まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

死の受容と人の死

2021-01-11 22:35:50 | 生老病死の倫理学
先に(こちら)、人の死の構成要素として、
①回復不可能性 (=不可逆性)
②残存意識の消滅
の2つが不可欠だという話を書きました。
その2つに加えてさらに、「家族による死の受容」 という問題もあるのではないかという話を、
以前にちらっと書きましたが、
その後よく考えた結果、それは死の構成要素としては不要であるという結論に達しましたので、
ここではそれについて書いておきます。

そもそも 「死」 の受容なわけですから、
受容できるか否かの前に 「死」 が確定していなければならないはずです。
家族が死を受容できるかどうかによって死んだかどうかを決めるというのは、
論理学的にいって本末転倒(論点先取の誤謬)なわけです。

たしかに脳死の場合、まだ心臓は動いていますし、身体も温かいですから、
それが死だと言われてもそれを受け容れにくいということはあるでしょう。
しかし、脳死でなくて心臓死だったとしても、例えば突然の死だったりした場合には、
家族はその死を受容することは難しいでしょう。
家族が死を受容できないからといって、それが死ではないとは言えないはずです。
したがって、家族による死の受容という問題は、
人の死とは何かを決定するという場面には無関係であって、
別の文脈のもとで論じられるべき問題だと言うことができるでしょう。

ただし、家族による死の受容のためにも、
死の判定は確実であるべきだ、とは言えると思います。
もしも死の判定が不確実で、ひょっとすると回復するかもしれなかったり、
ひょっとするとまだ意識が残っているかもしれなかったりするならば、
それを死として受容するのは家族にとっては至難の業でしょう。
絶対に回復はしない、絶対に残存意識はない、
その2つを前提とした上で死を受容できるかできないかという話になるのであって、
回復するかもしれない、意識が残っているかもしれないという段階で、
それを死として受容しろというのはいくら何でもムリな注文です。

私は死の定義や死の判定方法を考える際には、
自分だったらと考えるべきではなく、
自分の家族(愛する人)だったらと考えて、
自分の家族の死の定義や判定方法として受け入れられるものであるかどうか、
ということを大切にするべきだと思っています。
それは、家族による死の受容という問題を死の定義に含めるということではなく、
自分に関する死の判断は、「そうなったら(大事な活動ができなくなったら、寝たきりになったら等々)
もう死んだも同然」という個人的価値観に左右される部分が大きいのに対して、
家族の死に関しては、回復の可能性はなくもう絶対に死んでいるのかどうかという、
より客観的な死の概念が必要となってくるからです。

ですので、死の定義と死の判定方法はとにかく厳密かつ確実であるべきだ、
というのが私の意見です。
そして、人工呼吸器や人工心肺装置が開発されてしまった現在においては、
心臓死はもはやその厳密かつ確実な死の定義や判定方法とはなりえない、
したがって心臓死よりも確実な死の定義・判定基準として、
全脳の器質死としての脳死を人の死とすべきであるというのが私の考えです。

脳死・臓器移植の件数2020

2021-01-11 18:11:44 | 生老病死の倫理学
脳死・臓器移植の件数はずっと数え続けているのですが、
ブログで報告したのは2014年が最後だったようです(こちら)。
後期に開講している基盤教育「倫理学」 の授業が1月からまた遠隔開講になってしまったので、
これを機にブログ記事を更新しておくことにします。
いつもの臓器移植ネットワークのサイトで調べた数値です。
臓器移植法が施行されてからの各年の移植件数を記していきます。
2010年7月に改正臓器移植法が施行されたので、
その前後で比べてみましょう。

1997年  0件
1998年  0件
1999年  4件
2000年  5件
2001年  8件
2002年  6件
2003年  3件
2004年  5件
2005年  9件
2006年 10件
2007年 13件
2008年 13件
2009年  7件
2010年 32件 (改正前3件、改正後29件)
2011年 44件
2012年 45件
2013年 47件
2014年 52件
2015年 57件
2016年 64件
2017年 77件
2018年 68件
2019年 98件
2020年 69件
通算   736件(改正前86件、改正後650件)

2014年に書いたブログ記事の時と、
若干数値が変わっているところがあります。
今、調査中ですが、ブログを書いた当時は正しくカウントしたつもりです。
臓器移植ネットワークのデータがのちに修正されることがあるので、
そのせいかもしれません。

法改正前は毎年10件足らず。
2006年に初めて2ケタに到達しましたが、
それでも10数件程度でした。
臓器移植法が改正されてから30件を超え、
その後はコンスタントに伸びていき、
2019年には3ケタに届きそうなところまで増えました。
改正前までの13年間で86件。
改正後の11年で650件。
合わせて計736件です。
やはりドナーカードなしで臓器移植ができるようになった効果は高かったと言えるでしょう。

皆さんの予想は合っていたでしょうか。
意外と、法改正前後でそんなに変わらないと予想した人や、
いずれも実際よりも少なめに見積もっていた人が多かったです。
昨年度までは少なめに見積もる人はむしろ少数派で、
ほとんどの人が1,000件とか10,000件とかかなり多めに見積もっていたのですが、
今年は現実的かつ悲観的な人が多いのでしょうか。
いずれにせよ、日本ではまだまだ諸外国に比べて脳死・臓器移植の実施数が少ないのはたしかです。
これを今後どうしていくか考えながらこのあとの講義を聴いてみてください。

大学で哲学カフェ 「脳死は人の死か?」

2017-07-12 06:54:22 | 生老病死の倫理学
先週の共通領域 「倫理学」 の授業の中で哲学カフェを行いました。

一昨年から初めて取り入れて今回が2回目です (この授業は隔年開講)。

一昨年は急に思いついたため、哲学カフェのために割ける時間が30分しかなかったこと、

それしか時間がないにもかかわらずお題を、

「脳死と臓器移植をめぐる倫理学的諸問題に対してどのような価値判断を下すか」

という幅広いものにしてしまったことによって、

議論が拡散してしまってなかなか話が深まっていきませんでした。

そこで今年は最初から哲学カフェに1コマ当てることを織り込みつつ、

例年よりもこちらからの講義を前倒しで圧縮して前時までで終わらせておき、

テーマも臓器移植の問題は切り捨てて、「脳死は人の死か?」 に絞って話し合ってもらいました。

そのおかげか、けっこう突っ込んだ議論が展開されたように思います。

はじめのうちなかなか誰も話し出さなかったのは一昨年と同じでしたが、

ひとりが勇気をもって発言してくれてからは、途切れることなくカフェは進行していきました。

いつも通り、キーワードしか書き留めることはできませんでしたが、

だいたいこんな感じの議論が交わされました。



右側部分だけ拡大するとこうです。



そして左側部分。



話は右から左へと進んでいったわけではなく、あっちこっち行ったり来たりしながらでしたが、

だいたいこんな感じのことが話し合われました。

当日は哲学カフェ終了後、考えが深まったことややってみての感想を書いてもらっただけで、

私のほうからみんなの議論に対して何かコメントしたりはせずにそのまま解散しました。

みんなの感想はまた近いうちにアップしたいと思いますが、

明後日にテストがありますので、このブログを見てくれている人だけに、

テストで解答する際に気をつけてもらいたい論点をお知らせしておきたいと思います。

「脳死は人の死か?」 という問いに対してはやはり様々な答えがありうるわけで、

人の死として認めるという意見もあれば認めないという意見もあり、

また脳死の定義をどれにするかということに関しても様々だったわけですが、

それを承けて当日の議論の大勢は、脳死や人の死に関しては個人で決めていい、

すなわち、 本人や家族の自己決定に委ねられるべきだという方向に傾いていました。

もちろん、脳死の定義は全世界で統一すべきであるという意見や、

人の死に関しては社会として一義的に決定すべきだという意見も出されていましたが、

どちらかというとそれらは少数意見で、本人や家族の選択を認めるべきという意見が多かったです。

みんながそう考えたくなる気持ちは十分理解できるのですが、

それはひじょうに危険な議論だと私は考えています。

死の定義・判定の問題と死の受容の問題とを混同してしまっているように見受けられるからです。

以前に書いたことがありますが、死の定義・判定の問題と死の受容の問題は、

密接に絡み合ってはいますが、基本的には別個の問題なので、分けて論じなくてはなりません。

死亡診断は医学的・客観的な問題 (=事実判断) であり、

それ (特に家族の死) を受け入れられるかどうかというのは主観的な問題 (=価値判断) です。

事実判断が価値判断に先行していなければなりません。

価値判断に引きずられて事実判断がゆるがせにされてはならないのです。

たとえ心臓死であったとしても、家族がその死を受け入れられないということはあるでしょう。

突然の事故死や事件による死の場合は、家族はなかなかその死を受け入れられないものです。

しかし、死を受容できないからといってまだ生きているということにはならないのです。

また今回の議論のなかでは善意の家族 (本人にとっての最善を願う家族) が前提されていましたが、

この世にはそういう善意の家族ばかりではないということも念頭に置いておく必要があります。

その人の死によって遺産や保険金が手に入るからできるかぎり早い死を望む家族とか、

逆に生き続けてもらうことによって年金が入り続けるために延命を望む家族とかもいるのです。

そういう善意でない家族の価値判断によって生きてるか死んでるかが決められていいでしょうか?

人の死の問題を個人の判断 (個人の価値観) に委ねてしまうのはひじょうに危険なのです。

回復不能な状態に陥ったときに延命治療を停止するかどうかとか、

脳死になったときに臓器を提供するかどうかという問題は、

個人や家族の判断に委ねてもかまわない主観的な問題です。

しかしそのことと、生きているか死んでいるかという客観的な問題とは、

はっきりと分けて考える必要があるのです。

テストでは以上を踏まえて答えてもらいたいと思います。

もちろん、これも私の個人的な意見と言えばそうですので、

これと対立する意見 (「人の死や脳死の定義は自己決定に委ねるべき」) を書くことは自由です。

しかしながら、その場合は以上の私の主張と論拠をひとつひとつ全部覆すつもりで、

徹底的に論じ尽くしてもらいたいと思います。

生半可な知識や浅薄な感情論に基づいて答えると辛い採点になるかもしれないのでご注意を。

はてさて、このブログを読んだ上できちんと答えてくれる人がどれくらいいるか楽しみです。


P.S.

