まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

女もすなるフェイスエステ

2016-09-28 15:14:41 | 性愛の倫理学
むか~し、女もすなるカルジェルというものを男もしてみんとてやってみたことがありました。

そういうことを勧めてくるのはたいていピンキーの伊藤さんです。

その後、ヘッドスパというのも体験してみましたが、

探してみたところそのことはこのブログではご報告していなかったようです。

たしか写真も撮ってもらったような気がするんだけどな…。

さて、そして今回。

女もすなるフェイスエステというものを男もしてみんとてするなり。

フェイスエステというのは、顔の皮膚の汚れを落として、顔の筋肉のマッサージをして、

栄養クリームだか何だかを塗ってお肌の調子を整えるという一連の作業のようです。

ピンキーには美容師さんとは別にフェイスエステの専門家の方が常駐しているのですが、

そういう方がいてそういうサービスをやっていることがあまりお客さんに浸透していなかったため、

今回、宣伝を兼ねて、先ほどの一連のサービスのうちの一部を切り取って、

お手ごろ価格で小売りし始めたとのことで、

これを男性客にも積極的に売り込もうとしていて、私にもお声がかかったのでした。

ふだん洗顔すらしたことがなく、お肌のことなんかまったく意に介したことのない私ですが、

義理人情に厚く、それ以上に日頃からネタに詰まりがちのブロガーとしては、

ちょっと興味をそそられて挑戦してみることにいたしました。

新しく開発されたお試しコースは2つあって、フレッシュエステとマッスルエステだそうで、

まずは入門者向けということで、フレッシュエステのほうを勧められ、そちらを受けてきました。

いつもカットしてもらったりパーマかけてもらったりしている1階から、

癒しムード満点の2階の個室に案内されました。

以前にヘッドスパをやってもらったのも2階でしたので雰囲気はわかっていましたが、

フェイスエステ用の部屋にはシャワー台はなく、

ちょっと高めの (床からの位置が) ベッドがひとつ置かれていました。

イージーリスニングというか、癒し系の音楽が静かに流れているのはヘッドスパのときと同じです。

そのベッドに横たわり施術の開始です。

まずは汚れを落とすためのいくつかの工程が施されました。

こちら↓はスクラブ入りの洗顔料を塗りたくられている図です。



2人きりの空間なので人に撮ってもらうわけにもいかず、自撮りですのでちょっと写りがヘンです。

私は基本的に顔に水やクリームがついたりするのがキライなのでどうかなと思っていましたが、

他人の手で直接自分の顔に何かを塗ってもらうことって人生のなかでほぼありませんから、

その初めての感覚にちょっといい気分になりました。

たしか 『図書館戦争』 の番外編のなかに、

堂上が郁に日焼け止めクリームを顔に直接塗られてドギマギするというシーンがありましたが、

あのときの堂上の気持ちがよくわかりました。

ちょっとトロンとした目をしているのはそのせいでしょう。

これとは別のクリームだったと思いますが、何かの菌の入ったクリームも塗られて、

肌にこびりついた汚れや老廃物は微生物レベルで除去されていきました (たぶん)。

その後、フェイスマッサージに移行していきました。

顔中のさまざまな筋肉をほぐしてもらいます。

特に気持ちよかったのは目の周りをマッサージしてもらったときでした。



私の場合、目の周りの筋肉がものすごく凝っていたそうで、

そりゃそうですよね、ふだんパソコン見るか本読むか、目しか使ってないんですからね。

マッサージしてもらってるとだんだん目がパッチリ開いていく感じでした。

最後は、もう忘れてしまいましたが、肌に潤いを与えるさまざまな成分を投入され、

まさおさまのお肌はツルンツルンのプルンプルンになったのでした。

まあ、さまざま塗りたくりましたので一時的にそうなってくれるのは当然のことでしょう。

これが洗い落とした後も持続したのか否か、あいかわらずお肌のコンディションに興味がないために、

やってもらってしばらくは自分で自分の顔を触ったりしていましたが、

家に帰って食事を食べ終わったくらいにはすっかりフェイスエステのことも忘れ、

お肌の状態を確かめることも忘れてしまったために、効果のほどは定かではありません。

特に誰かから肌艶がよくなりましたねと指摘されたこともありませんでしたが、

とりあえずその場が気持ちよかったのでよしとしましょう。

何よりもフェイスマッサージが極上の気持ちよさだったし、

目の周りの凝りが取れたという実感はありましたので、

次回はマッスルエステに挑戦してみたいと思います。

最近寄る年波には勝てず、頬もたるみ目も垂れてきているような気がしますので、

顔の筋肉をイチからたたき直してもらいたいと思います。

はたして女もすなるフェイスエステによってまさおさまは若さを取り戻すことができるのか、

乞うご期待

Q.初対面の人と無理なく自分らしく接するにはどうすればいいのですか?

2016-09-23 20:08:00 | 幸せの倫理学
昨日の続きの技術と倫理の関係に関する深遠な考察は先に取っておくことにして、
今日はまったく毛色の違う質問を取り上げることにします。
初対面の人と無理なく自分らしく接するにはどうすればいいのかという、
倫理学とは何の関係もない質問にお答えしてみることにしましょう。
こうした問いに対する本格的・学問的な答えを求めるとするならば、心理学や、
そこから発した人間関係論、コミュニケーション論等の先生に聞いてみたほうがいいと思います。
いちおう 「何でも倫理学」 を標榜している以上、私もお答えしてみますが、
どうせ素人の意見ですので、眉につばを付けながら軽く聞き流してください。

まず私は、こういう質問をいただいたこと自体に驚きました。
質問者の方は、初対面の人と無理なく自分らしく接したいと思っていらっしゃるのですね。
元来、内気で激しい人見知りの私は、初対面の人と無理なく自分らしく接するなんていうことが、
人間にとって可能であるとも必要であるとも考えたことがなかったので、
どうすればそうなれるかなんて、そういう問い自体が成り立つと思っていませんでした。
どうなんでしょう?
今どきの若い人たちはみんな、初対面の人と無理なく自分らしく接したいなんて思っているんですか?
あるいは、身近にそういう人がいて、それがあこがれの対象になっていたりするんですか?

うーん、たしかにそう言われて思い返してみると、
私のまわりにもそれっぽい人がいたかもしれません。
初対面の人相手でどうだったのかは定かではありませんが、
とにかくコミュニケーション能力に長けていて社交性抜群という人はたまに存在します。
自分が内気で人見知りだからといって、人類みんながそうだと決めつけてしまってはいけませんね。
人間にはいろいろなタイプの人がいるのです。

第1回の授業のときには関連する質問が出なかったのでご紹介しませんでしたが、
ぜひ皆さんにオススメしたいのは 『さあ、才能 (じぶん) に目覚めよう』 という本です。



この本はアメリカの調査会社が各界で活躍している人々に大量インタビューを行って、
その結果、社会で活躍するために必要な力 (強み=ストレングス) を34個に分類し、
さらにはストレングス・ファインダーというシステムを開発して、
ネット上でたくさんの質問に答えていくことによって、
自分の強みのうちのトップ5を診断してもらえるというものです。
これによって自分の強みを知ることができるというのも画期的なんですが、
それよりも面白いのは人間ひとりひとり、
それぞれの強みってまったく違うんだなということがわかることです。
福島大学の学生さんたちクラス全員にこれをやってもらって一覧表にまとめてみたりすると、
本当にひとりひとりみんなバラバラです。
ごくまれに似たような強みの組み合わせがランクインしている人たちがいたとしても、
その順位は異なっていて、何が一番の強みかというのは人それぞれだったりするのです。

さて、その本の中で紹介されている強みのひとつに 「社交性」 というのがあるのですが、
これをトップ5のうちに持っている人というのは、私とはまったく異なる行動を取ります。
例えば、駅や街中の雑踏でちょっと離れた向こうのほうに知り合いを見つけたとして、
まだ相手はこちらに気がついていなかったら、あなたはどうしますか?
ぼくだったら、相手がこちらに向かって近づいてきているのであれば、
相手が気がついた時点で挨拶したり、よっぽど親しければ立ち話くらいするかもしれませんが、
もしも相手も自分と同じ方向に向かって歩いていて、
こちらから声をかけないかぎり相手に気づかれずにすむという状況であるならば、
間違いなく歩くスピードを緩めたり、行く方向をちょっと変えたりして気づかなかったふりをします。
私の場合 「社交性」 はものすご〜く下位のほうにありますので、
ムダな接触はできるかぎり避けたいのですね。

ところが 「社交性」 が上位にランクインしている人というのはまったく違います。
知り合いを見つけると自分からその人のところへ小走っていって声をかけるのです。
相当離れていてかなりの距離があっても小走ります。
そして、本当にここで会えてよかったというふうに挨拶を交わし、親し気にいろいろ話し始めるのです。
その人は、私と一緒に話しながら歩いていても、遠くに誰かを見つけると突然駆け出していき、
その人をつかまえて話し始めます。
そして、2人が話しているところへ私がゆるゆると近づいていくと、
これも間違いなく、私をその人に、その人を私に紹介してくれます。
私なんて知り合い相手ですらできればあまり話したくなくて、初対面の人なんて絶対ムリなのに、
社交性人間は、ここで2人を引き合わせることができて本当によかったというふうに、
会心の笑みを浮かべるのです。
たぶん本人はこういう機会があればぜひいろいろな人に紹介してもらって、
いろいろな人と知り合いになりたいと思っているんでしょうね。
で、どんな初対面の人相手でも、お互いの共通の話題をみつけたり、
それがなくとも、相手が持っている自分のまったく知らない世界について、
目をキラキラ輝かせて耳を傾けたりすることができるんでしょう。
こういう人はたぶん初対面の人とも無理なく自分らしく接することができるのでしょう。

