まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

自炊とは何か?

2009-10-31 23:53:55 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
学生によく聞かれる質問で、

「先生って、自炊してるんですか?」 という質問があります。

これにどう答えたらいいかいつも悩むのですが、

そもそも 「自炊」 って何なのでしょうか?

私のふだんの夕食は、

パスタを茹でて、レトルトのソース (カレーソースも含む) をかけたものです。

私的にはこれは自炊ではありません。

ソースもきちんと自分で作れば自炊になりますが、

レトルトを湯煎しただけというのは料理のうちに入らないのです。

しかし、学生にこの話をするとそれは確実に自炊だという反応が多いです。

ちゃんとご飯を炊いたり料理をしている子たちは、それは自炊ではないと言いますが、

たいがいの男子学生にとっては、パスタを茹でただけでそれはもう自炊になるのだそうです。

中にはお湯を沸かしたら自炊だという子もいますが、

その子に 「じゃあカップラーメンは自炊?」 と聞くと、

それは自炊ではないと答えます。

お惣菜を買ってきてチンするだけも自炊ではないそうです。

しかし、そのお惣菜を食べるためにご飯を炊いたら、それはもう自炊だそうです。

まあそれは定義上正しいような気もします。

とすると、ご飯を炊くのが自炊という基準からするならぱ、

パスタ (乾麺) を茹でるのも自炊と言えるのかもしれません。

しかし、そこまで基準を下げてしまっていいのでしょうか?

私もやろうと思えば、多少の料理はたまにしたりもしますので、

パスタ&レトルトで自炊の称号を得ようとは思いません。

やはり主食もおかずもきっちり自分の手で作ったときのみ

「自炊」 と呼んであげることにしようではありませんか。


ザ・ブランド

2009-10-30 23:35:56 | お仕事のオキテ
仕事をするうえでブランドが大事という話を前にしました。
さて、数あるブランドのなかでも最も強力な、
「ザ」 をつけて呼ぶことのできるようなブランドがいくつかあることをご存じでしょうか。
それは、その分野のパイオニア (=開拓者) で、
登録商標である固有名詞があたかも一般名詞であるかのように、
あちこちで使われてしまっているブランドのことです。

有名なところでは、ホチキスがあります。
皆さんたぶん一般名詞のように使っていることと思いますが、
あれは特定の会社の特定の製品名にすぎません。
あの、カチャッとやってコの字型の針で複数枚の紙を1つに留める機械のことは、
正しくはステイプラーと呼ばなくてはなりません。
それが一般的な呼称なのです。
しかしステイプラーなんていう言葉を知っている人のほうが珍しいですよね。
たいていみんなホチキスと言ってしまいます。
しかしそれは、ステイプラーを最初に開発したホチキス社が作っているステイプラー
のことだけを指す固有名詞なのです。
こういうザ・ブランドの地位を築き上げられると強いですね。
もうほとんど一人勝ちの世界です。
だってステイプラーを買いたいお客さんが、
ほっといてもお店で 「ホチキスください」 って指定してくれるのですから。

さて、ホチキスほどグローバルな通用性があるかはわかりませんが、
日本国内でならザ・ブランドの地位を築き上げている日本製品がいくつかあります。
「ウォシュレット」 などはその1つでしょう。
これはTOTOの登録商標です。
一般的には 「温水洗浄便座」 と呼ぶのが正しい呼称です。
製品とは言えないかもしれませんが、
「宅急便」 というのもパイオニアとしての地位を確立していますね。
これも本来、宅急便と呼べるのは 「クロネコヤマトの宅急便」 だけです。
一般名称は 「宅配便」 です。
しかし一般名称ができる前に 「宅急便」 が一世を風靡してしまっていたのですから、
映画のタイトルにする際もやはり 『魔女の宅急便』 であって、
『魔女の宅配便』 では間の抜けた感じが否めません。
先に論じたことがある 「シッカロール」 なんかはどうなんでしょうか。
私の世代ではたぶん一般名詞として通用しているように思いますが、
若い方々はご存じでしょうか。
シッカロールは和光堂の登録商標であり、一般的名称は 「ベビーパウダー」 です。
まあベビーパウダーのほうは、ステイプラーや宅配便に比べたら
比較的よく聞く名詞かもしれません。

むろん、ザ・ブランドの地位をいったん築き上げればそれで一生安泰かというと、そうはいかず、
時の流れとともにザ・ブランドの地位を追われてしまう、ということもありえます。
例えば、「ファミコン」(任天堂) というのは一昔前まではザ・ブランドとして、
一般名詞のように使われていましたが、最近はすっかり廃れてしまいました。
とはいえ後発の 「プレステ」 はあくまでもソニーのプレイステーションのことであって、
家庭用ゲーム機のことを何でもかんでもプレステと呼ぶような文化は形成されませんでしたし、
今後もどこかの機種名が業界を席捲するという事態は考えられませんので、
「ファミコン」 はやはり当時としては別格の強さがあったのだろうと考えられます。
ソニーの 「ウォークマン」 は日本発のブランドとしては数少ない、
世界を席捲したザ・ブランドであったということができるでしょう。
しかし、携帯用カセットテーププレイヤーから携帯用CDプレイヤー、
MDプレイヤーぐらいまでの間は、業界をリードし続けていましたが、
残念ながら、その次の世代の携帯型音楽再生機器の開発で負けてしまい、
ザ・ブランドの地位を 「iPod」 にさらわれてしまいました。
ちなみに私は今、ソニーの iPod (その名もウォークマン)を使っています。
やはりホチキスのように新製品の開発のしようがない分野ではザ・ブランドは長生きしますが、
家電やパソコン関係など日進月歩の分野では、ザ・ブランドがそのカテゴリーごと没落して、
別種の製品に取って代わられてしまうということが起こりやすいのでしょう。

さて、これからの資本主義の闘いは、ザ・ブランド確立競争だろうと思っています。
日本発のグローバルなザ・ブランドをどんどん発信していけないかぎり、
日本資本主義は行き詰まりを迎えることになってしまうでしょう。
日本人というのは世界でも稀にみる、ブランドに弱い民族だと私は思いますが、
ブランドのなかでも、とりわけ外来ブランドに弱く、
ローカル・ブランド (つまり日本発のブランド) に冷淡なところがあるので、
私としては若干、日本経済の先行きを心配しています。
みんなで日本発のブランドを応援していこうではありませんか。
とりあえずは、ウォシュレットが世界中の空港やホテルに標準装備される日が来ることを
私は切に願っています。


Q.これだけは知っていてほしいと思う倫理学は?