書き忘れましたが、議論のなかでは経済的負担 (家族の、ないしは社会の) を考慮した上で、

人の死は何かを決めるべきだという意見もいくつか出されていました。

これも価値判断に合わせて事実判断を変えてしまうという過ちを犯しています。

家族や社会の経済的負担を考慮して延命治療を続けるか否かを決めるということはありえます。

それは価値の問題であり選択に委ねてよい問題だからです。

(もちろんこれはこれでいろいろ問題含みではありますが…)

しかしながら、生きているか死んでいるかという医学的・客観的判断に、

経済的事情が入り込むことはあってはならないのです。

これだとお金持ちならまだ生きているけど、貧乏人の場合は死者として扱うというような、

けっしてあってはならない差別が生じてしまう可能性があるからです。

事実判断のなかに価値判断を潜り込ませないようにすること、

テストではぜひその点に十分気をつけてください。

相馬15期生に病気が教えてくれたこと・まさおさまセレクト

2017-06-15 10:08:17 | 生老病死の倫理学
相馬看護学校での非常勤の授業、最後はムリヤリ詰め込んで、

一気に3コマやって全15回を終わらせたのはよかったのですが、

最終日にはワークシートを2枚も提出してもらうことになってしまい、

その採点がなかなか終わらずに苦労してしまいました。

最後のワークシートはレポートを書くのに必要ですので早く返却してあげたかったのですが、

まる2週間も引っ張ってしまい誠に申しわけありませんでした。

やっとすべてに目を通すことができましたので、大至急送り返したいと思います。

さて、「病気が教えてくれたこと」 のワークですが、

グループ代表作もすべて感動ものの力作揃いでしたが、

代表作に選ばれなかったものの中にも素敵な作品がたくさんありました。

全部載っけてしまいたいくらいですが、何とか厳選して8つに絞りましたので、

それらをご紹介していきましょう。


【タイトル 「お父さんお母さんありがとう」】
約10年前の話である。小学4年のとき、突然、首のうしろに激痛が走った。
数分後、今までにないくらいの頭痛により意識がなくなり救急車で運ばれた。
家族が寝始めるころの時間帯だった。
首の環軸関節が何らかの原因でずれたことによる病気だったため、
リハビリをしながら約1ヶ月入院した。
牽引療法はただ辛く、毎日痛みに耐え泣きながらのリハビリだった。
でも頑張らないと治らないと自分に言いきかせ、必死に治療に取りくんだ。
こんな私を支えてくれたのは家族で、自宅から1時間半かけて毎日きてくれた。
妹も生まれて間もなかったので、わたしの世話との両立も大変だったと思う。
あのときは、「自分だけがツライ」、「なんで私…」としか思っていなかったが、
家族の支えがあったからこそ、治療を受け無事回復することができた。
病気が教えてくれたこと。
それは、”楽しいときやツラいとき、いつもそばで見守ってくれる家族の大切さ” である。


【タイトル 「人の温かさ」】
高校生の時、耳の鼓膜が破れ、聴力が著しく低下し、入院した。
学校の仲の良い友人にだけ入院していると話をした。
治療は24時間点滴で、毎日聴力の検査や脳波の検査がありストレスがたまり、
また1人で入院していることから孤独でつらかった。
そんな時、友人何人かが見舞いにきてくれて、雑誌などの差し入れや、大量の手紙をくれた。
その時、うれしくて、普段から何気なく仲良くしてくれてる友人に感謝し、
そこからより仲も深まった。
その時、付き合っていた彼氏には入院することだけ伝えていた。
すると市内中の病院を探していた。
目の前にあらわれた時はびっくりして涙がでた。
たくさんの人のおかげで、治療に励むことができた。
病気になって人の温かさを知った。


【タイトル 「生きてくれていることのありがたさ」】
祖父が手術で入院した時、いつもの祖父の背中が小さく感じた。いつも通り笑顔を見せ、心配させないように祖父なりに振る舞っている姿に、何も掛ける声は見つからず、そのまま手術室へと向かった。術後の経過も問題なかったが、毎日心配で朝夕見舞いに行った。私は小さいころから祖父に対して、少し距離を感じており、できることなら2人きりにはなりたくないと、家族でも思ってしまっていた部分があった。しかし、入院をきっかけにそんな自分の思いよりも、祖父の不安な気持ちや体の状態の心配が先走り、1日に2回毎日1人で見舞いに行っていた。私は、3年前に突然父を亡くしていることもあり、家族に対してはそれ以来誰1人として欠けてほしくないと強く思っている。入院ということや手術となるととても私自身、死を意識してしまう。祖父の手術はぶじに終え、今は前のように元気に生活している。しかし、あの時私が祖父の手術を終え退院した時感じたことは、今ここに生きていてくれて、笑っていてくれてありがとうということだ。


【タイトル 「無題」】
兄は重度の知的障害とxyy症候群という性染色体異常をもつ、いわゆる障害者である。重度の知的障害により知能は5才児と同じぐらいだけど、今は23才である。兄が高校生ぐらいのとき難病指定されている成人スティル病を発症した。生死をさまよっていた。完治することのないこの病気はいつ再発するかわからない。そのため毎月2回点滴を行ったりステロイド剤など1日15錠を超える薬をのんでいる。ステロイド剤は大量かつ内服して長期間であるため副作用として骨密度はスカスカになっており、骨粗しょう症とも診断されている。きっと兄は長くは生きないと思っている。しかし兄に会いに行くたび兄は両親や私、弟の心配ばかりしている。きっと兄は自分がたくさんの病気がある中で今を生きているとは知らない。だからなのか、それとも本当に良い優しい人なのかはわからないが、他者の心配ができる。そんなことだけどカッコよくて自慢の兄だと最近気づいた。そんな兄が少しでも生きることが幸せだったと感じられるよう、私は家族として医療従事者として支えていきたいと思う。


【タイトル 「祖母の味」】
私は、母親、姉弟、祖父、祖母で1つ屋根の下で今現在も住んでいるが、私の祖母は認知症になりかけており、自分が何をしていたか、財布や携帯、車のかぎなどをどこに置いたかわからなくなり、私たちに 「取った!」、「返せ」 などたまに暴言を吐いたりする。昔は母の仕事の帰りも遅く、祖母がご飯をつくってくれていたり、朝おにぎりをつくってくれたり、私も祖母のつくってくれる料理が大好きだった。しかし最近、昔好きだった煮物をつくってもらったとき味付けが違うことに気づき、それでも祖母は 「美味しい?」 と聞いてくるため、「美味しいよ」 としか返すことができなかった。あんなに大好きだった煮物の味が違う、その他の料理の味も大好きだった味とは違う味になってしまった。料理好きの祖母が料理の味を忘れてしまったことを私の中でも残念に思った。しかし、祖母から教えてもらった煮物を母と一緒につくり、祖母に食べさせたとき、「ばあちゃんの味とそっくりだね、美味しい」 と言ってくれた時は、祖母の中ではずっと変わらない味があるんだと思い、たとえ昔の味とは違っても、祖母の味は祖母の味なんだと思った。そのため昔に教わった料理を今度は私が祖母に作っていこうと思う。


【タイトル 「自分らしく生きること」】
 私の祖母は糖尿病だったらしいが、糖尿病である様子は全く見たことがなかった。食事の制限もしていないし、運動もしない、インスリンを打っているわけでもなく、ただただ自由に暮らしていた。私は祖母に 「どうして治療をしないの?」 と聞いた。すると祖母は 「私にとって食べることは何よりも大切なこと。おじいちゃんももういないし、死ぬまで好きなものを食べていたいの。長く生きたからって大して変わんないよ。」 と言った。結果的に祖母は大腸がんによって亡くなったが、最後までその意志は変わらず、亡くなる当日まで大好きなアイスとキャラメルを食べていた。そしていつものようにお化粧をして笑顔で旅立っていった。
 私はこのことから、「生きる」 ということは病気を治して長生きすることだと思っていたが、本人が満足して 「自分らしく生きる」 ことも同じくらい大切なことだと思った。


【タイトル 「自分のためではなくて」】
 自分は治療を受けてまで生きていなくてもいいのではないかとずっと考えていた。それが決められた運命なら無理に運命を変える必要はないと。でもその考えが真逆に変わった出来事があった。
 私は5年前出産した。元気に泣く姿にとても愛らしさを感じた。しかし、幸せを感じながら抱っこしていた娘の異常を知らせるアラームがなりひびき、医師に娘はつれていかれた。長い時間待たされやっと会えた娘にはたくさんの管がつながれていた。悲しさと同時にどんな事をしてでも娘は死なせたくないと感じ、人生で今まであじわった事のない不安と恐怖を体験した。
 月日がたち今は娘も5歳。他の子と変わらず元気に過ごしている。私はこの子を産んだ時、この子の為ならどんなつらい事があっても、病気になっても治療してでも、この子の為に生きていたいと考えることができた。人は自分のためではなく誰かの為に生きていたいと思えるのだと。


【タイトル 「何年経っても変わらない愛情」】
 何十回、何百回、何年も怒られてきた。その度にぶつかり合って、「自分は愛されていないのか」 と子供ながらに思った。
 成人式を迎えた次の週、インフルエンザにかかった。20歳になり、部屋で1人、何も出来ずただ寝ていることしか出来なかった私は、部屋の前に食事が置かれるのを受け取った。温かいスープに、温かいおかゆ。普段食べている食事はこんなに温かかっただろうか。気付いていなかった。しかしその時の私は食欲なく数口しか食べられず部屋の前に食事を戻した。教育に厳しい母は、普段なら 「残さず食べなさい」 と怒るであろう。だが怒られることはなかった。次の日からは、小さくカットされたフルーツが置いてあった。母は私が食欲がないことを知り、食べられそうなものを選んだのであろう。普段のフルーツが、こんなにおいしいと思ったことがないくらいおいしいと感じた。
 母は、何年経っても母だ。子どもを知る、子どもを観る母の愛を感じた。インフルエンザが完治したあと、私は母に 「ありがとう」 と伝えた。病気から教わったこと。それは何年経っても子どもを思い続ける母の愛情であった。祖母をみて母となった母を、私はみて ”母” になりたいと思う。


いかがだったでしょうか。

どれもグッと来るものばかりでしたね。

他にもご紹介したいものがまだまだあるんですが、

いいかげん腱鞘炎になってしまいそうなのでこれぐらいにしておきます。

このワークをやってみての感想も書いてもらいました。

そちらも名文ぞろいでしたが、3つだけご紹介しておきましょう。

「病気になって感じることはとても多く、日常を平凡に暮らしている中で気づくことは逆にむずかしいと思う。だからこそ、病気になったときにふつうに暮らしているときには気付かないこともあるんだなと思った。クラスでの病気が教えてくれたことをきいて、実際に経験した人がいると思うと涙が出てきた。私だったら絶対耐えられないし生きる希望さえなくなってしまう。そんな経験を胸の中に抱えた友人と今こうして看護師の夢を叶えるために勉強できていることを誇りに思う。」

「今日の授業は今までの授業で一番重い授業だったけれど、一番考えさせられて、気づかされたことが多い授業でした。『病気』 は今まで悪いものとしか受け入れられなかったけれど、エッセイを読んだりクラスの発表をきいて、自分の今までの考えは外からしか見れていないものだったんだなと気づかされました。今日の内容は、人としても看護師としても学ぶこと、心に刺さるものが大きい授業でよかったです。」

「病気はさみしさや悲しさ、怒りや苦しみをみんなに与える。だけど病気によって今までのことが、ほんの少しのことがありがたくてすばらしいことだったと気づかされる。病気は良くないことだけど病気のおかげでいろいろなことが良いことに変化することもあるということを学んだ。こんな授業は最初で最後だなと思うから良かったなと思う。」