さて、質問者の方にお聞きします。
あなたはこういう人になりたいのですか?
こういう社交性人間に憧れますか?
もしもそうだとしたら、たぶんあなたはこういう人にはなれないでしょう。
先ほどご紹介した 『さあ、才能に目覚めよう』 という本によれば、
人間の強みというのは生まれと環境によって幼い頃にほぼ固まってしまい、
後から弱い部分をなんとか補おうと努力して、若干の改善が見られたとしても、
それが強みに転ずることはないということだそうです。
この本の面白いのは、人は自分がすでにもっている強みだけをガンガン伸ばせばいい、
苦手な部分は自分で補おうと思わずに、それが得意な人に任せてしまえばいい、
と言い切っているところです。
たぶん初対面の人と無理なく自分らしく接することができるのは、
あの 「社交性」 という強みをもともと幼い頃からもっているような人だけでしょう。
そうでない一般の私たちは、そんな高みを目指していくら努力してみたとしても、
ある程度、初対面の人とそこそこにやっていけるというくらいにはなれたとしても、
無理なく自分らしくいられるというところまでは到底達することはできないだろうと思うのです。

とはいえ、これだけの回答では今回の質問者に対して酷ですね。
ですので、私もあなたと同じ、「社交性」 を上位の強みとしてもっていない人間として、
そういう人間が初対面の人となんとか付き合ってやっていくためにはどうしたらいいかについて、
あくまでも自分の経験にもとづくだけなので他の方にもうまく当てはまるかどうかはわかりませんが、
いちおうアドバイスとして次のようにお答えしておきたいと思います。

A.私たち一般庶民は初対面の人と無理なく自分らしく接することなんてできません。
  初対面の人と無理なく自分らしく接するようなになれなくてもいいんだ、
  初対面の人相手の場合は何かしら無理しなきゃいけないし、
  最初っから自分らしく振る舞うことなんてできるわけないんだとあきらめてしまうと、
  けっこう気が楽になって、初対面の人ともあんまり無理することなく、
  ある程度自分らしさも発揮しながら接することができるようになりますよ。

私はこんなふうに考え方を転換することによって、
少しは楽に初対面の人とも接することができるようになりました。
まあだまされたと思って、一度試してみてください。
それと、ぜひストレングス・ファインダーはやってみてほしいと思います。

Q.倫理がなければ発達する技術もあるのに、なぜ倫理は必要なんですか?(その1)

2016-09-22 14:02:12 | 生老病死の倫理学
今回の問いも倫理学者としてはたいへんうれしい問いです。
これが代表質問に選ばれてくれなかったのがちょっと残念なくらいです。
正確には以下のように書かれていました。

「Q.倫理がなければ発達する技術もある (クローン等) と思うのに、なぜ倫理は必要なのか?」

倫理がなければ発達する技術の例としてクローン技術が挙げられていました。
現代医療の恩恵を一身に受けてきている現代っ子らしい質問だと思います。
このような質問に対してはどうお答えしたらいいのでしょうか?
クローンという例を挙げてくれたので、
今日のところは技術一般の話ではなくクローン技術に絞って考えてみることにしましょう。

この質問者の方はクローン技術というものに対してどのようなイメージを持っているのでしょうか?
今どきの若者はクローンというと、本人の遺伝子を用いて必要な臓器を人工的に作れる、
という技術として認識しているのかもしれません。
クローンというのが元々そういうことだったとするならば、
たしかになぜそれに反対する人たちがいるのか理解できないかもしれません。
重い心臓疾患や肝臓その他の内臓の病気にかかってしまい、
その臓器を直接治療する方法がないという場合に、現在では他人から臓器をもらって、
臓器移植をしなければならないわけですが、
他人の臓器を体内に入れることによって拒絶反応が起きてしまうという医学的な問題が生じたり、
健康な人から臓器を取ってしまっていいのか、死体からならいいのか、
脳死は心臓が動いているのに死なのか、といった倫理学的な問題が生じてきてしまいます。
しかしながら、本人の遺伝子から作った人工臓器であれば、
拒絶反応という医学的問題も、他人の臓器を奪うという倫理学的問題も回避できます。
なぜそんなバラ色の技術に対して倫理は歯止めをかけようとするのでしょうか?

これは元々クローンというのがそのような限定された医療技術ではなかった、
というところにひとつの大きな原因があります。
私たちの世代ですと、クローンと言ってすぐに思い浮かぶのはマモーです。
1978年に公開された映画 『ルパン三世 ルパンVS複製人間』 の敵役がマモーでした。
今調べてみて愕然としたんですが、これってもう40年近く前の映画なんですね。
たしかにぼくが高校生の頃にこの映画見に行ったんだったなあ。
さすがにみんな知らないかなあ?
こういう人です。



どうですか?
見覚えないですか?
でもウッチャンがこれをマモー・ミモーというコントネタにして、
昨年、NHKの 『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』 で復活を遂げていましたから、
こちらは見覚えのある人もいるのではないでしょうか?



話が脱線しまくっていますが、このマモーというのが映画のタイトルにもある通り、
クローン技術によって作られた 「複製人間」 なのです。
ラストのほうではマモーの複製人間が大量に出てきます。
あ、そうか、皆さんには綾波レイと言ったほうがわかってもらいやすいのかもしれませんね。



『エヴァンゲリオン』 ももう古いのかな?
いずれにせよ、クローン技術に対して元々抱かれていたイメージは、
ある生体と同一遺伝子の別の生体を作り出す、というものでした。
ここで 「イメージ」 という言葉を使っているのは、
クローンやクローン技術について正確に説明しようと思うとこれまた大変になってしまうためで、
詳しくはウィキペディアやその他の専門書をご覧ください。
無性生殖をする生物は基本的にクローンですから、クローンは自然界には普通にあることですし、
植物に関してはクローン技術によってクローンを作り出すということもずっと昔から行われてきていて、
例えば春に咲く桜のうちのソメイヨシノはすべてクローン技術によって生み出されたクローンです。
園芸の世界では、クローンという言葉がまったく知られていなかった頃から、
挿し木という名のクローン技術が着実に進歩を遂げてきていたわけです。

こうした技術の着実な発展に対して倫理 (もしくは倫理学) が待ったをかけたのは、
哺乳類に対するクローン技術が開発されてきたからです。
初めての人工的な哺乳類のクローンは1981年に作られたそうですが、
最も有名になって議論を呼んだのは1996年に作られた羊のドリーでした。
体細胞核移植による初めてのクローン哺乳類だったからです。
うーん、あまり正確でないのを承知で喩えてみますと、
まだ生まれる前のマモーを人工的に一卵性双生児にしてクローンを殖やすやり方ではなく、
成長したマモーの体細胞を使って核移植することによってクローンを作ったという感じです。
より私たちのクローンのイメージに近づいています。
羊でそれができたということはいずれ人間でも可能になるということで、大問題になったのでした。

さて、質問者の方に逆に質問です。
あなたと同じ遺伝子をもち外見が瓜二つのあなたの複製人間をいくらでも作れるとしたら、
あなたは自分の複製人間を作りたいですか?
例えば、万が一重篤な心疾患やその他の内臓疾患にかかってしまったときに、
その複製人間から移植用の臓器をもらえるのだとしたら、あらかじめ作っておきたいと思いますか?
もしも作っておいた場合に、移植までのあいだその複製人間はどのように暮らせばいいのですか?
いよいよ移植が必要となったときにその複製人間が臓器提供を拒んだら、あなたはどうしますか?
逆に、オリジナルは実はあなたではなく、あなたも複製人間のひとりだったとわかった場合、
あなたは複製人間としての使命 (製作目的) をきちんと全うしたいと思いますか?

あるいは別の例を考えてみましょう。
どこかの誰かが勝手にあなたの複製人間を大量に作って、
様々な用途のために (戦争や廃炉作業や性産業など) 役立てたとしたら、
あなたはそれを許せますか?
あなたの複製人間ではなく、どこかの知らない人の複製人間だったら何に使おうとOKですか?
どこかの国の子どものいない政府指導者が自分の複製人間を何千万人も作り出して、
何度選挙やっても彼らの圧倒的支持によって勝ち続けるようになってしまったとしたら、
それを民主主義国家として認めることはできますか?

これらの質問すべてに対して、あなたを含めて世界中の大多数の人々が何の疑問も懐かず、
「全然OK、ノープロブレム」 と即答してくれるのでしたら倫理も倫理学も要らないでしょう。
これらの質問に対してそれはおかしいと感じたり、決めるのは難しいなと悩んだりしたならば、
そこはやはり倫理や倫理学の出番となります。
そして、質問者の方がクローン技術に関してどういうイメージをもっているのかわかりませんが、
元はといえばクローン技術というのはこういう可能性も含み込んだ技術だったわけです。
したがって、これらの疑問に明快に答えることができるようにならないかぎり、
ヒトクローンに関する技術は、手放しでどんどん発展させればいいということにはならないのです。

たしかにクローン技術はますます進んでいて、生体そのものを産生するのではなく、
限定的にある特定の臓器だけを産生することが可能なレベルにまで達しています。
そのような技術の進歩が、それまであった倫理学的問題を解決してくれることもあるのですが、
しかし同時に新たな技術はまた新たな倫理学的問題を引き起こしてしまうものです。
クローン技術による限定的臓器複製が可能になったとして、
では、お金さえ持っていたら無限に臓器を再生し続けていくらでも長生きしていいのかとか、
臓器を普通よりもよけいに作って移植して身体機能を強化するのはいいのかとか、
遺伝子組み換え技術と組み合わせて、より改良された臓器や身体を作ってもいいのか、
さらには、脳も同じようにクローン複製移植していいのかといった問題も生じてくるでしょう。
「Q.脳は移植できるんですか?」 もご覧ください。)
いずれも、個体全体を複製するのに比べれば問題は少ないような気もしますが、
それでもやはり何でもありというわけにはいかないでしょう。
限定的な技術として認可する場合には、じゃあどこまで限定すればOKか決めなくてはなりませんし、
その限定的な技術の先には上述したような複製人間の問題が待ち構えており、
それに関してもはっきり定めておかないことには、
限定的な技術のことだけを考えればいいというわけにもいかないのです。

というわけで、今のところ人間に対するクローン技術の利用は禁止されていますが、
それ以外の動植物に対するクローン技術はけっこう日常的に使われています。
しかしながらそれは何でもありの白紙委任ではなく、
どこまでがOKでどこからがアウトかという線引き (=倫理) の枠内で認められているわけです。
この先、ひょっとすると人間に対するクローン技術の利用も認められることがありうるでしょう。
その場合も、どこまでがOKでどこからがアウトかという線引きがなくなることはないはずです。
クローンに限らず、技術というのは進歩しさえすれば何でもありというものではなく、
何らかの線引き、枠組み、歯止めを必要とするものです。
技術一般に関しては稿を改めて、「(その2)」 でもう一度論じることにしたいと思います。

今度のてつカフェ@ふくしまも重厚だぞっ!