2009-10-29 12:37:36 | 哲学・倫理学ファック
それは当然、カント倫理学です。
倫理学史の本とかを見てみると、
古代ギリシア以来のさまざまなタイプの倫理学理論が列挙されていますが、
(例えば、徳倫理学、キリスト教倫理学、自然法思想、功利主義、等々)
たいていの本では、それらのなかに燦然と 「カント倫理学」 が並べられています。
あるいは 「義務論的倫理学」 なんていうタイトルでまとめられていることもありますが、
けっきょくそのなかに含まれているのはカントの倫理学だけだったりするので、
やはりカントの倫理学というのは、倫理学理論のなかのある1つの典型例として、
確固たる位置を築いてしまっているといっていいでしょう。
カント以降の倫理学はまずまちがいなく、
カント倫理学に対してどういうスタンスに立つのかを鮮明にした上で、
自らの倫理学を構築することを迫られています。
それくらい倫理学史のなかでもカント倫理学はある種のスタンダードとなっているのです。

というわけで、それに賛成するか反対するかは別として、
倫理学の諸問題に関して過去の倫理学理論を参考にしながら考えようと思うならば、
カント倫理学を知っておくことは基礎的素養としてとても大事なのです。
というわけで、

A.ぜひカント倫理学だけは知っておいてほしいと思います。

これで質問に対するお答えはおしまいです。
ここまで話したのなら、じゃあカント倫理学って一体どんなものなのか、
軽く触れておくべきなのかもしれませんが、。
カント倫理学は単独で倫理学理論の1タイプと数えられてしまうくらいですから、
けっこう内容豊富です。
したがって軽く触れておくなんていうことがとても難しい倫理学なのです。
というわけで、カント倫理学の中身に関しては近々新カテゴリーを開設して、
そのなかで追い追いお話ししていこうかなどと計画中です。
とりあえずは先に書いた記事(「一番好きな哲学者は誰ですか」)を見ていただくことにして、
あとはまたのお楽しみ。

ファッション哲学

2009-10-28 23:35:44 | 人間文化論
衣服というのは人間の文化のなかでも華麗に進化を遂げたもののひとつです。
動物の場合は生まれたときに定められた毛皮を一生着続けるわけですが、
人間は外気温から自らの身を守るために衣服という文化を生み出さなければなりませんでした。
しかしその原点の機能はあまりにも当然のものとしてほとんど意識されることはなくなり、
むしろ個性を表現するための手段として発達を遂げ、
もはや無限といってもいいくらいの多様性を獲得するにいたっています。
どんな服を着るかということにその人の価値観が現れるといっていいでしょう。
そのような価値観はファッション哲学と呼ぶことができるでしょう。

私はどちらかというと原点思考で、
「元はといえば衣服というのは…」 と考えてしまうたちですので、
以前は、その日の暑さ寒さに最も適した服を選びさえすればよい
というくらいの哲学しかもっていませんでした。
しかし、ある日テレビかラジオのインタビューで沢田研二が、
「着るものにあまりこだわりはありません。
 心がけているのは昨日とはちがう服を着るということくらいです。」
みたいなことを答えているのを聞きました。
今思えば沢田研二のその言葉がどこまで本気だったか疑ってみる余地があると思いますが、
ファッション・センスのまったくなかった私は、
あのカッコいいジュリーのお言葉ということで、なるほどと納得し、
「昨日とはちがう服を着る」 というのがモットーに加わりました。

したがって大学時代以降は、
・その日の暑さ寒さに最も適した服を着る
・昨日とはちがう服を着る
の二本立てが私のファッション哲学となったのでした。
(ちなみに高校までは制服があったので着る物のことで悩む必要はほとんどありませんでした)
むろんファッション哲学というのは、その日着る物をどうやって選ぶかというより、
お店で何を買うかというところに一番はっきり現れるのだと思いますが、
その部分に関しては自分の中にあまり明白なモットーがあるようには意識されていません。
たぶん好き嫌いのレベルで、
なんとなくこういう色やデザインのものを選んでしまうということはあるのでしょうが、
それは私のなかでは 「哲学」 と呼べるほど明確なものにはなっていません。

さて、15年前から福島大学で教えるようになりました。
そのわりと早い時期のことだったと思いますが、
ある日、私の講義を取っている学生から、
「先生、いつもその服着てますね。そんなに気に入っているんですか?」 と言われました。
そのときハタと気づいたのですが、大学の授業というのは週に1回です。
友だちとは毎日会うかもしれませんが、よほどのことがない限り大学教員と会うのは週に1回、
毎週同じ曜日の同じ時間帯にしか会わないわけです。
しかし私のファッション哲学は 「昨日とはちがう服を着る」 ですから、
ひょっとすると毎週ある曜日にいつも同じ服を着ているということは十分ありうるわけです。
これに気づいたときはゾッとしました。
気になったついでに数えてみると、
だいたいあるシーズンに稼働している服って5着ぐらいしかないのです。
ウィークデーにこれらをローテーションさせていくと、
月曜日はこれ、火曜日はこれ、と固定されてしまう可能性もなくはありません。
私の哲学からするとたぶんそんなふうに決まってしまうことはなかったと思いますが、
それにしても、先週何を着ていたかなんてまったく考えないまま、
ただ昨日とちがっていればいいという観点で服を選んでいましたので、
ある曜日には偶然にも毎回同じ服を着ているなんていうことが
しばしば発生していたにちがいありません。

それに気づいて以来、沢田研二哲学は捨て去り、新たな哲学を編み出しました。
「一週間前とはちがう服を着る」 です。
週単位で生きている大学教員には、
昨日との差別化よりも、先週との差別化のほうが大事だったのです。
しかしながら、この哲学を実践するのは容易なことではありませんでした。
一週間前の今日何を着ていたかなんてまったく覚えていないからです。
「今日は倫理学概説の授業だけど、先週の倫理学概説のときは何着てたかなあ?」 なんて、
教室の感じとか学生たちの顔とか具体的なことを思い浮かべながら思い出そうとしてみても、
なんにも頭のなかに浮かんできません。
したがって新しい哲学を編み出してからもしばらくの間は、
それをうまく実践することはできていませんでした。