元はと言うと、14コマから15コマに1コマ増やさなければいけなくなって、

内容を水増しするために急遽思いついた苦肉の策のワークだったのですが、

今やまさおさまの授業を締め括るにふさわしい名物ワークへと大化けしてくれました。

とりわけ今年の15期生は、みんな若いにもかかわらず重たい経験を積んできた人が多くて、

その分みんな深い学びを得てくれたようです。

2年間一緒に学んでくるなかでもお互いにあまり見せなかったそれぞれの経験を分かち合い、

心新たに、看護師という共通の夢に向かってお互いに精進していってください。

相馬看護15期生に病気が教えてくれたこと

2017-05-31 08:46:03 | 生老病死の倫理学
相馬看護学校の 「哲学」 の授業が先週で終了しました。

昨年は6回 (12コマ) 終えたところで実習が始まってしまい、4週間空いて7回目の授業、

さらに2週間空いてから最後の1コマと、最後のほうが間延びしてしまいましたので、

今年度は一気に終えられるように教務の先生と相談して、

実習前に終えられるように詰め込んだ上に、最終回は一気に3コマやるという形で、

4~5月で何とかすべての授業を終えることができました。

最終日はさすがにずっと立ちっぱなしで足がつってしまいましたが、

濃厚な学びを拡散させずに凝縮するという意味ではこのスケジュールでよかったと思います。

さて、最終回の2コマ目に一昨年から始めた 「病気が教えてくれたこと」 のワークを行いました。

今年も8班分の代表作品が出揃いましたので、ご紹介していきましょう。


【1班の代表作品 「人は1人では生きていけない」】
これは祖父が入院中に私に言った言葉です。
祖父は今まで自分は何でもできると思って生きてきました。
しかし病気で立ち上がることが困難となり入院することになった時、
祖父の仕事を親戚の人がかわりに手伝ってくれたりとたくさんの人に祖父は助けられました。
この状況を聞いた祖父は 「人は1人では生きていけない、
色々な人に助けられて生きているから感謝しないといけない」 と涙ながらに話しました。
健康だと1人で何でもできると思いがちですが、病気を患うことで他人の温かさを知り、
今まで気づけないことを気づかせてくれるのだと思いました。


【2班の代表作品 「側にいる大切さ」】
友人が病気を患った。
いつも明るく元気でいたことが多かった友人は、私がお見舞いに行くたび、日が過ぎるたびに笑顔が消えていった。
そんな彼女をみると、私も辛くなり、どう声をかけたらいいか分からなかったが、会いに行くことはやめなかった。
そして手術の日。
手術は成功し、病室から戻ってきた彼女から一言、「しんどいときも一緒にいてくれてありがとう」。
そのときに私は 「あ~、大したことは言えなかったし、支えられていたか分からないけど、
側にいたことだけでこの子の力になれたのかな」 と思うことができた。
そして、そのときに久しぶりの友人の笑顔をみれた気がし、これから先もこの子に何があっても側にいようと、
彼女が病気になったことで再認識できた。


【3班の代表作品 「明日やろうはバカヤロウ」】
 中学3年の冬、祖父が亡くなった。胸が苦しいという訴えがあり、意識不明となったため救急車で病院に運ばれた。その後、意識を取り戻し、状態が落ち着いたという連絡があったため、家族でお見舞いに行った。そのとき、祖父は 「ゼリーが食べたい」 と話していたが、「今日は面会時間になるから [終わるから?] 次来るときに持ってくるね」 と伝え、帰宅した。だが、次お見舞いに行くことは無かった。その日の夜中、祖父は亡くなった。私が小学生の頃のドラマに ”明日やろうはバカヤロウ” というセリフがあったことを思い出した。祖父がゼリーを食べたいと訴えていたが、状態が落ち着いたということや面会時間だからといってゼリーをその日のうちに買わなかったことを後悔した。必ず明日はくるという確証は無い。”明日でいいや、まだ間に合う” という考えではなく、後悔しないように、今できることは今行うことが大事だと祖父の病気 (死) が教えてくれた。後悔しないように、明日ではなく、今日のうちにやることの大切さを教えてくれた祖父のためにも、「明日やろうはバカヤロウ」 という言葉を忘れずに生きていきたい。


【4班の代表作品 「病気と家族をもつ」】
私には姉がいる。姉は会社員で、平日は出勤し、週末は家でのんびり過ごしている。
姉は結婚している。しかし、子どもはまだいない。
姉は元気な人だ。しかし、病気をもっている。
会社ではしっかり仕事をこなしている姉が、家では苦痛で身をふるわせている姿を私は見てきた。
今でも休日にその姿を見かけることがある。その時は、姉の夫が姉のからだをさすったり、マッサージをする。
私はこの光景をみて、改めて家族の温かみを感じる。
姉は病気をもっている。しかし、病気の時、傍らで支えてくれる人もいる。


【5班の代表作品 「いざとなると自分が弱くなる」】
私のおじいちゃんは魚屋だった。
本当に仕事熱心で、体調が悪くても自分のことより仕事を優先していた。私はおじいちゃんを尊敬している。年に数回しか会いに行けていなかったけれど、いつも私の大好物のものを用意して待っていてくれた。
いつも笑顔でやさしくて、大好きなはまじいちゃん。
そんなはまじいちゃんが入院した。
はじめはすぐに元気になって退院できるだろうと思っていた。
けれど、もう家には戻れないと母からいわれた。仕事もやめると。あんなに仕事人間だったのに。
はまじいはヨーグルトやプリンしか食べてはいけない。それでも差し入れを持っていくと嬉しそうに食べていた。
それがまた私にはつらかった。次会いに行ったときはすごく小さくなっていた。手を握った。
握り返してくれた。なぜか涙が出てきてその場にいられなくなった。
なんではまじいなのか。お願いだから治ってよ。
でも、どんどん衰弱している。今の私は病気がにくい。けれどはまじいはどう思っているのか怖くてきけない。でも昨日、もう長くはないと電話がきた。今のうちに、今しかできないこと、話せないこと、きけないことを、後悔する前に。私が笑顔で会いに行こう。


【6班の代表作品 「母の気持ち」】
 私が幼少の頃、母は肺癌を患った。小1の時に手術を受け、転移もみられず、また普通の生活へと戻った。もちろん、小1の私は、病気の名前も入院している理由も知らずに、また母のいる生活に戻ったとしか思っていなかった。
 月日は経ち、中2になったとき健診で脳への転移がみつかった。この時も手術を受け、昔の手術の話も聞いた。無事手術は成功し、念のため腫瘍付近に放射線もかけた。医者もこれで大丈夫だろうと言っていた。しかし、そんなに甘くはなかった。高校に入学してから、脊髄への転移が見つかってしまった。放射線や抗癌剤での治療を選択した。その時はまだ、また戻ってこれると思っていた。癌は悪化の一途をたどり緩和ケア病棟へと転棟した。これでもまだ母のことだから元気になるんじゃないかと思う私がいた。今思えば馬鹿だとしか思えない。姉も帰省し、家族全員でお見舞いに行った翌日、母は息を引き取った。何もできなかった。話せるうちにちゃんと話しておけばよかった。最後に話した言葉も覚えていない。今、仏壇の前で話しかけても返事はない。何を考えているのか、何をしているのかも分からない。人は自分の意志を自分で伝えない限り、相手に伝えることはできない。相手の気持ちを考えてもそれは推測でしかない。母も私や家族が何を思っていたのかを知らないだろう。そして、もう知ることはできないだろう。


【7班の代表作品 「私の償い」】
 私は中学校のときに、病気で父を亡くしている。それまで普通に家族と生活したため、父の病気を受け入れることができなかった。当時は、病気になったのは父のせいだと思いこみ、何度も何度も父に対しひどいことをしてしまった。でも、そんな私に父は、いつも通り話しかけてくれて、いつでも味方でいてくれた。日々悪くなっていく父をみて、長くはないと自分で感じた。
 父は入退院を繰り返すようになった。私は、部活で忙しいを言い訳にしてお見舞いに行くことは一回しかなかった。本当は苦しんでいる姿をみるのが怖かったから行けなかった。私は父に対して ”ありがとう” も言えず、何もできず亡くなってしまった。亡くなったとき父に対し、罪悪感だけが残った。今までひどいことをしてきたこと、いつも味方をしてくれた父を傷付けてしまったこと、最後まで ”ありがとう” が言えなかったこと。失って初めて気付いた。亡くなった父の顔をみて罪悪感や後悔だけが残った。いくら願っても、もう父はいないし謝ることもできない。しかし、いつも応援してくれた父にこたえられるよう恩返しができるよう、今自分がすべきことをしようと決めた。今は看護師という夢に向かってがんばっている。看護師になって初めての父親孝行をしたい。


【8班の代表作品 「現実を受け入れて、みえたもの」】
 病気がわかったときは、頭も気持ちも全て停止してました。「なんで私が?」 なんて考える余裕もなく、特別悲しいなんて感情になる訳でもなく、ただ涙が止まりませんでした。私の気持ちだけとまったまま、医者は説明を続け、私は涙が止まらないまま部屋を出ました。そのとき看護師が私に 「人生は選択の連続だから」 と言いました。そのときは気持ちがついていかず、頷くことができませんでした。時間が経ち、気持ちが落ち着いた頃、再び考えました。手術を受ける恐怖、しかしこのまま放っておいたらと思うと、その恐怖の方が大きく、私は手術を受けることを自分で選びました。きっとこれまで生活していた中でも意識せず選択をずっとしてきたはずなのに、このときが人生の一番の決断のようで、何か特別に考えていました。でも、私の人生の中でこの選択はこれまで数えきれないくらい選んできたものの中の一つであるというだけで、これだけをピックアップして特別悲しんだり、良かったと思ったりはしたくありません。私は病気になるべくしてなったんだと思っています。病気になって、何気なく毎日通っていた学校や、友人との遊び、家族との食卓など、大切なものに囲まれていたことに気づきました。遠くからお見舞いに来てくれた友人、毎日通って支えてくれた家族が私にとって一番大切なものだと分かりました。大切なものは、特別なときに特別なことをするのではなく、毎日の生活そのものだと思います。病気を受け入れられず人にあたって傷つけたりもしました。でもそんなことをしても今もずっと側にいてくれる人を大事にしていこうと思っています。病気にならなかったら、こんなに大切なものに気づくことができませんでした。病気になったからこそこれからは大切にしていこうと思えました。この経験がなくては私の人生ではないです。


いかがだったでしょうか。

今年は例年になく感動的な作品が揃いました。

グループ内での発表時や全体発表の際もあちこちで鼻をぐすぐす言わせる音が響いていました。

こんなことは初めてです。

みんなまだ若いので 「病気が教えてくれたこと」 といっても、

そんなに重たい学びを期待していたわけではなかったのですが、

15期生はけっこう大変な経験をしてきた人が多いようです。

ふだんはあまりそんなことを感じさせる人たちではないのですが、

内にはいろいろ秘めていたんですね。

この思いを胸に素敵な看護師への道を歩んでいってもらいたいと思います。

今度の土曜日「第2回びえもカフェふくしま」開催っ!

2017-05-16 10:47:35 | 生老病死の倫理学
今月は 「てつがくカフェ@ふくしま」 はお休みです。

その代わりというわけではないのですが、

「びえもカフェふくしま」 が5月20日 (土) に開催されます。

代表手作りのチラシは今回はこんな感じ。





テーマは 「しあわせな最期とは?」。

私も看護学校の授業では看護学生の皆さんに、

「あなたの理想の死に方はどういうものですか?」 と問いかけ、

自分は最期どういうふうに死にたいかを考えてもらったりしています。

ぽっくり死にたいとか、愛する人に看取られながら死にたいといった答えが多いなか、

15年間でひとりだけ 「愛する人を守るため盾となって死にたい」 と答えた人がいて、

すっげぇ男前やなあと思ったことがありました (そう答えたのは女子学生でしたが…)。

まあもちろん理想通りに行くわけではないのですが、

自分の死に際について考えてみるというのは、自分が何を大事にしているのか、

自分の価値観、幸福観、人生観を問い直すということでもあります。

あなたにとってしあわせな最期とは何ですか?