2016-09-17 23:35:09 | 哲学・倫理学ファック
はたして今日の 「エチカ福島第7回」 ではどんな討議が繰り広げられたのでしょうか?

「沖縄と福島から 〈責任〉 を問う  ―米軍基地と原発事故の 〈責任〉 とは何か―」

という壮大なテーマのもと、現代日本の政治経済と人間のあり方を根底から問い直す、

深い議論が交わされたのだろうと思います。

そして今ごろは定例の飯坂温泉で果てしのない延長戦が戦わされているのでしょう。

うーん、そこに居られなくて残念だ。

しかしながら 「てつがくカフェ@ふくしま」 も負けてはいられません。

来週の土曜日に 「第39回てつがくカフェ@ふくしま」 が開催されます。

テーマは 「公共性とは何か?」

ふふん、どんなもんだいっ

私たちだってやる時はやるのだっ

このテーマは、今年4月の 「第36回てつがくカフェ@ふくしま」 において、

「わたしにとって 〈哲学〉 とは?」 というテーマで話しあっている最中に話題として出てきて、

けっこう紛糾した議論を呼んだ概念で、この際じっくりその続きを話し合ってみよう、

ということでこれに決めたのでした。

もうひとつプライベートなことを言うと、今年の11月12日 (土) に、

福島大学で日本カント協会の学会が開かれることになっており、

その公開シンポジウムのテーマが 「3.11後の公共とカント ―Kant in Fukushima―」 であり、

なんと私は開催校に勤めるたった1人の学会員のため、

大会運営の仕事を一手に引き受けなければならないにもかかわらず、

なぜかシンポジウムの提題者も務めなければならないというああ野麦峠状態で、

その発表に向けて何を話したらいいかまだまったく頭のなかがまとまっていないので、

ここはひとつ福島の皆さんのお知恵を拝借しようと、今回のテーマを選んだのでした。

そんなブラックないきさつとは裏腹に、今回も外注したポスターはとても爽やかに仕上がりました。

こちらです。



公園に集う多様な人々の写真によって、

「公共性」 という捕らえどころのない抽象的概念をみごとに表現してくれました。

この写真は著作権フリーの有り物ではなく、

ポスター制作をお願いしている卒業生の友だちが撮ってくれた写真だそうです。

今回のてつカフェは、今日のエチカ福島での議論も引きずっての展開になるでしょうから、

このポスターほど爽やかには進んでくれないかもしれませんが、

今まさに 「公共性」 が問われている時代ですので、

軽やかに、でも真剣にこの難しくも重厚な問いにたち向かっていきたいと思います。

皆さま、ぜひお誘い合わせの上、久しぶりの 「イヴのもり」 にお集まりください

明日は 「エチカ福島第7回」 だあっ!

2016-09-16 22:13:06 | 哲学・倫理学ファック
先週の 「第1回てつがくカフェ@あいづ」 の興奮もさめやらぬ今日この頃ですが、

畳みかけるように明日は 「エチカ福島第7回」 が開催されますっ



今回は福島市内、県立橘高校のセミナーハウスでの開催です。

なんといってもテーマが重厚です。

「沖縄と福島から 〈責任〉 を問う  ―米軍基地と原発事故の 〈責任〉 とは何か―」

ちょっと 「てつがくカフェ@ふくしま」 のほうではあまりにも生々しすぎて、

特別編のときですら尻込みしてしまうかもしれないような重たいテーマを、

真正面から堂々と取り上げています。

そして、そのテーマにふさわしいベストなゲスト講師をお迎えしています。

琉球新報社東京支部の記者である新垣毅さん。

改憲を待つまでもなく一足先に戦場と化している沖縄の最前線の様子を熟知している方です。

オリンピックや都知事選、SMAP解散、築地市場移転問題等々に浮かれているあいだに、

日本はとんでもないことになってしまっています。

そんな私たちに鉄槌を下すような厳かな会となってくれることでしょう。

なんと私は今回もプライベートな用のため、この大事な会に参加することができません

いちおうアドバイザーの一員に名を連ねさせていただいてはいるのですが、

これまで意外と 「エチカ福島」 に出席できたことは少ないです。

特に今回は (いやいや、やはり今回も) とても残念だなあ。

ぜひこの大事な問題を共有したい方には万障お繰り合わせの上ご参加いただければと思います。

明日の14時から、橘高校セミナーハウスです。

皆さま、よろしくお願い申し上げます

Q.所属する集団の倫理とは別に、独自の倫理観が芽生えたりするのは一体どこから来るんですか?

2016-09-15 23:38:00 | 哲学・倫理学ファック
今までこんな質問をもらったことはなかったですね。
とてもいい質問です。
言い換えれば、倫理 【学】 (=倫理に対する懐疑) はなぜ発生するのか? という、
倫理学の根幹に対する質問であると言ってもいいでしょう。
タイトルの問いはけっこう長いですが、これでもだいぶ簡略化してあります。
正しくは次のように聞かれていました。

「Q.カルト被害者の会の相談窓口の仕事を手伝いながら、看護学校に通っています。
   例えば、その集団の中で生まれて、その集団の倫理で純粋に育ったとしても、
   「何らかの被害を受ける」 と (その集団の中にいては 「被害」 と認識されないはずなのに)、
   その集団の倫理とは別に、その人の中に倫理観が芽生えたりしますが、
   それは一体どこから来るのか、とても不思議です。」

最初の文からして驚きです。
看護学校で学ぶかたわら、カルト被害者を支援する会のお手伝いもされているんですね。
ただでさえ忙しいだろうに、志の高い学生さんがいらっしゃるものだと感心しました。
その取り組みのなかで気づかれた今回の疑問というのは、
倫理や倫理学を考える上でものすごく重要な問いだと思います。
たしかに、ある集団の内部に生まれてその集団の倫理を徹底的に教え込まれて育ったならば、
その倫理に対して疑いを懐いたり、別の倫理に目覚めたりはしないような気がします。
日本でも戦前は軍国教育が盛んに行われていて、それを受けた子どもたちの大半は軍国少年となり、
「鬼畜米英」、「国体護持」 を本気で信じてカミカゼ特攻に散っていきました。

しかしながら、その中にありながらも、やはりこれはおかしいんじゃないか、
と疑問を持った人たちも少なからず存在しました。
国や軍隊や警察に対して猜疑心を持ち、
何か反抗的なことを発言すると、「非国民」 のレッテルを貼られて通報されてしまう社会の中で、
なんでこんなことをしなければならないのか、なんでこんな目にあわなければならないのかと、
真っ当な疑問を懐いてそれを発信したり (例えば与謝野晶子の歌は有名ですね)、
外に表明しないまでも自分なりの倫理観を堅持しながら生きていた人はいたのです。

なぜそういう、集団が強制する倫理とは異なる倫理を懐く人が出てくるのでしょうか?
ひとつの大きな可能性としては、知識や情報を挙げることができるでしょう。
自分が属する集団以外ではどうなっているのかという知識がいったん入ってきてしまうと、
じゃああちらとこちらとどちらが正しいのかと比べたくなってしまうのが人間の性 (さが) でしょう。
もともと古代ギリシアにおいて倫理学が発展したのも、
各ポリス (都市国家) の中だけに情報がとどまらず、
あちこちのポリスでそれぞれどんな倫理 (習慣や法) が信じられているのかという情報が、
地中海中で共有されるようになって以降のことだったと思われます。
印刷とか活字というものがまったく存在しなかった古代ギリシアですらそうだったのですから、
新聞・雑誌のみならず、ラジオやテレビといったマスメディアが発達してしまった時代においては、
ある集団が推奨する倫理以外の一切の情報を遮断して、
完全なる純粋培養で構成員全員をコントロールするというのは困難で、
どこかしらから別の知識、情報が漏れ伝わってきてしまうものでしょう。
今だったらさらにグローバル化が進み、インターネットが発達してしまっていますから、
よけいに情報をコントロールするのは至難の業と言えるでしょう。
現代においては北朝鮮などが徹底的に知識・情報をコントロールしようとしていますが、
あれだけ脱北者が出てきてしまうということは、それがどれほど難しいかを証明していると思います。
このように何か別の知識や情報が与えられることで、人間には比較することが可能になり、
そこに倫理の相対化 (自集団の倫理が唯一絶対のものでないことに気づき) が生じると思われます。