これが解決されたのは、記憶を呼び覚ますことはあきらめて、
新しい方式を導入してからのことでした。
手帳に毎日何を着たかを記入していくようにしたのです。
これはなんか恥ずかしいしバカバカしいので、
自分としてもこの方式を気に入っているわけではないのですが、記憶力に問題のある人間が
「一週間前とはちがう服を着る」 という哲学を実践していくためには万やむをえません。
アホらしいながらもこのシステムはけっこう機能していて、
今ではもうほぼ毎日、手帳で一週間前の服装をチェックしたうえで、
何を着ていくかを決めるようにしています。
どうでもいいような哲学を実践するために、そのためのシステムを開発する、
人間の文化って深いなあ。

仕事の友 (その2)・カナ入力

2009-10-27 21:01:38 | お仕事のオキテ
ワープロ話の続きなのですが、私は 「カナ入力」 派です。
未だかつて自分以外に 「カナ入力」 派の人を見たことがありません。
みなさん 「ローマ字入力」 派ですよね。
前回、説明のさいに 「kanji」→「かんじ」→「漢字」 と変換していくと書きましたが、
あれが 「ローマ字入力」 です。
実は私はあんなまどろっこしい2ステップ変換なんてしていません。
多数派のみなさんに合わせてああいう説明の仕方をしただけで、
私自身は 「カナ入力」 なので、「かんじ」→「漢字」 と一発変換ですませているのです。

最初にキー配列を覚えるときに、
「ローマ字入力」 にしようか 「カナ入力」 にしようかたしかに悩みました。
「ローマ字入力」 ならば26個のキーを覚えるだけですむのに、
「カナ入力」 だと倍近くのキーを覚えなければならないので、まずそれが大変です。
しかもアルファベットを入力したいこともあるわけですから、
ローマ字のキーはそれはそれで覚えなければなりません。
ということは覚える手間は3倍になるわけです。
しかし、一度覚えてしまえば入力のときにキーを打つ回数は約半分ですむはずです。
「か」 と入力するのに、「k」「a」 ではなく、「か」 を1回打てばいいからです。
これからの人生ずっと文章を書いて生きていこうと思っていた私は、
一生のあいだで打つキーの回数がどれくらいになるのだろうと考えて、
けっきょく最初は面倒でも 「カナ入力」 を覚えようと決心しました。
その選択は今でも間違っていなかったと思っています。

「ローマ字入力」 派のみなさんが文章を打ち込むとき、
頭のなかでどれだけ複雑なことをやっているのか、むしろすごいなと思います。
私もたまに人のパソコンを借りたり、公共の施設のパソコンを使うときなど、
「ローマ字入力」 せざるをえなくなるのですが、もうまどろっこしくてしかたありません。
「私は」 と入力したいだけなのに、
いちいちそれを頭のなかでローマ字に変換して、
「w」「a」「t」「a」「s」「i」「h」「a」と8回もキーを打たなきゃいけません。
「カナ入力」 ならそんな面倒なことを考える間もなく、
「私は」 と頭のなかで思い浮かんだ瞬間に、
「わ」「た」「し」「は」の4つのキーを打ち終わっています。
「私は」 くらいならまだいいですが、例えば 「親愛」 と打とうとして、
「s」「i」「n」「a」「i」 と普通にローマ字に変換してしまうと、
「しない」→「竹刀」 にしかなりません。
「女」 なんて何回 「n」 を打たなきゃいけないことか!

たぶん 「カナ入力」 のおかげで、今では手書きよりも早く文章を打ち込むことができます。
思考のスピードに文字入力が間に合わないということもありません。
ほぼ考えるのと同時に文字を打つことができるようになっています。
(まあ思考スピードが遅いというのもあるかもしれませんが…)
これからキーを覚えようと思っている人には、
ぜひ 「カナ入力」 で覚えることをオススメします。
特にこれからの人生でいろいろと文章や文書を作成する機会が
多いだろうなあと思っている人は、絶対に「カナ入力」です。
みんなで 「カナ入力友の会」 を結成しようではありませんか!

教室の倫理

2009-10-26 15:36:48 | 教育のエチカ
毎年、毎学期、講義科目の最初の回には、
オリエンテーションのあとに 「教室の倫理」 という話をしています。
講義科目というのはたくさんの人間が集まる場ですから、
どうしてもある一定のルールが必要となります。
ふつうは、ルールというのは時の流れの中でなんとなくできていくものですが、
私が担当するのは倫理学の講義ですので、
なんとなくに任せていてはもったいないです。
第1回めの授業で明文化して取り上げることによって、
倫理や倫理学に対する学生たちの興味関心を喚起すると同時に、
教室でのマナーがなぜ大事で必要なのかを理解させる場としています。
今日のところは説明は抜きにして、学生に配布しているレジュメの内容だけ、
アップしておくことにいたします。
この中で一番言いたいことは、「学生の完全義務」 の中の 「私語の禁止」 なんですが、
それだけを言うのではなく、できるだけ網羅的に、
特に 「学生の義務」 だけではなく 「教員の義務」 もいっしょに (しかもそれを先に)、
提示してあげているところがミソです。


           教 室 の 倫 理
1.倫理とは何か
倫=仲間、人々の集まり
理=筋目、きまり、ルール、義務

2.カントによる義務の区分
完全義務   完全に守るのが当然で、守れないと罰せられるような義務
          ex.殺人の禁止、窃盗の禁止、etc.
不完全義務  守れなくても仕方がないが、守れると功績とみなされるような義務
          ex.人助けの義務、自分の才能を開発する義務、etc.

3.教員と学生の完全義務・不完全義務
教室の倫理 複数の人間が集まってくる教室にはおのずとルールが必要とされるはず
                  ↓
ただし教員と学生は立場が異なるので、それぞれ守るべきルールも異なる
授業形態等の違いによってもルールは異なってくるはず

教室の倫理・小野原私案 [講義型授業の場合]
 教員の完全義務
 ・授業をする
 ・無断欠席をしない
 ・聞こえるように話す
 ・読めるように書く
 ・公正な評価をする
 ・教員の特権を不正に行使しない(セクシャルハラスメントの禁止、etc.)

 教員の不完全義務
 ・時間を厳守する(特に授業時間をむやみに延長しない)
 ・美しい声で話す
 ・美しい字を書く
 ・魅力的な授業、おもしろい(interesting)授業をする

 学生の完全義務
 ・他の学生の受講の邪魔をしない
  (私語の禁止、暴力の禁止、携帯電話の電子音等の禁止、etc.)
 ・不正行為をしない(カンニングの禁止、代返の禁止、etc.)
 ・当該科目に関して最低限の勉強をする(きちんと出席する、試験勉強をする、etc.)