ぜひ 「びえもカフェ」 でみんなと一緒に考えてみましょう!


P.S.

今回は楓舎のコーヒーが飲み放題だそうです。

あいかわらず交渉上手だなあ。

健診結果2016は1勝2敗

2016-10-13 22:27:03 | 生老病死の倫理学
健診結果が返ってまいりました。

昨年は特に何を頑張ったわけでもないのにまさかの完全試合を達成してしまいましたので、

この1年間はいい気になってけっこう不摂生な生活を送っていました。

ブランチにカップラーメンとか頂いたりして、糖質制限どころか糖質大摂取。

そうするとお腹が重いので階段を上がる気にもならず、ついエレベーターに頼る日々。

まあこれでは完全試合再びというわけにはいかないよなあと諦めつつ受けた今年の健康診断でした。

結果は案の定、1勝2敗でした。

まあこの1年間の生活を思えば 「4:要治療」 がつかずにすんで万々歳と言うべきかもしれません。

まずは 「2:軽度異常」 の腹囲。

88.5cmまで戻ってしまいました (基準値:85未満)。

糖質制限に成功して80.0cmの金字塔を打ち立てた2013年。

その後、81.0cm、82.0cmと微増ですんでいたのに、

一気に6.5cmもリバウンドしてしまいました。

糖質制限再びなのか⁉️

もうひとつが 「3:要経過観察」 の脂質、総コレステロールとLDLコレステロールでした。

総コレステロールは204 (基準値:140〜199)、

LDLコレステロール (いわゆる悪玉コレステロール) は138 (70〜119)。

ちなみに2013年からの4年間の推移を見て見ると、

総コレステロールは229→227→187→204、

LDLコレステロールは146→131→115→138でした。

こう見てみると、やはり去年が出来すぎだったというのがよくわかります。

なんであんなにいい数値を記録できたんだろう?

特に何を気をつけていたというわけでもなかったのに。

ま、とりあえずカップラーメン控えるのと階段ダイエットの再開かなあ。

このまま坂道を転げ落ちてしまわないように何とか頑張りたいと思います。

さて、昨年の完全試合に対して何を1勝できたのかと訝っていらっしゃる方もおられるでしょう。

私もビックリしてしまったんですが、なんと視力が 「1:異常なし」 に改善していたんです。

昨年、視力のところが 「2:軽度異常」 の判定でした。

私はもう幼い頃からずっとど近眼でしたから、視力はどうしようもないよなあと思って、

昨年 「2:軽度異常」 の表記を見ても前からそうだったんでしょと勝敗判定に含めず、

完全勝利を宣言してしまったのでした。

視力のところには基準値が記されていなかったので、よけいにど近眼はど近眼みたいに、

軽度異常は当たり前的に受け止めてしまっていました。

しかし、今年 「1:異常なし」 の判定がされたということは、

裸眼がど近眼であることとは関係なく、矯正視力の値で正常異常の判定が下されていたんですね。

たしかに健診では裸眼視力は測っていないのですから、

矯正視力が問題にされているに決まっていますね。

そういう観点からこの4年間の矯正視力の推移を振り返ってみましょう。

0.6/0.7 → 0.7/0.5 → 0.6/0.6 → 1.0/0.8。

で、2年前、3年前の検診結果報告書を見てみると、視力は 「1:異常なし」 でした。

つまり、どちらか片目の矯正視力が0.7あれば異常なしだけど、

両目とも0.7を切るようになると軽度異常と判定されていたようです。

視力のことなんか覚えていなくてずーっと前から軽度異常だったものと思い込み、

それはカウントしないことにして昨年は完全勝利宣言をしてしまいましたが、

本当は去年は2勝1敗だったんですね。

矯正視力が回復してよかったです。

それはこの年始に免許更新に向けてメガネを買い換えたおかげですね。

たしかにちょっと昨年の矯正視力では免許は更新できなかったかもしれません。

新しいメガネ買っておいてよかったです。

1.0と0.8ってものすごい改善じゃないですか。

とはいえ今回の勝利はこの金で買った視力だけでした。

腹囲とコレステロールかあ。

うーん、来年の健診までに少しは何とかしなきゃなあ (あまり気乗りしないけど…)。

『友だち幻想』 菅野仁先生ご逝去

2016-10-04 16:24:18 | 生老病死の倫理学
かつて私がこのブログで大絶賛した 『友だち幻想』。

こちらの本です。



その著者である菅野仁先生がご逝去されたという連絡を、本学のK先生からいただきました。

K先生は社会学がご専門で菅野先生ともご親交があったようで葬儀にも参列されたそうです。

おそらくK先生は私がブログで菅野先生の本を取り上げていたのを見て、

「直接の面識はおありではないかもれませんが、念のため」 ということでご連絡くださいました。

たしかに直接の面識はありませんでした。

しかし、菅野先生は宮城教育大学にお勤めでしたし、私の1個上と歳も近かったので、

何かの機会にお会いできたらいいな、できるんじゃないかなと漠然と思っておりました。

1960年生まれの享年56歳。

まさかこんなに若くして亡くなられるとは思っていませんでした。

K先生情報によると菅野先生は現在、宮教大の副学長を勤められていたそうで、

おそらく学内の先生方も、ひょっとするとご本人自身も、

まさかこんなに早く亡くなられるなんて思っておられなかったのではないでしょうか。

私としても面識ないながらに他人とは思えず、

若干嫉妬をまじえながら敬愛申し上げておりましたので、本当に残念でなりません。

菅野先生には 『友だち幻想』 のほかに同じ出版社から 『教育幻想』 という本もありました。



こちらもとてもいい本ですので、そのうち紹介しようと思っていたところでした。

「人柄志向」 ではなく 「事柄志向」 で、「心の教育」 ではなく 「行いの教育」 を、

「規律か自由か」 の二者択一ではなく 「間をとる」 努力を、

「働かなければ、生き続けることはできない」 を教えるのが教育であり大人のつとめである。

この本もまさに 「お前はオレか」 状態です。

いや、もちろん私なんかではこんなふうにクリアに書くことはできないんですが…。

倫理学者としても教育学者としても尊敬していました (社会学者としてはよく知らない…)。

本当に惜しい方を若くして亡くしてしまいました。

菅野仁先生のご冥福をお祈り申し上げます。

Q.倫理がなければ発達する技術もあるのに、なぜ倫理は必要なんですか?(その1)

2016-09-22 14:02:12 | 生老病死の倫理学
今回の問いも倫理学者としてはたいへんうれしい問いです。
これが代表質問に選ばれてくれなかったのがちょっと残念なくらいです。
正確には以下のように書かれていました。

「Q.倫理がなければ発達する技術もある (クローン等) と思うのに、なぜ倫理は必要なのか?」

倫理がなければ発達する技術の例としてクローン技術が挙げられていました。
現代医療の恩恵を一身に受けてきている現代っ子らしい質問だと思います。
このような質問に対してはどうお答えしたらいいのでしょうか?
クローンという例を挙げてくれたので、
今日のところは技術一般の話ではなくクローン技術に絞って考えてみることにしましょう。

この質問者の方はクローン技術というものに対してどのようなイメージを持っているのでしょうか?
今どきの若者はクローンというと、本人の遺伝子を用いて必要な臓器を人工的に作れる、
という技術として認識しているのかもしれません。
クローンというのが元々そういうことだったとするならば、
たしかになぜそれに反対する人たちがいるのか理解できないかもしれません。
重い心臓疾患や肝臓その他の内臓の病気にかかってしまい、
その臓器を直接治療する方法がないという場合に、現在では他人から臓器をもらって、
臓器移植をしなければならないわけですが、
他人の臓器を体内に入れることによって拒絶反応が起きてしまうという医学的な問題が生じたり、
健康な人から臓器を取ってしまっていいのか、死体からならいいのか、
脳死は心臓が動いているのに死なのか、といった倫理学的な問題が生じてきてしまいます。
しかしながら、本人の遺伝子から作った人工臓器であれば、
拒絶反応という医学的問題も、他人の臓器を奪うという倫理学的問題も回避できます。
なぜそんなバラ色の技術に対して倫理は歯止めをかけようとするのでしょうか?

これは元々クローンというのがそのような限定された医療技術ではなかった、
というところにひとつの大きな原因があります。
私たちの世代ですと、クローンと言ってすぐに思い浮かぶのはマモーです。
1978年に公開された映画 『ルパン三世 ルパンVS複製人間』 の敵役がマモーでした。
今調べてみて愕然としたんですが、これってもう40年近く前の映画なんですね。
たしかにぼくが高校生の頃にこの映画見に行ったんだったなあ。
さすがにみんな知らないかなあ?
こういう人です。



どうですか?
見覚えないですか?
でもウッチャンがこれをマモー・ミモーというコントネタにして、
昨年、NHKの 『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』 で復活を遂げていましたから、
こちらは見覚えのある人もいるのではないでしょうか?



話が脱線しまくっていますが、このマモーというのが映画のタイトルにもある通り、
クローン技術によって作られた 「複製人間」 なのです。
ラストのほうではマモーの複製人間が大量に出てきます。
あ、そうか、皆さんには綾波レイと言ったほうがわかってもらいやすいのかもしれませんね。



『エヴァンゲリオン』 ももう古いのかな?
いずれにせよ、クローン技術に対して元々抱かれていたイメージは、
ある生体と同一遺伝子の別の生体を作り出す、というものでした。
ここで 「イメージ」 という言葉を使っているのは、
クローンやクローン技術について正確に説明しようと思うとこれまた大変になってしまうためで、
詳しくはウィキペディアやその他の専門書をご覧ください。
無性生殖をする生物は基本的にクローンですから、クローンは自然界には普通にあることですし、
植物に関してはクローン技術によってクローンを作り出すということもずっと昔から行われてきていて、
例えば春に咲く桜のうちのソメイヨシノはすべてクローン技術によって生み出されたクローンです。
園芸の世界では、クローンという言葉がまったく知られていなかった頃から、
挿し木という名のクローン技術が着実に進歩を遂げてきていたわけです。

こうした技術の着実な発展に対して倫理 (もしくは倫理学) が待ったをかけたのは、
哺乳類に対するクローン技術が開発されてきたからです。
初めての人工的な哺乳類のクローンは1981年に作られたそうですが、
最も有名になって議論を呼んだのは1996年に作られた羊のドリーでした。
体細胞核移植による初めてのクローン哺乳類だったからです。
うーん、あまり正確でないのを承知で喩えてみますと、
まだ生まれる前のマモーを人工的に一卵性双生児にしてクローンを殖やすやり方ではなく、
成長したマモーの体細胞を使って核移植することによってクローンを作ったという感じです。
より私たちのクローンのイメージに近づいています。
羊でそれができたということはいずれ人間でも可能になるということで、大問題になったのでした。

さて、質問者の方に逆に質問です。
あなたと同じ遺伝子をもち外見が瓜二つのあなたの複製人間をいくらでも作れるとしたら、
あなたは自分の複製人間を作りたいですか?
例えば、万が一重篤な心疾患やその他の内臓疾患にかかってしまったときに、
その複製人間から移植用の臓器をもらえるのだとしたら、あらかじめ作っておきたいと思いますか?
もしも作っておいた場合に、移植までのあいだその複製人間はどのように暮らせばいいのですか?
いよいよ移植が必要となったときにその複製人間が臓器提供を拒んだら、あなたはどうしますか?
逆に、オリジナルは実はあなたではなく、あなたも複製人間のひとりだったとわかった場合、
あなたは複製人間としての使命 (製作目的) をきちんと全うしたいと思いますか?

