まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

講演会 「デンマーク民主主義と 『啓蒙』 思想」

2014-02-28 16:18:22 | グローバル・エシックス
今度の月曜日に福島大学で講演会が開催されます。

教育学のT先生や音楽のS先生たちが、

科研費でデンマークの教育・若者支援について研究しているのですが、

その一環として名古屋大学の小池直人先生を招くのだそうです。

小池氏は教育プロパーというよりは思想史の専門家らしく、

講演会のタイトルも教育色はまったく感じさせません。

デンマーク思想や北欧の社会についてずっと研究しておられ、

その立場から日本社会への痛切な批判もされている方だそうです。

デンマークの思想ってまったくノーマークでしたから、ちょっと面白そうです。

ぜひお聞きしてみたいと思います。


小池直人先生講演会

「デンマーク民主主義と 『啓蒙』 思想」

2014年3月3日 (月) 15時~17時半

福島大学人間は発達文化学類棟315



どなたでも参加可能ですが、資料準備の都合上、参加希望者はあらかじめ連絡をお願いいたします。

連絡先 : tani@educ.fukushima-u.ac.jp

小学校の先生の勝ち組/負け組

2014-02-27 14:01:42 | お仕事のオキテ
このあいだ勝ち組/負け組の話をしましたが、

そういえば年末に卒業生たちが来てくれたとき、

先生をやってる人が小学校の先生にも勝ち組/負け組があるって話をしてくれました。

小学校って1年から6年まであって、先生というのはある学年の担任になったら、

そのままその代の生徒たちが卒業するまで持ち上がり、

卒業させたらまた1年生に戻るというシステムになっているのかと思っていました。

でも実際はそうではないらしいんですね。

1、2年生ばかりを担当している先生と、5、6年生ばかりを持たされる先生とがいるらしいです。

今の言い方でもうおわかりかと思いますが、前者が勝ち組で、後者が負け組となります。

やはり小さいうちはただ可愛いだけですむらしいのですが、

だんだん高学年になってくるといろいろと問題も起きてくるし、

進学その他いろいろと面倒なこともあるし、

事務量が低学年とは比べものにならないくらいたくさんあるんだそうです。

それを均等に負担してみんなが1年から6年まで持てばいいのにと私なんかは思うのですが、

なんだかんだと理由をつけて低学年ばかりを持とうとする人がいるらしいのです。

ベテランの人がそういうことを言い出すとけっきょく譲ってあげざるをえず、

そのしわ寄せで高学年ばかり持たされる負け組の人が出てくるのだそうです。

うちの卒業生は当然のことながら負け組でした。

倫理学なんか学んじゃったから仕方ないですよね。

学校のため、子どもたちのために自分にできることを精一杯やってください。

平成25年度福島大学音楽科 「卒業・修了記念演奏会」

2014-02-26 14:25:17 | 人間文化論
先日の美術の人たちの 「卒業制作展覧会」 ならびに 「IN展」 は奇跡的に見ることができました。

22日に研究発表をしなければならず、その準備でひどく追い込まれており

20日から21日にかけて大学に泊まり込んで徹夜で何とかと思っていたわけですが、

全然はかどらずにほとんど転た寝していた感じでした。

これはもう1泊することになりそうだな、

徹夜明けでそのまま発表に行くのはツライなあと思っていたところ、

21日の朝になってやっとはかどりネコさんがやって来てくれて、

その日は教員会議やらなにやら他の仕事もいろいろ入っていたのですが、

それらの合間を縫って一気に完成させることができました。

プリントの印刷やら丁合まで全部終わらせ、

終電の1本前の電車で帰り、たっぷりと睡眠を取って翌朝は清々しく目覚めました。

お、これなら楽勝だと思いながら、県文化センターに開館と同時に入館し、

「IN展」 と 「卒業制作展覧会」 を一気に見て回り、

それから発表会場である法政大学に向かったのです。

まさか発表当日にこんなに余裕ができるとは思っていませんでした。

特に 「IN展」 は23日まででしたからゼッタイに見に行けないと諦めていたのに…。

最後の最後にやっとやって来てくれたネコさんに感謝です。

さて、発表も終わり気分も晴れ晴れしたところで、今度の週末は 「卒業・修了記念演奏会」 です。



残念ながらこの週末も東京のためこちらは行けません。

皆さん、私に代わって卒業生・修了生たちの成長を見届けて (聴き届けて?) あげてください。

全人類必読書 『友だち幻想』!