 学生の不完全義務
 ・積極的に授業に参加する=教員が講義しやすい雰囲気を整える
  (授業時間中にむやみに教室の出入りをしない、まじめに聴講する、
   聞き上手になる、積極的に質問する、etc.)
 ・主体的に学問する
  (参考文献等を進んで読む、自ら研究を深める、etc.)


なぜアクセスが増える?

2009-10-25 23:56:31 | このブログについて
皆さんもうお気づきだと思いますが、このところブログの更新が滞りがちです。
辛うじて日付操作によって、なんとか毎日更新記録を形式的に延ばしていますが、
それが嘘っぱちだというのは明白です。
ところが、アクセスランキングを見てみると、
このところアクセスが増えていっているのです。
なぜっ
日ごろはまったくの枠外で、順位がつくことなんかないんですが、
最近更新が滞れば滞るほど、どんどん順位が上がっていき、
更新しなかった日ほど自己ベストを叩き出しているのです。
先週はとうとう週間ランキングにも順位がついてしまいました (下記資料↓参照)。
不思議だ。
ぼくがあれだけ苦労して毎日書いてもそれほど来てくれないのに、
ちょっと滞ると、生きてるかどうか気になって来てくれるのでしょうか?
毎日更新するという方針は見直さなきゃいけないのかもしれないな。
なにごとも慣れてしまって当たり前になっちゃうと、
有り難みが減ってしまいますからね。
何が何でも毎日更新とかって頑張らないで、
忙しいときはあっさり白旗をあげちゃうくらいがみんなに愛されるのかもしれません。


資料
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Q.大好きな本は何ですか?

2009-10-24 23:49:18 | 哲学・倫理学ファック
オススメの本は何ですかという質問もいただいているのですが、
それとこれは別の質問とみなして、まずは自分が好きな本からいきましょう。
私は何でもかんでも片っ端から読んでいくというタイプではありません。
気に入った作品や作家を見つけると、
そのシリーズやその人が書いたものを全部制覇したくなるというタイプです。
したがって、そんなにいろいろな本や作家を知っているというわけではありません。

一番最初に集めたのは、以前に書いたように、
怪人二十面相シリーズや怪盗ルパン、シャーロック・ホームズのシリーズでした。
しかし、これらはもういつの間にかなくなってしまいましたから、
今でも好きな本とは言えません。
次に集めたのは星新一のシリーズでしょうか。
星新一というのはショートショートというジャンルを開発したSF作家で、
ほんの数ページから長くても20ページくらいの短編小説ばかり書いていた人です。
この人の作品は子どもでもわかる日本語で書かれていて、
かつ人間に対する風刺に満ちているというか、けっこう深いので、
未だに本棚の奥から引っ張り出してきては読み返したりしています。

次に集めたのが司馬遼太郎です。
ただし私としては珍しく、
途中で集めるのを断念してしまった数少ない作家の一人でもあります。
作品数が多いというのもありますが、
明治以降を扱った作品群が今ひとつ好きになれず、
自然と離れていってしまったのです。
いわゆる 「司馬史観」 というのが鼻についたんだろうと思います。
司馬遼太郎の作品の中で特に好きなのは、ベタですが 『竜馬がゆく』 です。
これは何度読んだかわかりません。

伊丹十三のエッセイもよく読みました。
彼が映画を撮り始めるよりもずっと前に、
彼が俳優だったということも知らないままたまたま買ってしまった
『ヨーロッパ退屈日記』 というエッセイ集にものすごく魅せられてしまったのです。
彼の文体や彼の思想には相当影響を受けてしまっていると思っています。
このブログも、自分としては伊丹十三のエッセイのようなテイストをねらっているのですが、
それがうまくいっているかどうかは定かではありません。

あとは海外ミステリーものですね。
有名どころでは、パトリシア・コーンウェル、ジョン・グリシャム。
パトリシア・コーンウェルは女性検屍官ケイ・スカーペッタのシリーズは有名ですし、
ジョン・グリシャムの法廷ものはほとんど映画化されているのでご存じかと思います。
有名でないところでは、ドナルド・E・ウエストレークとポール・リンゼイがお気に入りです。
ウエストレークはミステリーというよりはコメディに近いかもしれませんが、
ドートマンダーというさえない泥棒を主人公にしたシリーズが秀逸です。
中でも 『ジミー・ザ・キッド』 は最高傑作でしょう。
ただし、この本を最大限に楽しむためには、
ドートマンダー・シリーズを最初から全部制覇していったほうがいいでしょう。
最初のほうはほとんど絶版になっていますので、コンプリートはたいへんかもしれません。
ポール・リンゼイは自身がFBI捜査官で、
在任中に処女作 『目撃』 を書いたということで話題になりました。
FBIが官僚機構として堕落しきっているところをコミカルに描き出していて、
その中でがんばっている現場の捜査官の団結がむちゃくちゃカッコいいです。

トム・クランシーのCIA分析官ジャック・ライアンのシリーズも好きでした。
処女作 『レッドオクトーバーを追え』 の映画を見たのが最初ですが、
映画もよく出来た作品でしたが、小説はさらに面白くてはまってしまいました。
しかしシリーズが進むうちにジャックは大統領にまでなってしまい、
その頃からだんだんトム・クランシーのタカ派政治観が表面化してきたので、
たぶんもう読まないでしょう。

あとは清水義範のパスティーシュのシリーズでしょうか。
ある本の内容をマネるのがパロディで、ある作家の文体をマネるのがパスティーシュです。
清水義範がそういうジャンルを切り開きました。
彼の作品もだいたい短編集ですので、どれも読みやすいです。
が、やはり 『国語入試問題必勝法』 という本に収められている同名の小説が、
なんといっても最高傑作でしょう。
腹がよじれるほど笑えます。

こうやって書き出してみると、とても偏っていますね。
しかも、学者らしさが微塵も感じられません。
私の中ではどれも哲学的・倫理学的な価値をもっているのですが、
たぶんそれを理解してくれる人はあまりいないでしょう。
哲学書関係では、もちろんイマヌエル・カントをはじめとして、
いろいろ挙げるべきものはありますが、
今回のご質問はたぶんそういうことを期待しているのではないと思うので、
それらは 「オススメの本は?」 のときにお答えすることにいたします。

alive & arrive

2009-10-23 15:16:22 | ドライブ人生論
私のドライブのモットーは、「alive & arrive」 です。
日本語に訳すと身も蓋もない感じですが、「生きて目的地に着こう!」 です。
クルマの運転が本当に好きな人などにとっては、
「なんじゃ、そりゃ?」 という感じかもしれませんが、
私はクルマはたんなる移動手段としか思っていないので、
あまり夢がなくてすみません
しかし、運転にあまりよけいな付加価値をつけたりすると事故のもとだと思っています。