あるいは別の例を考えてみましょう。
どこかの誰かが勝手にあなたの複製人間を大量に作って、
様々な用途のために (戦争や廃炉作業や性産業など) 役立てたとしたら、
あなたはそれを許せますか?
あなたの複製人間ではなく、どこかの知らない人の複製人間だったら何に使おうとOKですか?
どこかの国の子どものいない政府指導者が自分の複製人間を何千万人も作り出して、
何度選挙やっても彼らの圧倒的支持によって勝ち続けるようになってしまったとしたら、
それを民主主義国家として認めることはできますか?

これらの質問すべてに対して、あなたを含めて世界中の大多数の人々が何の疑問も懐かず、
「全然OK、ノープロブレム」 と即答してくれるのでしたら倫理も倫理学も要らないでしょう。
これらの質問に対してそれはおかしいと感じたり、決めるのは難しいなと悩んだりしたならば、
そこはやはり倫理や倫理学の出番となります。
そして、質問者の方がクローン技術に関してどういうイメージをもっているのかわかりませんが、
元はといえばクローン技術というのはこういう可能性も含み込んだ技術だったわけです。
したがって、これらの疑問に明快に答えることができるようにならないかぎり、
ヒトクローンに関する技術は、手放しでどんどん発展させればいいということにはならないのです。

たしかにクローン技術はますます進んでいて、生体そのものを産生するのではなく、
限定的にある特定の臓器だけを産生することが可能なレベルにまで達しています。
そのような技術の進歩が、それまであった倫理学的問題を解決してくれることもあるのですが、
しかし同時に新たな技術はまた新たな倫理学的問題を引き起こしてしまうものです。
クローン技術による限定的臓器複製が可能になったとして、
では、お金さえ持っていたら無限に臓器を再生し続けていくらでも長生きしていいのかとか、
臓器を普通よりもよけいに作って移植して身体機能を強化するのはいいのかとか、
遺伝子組み換え技術と組み合わせて、より改良された臓器や身体を作ってもいいのか、
さらには、脳も同じようにクローン複製移植していいのかといった問題も生じてくるでしょう。
「Q.脳は移植できるんですか?」 もご覧ください。)
いずれも、個体全体を複製するのに比べれば問題は少ないような気もしますが、
それでもやはり何でもありというわけにはいかないでしょう。
限定的な技術として認可する場合には、じゃあどこまで限定すればOKか決めなくてはなりませんし、
その限定的な技術の先には上述したような複製人間の問題が待ち構えており、
それに関してもはっきり定めておかないことには、
限定的な技術のことだけを考えればいいというわけにもいかないのです。

というわけで、今のところ人間に対するクローン技術の利用は禁止されていますが、
それ以外の動植物に対するクローン技術はけっこう日常的に使われています。
しかしながらそれは何でもありの白紙委任ではなく、
どこまでがOKでどこからがアウトかという線引き (=倫理) の枠内で認められているわけです。
この先、ひょっとすると人間に対するクローン技術の利用も認められることがありうるでしょう。
その場合も、どこまでがOKでどこからがアウトかという線引きがなくなることはないはずです。
クローンに限らず、技術というのは進歩しさえすれば何でもありというものではなく、
何らかの線引き、枠組み、歯止めを必要とするものです。
技術一般に関しては稿を改めて、「(その2)」 でもう一度論じることにしたいと思います。

キミはここの子だったのかあ

2016-08-09 10:44:24 | 生老病死の倫理学
先日、酔った勢いでひとりでスナックに行ってきました。

このところ緊縮財政なもので、あまりその手の店には入り浸らないように気をつけているのですが、

ピンキーの伊藤さん例の穴子料理を堪能したあと、

彼の紹介で初めて訪れたスナック 「456 -JIGORO-」 というお店がとても安くって、

どれだけ飲もうがいくら歌おうが3,000円ポッキリという価格設定でした。

昔はそういうお店を何軒か知っていて、学生たちとの打ち上げで最後に使ったりしていたのですが、

このところそういうお店が軒並みなくなってしまっていたので、ここは使えるかもと思い、

伊藤さん抜きで単独で行ってもその価格で飲ませてもらえるか確かめるために再訪してみたのです。

こんな感じのお店です。



オープンしてからまだ日が浅いそうで真新しい感じのキレイなお店です。

ママがひとりで切り盛りしているためああいう価格設定でやっていけるのでしょう。

またそのためかこの日は女性だけのグループも来店していました。

結論から言うとやはり3,000円ちょうどで飲ませていただくことができました。

今後、学生たちとの宴会に大いに利用させていただこうと思います。

それはいいのですが、席に着いたらお通しが出され、それを見てみてビックリしました。

こちらです。



3,000円なのにお通しが3品も付いてスゴイ?

まあたしかにそうかもしれませんが、ポイントはそこではありません。

3品中、ポテトサラダと酢の物にキュウリが使われていて、

まるで相馬のとんかつ屋さんのようだ?

いやいいんです、安い価格でやっていくためには悪魔の力も借りなきゃいけないでしょう。

注目していただきたいのは一番左の一品です。

これはあれではありませんかっ

そうです、あれです。

我が家の冷蔵庫のなかにあったあれです。

こちらですね。



剥いたらこうなるやつ。



なんだ、キミはここの子だったのかあ

迷子のくんたまのお母さんに無事に再会することができてよかったです。

お聞きしてみたところ、あの日は何だかの記念のサービスで空くじなしの抽選をやっていて、

何等賞だかわかりませんが、私は燻製卵の10個パックを引き当てたのだそうです。



そんな幸運に恵まれていたというのに、そのこと自体を忘れてしまっていたなんて不幸ですね。

まあ、くんたま自体は美味しく頂いていたので、それはそれで幸福ではありましたが…。

それにしても完全にこちらの店でもらった (当たった) ということは記憶から飛んでいました。

ブログでは書きませんでしたが、Facebook のほうでは、

「何人か犯人の目星はついていて、とりわけ最重要参考人もいることはいる」

と書いていたんですが、まったく間違っていました。

大学院の修了生で何だかよく食べ物を持ってきてくれる人がいて、

あの頃、彼と久しぶりに飲んだから、きっと彼からもらったのだろうなあと思っていたのでした。

あのときのブログの最後に 「どこのどなたか存じませぬが、

名乗り出ていただけなかった場合のことを考えて、この場で御礼申し述べさせていただきます。

どうもごちそうさまでした」 と書いたのは完全に彼向けの感謝の言葉でした。

何だよ、全然違っていたじゃないか。

まったくの誤認逮捕でした。

誠に申しわけありません。

改めて、「456」 のママと、「456」 を紹介してくれた伊藤さんと、

あれを引き当てた自分の強運に対して感謝申し上げたいと思います。

その上で、それら一切を全部忘れてしまえる自分の酒癖には猛省を促したいと思います。

相馬14期生に病気が教えてくれたこと・まさおさまセレクト

2016-07-20 16:45:27 | 生老病死の倫理学
相馬の看護学校で行った 「病気が教えてくれたこと」 のワーク、

先日は各班の代表作品をご紹介しましたが、

今日はまさおさまセレクトの5作品をご紹介しましょう。


【家族】
普段私達は、家族とあたりまえのように話し、食事をとり、日々を過ごしている。そのため毎日の生活の中で、家族という存在の有り難さには中々気づかない。しかし、それがあるきっかけにより気づかせてくれることがある。それが、自分もしくは家族の病気である。
病気の症状は突然であった。母親が突然顔をまっさおにし動けずに横になったまま表情をこわばめていたのだ。この時は、知識もなくどう対処すればいいかわからず心配や不安におしつぶされそうで、家族を失うのではないかという思いでいっぱいだった。それからは、ふとした瞬間にその時のことを思い出される。
家族はいてあたりまえ。確かに健康であればそうなのだろう。
でも、あの時のように突然家族の危機に直面した際に同じことはいえなくなるだろう。家族は普段の生活の中で、学生である私の食事や経済面だけでなく精神的にも支えになっている。私は今、あの時のように何もできない自分ではなく、家族をいちはやく気づき対処できる自分になるために勉強している。


【大切な存在】
中学生のときに妹が手術をした。
先天性の疾患で辛抱中隔欠損症だった。
医師は 「悪化する前に見つかって良かったね」 と言った。
何が良いのか、当時の私には分からなかった。
「心臓の手術をする。」
ただその言葉だけが、頭の中をかけめぐった。
2つ年下の妹。
私よりもしっかりしてて、口うるさくて。
よくケンカをした。
何度、一人っ子だったら良かったのにと思ったことだろう。
それなのに、このときは、妹をいとおしく思えた。
手術は無事に終わった。
「ほっと肩をなでおろす」 ということは、こういうことかと思った。
あれから10年ぐらいになる。
妹は元気であいかわらず私よりもしっかりしていて口うるさい。
でも、さすがにケンカの回数は減った。
いつも近くにいて、それご当たり前で気づかなかった。
大切な存在。
仕方ないから、次の休みには買い物に付き合うことにした。


【話せるということ】
今まで風邪を引いても、大声で叫んだりしても声がかれることはなかった。でも、今、声が出ないという状態になってみて、人とのコミュニケーション (会話) がとても大切なことだと気付いた。
今はLINEとかで友人とも、連絡をとったりすることは出来るから…と思っていたが、一緒に住んでいる家族にさえも、うまく自分の思っていること、話さなきゃわからないことが伝わらないと思った時に、LINEやメールなど文字では伝わらないことがたくさんあると気付いた。相手に伝わらないモヤモヤ感はすごい孤立感で、苦痛であることを改めて知った。
いつもだったら友人と楽しく会話したり、不安だったり相談なども電話でできたのに…と思うと、すごい寂しいと感じた。
でも、友人も家族も私のジェスチャーだったり、小さく聞き取りにくい声を一生懸命聞き取ろうとしてくれているのをみて、それだけで嬉しさがあった。
声が出ること、友人と会話することがあたり前ではないわかった。ささいなことに対しても感謝しなければならないと思えた。


【おじいちゃんの想い】
おじいちゃんが認知症とパーキンソン病を発症した。
おじいちゃんは食べることが大好きで、病気が発症する前は自分で家の中のおかしを探し、ポケットにたくさんつめて、こっそりおかしを食べていた。
病気が進行し、今はベッドの上での生活がほとんどで、1日中話しかけても発話することがなかった。パーキンソン病の影響で腕の関節の拘縮がすすみ、自分で好きなものを食べることができなくなった。パーキンソン病に伴う嚥下機能の低下も進んでいた。
ある日お母さんがおじいちゃんに、看護師さんには内緒でオロナミンCを飲ませてみた。おじいちゃんはうまいなあと一言話した。これまでほとんど発話することがなかったおじいちゃんが自分から発言をしたことに家族みんなで涙を流して喜んだ。このとき初めて、日常生活の中で好きな時に好きなものを食べることができていることはありがたいことであると学んだ。おじいちゃんはずっと自分の好きなものを食べたいという気持ちが心の中にあり、発話がほとんどなくなった今、自分の気持ちを伝えることができずにいた時に、好きなものを食べたいという思いがお母さんに伝わり、あのうまいなあという発言につながっていったのだと思った。今後もおじいちゃんのお見舞いに行った時には、おじいちゃんが望むことは何かを表情や目で追いかけるものなどから知っていき、おじいちゃんに最後まで自分らしく生きてほしいと思う。