2014-02-25 19:34:09 | グローバル・エシックス


ちょっとものすごい本に出会ってしまいました。
菅野仁 『友だち幻想 人と人の 〈つながり〉 を考える(ちくまプリマー新書、2008年) です。
この本を読みながらずーっと思っていたことは 「お前はオレかっ?」 でした。
著者の菅野仁さんってまったく存じあげない方で、
今回初めてたまたま Book Off で新書のタイトルに惹かれて買って読んでみただけなのですが、
どのページも私がふだん学生たちに伝えようとしていること、いつか自分で書きたかったことばかりで、
しかもそれがとてもわかりやすい (たぶん中学生でもわかる) 日本語で書かれていて、
私のこのブログが目指しているところをはるかに高い水準で凌駕しているような本なのです。
この方は社会学を専攻した社会学者のようですが、倫理学者だと言われてもまったく驚きません。
本の内容は社会学というよりはよっぽど倫理学のほうに近いと言っていいでしょう。
この本の副題 「人と人の 〈つながり〉 を考える」 ってまさに倫理学のことじゃないですか。
はっきり言ってもう 「悔しい!」 の一言です。
なぜこの本の著者が私ではないんでしょう。
こんな本を書きたかったのです、私はっ!

「はじめに」 には本書の狙いが次のように書かれていました。

「身近な人との親しいつながりが大事だと思っていて、
 そのことに神経がすり減るぐらい気を遣っている。
 なのにうまくいかないのは、なぜなのでしょうか。
 友だちが大切、でも友だちとの関係を重苦しく感じてしまう。
 そうした矛盾した意識をつい持ってしまうことはありませんか。
 こうした問題を解きほぐして考え直すためには、
 じつは、これまで当たり前だと思っていた 『人と人とのつながり』 の常識を、
 根本から見直してみる必要があるのではないかと私は思うのです。
 タイトルに 『友だち幻想』 とつけたのもそのためです。
 知らず知らずのうちに、私たちはさまざまな人間関係の幻想にとらわれているのではないか。
 固定した思い込みにとらわれているために、ちょっと見当はずれな方向に気をつかいすぎて、
 それで傷ついたり途方に暮れたりしているのではないでしょうか。
 だから、今まで無条件にプラスの方向、無条件に良いものと考えられてきた
 『身近な人とのつながり』 や 『親しさ』 のあり方について、
 ここであらためて腑分けをして、きちんと考えてみようと思うのです。
 この本は、身近な人たちとのつながりを見つめなおし、
 現代社会に求められる 『親しさ』 とはどのようなものであるかを捉えなおすための、
 『見取り図』 を描こうとしたものです。」

これまで当たり前だと思っていた常識を根本から考え直してみる、
というのは私が常日頃から哲学や倫理学の特徴として挙げていることです。
そして、この本はただ常識を疑って終わりではなく、
そこから新しく物事を捉えなおすためのとてもすっきりした 「見取り図」 を与えてくれます。
たぶんどのページにも新しい発見があるでしょう。
すべてのページに警句名言が満ちあふれています。

そのすべてをご紹介することはできませんが、
まず最初のほうで 「幸福」 とは何か、幸福にとって本質的な核の部分は何かという話が出てきます。
ね、もう 「まさおさまの幸福の倫理学」 みたいでしょ。
菅野氏によれば幸福の本質的な要素としては2つあって、
1つめが 「自己充実」、2つめが 「他者との交流」 だそうです。
2番目の 「他者との交流」 はさらに2つに分かれていて、
ひとつが 「交流そのものの歓び」、もうひとつが 「他者からの承認」 だそうです。
「自己充実」 は 「自己実現」 と言い換えることもできて、
「自分が能力を最大限発揮する場を得て、やりたいことができること」 です。
「交流そのものの歓び」 というのは、友だちとおしゃべりしたり恋人と一緒にいたり、
時間と空間を共有しているというつながりそのものが楽しい状態です。
「他者からの承認」 は何かを人から認めてもらえる歓びです。
なるほど、どれもたしかに幸福の基本的・本質的要素といえるかもしれません。

そしてここで出てきた 「他者」 という言葉がこの本の重要なキーワードになります。
「他者」 というのは自分以外のすべての人を指す言葉です。
著者によれば、どんなに身近な人、どんなに親しい人でも 「他者」 であって、
自分が知らない、自分とは違う性質 (=「異質性」) を持っているはずです。
どんなに気が合い心を許せる人間でも、やはり自分とは違う価値観や感じ方を持っている、
「異質性を持った他者」 なのであると捉えてみることを著者は薦めています。
私たちは親子だったり親友だったりすると、私は相手の気持ちを全部わかってあげている、
相手も自分の気持ちをすべてわかってくれるはずだ、というふうに思いがちですが、
異質性を前提に考え、相手を他者として意識することによって、
そこから本当の関係や親しさを築き上げていくことが大事だと著者は言います。
これは来年度に開講する 「倫理学概説」 のなかで私が一番伝えたいテーマです。
うーん、先を超されてしまったなあ。