特に、クルマを運転するときに、何時何分までに目的地に着きたい、
なんていう色気を出したりすると危険です。
都会に住んでいるとわからないかもしれませんが、
地方では電車が1時間に1本しか走っていなかったりします。
乗ろうと思っていた電車に遅れると、
次の電車ではもう授業に間に合わなくなってしまうのです。
そうすると、そこからあわてて駐車場に戻ってクルマで行くことになるのですが、
こういうときが一番危険です。
私が今まで事故ったのはすべて待ち合わせ時間とかに遅れそうで
急いでいるときばかりでした。

なので最近では、クルマに乗るときはもう時間に間に合うとか、
そういうことはもうあきらめることにしようと思っています。
万が一間に合えばラッキーだけど、それはもう運にまかせることにして、
ゆっくり安全運転を楽しむことにしよう。
そう思うようにしています。
急いで運転しててもしも事故ってしまったら、それこそ事故処理とか、
下手すると救急車で運ばれたりして、時間に間に合わないどころか、
相手に連絡することすらできなくなってしまうかもしれません。
それよりはちょっと遅れてでも、無事に着いたほうがいいじゃありませんか。
「alive & arrive」 くらいのつもりでのんびり行きましょう。

逆に言うと、本当に急いでいるときはクルマは使わないほうがいいと思います。
道路では何が起こるかわかりません。
急に大々的な道路工事をやってて大渋滞が生じているかもしれないし、
どっかのアホウがスピードの出し過ぎで横転して道を塞いでいるかもしれません。
自分ではコントロールできない突発事項がいろいろとありえますので、
どれくらいの時間で目的地に到着できるか確証がないのです。
クルマに乗るときは、予定通りの時間に着けなくても 「ま、いっか」 と思えるくらいの、
心の余裕を持っておくことが必要だと思います。
生きて無事に着きさえすればいい、それくらいの大らかな気持ちで運転しましょう。
さあ、ご一緒にぃ、「alive & arrive

2世嫌い

2009-10-22 20:12:31 | 人間文化論
先日 『ライオン・キング』 のテーマやストーリーが好きではないと書きました
どこがキライかというと、そもそも2世とかジュニアというのがキライなのです。
『ライオン・キング』 というのはまさに世襲の物語、ジュニアの物語です。
その手の話はどうも最初からカチンと来てしまうんですね。
自分がバリバリのプロレタリアートの出で、
親から受け継いだものが何もなかったというのが原因でしょうか。
王位争いなんてホントどうでもいいと思ってしまいます。

自分の中で2世嫌いが明確化してきたのは、
長嶋一茂がスワローズに入団してきた頃からでしょうか。
その翌年には貴花田、若花田も角界でデビューし、話題になっていました。
全体に日本人は血のつながりに弱いというか、
ジュニア好きな人が多いように思います。
歌舞伎とかの伝統があるからでしょうか。
だから芸能界でも昔から2世タレントは多いですね。
政治の世界でも最近問題になっていますが、
世襲政治家ははるか昔からたくさんいて、もはや3世、4世の時代になっているようです。
こうした風潮には反発を感じていたと思いますが、
やはり私の世界にズカズカと入り込んできたのが長嶋一茂で (私はスワローズファン)、
1987年がターニング・ポイントだったと言っていいでしょう。

一茂があまり活躍しなかったのは、私にとって幸いでした。
むしろ一茂入団によって、一茂ばかりが取材されるのに選手たちが発奮して、
その後の1990年代のスワローズ黄金時代が築かれていくわけですから、
やはり血統なんか関係ない、野球は実力じゃあ、という気分を高めてくれました。
スポーツの世界は本当に冷徹に結果が出ますから、
その意味でははっきりしていていいですね。
一茂とは反対に貴乃花、若乃花はけっきょく大成功を収めましたが、
もちろんそういう人たちがいてもかまわないし、それはそれで実力なわけです。
スポーツの世界が2世の成功者ばかりになってしまったら、
そうとう気分悪くなりそうですが、今のところそうなる気配はありません。

それに比して、芸能界や政治の世界は、
何が実力で何が実力でないかというのがはっきりしませんから、
おかげさまで2世が跳梁跋扈するという事態になっています。
まあ、このところ2世議員 (首相や大臣クラス) の失態が続いていますので、
今後少しはこの傾向に歯止めがかかってほしいところです。
格差社会というのは有利な環境に生まれた者がより恵まれていき、
不利な環境に生まれた者がどんどん落ちていく社会です。
2世好きの日本人はそんな社会を望んでいるのでしょうか。
私はそんな社会はまっぴらごめんです。
なので 『ライオン・キング』 を見ていると、
シンバ (王の息子) とスカー (王の弟) のどちらが王位を継ごうがどうでもよくて、
それよりも、ハイエナたちがまるで動物以下みたいに差別されているのはいいのか、
シェンジ・バンザイ・エドよ、今こそ立ち上がれ! と応援したくなってしまうのでした。

仕事の友 (その1)・日本語ワープロ

2009-10-21 20:26:16 | お仕事のオキテ
仕事をする上で欠かすことのできない道具っていろいろあります。
そんななかでも、日本語ワープロって最も大事なものではないでしょうか。
もちろんここで日本語ワープロというのはワープロ専用機のことではなく、
パソコンにインストールして使うワープロソフトも含んでいます。
(もうさすがにワープロ専用機なんて売ってないですよね。
 ぼくはその昔シャープの書院を愛用していましたが…。)

日本語ワープロってものすごい発明だと思うんです。
漢字を含む日本語の文章を機械で打てるようになったというのは、
その開発者にどれほど感謝してもし足りないくらい有り難いことじゃないでしょうか。
たった26文字のアルファベットですべての単語を表せてしまう英語の場合には、
19世紀の頃から英文タイプライターが開発されて、
ふつうの人が自分の文章を活字で紙に打ち出すということが可能となっていました。
しかし、にほんごのばあいはひらがなだけでも50しゅるいくらいあり、
おなじかずだけカタカナもあって、それだけでもう100こくらいキーがひつようなのに、
ひらがなとカタカナだけでかかれたぶんしょうなんて、
いまよんでもらっているようによみにくくてしょうがないですよね。
やはり漢字が打てなくては意味がありませんが、
漢字なんてもう何種類あるんだかわからないくらいたくさんありますので、
それを機械的に打てるような和文タイプライターというのは、
この写真のようなものがあるにはあったのですが、
1文字1文字漢字を探していくのですから、
とてもじゃないけど素人が扱えるようなものではありませんでした。