【私のパートナー】
”◯◯は、毎日お手伝い頑張ってくれてるから、神さまがちょっと休めって病気にしてくれたんだよ”
幼い私にも分かるように説明してくれた母。
家族や友達と離れて暮らしていて、毎日悲しかった。辛かった。
”頑張っていればすぐ家に帰れるよ”
その言葉を信じて毎日毎日頑張った。注射だって我慢した。
頑張れば、頑張った分だけ報われるということに、病気になって気づいた。
今は忘れている時もあるけど、たまに思い出して頑張る力に変えている。
”なんで病気になんか…” と思ったこともあったけど、
病気も、自分らしさの一部だって今は思えるよ。
これからもヨロシクネ。


いかがだったでしょうか。

いずれも各班の代表作品に選ばれていてもおかしくなかった力作と言えるでしょう。

特に、話せることの大切さを教えてもらった話が複数含まれていたのが特徴的です。

このワークをやってみた感想として、

「自分がなぜ看護師になろうとしたのかまで思い出すこともできました。

あの時、対処も何もできなかった自分があったからこそ、今看護師としての知識をつけ、

あの時とは違う自分になるために、実習や勉強がつらくても、

目標に向かっていっていることをあらためて考えることができました。」

と書いてくれた人もいました。

病気はさまざまなことを教えてくれるんだなあと再確認しました。

このワークをやったことで、少しは自分の疾病観、医療観、看護観を深めてもらえたでしょうか?

相馬の看護学校の授業はしばらく空いていましたが、明日で終了となります。

最後に4週間、2週間と空いてちょっと間延びしてしまいましたが、

この4ヶ月に渡る15回の学びを振り返り、みんなの胸に刻んでもらおうと思っています。

相馬看護14期生に病気が教えてくれたこと

2016-07-06 09:55:38 | 生老病死の倫理学
昨年度から始め、今年は看護教員養成講座でもやってみた 「病気が教えてくれたこと」 のワーク、
相馬看護学校でもまたやってきました。
今年は8班に分けて、各グループ内で朗読しあってもらったあと、
班の代表作品をひとつ選んでもらいました。
昨年度はただ代表作品を選んでねと指示しただけでしたが、
今年度は一番感動的な作品を選んでくださいとお願いしてみました。
昨年度は代表作品のなかに感動部門ばかりでなく面白部門がけっこう選ばれていて、
それはそれで面白かったのですが、今年は男子の多いクラスなので、
放っておくと全部が全部、面白部門ばかりになってしまうのではないかと危惧したためです。
あとで確認してみたところ、実際に男子の作品は面白部門が多かったので、
あのように指示しておいてよかったと思います。

また、このあいだ看護教員養成講座でやってもらったときに、
けっこう自分のエッセイにタイトルを付けてくれている人が多かったので、
もともとの本がそういう作りになっているのだから当然でしょう)
今回はあらかじめ全員に、書き終わったらタイトルも付けてください、と指示しておきました。
これもタイトルを付けてもらってなかなかよかったと思います。
このワークもほんの少しずつだけど改善を重ねながら、理想の形に近づきつつあるな。
それでは各班の代表作品をご覧ください。
今回はいつも1班から発表させられるのはズルイという指摘を受けて、
8班から順番に発表してもらいました。


【8班の代表作品 「最後まで」】
 私の友人は病気により精神遅滞があった。また正確な病名は分からないが、病気のために中学生の時に亡くなってしまった。その友人は、自分が周りと同じようにできないことをいつもくやしがり、泣いてしまうこともあった。しかし、くやしがりながらもマラソンは最後まで走り抜き、工作や宿題も最後までやり遂げるなど、決して途中で投げだすということはしなかった。そして最後にはいつも笑っていた。途中で歩いたり、絵も下手だったり、計算の答えが間違っていても、その友人は満足気な顔をしていた。そんな友人をみて、病気があるからということを理由にせず、自分なりに一生懸命取り組むことの大切さ、最後まであきらめずにやり遂げることの大切さを学ぶことができた。


【7班の代表作品 「思う気持ちは生きる源になる」】
一時も母の手を離すまいと、大きな手を必死手に握っていた。
毎日会いに来る医師や看護師が黒い影となって、針をさしに来て、自分をおさえに来る。そんな毎日が恐怖でしかなかった。
黒い影が去って、母親の姿が見えた時、「頑張ったね」 と抱きしめてくれた時の安心感は、治療による痛みを忘れさせてくれるものだった。
家族が会いに来てくれた後は、見えなくなるまで手をふっていた。明日も来るという言葉が、明日も自分は家族といられる、”生きている” ということで嬉しかった。
病気は私に 「側にいてくれる」 その存在がいかに大切かを教えてくれた。
母も子どもがいかに大切であり、自分を犠牲にしてでも守りたい存在であり、生きていることに幸せを感じたと言っていた。
その母が病気になった時、私は自分が代わりになってもいいと思った。
母は子どもたちのために 「生きなければ」 と思った (後日談)。
会える毎日に感謝した。
食べれる (食べている姿を見れる) ことに感謝した。
毎日が新鮮で感謝の気持ちでいっぱいになった。
病気は身体を弱くはしたが、すれ違っていた思い、忘れかけていた心を思い出させてくれた。
これからも病気とは闘っていかなければならない。それでも、生きる中で目標をみつけ過ごしていこうと、私たちは毎日に感謝しながら今を生きています。


【6班の代表作品 「特効薬」】
 私は小さい頃風邪をひいた。親に病院へ連れられ医者から風邪薬を処方された。その晩、氷枕をして薬をのんで寝たが、熱が上がり、頭が痛くて、気分が悪くて苦しかった。恐怖だった。不安で仕方なかった。その時 「大丈夫?」 との声かけがあった。たった一言であったが、その一言に優しさや思いやりを感じ、私はその瞬間気分が楽になった。私の苦痛を取り除いてくれたのは薬でも氷枕でもない声かけでした。病気の人がいて辛そうにしていたら声をかけてみて下さい。あなたの優しい心が一番の特効薬です。


【5班の代表作品 「母のおかげで」】
 初めての子供が産まれて1年で病気になり 「一生車イスになることを覚悟してください」 と言われた母親。しかし、そこであきらめず治療してくれる病院を探し回り、見つけた病院で、医師から言われた一言。「お母さんすごいですね。今ならまだ治せます」。20歳になった私は、何の後遺症もなく普通に歩くことができています。母の強さを知りました。


【4班の代表作品 「生きていくために」】
 高1の終業式の前日に父が倒れた。そのころの私は両親に反抗ばかりしていた。それは今、考えれば、「親はいつでもいる」 という環境が普通だと思っていたから。
 だけど、父はとつ然倒れた。なにが起こったか分からず、呼んでも反応しない父をみて、またその隣で泣き崩れている母をみて、何もできない自分に無力さを感じて一晩中泣いていた。
 父は手術によって一命をとりとめた。しかし、麻痺が残り、脳の手術だったこともあり、以前の父とは違い、笑顔がなくまた父としての威厳もなかった。私はその姿にとまどいを感じどう接していいか分からなかった。
 退院後、父と2人きりになったときがあった。その際、父に思いきってきいてみた。「手術して、今生きていてよかった?」 と。そうすると父は 「うん、よかった。こうして今でもお前やお母さん、弟と暮らせている。麻痺などのためできないことが多く、迷わくかけているのも分かっている。だけど俺は生きていくために出来ることを一生懸命やる」 と言った。その父は私の父だった。
 その言葉通り、父は、倒れる前まで好きだった酒、タバコを約4年半経った今でもやめている。生きていくために…。


【3班の代表作品 「火花」】
 僕は20歳、看護学校に通っている。実習に追われる日々で、疲れがたまっていた。小児看護実習で保育園に行き、子どもたちから元気をもらっていた。しかし、保育園実習最終日にのどにかゆみを覚えた。風邪か? 一瞬そう思ったが、熱もなく、発熱の症状が他に見られないため放置していたが、身体的な症状として、咳嗽や倦怠感も出てきた。そこで病院に行くと、風邪という診断をうけた。僕は手洗い、うがいにマスク、感染対策をしていたため受け入れられなかった。そこで私は、病気に予防なんてない、健康なうちにすきなことをすきなだけやるんだ、と強い思いにかられ、悔いのないよう生活していこうと思った。


【2班の代表作品 「今の状態でできること」】
 私の叔父はある病気で腎不全となり、約3日に1回、人工透析を30年行っている。そのため、水分・塩分制限があり、好きな時に飲みたいもの、食べたいものをとれていない。それでも家族は叔父の食べられる範囲で好きな食事を作ったりなど、今行える範囲内で叔父が満足できるよう関わっている。叔父もそのことに感謝し、笑顔で会話することがほとんどである。このことから、当たり前のことができなくても、○○だからできないとマイナスでとらえるのではなく、今可能な範囲で出来ることを行い、できることに視点を向けて関わっていくことが大切であり、その人の満足につながると教わった。叔父は今でも笑顔で生活しています。


【1班の代表作品 「俺はノドが弱い」】
 俺はノドが弱い。毎年、年に2~3回は扁桃腺炎になる。季節の変わり目になりやすい。友達と一緒に行くよていだったBBQもキャンセルする始末だ。俺は、ふざけやがってなんでこのタイミングなんだといつも思っていた。でも、そんな時は大体夜更かしをしてたり、ストレスが強い時だった。俺は思った。このノドは 「無理しすぎんなよ」 「大丈夫か?」 って俺にメッセージを送ってきてるのだと。ありがとう。


いかがだったでしょうか?
まだ20歳そこそこの若者たちですが、自分や家族、親戚の病気からいろいろ教えられたようです。
ぜひこの学びを看護師になったあとも忘れずに、
患者さんやご家族の方々と向き合っていってもらえたらと思います。