これがひとつの大きな可能性ですが、しかし私はたとえそんな情報が入ってこなかったとしても、
やはり人間は、自らが教え込まれてきた倫理を疑ったり、
それとは別の倫理観を持つようになったりすることができるのではないかと考えています。
それは人間が 「理性」 を備えているからです。
いや、理性なんていうと小難しくなってしまいますので、ギリシア語の 「ロゴス」 に倣って、
「言葉」 と言い換えてもいいでしょう。
前回話したとおり、理性というのは言葉を使って、言葉と言葉を組み合わせて考えていく能力です。
人間には言葉がありますので、現実を現実としてただひたすら受動的に受け入れるだけではなく、
それに対して 「正しい」 とか 「間違っている」 とか、「素晴らしい」 とか 「何かおかしい」、「変だ」 等と、
自分なりの価値評価を加えながら現実を受け取っていきます。
そうした評価語自体をすべて駆逐するのでないかぎり、
人間は現実を丸ごとあるがままに受け入れることはできず、どうしたって自分なりに考えて、
それが正しいのか否か、いいことか悪いことかを考えてしまうのではないでしょうか。
そして、どれほど集団の倫理を一方的に注入されていたとしても、
何かふとしたきっかけで何らかの違和感を感じ、それに言葉を当てはめていくことによって、
自分のなかの疑問がどんどんふくらんでいって、最終的には集団の倫理そのものを疑い、
新たに自分なりの倫理観を打ち立てるところまで行ってしまったりするのではないでしょうか?
脱北した人たちの中には、他国の様子を知って初めておかしいと思い始めた人もいたでしょうが、
そんな知識や情報をまったく知らなくとも、
今のこの生活は何か理不尽だと感じたり考えたりした人がいたのではないかと思うのです。
人間にはそのような 「考える自由 (=疑う自由)」 が生まれつき (誰かに教えられなくとも)
そなわっているように私には思えるのです。
というわけで、今回は次のようにお答えしておきましょう。

A.所属集団とは異なる独自の倫理観が芽生えてしまうのは、
  何らかのルートを通じて外から新しい知識や情報が流入してきたためかもしれませんし、
  あるいは、そんな知識や情報が入ってこなかったとしても、
  人間の理性は言葉を使って考えることによって、おのずと既成の倫理を疑い、
  独自の倫理を考え出してしまうという本性 (ほんせい) を持っているからかもしれません。

今回の問題は哲学・倫理学の歴史のなかでもずっと考えられてきた問題で、
未だに決着のついていない問題です。
(高校の 「倫理」 の授業のなかでは 「経験論」 と 「合理論」 の対立と説明されたりもしています。)
そのなかで私は、若干分が悪いほうの一派に属していますので、
私の答えがおおかたの哲学者・倫理学者に受け入れられているわけではありません。
ですので、今回の私の答えに納得いかない場合は、いろいろと専門書にあたってみてください。
とてもいい質問をありがとうございました。
被害者支援の活動、がんばってください。

Q.倫理って生命や法律に関することですか?

2016-09-13 22:41:34 | 哲学・倫理学ファック
前回あまりうまく答えられなかった質問とちょっと似ているというか、
関連する質問なんですが、次のような質問をいただきました。

「Q.自分の中で倫理が生命や法律に関することだと思っているのですが、実際どうなのですか?」

うーん、質問者の語感というか個人的イメージにもとづく質問なのでちょっとお答えしづらいですし、
ご本人がどういう意味で質問をされているのかつかみにくい面もあるのですが、
とりあえず私なりの理解にもとづいて答えてみることにしましょう。
おそらくこの方は、倫理という語を生命や法律という語とともに耳にしたことが多いのでしょうね。
そのために倫理に対して、生命や法律と関係するものというイメージを抱いているのでしょう。
そのイメージそのものはそれほど間違っていないと思いますが、
倫理と生命との関係と、倫理と法律との関係は、それぞれ関係しているとはいっても、
関係の仕方が違いますので、そこらへんを説明してみることにしましょう。

倫理と法律との関係は、前回説明したとおりです。
倫理という言葉を広い意味で取るか、狭い意味で取るかによってちょっと変わってきますが、
いずれにせよ倫理も法律も人間社会のなかに生まれる決まり事やルールのことです。
広い意味での倫理 (=人間集団のルール) のなかに法律 (=強制力をもつルール) が含まれる、
というふうに考える場合と、
人間集団のなかに生まれるルールには、国家的強制力をもつ法律と、
そのような強制力をもたない狭い意味での倫理がある、というふうに考える場合とがありますが、
どちらの場合であっても、同じものの全体と部分、あるいは、同じものの部分と部分の関係です。
他に日本語でいい例が思い浮かばないので英語の例を出しますが、
man と woman との関係みたいなものだと言えばわかってもらえるでしょうか?
英語の man には広い意味 (=人間) と狭い意味 (=男) があるので、
man (=人間) のなかに woman (=女) が含まれると言ってもいいですし、
humankind (=人類) のなかに man (=男) と woman (=女) が含まれると言ってもよくて、
いずれにせよ man も woman も人類であることに変わりはないわけです。
そういう意味で倫理と法律との関係は、man と woman との関係みたいなものなわけです。
これでわかってもらえましたか?
これって適切な例になっていたでしょうか?

それに比べると、倫理と生命はそういう関係ではないということはおわかりいただけるでしょうか。
同じもの、似たものどうしの関係ではありません。
倫理というのは、先ほども述べたように、人間集団のなかに生まれる決まり事やルールのことです。
そして、人間はさまざまな事柄に関して決まり事やルールを作ってきました。
例えば、世界中には食に関するルールがいろいろあります。
食事の前にお祈りやあいさつ (「いただきます」) をしなければいけないとか、
食べ物を手で直接つかんではいけないとか、あるいは手で直接食べていいけど左手はダメとか、
食べる時に音を立ててはいけないとか、基本ダメだけど麺類は音を立ててもいいとか、
豚を食べちゃいけないとか牛を食べちゃいけないとか、それはもう無限にあります。
それらは食に関するルール、つまり食倫理ということになります。
その他にも、人間関係に関する決まり事や、自然環境の守り方に関する環境倫理、
仕事に関する職業倫理 (医療倫理はそのうちの一種) などなど、
人間が活動するさまざまな分野やテーマに関して倫理が存在します。

そのなかでも特に重要なものとして、生命をどう扱ったらよいかという問題があります。
まずは、他人の生命に対して何をしてよくて、何をしてはいけないのか、
(一般的に殺人はよくないとされていますが、では中絶は? 安楽死は? 脳死臓器移植は?)
続いて、他の動物の生命に対して何をしてよくて、何をしてはいけないのか、
さらには、バイオテクノロジー (生命技術) の発達によって遺伝子操作が可能になりましたが、
その場合にさまざまな種類の生命に対してどんな操作を加えていいのかいけないのか、等々。
このような生命の扱い方に関するルールが生命倫理です。
つまり、生命というのは倫理 (ルール) が必要とされる重要な一分野なわけです。
とりわけ近年の科学技術や医療技術の進展によって、
人類史上まったく考えられてこなかった新しい問題が生命をめぐって生じてきていますので、
現代において生命倫理というのは早急に解決すべきだけれども、
ひじょうに困難かつ複雑な課題に直面させられていて、
教科書やニュースなどでも頻繁に取り上げられています。
なので、倫理と聞くと生命というキーワードが一緒に思い浮かんできたのでしょう。

しかしながら、生命というのは倫理が扱う広範で多様なテーマのうちのひとつにすぎませんので、
いくら大事なテーマだといっても、それだけがすべてというわけではありません。
看護学校のこの 「倫理学」 の授業では、ほぼ生命倫理に関わる問題しか取り上げませんので、
それだけが倫理に関する事柄のように思えてきてしまうかもしれませんが、
他にもまだまだたくさん倫理はあるし、倫理学のテーマもあるということは覚えておいてください。
というわけで今回のご質問には次のようにお答えしておくことにしましょう。

A.もちろん倫理は法律と関係ありますし、
  (広義の倫理のなかに法律は含まれていますし、
   狭義の倫理と法律とは同じ人間集団の倫理のなかで相対立するものとして、
   それぞれどこがどう違うのかその関係性が問われています)
  倫理の幅広い対象のなかには生命も含まれており、
  それは倫理にとってとても重要な対象ですから大いに関係があるのですが、
  倫理は法律や生命に関することだけではないので、
  このブログや第1回目に配布した参考文献表のなかの本を読んだりしてみて、
  倫理が法律や生命を超えてどれくらい多種多様な事柄や分野と関わっているか、
  自分で確かめてみてください。

Q.倫理と法律は何が違うのですか?