タイプライターから、電子式のワードプロセッサーへと進化を遂げ、
そこに 「かな漢字変換」 機能が加わって日本語ワードプロセッサーが開発されて初めて、
日本人もやっと、個人が活字の文書を作成することができるようになりました。
できたのは1980年代ですから、
実に英文タイプライターから1世紀以上も遅れてのことです。
「かな漢字変換」 機能ってものすごい発明だと思います。
つまり、キーを打ったらすぐに文字が打刻されてしまうのではなく、
例えば 「kanji」 とキーを打っても、そのまま 「kanji」 と打刻されるのではなく、
まだ確定はせずに電子メモリとして一時的に蓄えておき、
それがまずは 「かんじ」 とひらがなに置き換えられ、
それもまだ確定はせずに、「感じ」 や 「幹事」 など80個くらいの候補のなかから、
自分が打ちたい文字を選んで 「漢字」 と確定するわけです。
うーん、すごいなあ

しかし、このすごさ、この有り難さを認識していない人って多いですよね。
ゼミのときに発表用のレジュメを打ってくるんだけど誤字だらけで、
そのことを指摘すると、すぐに 「ワープロの変換ミスで…」 とか言い訳するヤツ。
ホントに許せんっ
確定したのはオマエだろっ
たしかにワープロが変換してくださったのですが、
ワープロさまは変換候補を示してくださっただけなのです。
だってワープロは使用者がどんな文字を打ちたがっているのか知らないのですから。
数ある候補の中から正しい文字を選択するのは使用者の責務なのです。
今の日本語入力ソフトはものすごく進化してて、
前後の文脈とか以前の使用例とかから推測して、
使用者が使いそうな候補を優先的に表示するようになっていますが、
しかしそれもたんなるアシスト機能にすぎなくて、
やはり最後は使用者の責任で正しい候補を選択して確定しなきゃいけないのです。
その務めを果たしもせずにワープロさまのせいにするヤツはオレが許さんっ

話が逸れてしまいましたが、
ワープロを使ってる全日本人を敵に回してでも守ってあげたいくらい、
日本語ワープロさまはとっても大切な仕事のパートナーなのです。
ところで、「かな漢字変換」 機能が開発されたことによって日本語ワープロが完成し、
活字の日本語の文書を手軽に作成できるようになったのは、たしかに画期的なことでしたが、
しかし、ワープロが一番すごかったのはそれよりも、
文書を保存しておくことができるようになったということでしょう。
一度作った文書を保存しておき、あとから修正したり書き足したり、
別の機会にまた使ったりすることができるようになったのです。
この機能は英文タイプライターにもなかったわけですが、
だから英文タイプライターから英文ワードプロセッサーに進化したのは、
欧米の人たちにとってもものすごい変革だったのだろうと思います。
このありがたさは、手書きで卒論を書き、
原稿用紙200枚分も万年筆で清書したことのある人間にしかわかりません。
一度下書きした文章をもう一度清書するのがどれほど辛い仕事か、
清書し終わったところに書き損じや書き忘れ、内容の間違いを見つけてしまい、
またイチから書き直さなきゃいけないのがどれほど悲しいことか、
ぜひ想像してみてください。
ワープロはそうした苦労から人類を永遠に解放してくれたのです。

学生の中には、せっかく作ったレポートを、
プリントアウトしたあとそのまま消去してしまう人がいますが、
バカとしか言いようがありません。
ワープロで作った文書はきちんと保存しておく、
これがワープロを最大限に活用するための鉄則です。
(ワープロに限らずパソコンで作るファイルは皆そうですが…)
このありがたい文明の利器をとことん味わい尽くし、
仕事の達人となっていこうではありませんか

死んだらどうなるのか?

2009-10-20 15:56:05 | 生老病死の倫理学
死がどういうものか人間にはわかりません。
死んだ人はひとりで死を経験し、その経験を誰にも伝えることができないので、
生きている者には死ぬというのがどういうことかまったくわからないのです。
とはいえ、人間はいずれ自分が死ぬということを知っていますので、
死について気になって気になってしかたがありません。
それでいろいろと想像をめぐらせて、
死ぬ過程はどういうものか、死んだあとどうなるのか等々、勝手に考えてしまうのです。

看護学校の 「哲学」 や 「倫理学」 の授業では、
死をテーマにしたデス・エデュケーションを展開しているのですが、
重たいテーマなので、最初は、
「死んだらどうなると思いますか」 という問いに答えてもらうことから始めています。
日本というのは無宗教の人が多いので、
死後の世界について明確なイメージを抱いている人は少なく、
たいていみんなこの問いを出されてから、初めてその場で考えているようです。

私の分類によると、死後どうなるかということに関する仮説としては、
大きく2種類しかないと思っています。

A.何もなくなる、もしくは、骨や灰など物質だけが残りそれ以外のものは何もなくなる。
B.何らかの形で私たちの意識 (魂とか霊など) が存続する。

この2種類です。
Bの 「何らかの形」 というのをさらに分類すると、3パターンが考えられるでしょう。

B-a.一般の人には見えない形で (幽霊など)、現世のなかをさまよう。
B-b.死んだ後の存在者が集う専用の世界 (天国や地獄など) があり、そこに行く。
B-c.別の人間や動物として、現世に生まれ変わってくる。

古今東西すべての仮説はこの計4つのどれかに分類できるはずですと、
看護学校では得意になって説明していたのですが、
学生さんたちの答えのなかに少なからず、
この4つのどれとも言い難い意見が見られましたので、
第3の仮説 (計5番目) として認定することにいたしました。

C.星になる、または、風になる

このCの答えを書く子が毎年何名かいるのです。
ちょっと分類に困ります。
Aに近い気もしますが、もうちょっとロマンティックです。
「星になってみんなを見守る」 という言い方がよくされるので、
この星は意識をもっているのでしょう。
だとすると、強いて言えばB-cに分類されるのかもしれません。
つまり、意識が存続して星 (とか風) に生まれ変わる、ということです。
しかし、本人たちに聞いてみてもそのへんは曖昧なので、
とりあえず第3の仮説ということにしておきます。

