が食べたくてしょうがなかったけど、
当時はまだフランスにお米なんか売ってなかったので代わりにこの料理を作っていたそうです。



今回買ってきたクスクスは調理時間5分のものだったので、
煮込み終了時刻の5分前にクスクスを投入します。
そして塩コショウで味を調え、最後の決め手がコレ↓です。



スイートチリソース。
生春巻きとかにつけて食べる甘くて辛いやつです。
こいつを少々入れて味にパンチを効かせます。



「クスクスと鶏肉の南仏風煮込み」 の出来上がりです。
これで何人前なんでしょうか?
クッキングショーでは材料の分量だけを書いた紙が配られましたが、
これが何人分なのかは書いてありませんでした。
けっこうなボリュームなので4人分かなあ。



お皿に盛り付けていただきます。
うーん、あの日鈴木さんが作ってくれたものに比べるとちょっとしっとり感が足りない気もしますが、
初めて作ったにしては上出来ではないでしょうか。
やっぱ鶏肉がちょっと少なくてクスクスが多すぎるなあ。
クスクスが水分を吸ってしまうので、クスクスの量をもっと減らせば、
あの日の鈴木さんの料理に近づくんじゃないかな。
鈴木さん、作り方どこか間違ってたら教えてくださいね。
昨日、仙台でものすごく飲んできたので今日はアルコール控えようかと思っていましたが、
こんな料理ができてしまうと、やはりどうしても飲みたくなってしまいます。
赤ワインを飲みながら優雅にいただきました。
ごちそうさまでした

Q.内田先生はいつもニコニコしていましたか?

2012-10-21 10:15:29 | 教育のエチカ
内田先生というのは福島大学で長年、哲学の教授を務められた内田詔夫先生のことです。

私を福島大学に採ってくれた恩人で、研究室もお隣どうしでずっとお世話になっていました。

退職後も福島大学をはじめ、あちこちの学校で 「論理学」 等の授業を担当しておられ、

看護学校の皆さんにもおなじみのはずです。

今年出版された内田先生が書いた論理学の教科書、

『論理の基礎と活用―知識成長・問題解決・論述文読み書きのために』 は、

長年の先生の授業実践に基づき、哲学や論理学を専門に研究しようという人たちではなく、

教員や看護師などどんな職業に就こうと思っている人たちでも必ず知っておくべき、

考え方の規則、文章の書き方の規則をわかりやすく明快教えてくれる良書です。



一般教養における 「論理学」 の授業はこういう教科書で教えてもらいたいものだと思います。

さて御質問に戻りましょう。

正確にはこういう質問でした。

「Q.内田先生はいつもニコニコしているんですが、大学でもニコニコしていましたか?」

そうですか、内田先生って看護学校ではいつもニコニコしていらっしゃるんですか。

あまりそういう印象はないなあ。

あ、でもこうは言えるかもしれません。


A.内田先生は人と話をするときはいつもニコニコしていらっしゃいました。


大学にいるときはいつも誰かと話しているわけではないので、

というか話しているときのほうが少ないので、あまりニコニコしていた印象がないのでしょう。

でも私ともそうですし、学生さんや先生方など誰かと話しているときは、

いつも柔らかな表情でニコニコ笑っていらっしゃいました。

私は先生の授業を見せていただいたことはないのですが、

講義というのはずっと学生に向かって話しかけているわけですから、

学生さんたちから見たら内田先生はずっとニコニコしているように見えるのでしょうね。

なんか内田先生の授業の楽しそうな様子が目に浮かんできました。

どうもありがとうございました。

しまったあ、忘れたあ~!

2012-10-20 09:59:02 | お仕事のオキテ
一昨日来てくれたハカドリネコさんのおかげで、昨日は軽い手直しくらいですみ、
就業時間中にプリントの印刷まで終えることができ、予告通り夜は飲みに繰り出してしまいました。
漢文ゼミの飲み会に合流し、二次会まで付き合ってしまいましたが、
それでも理性を失うことはなく、日が変わる前に余裕の帰宅です。
この分なら早起きもできそうだし、高速バスで行くことに決め、
(新幹線よりも高速バスや在来線のほうがのんびりブログ書いたりできるので好き)
目覚まし時計をセットしぐっすり眠ることができました。
キリギリスなので前日のうちにパッキングしておいたりはしませんが、
朝も目覚ましが鳴る前に起きられましたから、
いろいろ考えながら1泊分のお泊まりセットをボストンバッグに詰めました。

高速バスに乗車するやいなやパソコンを取り出しインターネットにつなぎます。
東北自動車道に乗っちゃうと切断されてしまいますが、それまではWiMAXが繋がるのです。
ブログ入力画面を開いていつでもブログが書けるような準備を整えておいた上で、
ついでにメールチェックもしておきます。
東北哲学会の事務局の方からメールが届いていて、
学会会場でインターネットに繋いだり音声を流したりすることができることを確認しました。
しばし昨日まで作っていたパワーポイントファイルのことを考えます。
よくがんばったなあ。
発表当日や締め切りの日に徹夜せずにすんだのって久しぶりじゃないかな。
大学にいるうちにできあがっちゃったしなあ。
苦心の作をちょっと見ておこうかなあ。

ん?

