先にオリンピック選手の 「服装の乱れ」 について取り上げ、
その手の問題で誰かを道徳的に非難したり、
反省を求めたりするのはナンセンスである、と論じました。
それはそれでいいのですが、
あの問題があれほど拡大したのは、
記者会見での当人の受け答えがまずかったために、
火に油を注いでしまったという面が多々ありましたね。
この点についてはあの問題とは別に論じる必要があります。
すべからく現代の民主主義社会においては、
マスコミ報道と、それによって操作される世論というものを十分に考慮して、
行動する必要があります。
特に問題を起こしてしまった場合、
あるいは、事実がどうあれみんなに問題を起こしたと疑われている場合には、
そうした配慮が必要になります。
謝罪会見とか、国会喚問とか、公聴会証言などといったケースは、
まさにそれに当たるといえるでしょう。
そんなところに引っ張り出されるような目にはあいたくないものですが、
万が一そんな目にあってしまった場合には、どうしたらいいのでしょうか?
例えば、カメラの前でウソ偽りのない真実を誠実に打ち明ける、という手もあります。
しかし、これは最悪の選択肢です。
「チッ、うっせぇなぁ」 はまさにウソ偽りのない真実だったと思いますし、
私が当事者だったとしても、あの質問にはそう感じただろうと思います。
が、それをそのまま誠実に打ち明けてしまってはゲームに負けてしまいます。
そうです、これも、以前お話しした
Games of Perceptions のひとつにほかならないのです。
覚えていますか?
「受け止め方のゲーム」 ってやつです。
こちらがどういうつもりで言ったりやったりしたか、ということとは関わりなく、
相手がそれをどのように受け止めるかによって進行していくゲームです。
とにかくこれはゲームなのです。
真実を明らかにするとか、何が正しいかを議論するとか、
そういうことをしているわけではありません (特にマスコミは)。
マスコミはこのゲームに何を求めているのでしょうか。
彼らの勝利は、できるだけ問題を引っ張り、煽りたて、
視聴率やら発行部数やらを稼ぐことにあります。
そのためにはヒール (悪役)、またはスケープゴート (犠牲者) が必要不可欠です。
スケープゴートというのは、本当は悪くない (あるいは悪いか悪くないかよくわからない) のに、
本人の失言やらミスによっていつまでもヒール扱いできるような人のことです。
したがって、マスコミは、ヒールの暴言やスケープゴートの失言を心待ちにしています。
それを待ち望んでいるひとたちに対して、
こちらのウソ偽りのない真実を吐露するのは負け以外の何ものでもない、
ということは容易にご理解いただけるでしょう。
そういうゲームに引っ張り出されてしまったとき、
私たちはどう振る舞えばいいのでしょうか。
まずはこれがゲームであるということを認識することが重要です。
あらゆるゲームの中でも最も高度で難解な Games of Perceptions に
巻き込まれてしまったということを理解しなければなりません。
多くの参加者はそのことを知らないままゲームに引き入れられ、
迂闊な言動を繰り返したあげく大敗を喫してしまいます。
かのオリンピック選手もその1人でしょう。
まあ日本の場合は、政治家ですら、自分が Games of Perceptions に
参加しているということを自覚していない人が多いので、
一般人にその自覚をもてというのはムリな話かもしれませんが、
しかし、ゲームに参加していることを知らないまま、
ゲームに惨敗してしまうというのはもったいない話ですね。
好むと好まざるとに関わりなく、すでにゲームに招待されてしまったのですから、
こちらとしてはこのゲームにどう勝つかということを考えなくてはなりません。
その場合まずは、何をもってこのゲームに勝利したと言えるのか、
ゲームの終着点をはっきりさせなければなりません。
マスコミの側が問題を大きくし、いつまでも引っ張り続けることを目的としているのであれば、
こちらとしてはその逆を戦略目的とせざるをえないでしょう。
つまり、一刻も早く問題を終熄させるために、
マスコミと世論に納得してもらうことを目指さなければならないのです。
かのオリンピック選手を例に挙げるなら、できるだけ早く騒ぎを鎮めて、
競技に集中できる環境を取り戻すことが彼の勝利であったはずです。
美的センスをめぐって、自分の着こなしがカッコいいということを世間に認めさせるとか、
そこまでいかなくとも、美的感覚が人それぞれ相対的であることを認めさせるとか、
あるいは、これから競技に臨もうとしているオリンピック選手に向かって、
競技とは関係ないことで難癖つけるのはスポーツに対する冒涜である、
ということをマスコミに認めさせるとか、
そんな大それたゴールを設定してしまったら、
問題が長引くのは必至ですから、その時点で敗北は決定的です。
倫理学者としては正攻法でとことん闘ってもらいたい気持ちがないわけではありませんが、
競技を前にしたオリンピック選手にそこまで要求するのは酷な話ですね。
やはり、マスコミと世論に一刻も早く納得してもらう、
というあたりをめざすしかなかったでしょう。
そして、そのためには、
反省しているように見せるのが一番手っ取り早い方法だったろうと思います。
別に悪いことをしたわけでもないし、だから反省しているわけでもないのに、
反省と謝罪のことばを述べるというのは内心納得いかないものがあるだろうと思いますが、
できるだけ早く問題を終熄させるためにはいたしかたありません。
つまり、この Games of Perceptions は、
マスコミにとっては 「問題糾弾引き延ばしゲーム」 であり、
こちらにとっては 「反省ゲーム」 という形を取ることになるのです。
ただし、「反省ゲーム」 に勝つのもなかなか至難の業です。
すでに長くなってしまったので、その方法については稿を改めて論ずることにしましょう。
その手の問題で誰かを道徳的に非難したり、
反省を求めたりするのはナンセンスである、と論じました。
それはそれでいいのですが、
あの問題があれほど拡大したのは、
記者会見での当人の受け答えがまずかったために、
火に油を注いでしまったという面が多々ありましたね。
この点についてはあの問題とは別に論じる必要があります。
すべからく現代の民主主義社会においては、
マスコミ報道と、それによって操作される世論というものを十分に考慮して、
行動する必要があります。
特に問題を起こしてしまった場合、
あるいは、事実がどうあれみんなに問題を起こしたと疑われている場合には、
そうした配慮が必要になります。
謝罪会見とか、国会喚問とか、公聴会証言などといったケースは、
まさにそれに当たるといえるでしょう。
そんなところに引っ張り出されるような目にはあいたくないものですが、
万が一そんな目にあってしまった場合には、どうしたらいいのでしょうか?