さて、そのうちアンケート結果を集計して論文でも書いてやろうかと思っているのですが、
日本人の若者の多くは死後のイメージとして、
Bのa、b、c を適当に混合したバージョンを抱いているということがわかってきました。
初めて看護学校でこの質問をしたときは、
みんな医学を学んでいる人たちですから、当然Aの答えが多いだろうと思っていました。
しかしAの答えは本当に少数派で、Bの混合バージョンが圧倒的多数派です。

B-a+b 思いが残っていると成仏できずに幽霊として現世にとどまるが、
       思いを遂げると成仏して天国に行く。
B-b+c しばらく天国に行ってゆっくり休み、準備が整ったらこの世に生まれ変わってくる。
B-a+b+c 幽霊としてしばらく現世をさまよったあと成仏して天国に行き、
         その後再び人間として生まれ変わる。

「恨みが晴れたら成仏できる」 とか 「成仏して天国に行ったあと輪廻転生する」 なんて、
キリスト教や仏教についてちゃんと知っていたらとても言えないようなセリフですが、
多くの学生がこのような言い方をします。
日本では宗教が影響を及ぼしていない分、テレビドラマや霊能者ものバラエティ番組などが、
若者の死生観に多大な影響を及ぼしていることがわかります。
特に、霊や前世などを扱うバラエティ番組は、本当に罪作りだなと思います。
視聴率が取れるからといって、公共の電波を使って、
ああいう怪しい仮説を垂れ流すのはただちにやめてほしいと思います。
せめて番組の最後に 「この番組はフィクションであり、出演者の発言は、
実証不可能なことに関する個人的信念を述べたものにすぎません」
くらいの断りを入れるべきだろうと思います。

むろん、学生たちがこれをどれだけ真剣に信じているのかは不明です。
冒頭に書いたように、
「死んだらどうなると思いますか?」 と問われて初めてこの問題について考え始め、
その場でササッと書いた答えがこれらだからです。
ごくまれに、「たぶん何もなくなるんだろうと思うけど、
天国や生まれ変わりがもしもあったらうれしいと思います」 と書く子もいて、
この意見が彼らの本音なのではないかという気もしています。

しかし問題なのは、彼らがこれまでこうしたことを考えたことがない、ということです。
日本では家庭の中でこうしたことが話題になることはまずないようです。
私の授業では、書き終わったあとにグループで見せ合って話し合うようにしていますが、
多くの学生が、今までこういうことを考えたり、話し合ったりしたことがなくて、
人それぞれいろいろな考えがあることに驚いた、という感想をもらします。
この手の問題に関してはさまざまな考えがある、ということを知っておくことは重要でしょう。
その上でさらに覚えておかなければならないのは、
死生観がこんなにあやふやでバラバラで怪しげなのは日本人くらいだということです。
しっかりとした信仰をもっている人が世界の大多数であって、
彼らは、それぞれの宗教が説くところの死生観をけっこう堅固に信じています。
下手なことを言ったりすると、
相手の宗教や文化を侮辱したことになってしまうかもしれないので、
日本人とはまったく考えや感じ方が違う人たちがいるということを
肝に銘じておく必要があるでしょう。
私が先にやった死生観の分類なども、私としては純粋に学問的にやっているつもりですが、
あれだってひょっとすると侮辱だと受け止められることがありうるのです。
日本にもたくさんの外国の方々がいらしていますから、
宗教や信仰に関わる問題はとてもナイーブな問題だ
ということを認識しておく必要があるでしょう。

選択的夫婦別姓制度と家族の絆

2009-10-19 19:34:46 | 性愛の倫理学
民主政権の大きな課題のひとつに、
選択的夫婦別姓制度を導入できるかどうかということがあります。
しかし閣内でもまだもめているようですね。

「閣内不一致?亀井金融相と千葉法相、夫婦別姓めぐり衝突」(2009.10.16 18:53)

記事によると亀井静香郵政改革・金融相が、
「姓が別でなければならないという心理がよく分からない」 と発言し、
千葉景子法相がそれに対して、
「逆に、そっちの心理が分からないという方もいる」 と返したとのことです。
文脈がわからないのではっきりしたことは言えませんが、
亀井氏の上記の発言だけを読む限り、
この制度が 「選択的」 であるということがちゃんと理解できていないように思えます。
選択的夫婦別姓制度は、「姓が別でなければならない」 のではなく、
「姓を別にしてもよい」 という制度であり、
大多数の人びとは、今まで通り夫婦同姓で何の問題もないのです。

夫婦も子どもも同姓にすることによって家族の絆を保ちたいという人たちは、
同姓にすればよいでしょう。
しかし、それぞれ別の姓をもつ2人の人間が愛し合って恋愛関係を形成し、
そこにすでに十分な絆が生じているのだから、
わざわざ1つの姓を放棄しなくともちゃんとやっていけますよ、
と考えている人びとが少数派かもしれないけれどいるのだとしたら、
その人たちに対して、自分の家族観をむりやり押しつけることは必要でしょうか。
選択的夫婦別姓制度は、全家庭が別姓でなければならない、と言っているわけではありません。
各夫婦が選択すればいいのです。
夫婦別姓を選択したいというカップルは、少数派かもしれませんが、相当の数がいます。
その人たちに対して、夫婦の姓は同じでなければならないと強制したがる
心理も論理もまったく理解できません。

少子化が進んでいる時代において、
この制度の導入は不可避だと思われます。
カップルのいずれもが一人っ子というケースは、今後増え続けていくでしょう。
あるいは一人っ子でなくとも、男の子ひとりだけの家庭の男性と、
女の子しかいない家庭の女性とが付き合うなんていうケースはいくらでも考えられます。
両家どちらにも男兄弟がいるなんていうのはもう確率的には相当低くなるはずです。
そういう場合に、現在の強制的夫婦同姓制度のもとでは、
結婚への強い歯止めがかかってしまうかもしれませんし、
なんとか結婚できたとしても、どちらかの姓を捨てることになり、
それが原因で新しい家族の絆をうまく作れなくなるなんていうことも考えられます。
これから作っていく家族は当然大事ですが、
これまで自分を育ててくれた家族を大事に思うのも、家族の絆ではないでしょうか。
(例えばブログでこんな記事を見つけてしまいました。
 この方は家族の絆を大切にしているからこそ悩んでおられると思います)

亀井氏には幸い(?)息子さんと娘さんがおられるようですが、
もしも娘さんばかりだったとしても、導入論者の心理はわからなかったでしょうか?
もしもその場合に、
娘さんたちが亀井の姓をあっさり捨ててしまうのが家族の絆なのでしょうか。
逆に、娘さんが一番愛している人ではなく、
亀井の姓を名乗ってくれる人としか結婚させないのが家族の絆なのでしょうか。