あれ?

………



大学で作ったってことはこのパソコンにファイル入ってないよな。
でもちゃんと大学出るときUSBメモリーにコピーしてきたよな。

ん?

あれ?

………


うわー、ヤベェー

しまったあ、USBメモリー、家に忘れてきたあ


大チョンボです。
あんなにがんばって作ったのに
パニック状態です。
いちおうパソコンの中をチェックしてみますが、一昨日の時点のファイルしか入っていません。
確認してみますがやはり完成品とは言えません。
今からこれを復元するのか?
プリントアウトしたやつはあるから不可能じゃないけど…。
しかし、けっこう時間かかりそうだし、画像とかが見つかるかどうか…。
うーん、どうしよう。
まだ高速には乗ってないから決断するなら今しかない。
けっきょく運転手さんに事情を話して高速バスから下ろしてもらうことにしました。
信夫山トンネルを越えたところにある稲荷田というバス停です。
いい運転手さんで、お金はいいからといってタダで下ろしてくれました。
高速に乗る前に高速バスを下りた乗客は私が初めてかもしれません。
下りてからもしばし途方に暮れていましたが、
スマホで調べてタクシーを呼んで自宅まで戻りました。
950円。
仙台までの高速バス代 (900円) より高いです。

帰宅して確かめてみたところ、USBメモリーは通学用のバッグの中に入っていました。
クソー、こいつが悪いんだ。
こんなにちっこいから気づかなかったんだ。



いやいや、モノに当たってはいけませんね。
私が悪いんです。
前日のうちからパッキングしておけば、どこかの時点で気づいていたかもしれないし、
とにかく一番大事なパワポのファイルのことを忘れてしまうなんてドジにもほどがある
ちょっと上がりかけていた自己効力感が一気に急落します。
けっきょくUSBを握りしめて新幹線で仙台まで行くことになりました。
なんかデジャブな感じがしますが、高速バスで行くことにしていたためにバックアップが効きました。
とりあえずシンポジウムの打ち合わせには間に合いそうです。
ハァ。
ああビックリした。
そして疲れた。
シンポジウム上手くいくのかな?
幸先悪いなあ。
先行き不安だぁ。

FUKUSHIMAからの提言

2012-10-19 18:26:40 | グローバル・エシックス
やったー! できたー!
昨日とうとうハカドリネコさんがやってきてくれて、
学会発表の準備、あとはスイスイ進んでしまいました

久しぶりにパワーポイントで作りました。
哲学、倫理学系の学会発表ってたいていは、
雑誌に投稿するのと同じような完全原稿を準備して、
それを皆さんの前で読み上げるというスタイルで行われます。
私も、けっきょく学会発表後、雑誌に投稿するときに、
別途また原稿を書かなければいけないのが二度手間と思い、
このところの学会発表はほとんど完全原稿スタイルで行っていたんですが、
今回はテーマがテーマだし (ポスト3.11の哲学・倫理学的課題!)、
あまりきちんと論じ切れる気がしなかったので、
文章化してあっちこっち突っ込まれるよりは、
画像とかを多用してみんなを煙に巻こうというつもりで、
早くからパワポでの発表を計画していました。

それにしてもこのところ、震災・原発系のシンポジウムとかに、
福島なんだから小野原さんやってよ、みたいな依頼が舞い込むので非常に困ります。
私は震災復興とか原発問題とか技術倫理とかを専門に研究してきたわけではないので、
3.11みたいなことがあったからといって、
じゃあ急にそれについて語れるかというと、そんなことはできません。
今から思うと18年も福島に住んでいて、原子力発電所のことをまったく意識もせず、
研究テーマとしてまったく取り上げないまま生きてきたことを、
倫理学者として本当にふがいなく思います。
そんな私が今さら後勉強で何を言ったってまったく説得力がないでしょう。
授業やブログで何も語らないというわけにもいきませんので、
教育者という立場として時折そういうネタに触れたりはしますが、
学会という場で研究者として発言するというのはできれば避けたいところです。