看護教員の卵に病気が教えてくれたこと

2016-06-30 18:57:21 | 生老病死の倫理学
昨年度から相馬の看護学校で始めた 「病気が教えてくれたこと」 のワーク

看護教員養成講座でもやってみました。

2週目の帰りがけに、例の本から4つぐらいエッセイを抜粋したプリントを配布し、

ワークシートも一緒に配って、読んだ感想と、

自分が病気から教わったことについてのエッセイを書いてくるように宿題を出しました。

そうしたらみんなワークシートの小さいスペースにびっしり書いてきてくれて、

中には数名、別紙参照ということでワープロで打ち込んできてくれた人もいらっしゃいました。

さすがにその場で書かせるよりも力のこもった作品が集まりました。

しかも、人生経験が豊富なだけに自分や家族が大病を患ったことのある人も少なくありません。

単純に病気が大きければ学びも大きくなるということではないのですが、

やはり経験に応じて病気から教わることの質も変わってくるのでしょう。

というわけで力作揃いの発表会となりました。

グループ内で発表しあったあと代表作を選んでもらい、

朗読係の人に全員の前で読み上げてもらいました。

こんな感じで発表会らしい演出もし、前でマイクを使って朗読してもらいます。



代表作は7つ集まりましたが、個人情報等の関係でブログ掲載不可という作品もいくつかあったので、

班の代表作と、まさおさまセレクトと区別せずにいっぺんにご紹介しちゃいます。


「父が病気になった時、私は親元から離れて暮らしていた。母の 「大丈夫だから、無理して帰ってこなくていいよ」 という言葉に甘え、私が帰省したのは、父が入院して1ヶ月が経とうとしていた。
 帰省した時、母と久しぶりに色々話をした。その時、父の兄から責められたこと、父の病気のこと、本当は帰ってきて欲しかったということなど、母の想いや考えを知り、1人で大変だった事を考えた時、私はとても後悔した。
 だが母は、私が思っている以上に強く、前向きに考える人だったので、私が帰省した時には、すでに病気を受け入れ、「自分がどうにかする」 と覚悟を決めていた。その後、母の看病と治療の甲斐あり、父は1度再発しただけで、現在では内服薬もなく定期健診だけで済んでいる。
 現在私も家族を持っている。夫は病気を患っており、当初は、私1人でどうにかしようと思っていたが、上手くいかなかった。そんな時、「早くよくなるように、家族でサポートするよ」 と母が強く言ってくれた言葉がありがたかった。
 普段は口うるさい母親としか思っていなかったが、父や夫が病気になった時の 「母のたくましさ」 を感じ、家を支える女性は、こうありたいと強く感じた。まだまだ母の足元におよばないが、母に近づけるように日々頑張りたい。」


「あれから何年経つだろう。仕事に疲れ、家事・育児に疲れ、無気力で、生きている意味を見失いそうになっていた。そんな矢先の出来事。同居している義母が肺炎で入院。翌日、息子がインフルエンザに感染し、学校へは出席停止となった。もちろん私も、である。その日からの生活は一変。家族一人ひとりの役割は増えたが、お互い協力し、助け合える関係になった。絆が深まった気がした。怒ってばかりいた私も、いつの間にか本来の自分を取り戻し、心から笑えるようになっていた。
 その時の想いを、息子は、数年後の中学の卒業式に手紙で伝えてくれた。「苦しんでいる時に助けてもらったことに感謝しています。今まで15年間育ててくれてありがとうございました」と。私は、涙が止まらなかった。
 生きていることの意味や、子供にとっての母親の存在の重大さを改めて考え直すことが出来た。それは、病気が教えてくれたのだと、私は信じている。」


「6年前の夏、私は病気を得て手術をした。麻酔からさめて朦朧としながら、家族の声が聞こえた。どうやら生きて病室にもどったことがわかった。いつからそうされていたのかはわからないが、手が握られていて、握っているのは息子の手だとわかった。肉厚で少し湿っていて温かい。息子の心根が伝わってくるようで、とてもうれしかった。「おかあさんが、痛い痛いって言いまくってますっ!」 ナースコールしているらしい。いつになく真面目な、切羽詰まったような口ぶりとへんな日本語が少しおかしかった。
 息子は中学3年生。何でも話してくれて気持ちが通じる姉とは違い、中学生になってめっきり言葉数が減って何を考えているのかわからず、男兄弟のいない私には先が読めず、たまに話すと言い争いになってしまう気の重い存在だった。小さな頃は甘えん坊で、女の子とは違った可愛らしさがあっただけに、思春期の変貌ぶりに閉口していた。
 ある時息子が私に 「うるせぇ」 「くそばばあ」 と言い、翌日口の周りにアザを4個付けて学校に行ったことがあった。私に口をつねられたのである。その日の夜、「おめぇのかあちゃん、気合い入ってんなぁー」 と友達に言われたと小鼻を膨らませていたよと夫は笑いながら言っていたが、私の気持ちは晴れなかった。すれ違いが続いた。
 私の手術は、そんな何年かを過ごしていた矢先のことであった。
 手術から2日後、私は歩けるようになり、息子は猛暑日の中、毎日自転車で30分の道のりをやって来ては、一緒にアイスを食べながらテレビを観て帰って行った。
 母親になってからずっと二足のわらじで、「早く、早く」 と言いながら子育てしていた。風邪をひいたことがなかった。幸か不幸か病気ですべて投げ出せた。そこがたとえ病院でも、子供たちとだらりと寝そべり、アイスを食べる時間はかけがえなく、心地よかった。
 退院後、何事もなかったように、元の受験生とその母の生活に戻った。しかしもう言い争うことはなくなった。
 それは息子が、親はいつか死ぬ存在だと知ったからかもしれない。しかしそれ以上に、少しだけ死を意識した私が、息子の手の温もりでその存在に気づかされ、子供たちの方に向き返れたことが大きかったのかもしれない。
 病気は思いがけない気づきをもたらす。あながち悪いことばかりではないのである。」


「突然、右腕に違和感があった。気のせいかな、いつものように出勤する。字も書ける。箸も持てる。ただ違和感がある。そのうち指先が痺れる。手を使う時かばうようになった。なんだろう。こんな時、看護師だからかなあ、悶々と病名が駆け巡り、余計な事を考える。脳かな、頸部かな、なんだろうと数日が過ぎる。不安が募り、深夜勤中、先輩看護師へ話すと、「朝、先生が早く来るから相談すると良いよ」 とアドバイスをくれた。回診後、足早に階段を降りていく先生を先輩は追いかけて呼び止めてくれた。先輩に感謝。弱気な自分。
 頸部のMRI検査をする。今日は白衣じゃない、病衣を着て検査室へ。検査ってこんなに不安なものなのだ。患者さんの気持ちを分かっていたつもりだった。検査中、看護師さん、技師さんが何度も声をかけてくれる。医療の仲間に感謝、患者さんの大変さに改めて気づいた自分。右手の違和感を気にかけてくれる家族に感謝。心配かけたくなくて、なかなか言い出せなかった自分。
 頸部圧迫あるけど、日常生活に気をつければ良いと、痺れも徐々に良くなった。病気は自分を不安や弱気にさせる。だけど家族、仲間にありがとうと感謝の気持ちを持たせてくれる。患者さんの気持ちも知ることもできた。病気は色々な気持ちを運んでくる。ちょっと立ち止まらせる機会をくれる。悪化しないよう気をつけよう。無理しないよう気をつけよう。」


「子どもの病気から教わったこと
 生まれて初めてのお正月、家族皆で楽しく過ごした。年が明けるとあなたは保育園デビューで、私は仕事復帰予定だった。しかし年明け早々、あなたは熱を出しまるで保育園に行きたくないのかな?と母を不安にさせた。かかりつけのお医者さんに行って風邪薬をもらって飲んだけど、熱は次の日も下がらない。いつもは熱さましを飲まなくても、熱は自然に下がったけど、今回は全然下がらない。3日も熱が続くと、さすがにあせる。
 他の病院にも行って診察してもらっても 「風邪だね」 と言われる。だったら、どうしてよくならないの?と不安になり、泣けてきた。
 38.0°Cを超す熱が毎日続いて、時々だるそうな、あなたの顔を見るのがつらかった。うっすら体に発疹らしきものも出てきて、母はもしや…と思ったよ。そして、かかりつけの先生のところに行ったら、「川崎病ですね、入院が必要です」 って言われたね。熱がでて5日目のことだった。やっと本当の病気が分かった瞬間だった。ずっとつらそうだなとあなたをみてたから、言われた時は怖かったけど、本当の病気が分かってちょっとほっとした。でも、仕事復帰もしなくちゃいけないって焦ってたから、母もどうしていいか分からず気持ちだけが焦ってしまったよ。でもね、あなたが良くなるためには、病気と闘うしかない!って思ったから、メソメソしてられない!て思ったんだ。だから一緒に入院して頑張ろうて思った。入院して、点滴したらすぐよくなった。3週間後、無事退院して、あなたは保育園デビューできたね。3週間の入院で、人が健康でいるってことはありがたいことだなって感じたんだ。あなたの病気で母もいっぱい学んだよ。これからはもっともっと心も体も強くなってあなたを見守っていくからね。」


「私は以前、眼底出血で視力を失いかけたことと、突発性難聴で突然両耳が聴こえなくなった経験をした。眼底出血の時は娘が生まれ生後6ヶ月目に入ったときだった。新聞を見ていて、新聞の上半分が見えず視野が狭くなっていることに気づいた。痛みも全くなくすぐ治るだろうと軽い気持ちで受診したところ、視力を司る部分が大量に出血しているため、失明の恐れがあると説明され、すぐ治療を開始することとなった。生後6ヶ月の娘に、まだ授乳をしていたので、内服もしなければならず、母乳からミルクに変更せざるを得ない状況で、娘に対し申し訳ない気持ちと、失明してしまうかもしれないという恐怖で毎日不安な日々を送っていた。すぐ治療できたことで失明はまぬがれることができた。しかし見えなくなった視野が回復するまでには3年程の時間がかかった。今は問題なく日常生活を送ることができているが、また突然見えなくなってしまうのではないかと不安になることがある。
 私は生死にかかわるような大きな病気ではないが視力を失いかけたことで、突然襲いかかってくるでき事の恐ろしさを体験することができた。この貴重な体験は同じ思いをしている方がいるならば、不安な気持ちをほんの少しかもしれないがりかいできるような気がする。現在、看護教員として働く中で実体験を学生に伝えることができる。辛い経験ではあったが、今はその経験を生かして生活できることに感謝している。」


「「普通に歩けなくなるかもしれないって言われたんだよ」 と母は口ぐせのように私を話す。2才の頃、股関節の病気をして、私の左股関節は変形している。だが自分で歩くこともできるし、何か薬を内服しているわけでもない。ただ人生のふし目ふし目で必ず足が原因であきらめたり、あきらめかけたりしたことは多々あった。学生時代の部活動、看護師という仕事、結婚・出産。少しずつあきらめたり、おりあいをつけたりしながら、今まで生きてきた。でも今考えると ”リスクがあってもやりたい” という覚悟をする試練だったのかもしれない。
 私の足は一生治らない。でもまっすぐ歩けなくても、私にとっては 「普通」 に歩いている。妊娠も出産もがんばりぬいてくれた。「普通じゃない」 と言われながら34年間がんばってくれているこの足に今は 「ありがとう、これからも一緒にがんばろうね」 と言ってあげたい。」


「祖父が胃ガンで亡くなったのは私が看護師として働いて4年目の時だった。体調を崩し、病院で検査をした時には、もう末期の状態であった。抗ガン剤を内服したが副作用が辛く、体力を失っていく祖父に対して、祖母、母、おじ、おばが出した答えは 「もう何もしない」 という消極的安楽死の決断だった。告知をせずに入院していた祖父は不満も痛みも何も言わず、ただただ入院をしているように見えた。母はできる限り、お見舞いに行っては祖父の好きなものを差し入れたり、ガンに効くと言われるサプリメントを飲ませたり、祖父がして欲しい事を何でもした。しかし、何も食べられなくなっている祖父に1日500ml1本の点滴がどういう事かを看護師の私は解っていた。日々やつれていく祖父を見ながら、私は孫としての目線と看護師としての目線の両方から見ていて複雑な気持ちだった。「このままじゃおじいちゃん死んじゃう。もっと点滴してあげて」 「でも何もしないって方針なんだよね」 「おじいちゃんは何も知らないまま死んでいくのかな」 と様々な思いがかけめぐった。数日後、祖父が亡くなった時、家族は深い悲しみにつつまれ、母の泣く姿を今でも忘れない。母が言った。「死ぬのは解るけど、1日でも1分でも長く生きてて欲しかった。おじいちゃんはずっと私にとってはお父さんなんだよ」 という言葉に、家族の死を迫られた時の家族の心境は絶えず揺らぐもので、決断したとしても本当の決断ではない事を感じた。誰かの人生を誰かが決めること、ましてや家族にとっては、それは重圧な事である。そして親の死はどのような状態であっても決して受け入れ難い事を教えられた。」