夫婦別姓制度に反対する人たちは、
家族の絆 (の崩壊の可能性) を論拠にすることが多いので、
今回はそれを論拠に論じてみました。
この問題は他にもいろいろな問題をはらんでいますし、
もっと根源的な問題 (そもそも結婚制度に賛成するのかなど) もありますので、
今後とも取り上げていきたいと思います。

国際都市・名古屋

2009-10-18 12:00:35 | グローバル・エシックス
今週末は日本倫理学会で名古屋に来ています。
個人研究発表の司会という大役もなんとかつつがなく果たせたし、
法政やカント研究会の後輩たちもリッパな発表をしてくれたし、
新しく知り合った方々とのディープな飲み会も連日こなしましたし、
とてもいい旅でした。

名古屋には2泊したのですが、その間に気づいたことがありました。
コンビニやファーストフード店、居酒屋など、
どこに行っても店員さんが外国人の方なのです。
そういえば東京も似たような状況なのですが、
東京ではその手の店を何度も利用することがないので、
あまり気づかずにいました。
今回は2泊3日のあいだに、ホテルや大学周辺のいろいろな店を利用しましたが、
どこに行っても必ずレジ担当が外国から来た若者だったので、それがすごく印象的でした。

福島はまだそれほどではないですね。
夜の街には知り合いの外国人女性がたくさんいらっしゃいますが、
コンビニやファーストフードではそれほど見かけないように思います。
やはり福島のような地方都市よりも、
人口100万を超える大都市のほうが外国人の若者をたくさん抱えているのでしょう。

彼らは留学生なのでしょうか?
おそらくそうでしょう。
各大学に留学しに来ている学生さんたちが、
生活費や学費のためにアルバイトしているのでしょう。
今は文科省もやっきになって、
各大学に国際化を進めるよう (つまり留学生をたくさん受け入れるよう) 迫ってきています。
少子化の時代においては、国内の若者だけでなく、
外国人の若者をターゲットにしなければ生き残っていけないのですが、
留学生獲得競争において日本の大学は大きく出遅れています。
各大学はまだそれほど留学生獲得を、生き残りのための最優先課題とは認識していませんし、
それになんといっても日本語を習得しなければいけないというのが、
留学する側にとってそうとう高いハードルなので、
日本の大学への留学希望者がなかなか増えてくれないという現状なのです。

そう考えると、名古屋にこれだけたくさんの外国人の若者がいるというのは、
とてもうらやましい状況です。
彼らはみんな名古屋大学や、今回学会が開かれた南山大学などに留学しているのでしょうか。
名古屋もいい街かもしれないけれど、
福島のほうが東京に近いし、自然も多いし、
最低賃金は低いかもしれないけれど、その分物価も安いので暮らしやすいし、
ぜひ妹さんや弟さんには福島大学への留学を奨めてあげてください。
あ、名古屋の留学生がこんなブログ読んでるわけないか。

天の呼び声

2009-10-17 07:26:03 | お仕事のオキテ
マックス・ウェーバーの名著に 『職業としての学問』 と 『職業としての政治』 があります。
いずれも岩波文庫に入っていて、もとはといえば講演を1冊の書物にまとめたものなので、
とても薄い本ですから、すぐに読めてしまいます。
どちらも素晴らしい内容ですので、ぜひ一度読んでみてください。
ただし今日お話ししたいのはその本の内容ではありません。

いずれのタイトルも翻訳では 「職業」 と訳されていますが、ドイツ語の原語は Beruf です。
この Beruf という単語はとても奥深い言葉で、
たんに 「職業」 というのでは表しきれない意味を持っています。
英語にするならば calling になるのですが、
Beruf というのは 「神の呼び声」 という意味をもつ単語なのです。
つまり、たんなるお仕事ではなくて、
神様が 「お前はこれをしろ」 と呼びかけ、
そのための才能をわざわざ与えてくださっているような職業が
Beruf であり、calling なのです。
したがってこの言葉を翻訳するのに 「職業」 という言葉では軽すぎます。
日本語にするとしたら、
「天職」 という語が一番ふさわしかったのではないかと私は考えています。

天職、いい言葉ですね。
天から与えられた仕事という意味です。
たんに、職業選択の自由が認められた時代だから、
何でもいいのでテキトーに選んでみました、
なんていう軽い気持ちで選択された職業とはわけがちがいます。
私はまさにそれをするために生まれてきたのであり、
そのための才能を生まれつき持っており、
それをすることこそが私の使命であると言えるような職業、
それが天職なのです。

天職に出会えた人というのはとてもうらやましいですね。
私は塾でバイトをしていた頃、ああこの人は教師が天職なんだろうなあ、
と思える人に何人か出会いました。
大学で教員養成に携わっている身としては、あまり大きな声で言えないのですが、
教育という仕事は特に、それが天職であると言えるような人にこそやってもらいたいですね。
もちろん、一所懸命学んで努力することによってある程度後天的に、
教師の資質を育てていくことは可能だと思いますが、
教育を天職としているような人は、そんな努力をあっさり乗り越えて、
どんなに出来の悪い子相手であろうとも、いつの間にかやる気にさせ、
確実に力を伸ばしてあげていたりします。
私などは自分と同じような、もともとやる気があって、
何とか手を抜いて成果をあげたいと思っているような子に、
効率的な勉強のしかたを教えてあげられるよう、いろいろと工夫することはできましたが、
やる気のない子をやる気にさせる、なんていうことはまったくできずお手上げでした。
ところがそういう子相手にも、
たった100分のあいだにやる気を起こさせることができる先生たちが実際にいて、
これはいくら授業を参観してテクニックやノウハウを盗み取ろうとしてもまったく歯が立たず、
この人たちはこれが天職なんだろうなあと指をくわえているしかなかったのです。

ほかにも、電気工事屋さんとか、レストランのウェイトレスさんとか、
ああこの人はこれが天職なんだろうなあと思える人を何人か知っています。
そういう人たちは、もうそれをやっているのが楽しくて楽しくてしかたないように見えます。
その働いている姿を見ているだけでこちらも元気が出てきますし、
なんだかウキウキしてきます。
皆さんは自分の天職に出会えましたか?
もしも出会えたのなら、何があろうとその仕事を大事にしてください。
それはあなただけに向けられた天の呼び声なのですから。