とはいえずっと沈黙しっぱなしというのも無反省な態度でしょう。
これまで何も考えてこなかった罪は罪として引き受けながら、
これから少しずつ自分にできる範囲内で、
この問題に立ち向かっていかなければならないのでしょう。
今回のシンポジウムはその取っ掛かりの作業になるのかもしれません。
問題は巨大で、私ごときではまったくまだその全体像を捉えきれていませんが、
群盲象を撫でるがごとく、的外れであろうとも少しずつ考えていければと思います。

とりあえず今回は、専門家としてではなく福島在住だからという理由で呼ばれたので、
あの日福島にいた者としての主観的感想から出発しつつ、
今も福島に暮らす者としての心の叫びを聞いてもらってこようかと思います。
やっとできた全体構想はこんな感じです。

「ポスト3.11 ―FUKUSHIMAからの提言―」
1.はじめに ―複合災害としての 「3.11」―
2.共通点 ―「根こぎ」 から 「災害難民」 へ―
3.相違点 ―「目に見える危機」 と 「目に見えない危機」―
4.「情報災害」 としての原発事故
5.「反原発」 の定言命法と仮言命法
6.おわりに ―FUKUSHIMAからの提言―

はたしてどんなことになりますやら、ボコボコに叩かれてきます。
印刷も終わったし、今日は前夜祭で飲みに行っちゃうかなあ

「街なかマルシェ」開催!

2012-10-18 12:38:39 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
今度の日曜日、「街なかマルシェ」 が開催されます。

1年前の 「復興マルシェ」 や今年7月の 「七夕マルシェ」 には参加できましたが、

今週末は 「東北哲学会」 がありますので残念ながら参加できません。

いつもの 「ジョイエ」 なども参加されるようです。

あの美味しい料理を屋外で楽しむことができないのはとても残念です。

それにしても皆さん、ここんとこイベント続きで毎週末出ずっぱりじゃありませんか?

福島を盛り上げてくださるのはたいへんありがたいことですが、

過労で倒れて自分のお店を開けられなくなっちゃうんじゃないかと心配です。

主催者の小山さんのことも心配ですね。

震災以降、みんなずーっと走り続けているような気がします。

そうしたくなる気持ちもわかりますが、

長い闘いなのであんまり頑張りすぎず、休み休みのんびりやっていってほしいと思います。

今回、開催が日曜だけになったのはその意味で評価したいと思います。

残念ながら私は行けませんが、みんな福島の食を思いっきり堪能してきてください。



街なかマルシェ

開催日時 平成24年10月21日(日) 10:00~16:00

開催場所 街なか広場


内容
①農産物・加工品等の販売

②ファーマーズカフェ(生産者と消費者が直接語り合える場の提供)

③放射能検査のデモンストレーション ‥等々

出店店舗
①野菜・加工品販売
•やさい工房
•産直カフェ
•道の駅ふくしま東和
•ふくしま土壌クラブ(果樹経営)
•かあちゃんの力(ちから)プロジェクト
•ワーカーズコープ ほか

②調理品販売
•うどんダイニングDon
•浪江焼きそば
•Curry dining bar笑夢
•オステリアデッレ・ジョイエ ほか


ポスト3.11の哲学・倫理学的課題

2012-10-17 16:33:10 | グローバル・エシックス
今度の土日に東北大学で東北哲学会が開催されます。

初日には、「ポスト3.11の哲学・倫理学的課題」 をテーマとするシンポジウムがあります。

私はその提題者として発表しなくてはなりません。

いちおう発表タイトルは 「ポスト3.11 ―FUKUSHIMAからの提言―」 としておきましたが、

毎度のことながらキリギリスの私はまだ全然準備ができておりません。

もちろん、もうだいぶ前からああだこうだとマインドマップ等で構想は立てているのですが、

なんといってもテーマがデカすぎるのか、私の分析能力がお粗末すぎるのか、

おそらくはその両方のせいで、遅々として発表原稿はできあがる気配を見せません。

シンポジウムですから、あらかじめ他の提題者の皆さまに原稿を送付しておきたいところですが、

3日前だというのに送れるようなモノがまったく姿を現しません。

うーん、ちょっとピンチだっ!

はかどりネコさん、早く来てくれないかな。


東北哲学会第62回大会

日 時 : 2012年10月20日 (土)、21日 (日)

場 所 : 東北大学 文学部第二講義室

シンポジウム 「ポスト3.11の哲学・倫理学的課題」


  日 時 : 10月20日 (土) 15:00~17:40
  提 題 :
  ポスト3.11 ―FUKUSHIMAからの提言―  小野原 雅夫 (福島大学)
  日常と疑似形而上学  山本 史華 (東京都市大学)
  死すべきものとして共に世界に住まう ―北欧「福祉」が照らしだす課題  竹之内 裕文 (静岡大学)