2016-09-10 11:27:27 | 哲学・倫理学ファック
いい質問ですね。
倫理学者として答えがいのある問いです。
今年は他にもこれと関連するような質問もいただいています。
順次お答えしていくことにしたいと思います。

さて、まずは今日の質問、倫理と法律の違いについてですが、
これにお答えするのは意外と難しいです。
というのは、法律に関してはだいたい皆さんある程度共通の語感やイメージを抱いていて、
それは大筋で合っている場合が多いのですが、
倫理に関しては、日本語だけで考えるとやはりある程度の共通イメージはあるかもしれませんが、
学問的に言うと明治時代に ethics の訳語として使われるようになった言葉であり、
そのもともとの ethics は歴史の流れのなかでいろいろな意味で用いられてきたので、
倫理とは何かというのを一義的に確定するのが難しいのです。
その話を以前に書いたことがありますので、まずはそちらの記事を読んでみてください。

「Q.道徳と倫理の違いはなんですか?」

読んでくれましたか?
わかりやすく書いたつもりですけど、もともと込み入った話なので、
たぶんわかりにくかっただろうと思います。
今日の質問に答えるために必要な分だけ簡単にまとめるとこうなります。
倫理には広い意味と狭い意味があります。
広い意味の倫理は、人間集団のなかに生じてくる決まり事やルールすべてを意味しています。
したがって法律も人間社会のルールの一種ですから、
法律は広い意味の倫理のなかに含まれることになります。
これに対して狭い意味での倫理は、人間集団のなかに生じてくる決まり事やルールのなかでも、
法律のような強制力をもっていないもののみを指して使われます。
習慣とかマナーといったようなものですね。
したがって狭い意味の倫理は法律とは対置され、はっきりと区別されることになります。
ここまでおわかりいただけたでしょうか。
したがって今日の質問に答えるためには、使われている倫理という言葉が、
広い意味なのか狭い意味なのかを確定しないといけないのです。

まあたぶん、「何が違うのですか?」 と聞いているということは、
今日の質問者の方は倫理と法律を違うものと捉えているわけで、
つまり狭い意味での倫理と法律との違いを聞いてくださったのでしょう。
おそらく大部分の日本人は倫理という語をそういうふうに狭い意味で理解しています。
私は自分の専門研究 (カント倫理学に関する) で論文を書くときには、
皆さんと同じように ethics を狭い意味で用いますが (カント自身がそういう使い方をしているので)、
大学や専門学校で授業をするときには広い意味で使うようにしています。
法律も含めてすべてのルールや決まり事のことを論じられたほうが楽しいからです。
その立場で今日の質問に答えると次のようになります。

Aー1.法律は国家が定めた強制力のあるルールで、
    (広い意味での) 倫理は、法律も含めてその他どのような形であれ、
    人間集団のなかに形作られるあらゆるルールや決まり事のことです。

続いて質問者の意図に沿った形で、狭い意味の倫理と法律との違いを考えてみましょう。
人間集団のなかにまず最初に生まれたのは、
暗黙の了解という形での習慣のようなものだったろうと思われます。
それは言語や国家が発明される前から存在していたのではないかと思います。
現代の私たちのなかにも、はっきりと言語化されているわけではない暗黙のルールみたいなものってありますよね。
うーん、何だろう?
例えば、イスには1人ずつ座るとか?
電車で座っていたら知らない人が膝の上に乗っかってきたなんてことは今までなかったですよね。
そんなこと家でも学校でも地域でも教わったこともなければ、
世界中のどこでもわざわざ確認されたこともないと思いますが、
たぶん地球上のどこでも共有されているルール (=倫理) ではないでしょうか?
そういうのから始まって、次は口約束のように言語 (まずは話し言葉) で確認されたルールが生まれ、
それがさらに成文化、すなわち文字によって記録されていくようになるのだと思います。

これは集団がだんだん大きくなっていくのに伴う流れでもあったでしょう。
少人数集団であれば言語的確認がなくともルールは成立したかもしれませんが、
ある程度の大きな集団が成立すると、はっきりと言語で確認する必要が出てきますし、
さらに大きな集団になれば全員といちいち話し合って確認し合うことはできませんので、
文字として残しておくという必要も出てきたでしょう。
マナーや習慣やある集団内の規則 (例えば校則や倫理規定など) といったものは、
必要に応じてこれらのいずれかの形態をとっていることでしょう。
こういったものを (狭い意味での) 倫理と呼ぶとすると、
これらと法律はどこが異なっているのでしょうか?

法律は少なくとも成文化されている必要があると思います。
(この点に関しては法律の専門家ではないのであまり自信はありませんが…)
しかし、成文化されているものがすべて法律かというとそんなことはありません。
校則は成文化されていますが法律ではありませんし、
家庭内のルールを成文化しているという家もあるかもしれませんが、それも法律ではありません。

法律と (狭い意味での) 倫理を区別する一番重要なポイントは、
先ほどから何回か出てきましたが、強制力があるという点です。
つまり、そのルールを守らなかった人がいた場合に罰則を科することができるということです。
しかも、違反者に罰を与えるためにはそれ相応の力 (=権力、暴力装置) が必要です。
警察や刑務所のような組織がないと違反者を捕まえたり、刑に服させたりすることができません。
そういう強制力があるかないかというのが一番の違いでしょう。

しかし、法律でなくともある程度の強制力をもっていて罰を科することができる倫理は他にもあります。
校則や職場の服務規程などは、その集団内においてはある種の強制力をもち、
違反者に罰が科されたりします。
そうすると、校則や服務規程などの倫理と法律とではどこが違うのでしょうか。
それはおそらく先に述べた集団の大きさということになるでしょう。
つまり、法律というのはさしあたり国家という大規模な集団が定めるものです。
国家のなかには大小さまざまな集団が含まれていますが、
そのうちのどの集団に属していようと関係なく、
国家のなかで活動する人間は皆、その国家が定める法律に従わなくてはなりません。
そして先ほど述べた強制力も、まさにこの国家が占有しているわけです。
というわけで法律には国家とその強制力が後ろ盾としてくっついています。
それが法律とその他の倫理との違いと言えるのではないでしょうか。

大きな違いとしてはそんなところです。
他にも、それに付随するいくつかの違いがありますが、
もう疲れたのでそれはまた別の機会にしたいと思います。
先ほどとあまり違いはありませんが、法律と狭い意味での倫理との違いをまとめるとこうなります。

A-2.法律は国家が定めた強制力のあるルールで、
    それ以外の、人間集団のなかに形作られるさまざまなルールや決まり事が、
    (狭い意味での) 倫理ということになります。

なんか頑張ったわりにはつまらないまとめになってしまいました。
もうちょっとカッコいいことが書けそうな気がしてたんだけどなあ。
どうも気に入らないのでそのうち書き直すかもしれません。
とりあえず今日のところはこれで勘弁してください。

明日はいよいよてつがくカフェ@あいづ!

2016-09-09 23:36:26 | 哲学・倫理学ファック
明日はいよいよ第1回 「てつがくカフェ@あいづ」 でございます!



会津といっても奥会津、三島町での開催ですけどね。

こんな素敵なところでの開催です。



この写真の左下の黄緑色の流れは只見川です。

いや、あきれるほどキレイなところです。

こんなところでてつカフェ。

考えるだけで夢見心地ですね。

ちょっと福島県のなかでも奥まったところですが、

どれくらい人が集まってくれるのでしょうか?

哲学カフェというイベントのいいところは、

人が集まれば集まるほど多様な意見が聞けて楽しいのと同時に、

人が集まらなくてもそれはそれで1人あたりたくさん話せてうれしいという、

どっちに転んでも大成功が保障されているところだと思います。

ゴルフに似てますね。

スコアがよければそれはもう万々歳だし、

スコアが激しく悪かったとしても、同じ料金でたくさん本物の芝の上で打てて幸せ、みたいな。

え? ちょっと違いますか?

まあいいでしょう。

とにかく楽しみです。

「友だち」 というテーマは 「てつがくカフェ@ふくしま」 とも因縁の深い大切な問題です。

「@ふくしま」 の話がまだ浮上していなかった頃に、

「@せんだい」 の書評カフェで取り上げられたのが雨宮処凛さんの 『ともだち刑』 でした。

たまたま幸せな子ども時代を送ることのできた私は、

「友だち」 という概念が負のイメージを帯びることができるということも知らないまま、

この小説で描かれた陰惨な友だち関係に触れて戦慄を覚えたものですが、

書評カフェの場でそれがけっこうフツーの世界だということを知ってさらに愕然としたのでした。

そのため、幻と終わった第1回 「てつがくカフェ@ふくしま」 のテーマには、

一も二もなく 「友だちとは?」 を選びました。

今回、「てつがくカフェ@あいづ」 がその同じ問いから出発してくれることを心より感謝します。

誰もがよく知っていて、当たり前のように思われているものを問い直す。

哲学カフェの真骨頂と言っていいでしょう。

私たちに友だちは居るのか、要るのか、ぜひこの機会にみんなで話し合ってみましょう!

Q.この授業では倫理学者の名前を覚えたりはしないのですか?

2016-09-07 19:20:09 | 哲学・倫理学ファック
今日の質問は郡山の看護学校でもらったやつだったように思います。

まあ、郡山でも白河でも (そして相馬でも福大でも) 答えは変わらないのですが、

詳しくはこんなふうに聞かれていました。

「Q.高校の時の倫理とは全く違うものに思えてきた。

   この授業では倫理学者の名前を覚えたりはしないのでしょうか?」

1回授業を受けただけで私の授業のアウトラインをおよそつかんでいただけたようで、

たいへん頼もしいかぎりです。

もはや答えるまでもないかもしれませんが、授業の進め方や単位の取り方に関わる質問ですので、

いちおうガイダンスのつもりでお答えしておきましょう。


A.はい、この授業は高校の倫理とはまったく違います。

  この授業の単位を取るために倫理学者の名前を覚える必要はありません。


高校のときの倫理という科目は倫理学者の名前を覚える授業だったという印象ですか?

ぼくが高校のときに受けた倫理 (当時は倫理・社会) はそんな感じじゃなかったですけどね。

まあ、当時はセンター試験の前身の共通1次試験というのが始まったばかりの頃で、

まだそれほど暗記・詰め込み型の授業にする必要がなかった、いい時代だったのでしょう。

今はたぶん思想家の名前やそのキーワードとかをたくさん覚えさせられているのかもしれませんね。

センター試験に対応するとなるとそうせざるをえませんし、

それに倫理を専門的に学んできている公民科の教師って少ないですから、

そういう先生方にとっては暗記型の授業のほうがやりやすいのかもしれません。

とにかく、君たちがこれから受ける授業は 「倫理」 ではなく 「倫理学」 ですから、

名前がちょっと違っている以上に、中身はまったく違います。

「倫理学」 ではただ既成の倫理を学んだり覚えたりすればいいのではなく、

倫理に関して学問する、つまり、倫理について問うことを学んでもらわなくてはなりません。

それはさらに言い換えれば、倫理を疑うということです。

ですので、倫理学者の名前を覚えたり、

その倫理学者の思想を鵜呑みにするだけでは倫理学にならないのです。

もちろん私の授業のなかでも倫理学者の名前はそんなに多くありませんが、時々ちらっと出てきます。

たしか前回の授業ではソクラテスの名前が挙がっていたと思います。

「汝自身を知れ」 という言葉をソクラテスが哲学・倫理学の使命だととらえていたこと、

それがどういう意味だったのかということを紹介させていただきました。

せっかく紹介したので覚えておいてもらえると嬉しいですが、

別にそのことを覚えているかどうかは私にとって重要ではありません。

大事なのはその言葉に触発されて、では自分とはどういう存在なのかを皆さん自身が考えたり、

人間とはいかなる存在であるのかについて思いを馳せてくれたりすることなのです。

看護学校の専門の授業でもやはりいろいろな専門用語を覚えなくてはいけないのでしょうね。

この授業ではその手の暗記は必要ありません。

あれ?