「妊娠して間もない頃、夜勤中に出血と、動くのも辛い腹痛に襲われた。我慢しながら仕事をしていたが、徐々に痛みは増し朝方には歩けなくなってしまった。その後病院に行くと 「切迫流産。どうなるかは分からない。薬を飲んで家で安静に過ごして経過をみていくしかない。」 と言われ自宅での安静を余儀なくされた。
 家に居て安静にしていると、今まで行っていた日常動作全てが当たり前のことではなく、出来ていたことが幸せなことだったと気付いた。また、大変だと嘆いていた仕事も行けなくなると寂しいような気持ちにかられ、仕事がある幸せを感じた。そして、仕事復帰すると再度出血し再度安静を余儀なくされた。動けることが幸せで、仕事をしているとついつい自分のことは二の次にして無理してしまう自分がいたが、無理は禁物だと実感した。また、無理をすることでこんなにも自分やお腹の子に影響が出て、人間って強くないんだと気付いた。それからは、無理せず家族や職場の方々、友達など色々な人に甘えることが出来るようになった。
 その後何度か休職を繰り返しながら出産した。人が生まれるということ、生きるということは当たり前のことでもなく、簡単なことでもないことが身に染みて分かった。自分がみんなを頼れるようになったのも病気になってからだ。みんなが私を支えてくれたことで息子は無事誕生することが出来た。そして、最近4歳になった息子。みんなのおかげでここまで元気に育ち、毎日一緒に過ごすことが出来ている。本当に有り難い。
 これからも、無理せず、程よくみんなに甘えながら当たり前じゃない毎日を大切に過ごしていきたい。また、甘えるだけでなく私たちもみんなの支えになれればと思う。」


「あなたの 「夢」 がかなうように
                          あなたの成長を愛しむ叔母より
 あなたに初めて会ったとき、お腹の胃瘻からミルクとお薬を注射器で入れていて、口から食べると吐いちゃうけど、自分で食べることをあきらめないことを知った。
 あなたに初めて会ったとき、両腕を足の代わりにしてあちこち動き回っていて、まだ足の筋肉が弱いけど歩けるように頑張っていることを知った。
 あなたに初めて会ったとき、唇が真っ青でびっくりしたけど、元気な笑顔を見せ大丈夫だよって安心させていたことを知った。
 あなたは生まれてからずっと入院していて会えなかったけど、初めて抱っこして小さな体で毎日頑張っていたことを知った。
 あなたはたくさんの検査や手術で入院しても、お利口さんで看護婦さんの人気者だったけど、寂しいことを我慢していたことを知った。
 あなたは時々激しく泣いて、いい子に疲れたことを小さな体で大人たちに伝えていたことを知った。
 あなたがだんだん歩けるようになって、お口から食べるようになって胃瘻がとれ、本当に頑張ったね。すごいね。偉かったね。
 あなたがランドセルをしょって元気に小学校に行って、お友達もたくさんできてみんなとお勉強していることを教えてくれたね。
 あなたが私に将来の夢は 「看護婦さん」 って教えてくれたね。すっごく、すごく嬉しかったよ。
 あなたは身をもって私にたくさんのことを教えてくれたね。どんなに小さくても病気と向き合い、生きる力と強さがあるってことを。そして、夢に向かって進むことを。
 また、すこし背が伸びたね。また、いっぱい、いっぱいお話聞かせてね。そして、あなたの夢がかなうように祈っているね。」


本当は全部ご紹介したいところですが、とりあえず以上10作品だけにしておきます。

ウルウル来てしまいますね。

皆さん、ありがとうございました。

実はちょうど今日、久しぶりに相馬の看護学校へ行って、同じワークをやってもらいました。

こちらは宿題ではなくその場で書いてもらったのでみんな苦労していましたが、

短い時間のなかでなかなかいいエッセイを書いてくれていました。

これも近々発表していきたいと思います。

半日ぶりに発見!

2016-06-15 21:08:24 | 生老病死の倫理学
今日の午後は4連続会議で、今やっと帰ってきました。

今朝は話を盛るためにあんなふうに書きましたが、まあ神隠しがありえないのと同様に、

いやそれ以上に、盗難なんてことはありえないでしょう。

管理人さんがストーカーなんてわけがありませんし (管理人さん、あれはただの冗談ですからね)、

あんな短時間に侵入してミトンだけ盗んでいくハイテクニックで間抜けな泥棒もいるはずありません。

だとするとどこに行ってしまったんでしょう?

帰ってきてからもう一度、徹底捜索を行いました。

ソファやオットマンの下というのが一番ありえそうなので、

本格的に家具を移動させて調べてみました。

クッションも1個1個どけて調べました。

それでも見つかりません。

台所の引き出しのなかや、台所から動線のつながっている洗面所の引き出しも調べました。

寝室のベッドの上の毛布や羽毛布団なんかもどけて探しました。

本当にどこにもありません。

家のなかであれがなくなるなんて考えられないんだけどなあ。

もう一度、原点に返ってみようと思って今朝の行動を再現してみることにしました。

レンジの扉を開けて、お皿を入れる動作をしてみました。

すると、レンジの扉を開けたときに何か物がかすかに動く気配を感じました。

ん? 何だろう?

レンジと壁の隙間を目を凝らして見てみました。



何か見覚えのある色と形が

ズームしてみましょう。





これはあれではないですか?

レンジの横に回って裏側を見てみましょう。



おおおおっっっっ

こんな所に隠れていたのかあっっっっっ

いやあ、半日ぶりの発見です。

やっとのことでミトンを2つ並べることができました。



それにしてもなんであんな所に落っこっていたのでしょうか?

というよりもなんであんな所に移動してきているのでしょうか?

ローテーブルのところで外してその付近に放り出したとばかり思っていたのに…。

レンジの裏側に落ちていたということは、

レンジの上に乱雑に載せたものが向こう側に落ちたということだったんでしょうか?

ミトンをひとつだけレンジの所まで持ってきて上に載せる意味がわかりません。

何をしたかったんだろう、まさおさまは

まあこんなこったろうなと思って、

最初からあの記事は 「生老病死の倫理学」 のカテゴリーに入れていたわけですが…。

どうやらボケが極まってきたようです。

自分の行動をまったく思い出すことができません。

そのうち本当に泥棒に入られたとか言って警察を呼んでしまうかもしれません。

とにかく今回は無事発見できて本当によかったです。

あそこにはさまったままレンジやオーブンを使い続けていたら発火したりしていたかもしれません。

神隠しとか泥棒とか思って探すのあきらめてしまわなくてよかったです。

近代合理主義バンザイ

泥棒に入られたかも

2016-06-15 12:25:55 | 生老病死の倫理学
我が家の台所には、電子レンジの脇にミトンって言うんでしょうか、

鍋つかみがこんなふうにぶら下げてあります。



で、今朝は残り物をレンジで温めて、お皿が熱いからミトンで持って、あちら↓の、



ソファ前のローテーブルまで運んでいったんです。

で、フウフウしながら食べ、途中、冷蔵庫まで醤油を取りに行ったり、

飲み物が欲しくなってもう一度冷蔵庫に行ったりしながら朝食を終えたんです。

そして後片付けをしようと、食器類を下げミトンを定位置に戻そうとしたんですよ。

そうしたらミトンがひとつ見当たらないんです。

先ほどの写真は事件後に撮影した再現写真なので、もうミトンがひとつしかぶら下がっていませんが、

もともとあそこにはまったく同じものが2つぶら下がっていたんです。

レンジで温めたお皿は大して重たいものではありませんでしたが、

わりと平らなお皿なのでミトンをはめた片手だと上手く平行に持ち上げられないんです。

なので両手にミトンをはめて4本指の部分ではさむようにして持ち上げて持っていったんです。

で、ローテーブルのところでミトンを外し、ラップも外してすぐに食べ始めました。

その後、冷蔵庫まで何度か行き来はしましたが、その際にミトンに触れた覚えはありません。

だから食べ終わった時点であのローテーブルの周辺に、

ミトンが2個転がってなきゃいけないはずなのです。

なのに1個しかないんです。

そりゃもう徹底的に探しましたよ。

ローテーブルやソファやオットマンの下はもちろん、

ソファの上のクッションの間とかもすべてチェックしました。

食事場所周辺で見つからないとすると、ひとつだけどこか別のところで外したか、

無意識のうちにどこかへと持っていったのかもしれません。

食事中にミトンに触れた覚えはありませんでしたが、

人間というのは無意識のうちにいろいろやっちゃう生き物ですからね。

私、探し物は得意ですので、ありとあらゆるケースを想定して家のなかを探し回りました。

まさかとは思いつつ冷蔵庫のなかまでチェックしてみました。

だけどないんです。

どこにもないんです。

行ったはずのないトイレや寝室のなかも探してみましたが、当然のことながらありません。

まったく見つからないのです。

どこ行っちゃったんだろう?

私は超自然的なことはまったく信じていない近代合理主義者ですので、

神隠しなどとは思いたくありません。

とすると残された可能性はもう盗難しかないじゃないですか。

私のミトン、盗まれてしまったのでしょうか?

私が一瞬目を離した隙に泥棒に侵入されあれを盗られてしまったのでしょうか?

そうとしか考えられません。

冷蔵庫に醤油やジンジャエールを取りにいった隙に賊に押し入られたのでしょう。

カギはかかっていましたので、相手はうちのカギを持っているのかもしれません。

コンシェルジュとかでしょうか?

うちのマンションにはコンシェルジュはいませんが、通いの管理人さんはいらっしゃいます。

管理人さんって全戸のマスターキーとか持ってるのかなあ?

マンション入居以来長年お世話になっている方なのであの方のことを疑いたくはありませんが、

ひょっとしてあの方が私のストーカーになってしまっているのでしょうか?

念のため他に盗られたものはないか確認してみましたが、

財布や貴重品や、あのローテーブルに出しっ放しにしてあったパソコンを含め、

ミトン以外になくなっているものはないように思います。

(もともと何があったか定かではないのであまり自信はありませんが…)

するとやはりカギを持ったストーカーによる犯行という線が強まってきます。

しかしながら、私が冷蔵庫に立ったあのほんの一瞬の隙に、

うちのカギを開け、私に気づかれないようリビングに侵入し、

かねてから狙いをつけてあったあのミトンを盗み出し、

再びカギをかけてから逃走するなんて、素人のストーカーに可能なんでしょうか?

そう思うとやはりプロの泥棒という線も捨てきれません。

うーん、どうしよう?

警察に被害届を出すのはもうちょっと待って、

今日家に帰ってからもう一度ミトン探してみることにしましょう。

それにしてもどこ行っちゃったんだろう?