例えば、カメラの前でウソ偽りのない真実を誠実に打ち明ける、という手もあります。
しかし、これは最悪の選択肢です。
「チッ、うっせぇなぁ」 はまさにウソ偽りのない真実だったと思いますし、
私が当事者だったとしても、あの質問にはそう感じただろうと思います。
が、それをそのまま誠実に打ち明けてしまってはゲームに負けてしまいます。
そうです、これも、以前お話しした
Games of Perceptions のひとつにほかならないのです。
覚えていますか?
「受け止め方のゲーム」 ってやつです。
こちらがどういうつもりで言ったりやったりしたか、ということとは関わりなく、
相手がそれをどのように受け止めるかによって進行していくゲームです。
とにかくこれはゲームなのです。
真実を明らかにするとか、何が正しいかを議論するとか、
そういうことをしているわけではありません (特にマスコミは)。
マスコミはこのゲームに何を求めているのでしょうか。
彼らの勝利は、できるだけ問題を引っ張り、煽りたて、
視聴率やら発行部数やらを稼ぐことにあります。
そのためにはヒール (悪役)、またはスケープゴート (犠牲者) が必要不可欠です。
スケープゴートというのは、本当は悪くない (あるいは悪いか悪くないかよくわからない) のに、
本人の失言やらミスによっていつまでもヒール扱いできるような人のことです。
したがって、マスコミは、ヒールの暴言やスケープゴートの失言を心待ちにしています。
それを待ち望んでいるひとたちに対して、
こちらのウソ偽りのない真実を吐露するのは負け以外の何ものでもない、
ということは容易にご理解いただけるでしょう。
そういうゲームに引っ張り出されてしまったとき、
私たちはどう振る舞えばいいのでしょうか。
まずはこれがゲームであるということを認識することが重要です。
あらゆるゲームの中でも最も高度で難解な Games of Perceptions に
巻き込まれてしまったということを理解しなければなりません。
多くの参加者はそのことを知らないままゲームに引き入れられ、
迂闊な言動を繰り返したあげく大敗を喫してしまいます。
かのオリンピック選手もその1人でしょう。
まあ日本の場合は、政治家ですら、自分が Games of Perceptions に
参加しているということを自覚していない人が多いので、
一般人にその自覚をもてというのはムリな話かもしれませんが、
しかし、ゲームに参加していることを知らないまま、
ゲームに惨敗してしまうというのはもったいない話ですね。
好むと好まざるとに関わりなく、すでにゲームに招待されてしまったのですから、
こちらとしてはこのゲームにどう勝つかということを考えなくてはなりません。
その場合まずは、何をもってこのゲームに勝利したと言えるのか、
ゲームの終着点をはっきりさせなければなりません。
マスコミの側が問題を大きくし、いつまでも引っ張り続けることを目的としているのであれば、
こちらとしてはその逆を戦略目的とせざるをえないでしょう。
つまり、一刻も早く問題を終熄させるために、
マスコミと世論に納得してもらうことを目指さなければならないのです。
かのオリンピック選手を例に挙げるなら、できるだけ早く騒ぎを鎮めて、
競技に集中できる環境を取り戻すことが彼の勝利であったはずです。
美的センスをめぐって、自分の着こなしがカッコいいということを世間に認めさせるとか、
そこまでいかなくとも、美的感覚が人それぞれ相対的であることを認めさせるとか、
あるいは、これから競技に臨もうとしているオリンピック選手に向かって、
競技とは関係ないことで難癖つけるのはスポーツに対する冒涜である、
ということをマスコミに認めさせるとか、
そんな大それたゴールを設定してしまったら、
問題が長引くのは必至ですから、その時点で敗北は決定的です。
倫理学者としては正攻法でとことん闘ってもらいたい気持ちがないわけではありませんが、
競技を前にしたオリンピック選手にそこまで要求するのは酷な話ですね。
やはり、マスコミと世論に一刻も早く納得してもらう、
というあたりをめざすしかなかったでしょう。
そして、そのためには、
反省しているように見せるのが一番手っ取り早い方法だったろうと思います。
別に悪いことをしたわけでもないし、だから反省しているわけでもないのに、
反省と謝罪のことばを述べるというのは内心納得いかないものがあるだろうと思いますが、
できるだけ早く問題を終熄させるためにはいたしかたありません。
つまり、この Games of Perceptions は、
マスコミにとっては 「問題糾弾引き延ばしゲーム」 であり、
こちらにとっては 「反省ゲーム」 という形を取ることになるのです。
ただし、「反省ゲーム」 に勝つのもなかなか至難の業です。
すでに長くなってしまったので、その方法については稿を改めて論ずることにしましょう。