そう聞いて今一瞬すごく気が楽になりましたか?

でも倫理学ってそんなに楽な授業ではありませんよ。

毎回自分で疑い、自分で考えてもらわなくてはなりませんからね。

先輩たちに最後の回に感想を書いてもらうと、

毎回頭をフル回転させなければならなくて大変だった、苦しかったと書いてくる人がほとんどです。

倫理学者の名前を覚えなくていいというのは全然楽なことではないのです。

答えのない問題について、それでも自分なりの答えを出すために一生懸命考える。

しかもテーマが死とか病とかばっかりですから、精神的にもけっこうキツイはずです。

というわけで、この授業では倫理学者の名前を覚えたりはしなくていい半面、

自分の頭でいろいろ考えて、それを言語で表現してもらうことになります。

最後の最後に、苦しくて大変だったけれどたくさん考えることができてよかった、

という感想を皆さんからいただけるような授業にしていきたいと思います。

最後までがんばってついてきてください!

Q .最近疑問に思ったことは?

2016-09-06 17:03:14 | 性愛の倫理学
最近、疑問に思ったことですか?
倫理学なんていう学問をやっていると、たいがい何にでも疑問を抱いてしまいますので、
最近って言ってもけっこういろいろあるよなあ。
まあ 「何でも倫理学」 なので何でもいいのですが、
それじゃあ、若い皆さんに聞いてみたい疑問ということで、
最近、雑誌に記事が載り、それがワイドショーなんかでも取り上げられていた以下の話題について、
疑問に思ったことを書いてみることにしましょう。

「ゲス川谷絵音 20代美女のお持ち帰り真っ最中に直撃取材《一問一答》」
  (週刊女性2016年9月13日号)

今年の年始に大々的にニュースとなり、その後そのお相手の方とも別れ、
配偶者の方とも別れたというロックスターの方に関するその後の情報です。
私としては基本的にこの問題全体がどうでもいい話だと思っており、
人のプライバシー (特に性愛関係というきわめてプライベートな問題) を暴き立てて金儲けをする、
現代マスコミの質の低下、およびそういう低俗なニュースに飛びつく民度の低さ、
という以外の問題意識を持っていないのですが、
たまたまテレビで、取材者と川谷さんのやりとりを詳細に紹介していて、
そこにものすごく疑問を感じたので、この問題を取り上げることにします。
2人のやりとりの詳細は以下です。

(以下、記事より引用)
─川谷さん、タクシーの中の女性は新しい恋人ですか?

「いや、そういう感じじゃないですけど……。友達ですね」

 突然、声をかけたにもかかわらず、特に驚いた様子はない。

─ここは、川谷さんが住んでいるマンションですよね?

「あ、はい」

─普通は、ただの友達をこんな時間に家に入れないと思うのですが。お泊まりするってことですよね?

「そうですね……。はい」

 重ねて追及すると、バツが悪そうに認めた。友達と言い張るのはさすがに苦しい状況だ。ありあまるロマンスは隠しようがない。

─本当に恋人ではないんですか?

「はい、実際リアルに……。彼女とそこまでは進んでいないです」

─では、これから恋人に発展していく可能性があるということですか?

「それは相手次第ですね」
(引用終わり)

とりあえず以上です。
2人のやりとりがおかしいというよりも、この取材者の質問の仕方が不思議でしょうがありません。
どうやらこの取材者には 「ただの友達」 か 「恋人」 かという二者択一の枠組みしかないようです。
それって今どきの感覚と合ってますか?
皆さんはそのどちらかしかないと思いますか?

実際に川谷さんたちが自宅マンションで何をしたかはまったくわかりませんが、
ここでは話を簡単にするために、
「2人でお泊まり」=「性行為をする」 と仮定して話を進めていきたいと思います。
さて、セックスをする相手は 「恋人」 だけなのでしょうか?
21世紀の日本においてそんなことを信じている人はどれくらいいるのでしょうか?

戦前や終戦後くらいまでだったら、結婚するまでセックスをしてはいけない、
という倫理観が (特に女性に対しては) 存在していたようです。
私の親の代くらいまではたぶんそういう常識が残っていたかもしれません。
しかし、私が思春期を迎えた頃にはそんな倫理はとっくに崩壊して、
婚前交渉は当たり前という時代を迎えていました。
ただし、たしかにその時代は婚前交渉はごくフツーのことになっていましたが、
それでも 「性行為をしていいのは恋人だけ」 という倫理・常識はまだ残っていました。
みんながそれに従っていたわけではありませんでしたが、
全体の風潮としては 「性交相手は恋人だけ」 という締め付けはあったように思います。
それって1970年代から80年代くらいの話です。
一世代前の話ですね。
「セックスフレンド」(略してセフレ) という概念がなかった頃のお話ですよ。
あの時代に育った者として私もいまだに 「性交相手は恋人だけ」 という感覚をもっている気もします。
でも、それが古い倫理感だということはわきまえているつもりです。

「セフレ」 という概念がいつ頃、日本に定着したのか調べてみたけれどよくわかりませんでした。
おそらく1990年代頃ではないかと思われます。
今はもうすっかり定着してますよね。
あの取材者の方は 「セフレ」 という概念を知らないのでしょうか?
そもそもあの人は何歳なのでしょうか?
「新しい恋人ですか?」 という問いかけに対して、
「いや、そういう感じじゃないですけど……。友達ですね」 と答えられたら、
その時点でセフレだとわかりませんかね?
恋愛関係ではないけれどセックスはする相手。
まだ恋愛関係が芽生えていないだけで今後どうなるかわからないのかもしれないし、
あるいは金輪際、恋愛に発展するつもりもましてや結婚するつもりもないかもしれないけど、
でもとりあえずセックスはする相手。
そういう関係があり得るというのは日本の常識じゃないんですか?
この取材者はそういう常識を共有していないぐらいの老人なんでしょうか?
「友達ですね」 という返しに対して、
「普通は、ただの友達をこんな時間に家に入れないと思うのですが」 って、
なんでそこで 「セックスフレンド」 ではなく 「ただの友達」 の話にもっていっちゃうんですか?
川谷さんは 「ただの (性的関係のない) 友達」 と言い張ったわけではなく、
「セックスフレンド」 も含む広い意味で 「友達ですね」 と答えたんだろうと思うのです。
このマヌケで非常識な質問者に対して、川谷さんはその後もとても真摯に丁寧に答えています。
まだ恋人関係ではないということ、今後恋人関係に発展するかどうかは相手次第だということ。
他人のプライバシーを暴き立てて金儲けをしてやろうと企んでいる人間に対して、
本当に真面目に本音を答えています。
それなのにこの取材者のまとめはこうなっちゃうのです。
「“相手次第” ということは、少なからず川谷にはその気があるのだろう。」
ここで言う 「その気」 とは恋人関係へと発展していく気ということですが、
この時点でその気があるかどうかなんて本人にだってわからないんじゃないでしょうか。
セックスをしたら必ず恋人にならなきゃいけないんですか?
あなたは何時代の生まれなんだ?

この取材者が現代日本人のような気がしないのは、2つの意味においてです。
ひとつは、「結婚するまでセックスしない」 のが当たり前の時代においてだって、
その後の 「恋人としかセックスしない」 という時代においてだって、
一握りのモテる人たちがいて、そういう人たちは婚姻関係や恋愛関係とは関係なく、
自由にいろいろな相手と性行為をしているようだ、ということを世間は認識していました。
たとえば私の頃でいうならば、ロックスターのまわりにはグルーピーという人たちがいて、
毎晩パーティをやってるらしいという噂は伝わってきていました。
プロ野球の選手も遠征先のそれぞれの町に女性がいるという噂は、
まことしやかに囁かれていたじゃないですか。
そういう現場に踏み込んで、「彼女は恋人ですか? 今後結婚されるご予定ですか?」
なんて聞いた人がいたでしょうか?
それは自分の価値観や常識を押し付けているだけですよね。
羨ましい、妬ましいと思う気持ちは理解できないわけではありませんが、
仮にも公的に情報を流布しようと思うのであれば、
そういうジェラシーや取材者側の価値観は表に出さないようにする必要があるでしょう。

第2に、そういうモテモテのロックンローラーの一夜限りのアバンチュールではなく、
基本的には本人も、取材者の 「性交相手は恋人だけ」 という価値観を共有しているものとして、
その場合でも恋人ではない人とセックスをするということはありうると思うのです。
今どきの恋人たちというのはどういう手順を踏んでいるのでしょうか?
まず先に 「じゃあ付き合おうね」、「私たちは恋人になったんだよね」 ということを確認してから、
そのあとで肉体関係を結ぶという順番で話は必ず進んでいくのでしょうか?
もしもそれで 「身体の相性」 が合わないということが後から判明したりしたらどうするのでしょうか?
今回は 「性交相手は恋人だけ」 という価値観を2人が持っているということが前提ですから、
するとよけいに恋人との身体の相性というのは重大な問題になってくるはずです。
それを確認する前に恋人になってしまっていいんですか?
だから今どきの恋愛というのは、口約束よりも先に肉体関係を結ぶことから出発する、
というのはよくあることのような気がするのです。
私ぐらいの老人だってそういうことがありましたから、今どきの若者はよけいにそうだろうと思います。
今回のケースはひょっとするとそういう段階でのやりとりだったのかもしれません。
だとすると、「そこまで進んでいない」 人を 「こんな時間に家に入れ」 て何がいけないんでしょうか?
この取材者はそういう恋愛が生まれるまでのプロセスを経験したことがないのでしょうか?

以前に私はこのブログで、「デイティング・ピリオド」 についてご報告したことがあります。
簡単にまとめると、欧米には交際前にセックス込みのお試し期間がある、というお話です。
興味のある方はぜひ読んでみてください。
残念ながら日本にはこのようなシステムははっきりと存在してはいませんが、
そういう名前 (概念) が存在していないだけで、
多くの人がもうこれに類したことを実践しているのではないでしょうか。
こういうシステムが存在してこそ、「性交相手は恋人だけ」 を実現することが可能となります。
それなしにただ 「性交相手は恋人だけ」 という価値観のみを押し付けていると、
せっかく恋人になれてもすぐに性の不一致で別れる、ということの繰り返しになるでしょう。
「性交相手は恋人だけ」 の世界を実質的に実現するためには、
「恋人になる前に試しに性交してみてもよい」 という、
本来の価値観には反する予備的制度を導入する必要があるのです。

話が長くなってしまいました。
いただいたご質問は 「Q.最近疑問に思ったことは?」 でした。
これには以下のようにお答えして、この長い話を締め括ることにしたいと思います。

A.最近の雑誌やテレビで、「性交相手は恋人」 であるべきだという前提での報道が目に付きますが、
  皆さんをはじめとする若者や現代の日本人全般は、
  はたしてそのような倫理観を本当に有しているのかどうか、というのが最近懐いた疑問です。

ぜひ皆さんの考えをコメント欄などに書き込んでみてください。

Q.相手のことが分かってしまうものですか?

2016-09-05 18:10:27 | 哲学・倫理学ファック
さて、また倫理学FAQにお答えする季節がやってきました。
昨日書き忘れましたが、FAQというのは 「Frequently Asked Questions」 の略、
すなわち、「よくある質問」 という意味です。
カテゴリー名称では 「FAQ」 をカタカナ読みしてしまっていますが、
未だこの件に関して突っ込まれたことは一度もありません。
それはさておき。

今日取り上げるのはまさに 「よくある質問」 というか、今年は3人からいっぺんに聞かれた質問です。
標記の質問は正確にはこんなふうに聞かれていました。

「Q.相手のこと (例えば、気持ち、考え) が分かってしまうものですか?」

そのほかこんなふうな聞き方もされていました。

「Q.1回その人を見たら大体こういう人だろうと分かりますか?」

「Q.目の前にいる人が考えていることわかりますか?」

ええっとまあ、看護学校の授業では1コマめに 「汝自身を知れ」 ということで、
自分自身がどういう人間かを知ってもらうワークをやってもらったあと、
2コマめに入ってすぐに 「倫理学の先生に聞きたいこと」 の質問を列挙してもらっていますから、
この授業を心理学の授業と勘違いしたまま質問を考えてくれる人もいるようなので、
こんな感じの質問が増えてしまうのでしょう。
私としては、「汝自身を知れ」 というデルフォイの神殿の箴言の本来の意味や、
それをソクラテスがどう解釈したかという意味も説明して、
倫理学と心理学は違いますよということも説明しておいたつもりなんですが、
なかなかそのあたりのニュアンスを一発で理解してもらうのは難しいようです。
それにそもそも心理学だって、本来は相手の心を読むような学問ではありませんので、
(そのように誤解させる本が出回っているのでその手の混同は広く流布してしまっていますが…)
そんなことはどう考えたってムリなのですが、
若い人たちのあいだには、相手の心を読むことへの願望が根強く残っているのでしょう。
とりあえず端的にお答えしておきましょう。

A.人の気持ちや考えなんてまったくわかりません。
  何度会ったことがあろうが、家族や友人など長年連れ添った仲だとしても、
  本人からはっきりと言ってもらわないかぎりは、
  相手が心のなかで何を考えているのか、その人が本当はどういう人なのかなんて、
  けっして見抜くことなどできません。

心理学者にだって人の心を読むことなどできないのですから、
一介の倫理学者にすぎない私にはけっしてそんなことムリでしょう。
そもそもそんなことに興味ないですし。
たまに誰かと気持ちが行き違ったりしてしまったら、
人の気持ちを読み取ることができたらいいのにと、
オカルト的に望んでしまったすることもないではないですが、
それはあくまでも、空を飛んだり時間を逆戻ししたいという願望と同様の、
子どもっぽい空虚な願いとわかった上での絵空事にすぎないわけです。
実際には人間というのは、他人の思いや相手の本当の姿がわからないからこそ、
悩み傷ついたりもするけれど、生きていて面白いのではないでしょうか。
最初の質問を聞いてくれた人は続けて次のような質問もしてくれていました。

「Q.相手のこと (例えば、気持ち、考え) が分かってしまうものですか?
   もしそうだとしたら、結婚、交際が難しいですか?」

たしかに相手の気持ちや考えがわかるようになってしまったら、
ある意味では生きるのがラクになるかもしれませんが、
それと同時にむしろ人と一緒に生きていくのがツラく、難しくなってしまうかもしれませんね。
こちらの言動に対して相手がチッと心のなかで舌打ちしていたり、
ニッコリ笑ってものすごい腹黒いことを企んだりしているのがわかってしまうわけですから、
むしろ人間不信に陥ってしまうかもしれません。
誰の心も読みたくないと引きこもりになってしまう、なんてこともありえるでしょう。
結婚や交際なんてとてもやっていられなくなるのではないでしょうか。

というわけで、どんな学問を修めたとしても人の気持ちや相手の本性を見抜くことなど、
けっしてできるようにはなりませんので、
私たちにできる範囲内で努力しながら人付き合いをしていってもらえればと思います。
私たちにできる範囲内での努力とは、相手の言語的表現や非言語的表現を一つ一つ読み取って、
それが何を意味するのかを推測し、それにどう対応したらいいかを想像して順番に試してみて、
合っていたか間違っていたかをそのつど確認しながら、
少しずつ自分の推測や想像の精度を高めていくという、
誰もがこれまでの人生でずっと続けてきた努力のことにほかなりません。
そういう地道な努力をすっ飛ばして、簡単に人の心を読めるようになる抜け道なんてありませんので、
安心して何度もつまづきながら、長く険しい人付き合いの王道を歩んでいってください。

看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2016年版)

2016-09-04 19:10:20 | 哲学・倫理学ファック
一昨日から郡山と白河の看護学校の 「倫理学」 の授業が始まってしまいました。
なんだかついこのあいだ相馬の看護学校の 「哲学」 の授業が終わったばかりな気がするのですが、
夏休みを満喫した覚えもないのに、もう後期の授業の始まりです。
第1回目の授業では、皆さんに 「倫理学の先生に聞きたいこと」 を出してもらい、
授業内でその代表質問にお答えしました。
今年は郡山の看護学校も男子が少なかったので、
女子が多いクラスではそういう傾向があるのですが、
変わった質問が多かったように思います。
白河の看護学校は例年のことですが人生相談が多かったように思います。
ちゃんと倫理学とは何かについて聞いてくれた質問があまりなかったので、
十分に倫理学入門をしていただけたかどうか不安ですが、
まあ、それはそれで質疑応答を楽しんでいただけたようでよかったです。

代表質問に選ばれなかった質問に対しては、こちらのブログでお答えしていくつもりです。
ただし、皆さんからいただいた質問の多くは先輩たちも聞いてくれていたので、
すでにこのブログのなかに書いてあります。
ですのでよくある質問に関して、まずは過去ログを参照していただければと思います。
どこを見たらいいか、インデックスというか目次的なものを作っておきますので、
こちらからあちこちへ飛んでみてください。
そして、インデックスもすでに何度も作ったことがありますので、
まずは下記のインデックスを順番に見てみてください。
そのなかに自分の質問と同じか似たものが見つかるはずです。
もちろん自分がした質問でなくても興味があったらぜひ読んでみてください。
なお、私にとって 「倫理学」 と 「哲学」 は同義語ですので、
「哲学」 と書いてあるところは全部 「倫理学」 に置き換え可能ですので、
そのつもりで読みたい記事を探してみてください。
(哲学と倫理学の関係についてはこちらをご覧ください。)

以前のインデックス
  「倫理学の先生に聞きたいこと (インデックス版)」
  「哲学の先生に聞きたいこと (インデックス版2012)」
  「看護学校教員養成講座・インデックス2012」
  「倫理学FAQインデックス (2012年白河編)」
  「哲学FAQインデックス (2014年相馬編)」
  「看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2014年版)」
  「哲学FAQインデックス (2015年相馬編)」
  「看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2015年版)」
  「看護学校 「哲学」 FAQインデックス (2016年版)」
  「看護教員養成講座インデックス2016」

あと次の記事もタイトルではわかりにくいですが、インデックスになっています。

  「Q.人生相談や恋愛相談を哲学の先生にしたらどうなりますか?」

さて、自分の質問と同じもの、似ているものは見つかったでしょうか?
これらのインデックスに載っていなくてすでに書いたことのあるものや、
載ってはいるけれど問い方が違っているから見つけにくいと思われるものは以下です。

Q.文章能力がないのですがどうすればよいですか?
  「Q.どうすれば文章をたくさん書けるようになりますか?」
  「Q.文章力を身につけるためにはどうしたらいいですか?」

Q.何かツライことがあった時はどうやって乗り越えていますか?
Q.物事がうまくいかなかった時の対処法は?
  「Q.もしどうしようもなく落ち込んだらどうしますか?」

こんなところでしょうか。
インデックスももう相当作ってきましたから、
たいがいの質問にはどれかのインデックスから行き着けるはずです。
今度お返しするワークシートの質問のところに 「ブログ参照」 と書いてあったら、
以上のどこかを見れば答えが載っているはずです。
代表質問として取り上げられたものは 「スミ」 と記しておきました。
解答済みという意味です。
代表質問にはならず、ブログ上ですでに答えてもいない質問に対しては、
「そのうちブログに書くかも」 と書いておきました。
そのうちブログに書くかもしれませんのでときどきチェックしてみてください。
読んだらコメントも書いていただけるとうれしいです。
とはいえ答えにくい質問もたくさんあったので、
授業期間中にお答えできなかった場合はご容赦ください。
それではこれから2ヶ月間、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

てつがくカフェ@あいづも始動だあっ!

2016-09-02 17:18:15 | 哲学・倫理学ファック
昨日、「びえもカフェふくしま」 が始まることについてお知らせしたわけですが、

その記事を書くために、「てつがくカフェ@あいづ」 についての記事を参照しようとしたら、

自分のブログのなかを検索してみたところ、

このブログではまだ 「てつがくカフェ@あいづ」 のことを書いていなかったことに、

第1回開催の8日前という今ごろになってようやく気がつきました。

もうとっくにお伝えしたつもりになっていたんだけどなあ。

「てつがくカフェ@ふくしま」 のブログや Facebook のほうでは書きまくっていたので、

それで書いたつもりになっていたのでしょう。

いかんいかん。

8月にぢゅんちゃんと会津まで行って世話人候補 (当時) の皆さんと打ち合わせをしてきたのですが、

そのこともお伝えしていなかったようです。

もとはと言うと 「てつがくカフェ@ふくしま」 の参加者の方で、

会津三島町の 「つるの湯」 という温泉に併設されたカフェで働いていらっしゃる小松さんが、

自分のカフェで哲学カフェをやってみたいんだけどとご提案してくださったのが事の始まりでした。

「つるの湯」 というのは昨年、金山町の川口高校で講演をしたときに入浴してきた温泉です。

雄大な只見川沿いの露天風呂が素敵な温泉でした。

あの時は近づきませんでしたが、すぐ隣にオシャレなログハウスがあることも気づいていました。

あそこがカフェだったとは

しかも、そこの店長さんから哲学カフェをやりたいと言ってもらえるとは

何と言っても哲学カフェをやるのに毎回一番苦心するのが会場探しなわけですから、

こちらとしては願ったりかなったりということで、

一も二もなくそれは是非やりましょうと話はトントン拍子で進んでいきました。

さらに好都合なことに、今はちょうど 「てつカフェ」 の常連さんで会津在住の方が何人かおられます。

第1回のミーティングの前には何も言いませんでしたが、

カフェ店長の小松さんと、お2人の常連さんに世話人をお願いしてしまおうと、

あらかじめぼくとぢゅんちゃんは心に決めてそのミーティングに臨みました。

そのカフェは 「つるのIORIカフェ」 と言います。



緑に囲まれたログハウスの中には大小の木のテーブルがあって、とてもいい感じです。

驚いたことに、そのカフェでミーティングをしていたら、

たまたま会津旅行に来ていた福大の数学のK先生がご夫妻でお茶を飲みにいらっしゃいました。

何かのスタンプラリーでこちらのお店もリストに上がっていたので立ち寄られたそうです。

そんな奇遇もあるもんなんだと驚くと同時に、人が集まりやすい場所なんだなということも感じました。

話し合いでは当然のことながら、まさか世話人にさせられると思っていなかったお三方は、

私たちの提案にけっこう尻込みされていましたが、

ぢゅんちゃんと2人で何だかんだと言いくるめて、最終的には御快諾 (?) いただきました。

というわけでめでたく 「てつがくカフェ@あいづ」 が創設されることになりました

その場で第1回の日程も決め、ブログも開設してしまって、後戻りできないように退路を塞ぎました。

その第1回がいよいよ来週末、9月10日 (土) の15時から開催されます。

テーマはまずは話しやすそうなところからということで、「友だち」 を取り上げることにしました。

題して、「友だち、いる?」 です。

いろいろな候補の中から最初は友だちを取り上げようというところまではみんなで決めましたが、

具体的にどういう問いを立てるかということに関しては (これが一番大切です)、

筆頭世話人の小松さんがいい問いを思いついてくださいました。

この問いはダブルミーニングで、「友だち、居る?」(あなたには友だちが居ますか) という意味と、

「友だち、要る?」(あなたは友だちが必要ですか) という2つの意味が重ね合わされています。

友だちが居るのが当たり前だし、人間は友だちを必要とするものだという、

世間一般の常識、当たり前に真っ向から疑義を唱えています。

その問いに会津の皆さんがどのような答えを出すのか、当日の対話の行方を見守りたいと思います。

三島町での開催ということで 「@ふくしま」 に比べて1時間早いスタートです。

はるばる会津までいらっしゃる方のための配慮です。

では 「@ふくしま」 でやっていたような二次会はやらないのか?

いえいえそんなことはありません。

むしろ福島組は泊りがけ覚悟で徹底的にやります。

18時からそのまま 「つるのIORIカフェ」 で反省会を開催します。

いつもより1時間早くてつカフェが開催されて17時には終わってしまうのに、

反省会が始まる18時までなんで1時間も時間が空くんだ?

それは、小松さんが反省会の準備をしてくださるわけですが、

小松さんも17時までてつカフェに参加されているので、反省会の準備に時間が必要だからです。

で、私たちはというと、その空き時間のあいだに、

「つるの湯」 でひとっ風呂浴びてこられるというわけなのです。

そして、汗を流したところで反省会が始まり、そのまま 「つるの湯」 の湯治施設に宿泊できるのです。

どうです、完璧なタイムスケジュールではありませんか。

もう、てつカフェ、湯治、反省会、宿泊と流れるような一連のシークエンスです。

いや、もちろんてつカフェがメインですから、すべてのシークエンスに付き合う必要はなく、

「つるのIORIカフェ」 での哲学対話にのみ参加していただければいいのですが、

せっかく会津まで足を伸ばしたのだからとことん楽しみたいという方には、

ぜひこの機会に最後までお付き合いいただければと思います。

はたして会津での初めての哲学カフェにどれくらいの方々が集まってくださるのか、

そしてそこでどんな哲学的対話が繰り広げられるのか、今から楽しみです

皆さま、お気軽にご参加くださいませ

びえも死生学カフェ@ふくしま始動!

2016-09-01 15:21:13 | 哲学・倫理学ファック
今年の5月に静岡で 「死生学カフェ」 というものを視察してきましたが、

あれから半年の時を経て、11月より福島でも死生学カフェを始めることになりました。

代表を務めるのは、福島市内で介護職員をされており、

「てつがくカフェ@ふくしま」 の常連のおひとりでもある吉川瞳さん。

静岡の死生学カフェのことを知るやものすごく興味を示され、一緒に視察に行き、

私以上に熱心にスタッフの皆さんから聴き取りをし、福島での実現に向けて教えを乞うていました。

そうしたら、なんとこのたび 「グリーフケア・アドバイザー」 の資格まで取得されてしまいました。

静岡の皆さんから、その資格を持っている人がいたほうがいいとの助言をいただいていましたが、

まさかこの短期間のあいだに本当に資格を取ってしまうとは

てつカフェのお色気担当とかてつカフェの壇密と自称していたのとは打って変わった真面目さです。

私としては 「てつがくカフェ@ふくしま」 のなかの一形態として、

「本 de てつがくカフェ」 や 「シネマ de てつがくカフェ」 みたいな形で、

「死生学カフェ@ふくしま」 が新たに付け加わるという方向性を考えていましたが、

ご本人からの要望もあり、「てつがくカフェ@ふくしま」 とは別組織として立ち上がることになりました。

その名も 「びえもカフェふくしま」 です

いやたしかに私も 「死生学カフェ」 という名称はちょっと重たいなあとは感じていたんです。

静岡のほうはもともと 「タナトロジー研究会」 を主宰しておられた竹之内裕文さんが始めたので、

「死に関する学問」 を意味する 「タナトロジー」 を日本語にする際に、

死だけではなく生という語も入れて 「死生学」 と訳したというのはいい訳語だと思いますが、

それでもやはりカフェで一般市民が語り合うのに 「死生学」 だと、

「死」 とか 「学」 という漢字がまだまだ重たい印象を与えるなあと思っていました。

ただそれに代わるいい言葉を思いつかないでいたところ、吉川さんがスマホで調べまくって、

「生と死」 はフランス語で 「vie et mort」、それを音だけ聞くと 「びえも」 になるということで、

「びえもカフェ」 という名称を思いついてくれました。

可愛らしい名前で私は一発で気に入りました。

生と死という重たいテーマを軽やかに語り合っていきたいという私の願いにぴったりです。

はたして皆さまはどうお感じでしょうか?

第1回の日程も決定し、昨日からブログ (「びえもカフェふくしま」) も開設されました。

ブログのプロフィール欄にはこんな写真が使われています。



とても象徴的な写真です。

ふだん意識しないけれど、常に生にぴったりと影のように寄り添っているのが死です。

時に死に思いを致すことで生を見つめ直してみませんか。

第1回は11月19日 (土) の開催です。

皆さまのご参加を心よりお待ち申し上げます。