ほかにも 「フィーリング共有関係」 と 「ルール関係」 の区別なども論じられています。
お互いに気持ちは一緒だよねということを前提するつきあいが 「フィーリング共有関係」、
他者と共存するためにお互いに最低限守らなければならないルールを基本に成立するのが、
「ルール関係」 です。
フィーリング共有関係を築き上げることができればそれはたしかに素晴らしいのですが、
例えば、クラスの全員とそんな関係を全部結ぶなんていうことは不可能です。
では、フィーリング共有関係になれなかったらそれはただちに敵となるのか。
そんなことはないはずです。
フィーリングを共有できない人たちとも適切な距離を保ち、
ルールを守ってお互いを傷つけ合わないようにしながら共存していけばいいのです。
これこそまさに 「倫理」 の原型です。
みんなが友だち、みんなが仲良しにならなくてもいいので、
最低限のルールを守って共存していく。
そのなかで本当に心を許しあえた人とだけフィーリング共有関係を築ければいいのです。
それができるのはたまたまの偶然でラッキーなことです。
学校に入学したらすぐに誰かとフィーリング共有関係を築かなきゃいけないわけではありません。
友だち100人なんてできっこないし、できなくていい、というのはとても大事なメッセージだと思います。

この本では友だち関係のことばかりでなく、親子関係のこととか、
教師と生徒の関係や恋愛関係についても語られています。
さらに最終章は 「言葉によって自分を作り変える」 というタイトルで、
「ムカツク」 とか 「うざい」 などのコミュニケーション阻害語を使わないようにすることで、
コミュニケーション能力を上げ、他者とのつきあい方を向上させていく方法が論じられていました。
友だちづきあいで苦しんでいる人、子どもの教育や親とのつきあいで困っている人、
将来教師になりたい人、恋人との関係に悩んでいる人、
そして、他者を全部排除しないと幸せになれないと勘違いしている政治家の人、
要するにすべての人類にとって必読の書だと思います。
一家に一冊常備して、家族全員で回し読みしていただきたいものです。
まさおさまがこんなに全力でオススメした本って今までなかったんじゃないかな。
ぜひみんな騙されたと思って読んでみてください。
ああ、それにしてもなぜこれを書いたのがぼくじゃないんだろう

大学教員の勝ち組/負け組

2014-02-24 22:45:00 | お仕事のオキテ
一昔前に 「勝ち組/負け組」 という言葉が流行りました。

2010年に書いたブログ記事のなかでその言葉を使ったことがあります。

その頃だったかもっと前から使っていたか記憶がないのですが、

私は大学教員にも勝ち組と負け組があるなあと思ってよくそういう言い方をしています。

ただし、私の使う 「勝ち組/負け組」 は通常の意味とはちょっとズレているかもしれません。

職場には大きく分けて2種類のタイプがいます。

仕事を任されるとちゃんとこなすことができて、そのおかげでさらに次の仕事が舞い込んでくる人。

その逆に、仕事を振られてもやろうとしないか、やってもうまくできなくて問題を起こし、

それゆえその後しだいに仕事を振られること自体がなくなっていく人。

フツーの職場だと前者のタイプはどんどん出世していき、

後者のタイプは閑職に追いやられるか、下手をするとリストラされてしまいますので、

前者が勝ち組、後者が負け組となります。

ところが大学という組織ではちょっと事情が変わってきます。

以前にちらっと書いたことがありますが、大学の教員には大きく分けて4つの仕事があります。

研究、教育、大学運営の雑務、地域貢献のための事業の4つです。

そしてこれも書いたことがありますが、大学の教員は大学教員になりたかったわけではなく、

ただ研究者になりたかっただけなので、

大学教員の4つの仕事のうち、研究だけはみんな好きですが、

残りの3つを積極的にやりたいと思っていたり、

それらを十分にこなせるだけの適性をもっている人はほとんど皆無なのです。

するとどうなるか。

けっきょくどんぐりの背比べなんですが、研究以外の3つの仕事に関しては、

特にやりたいわけではないけれど何とか最低限のことはこなせる人と、

そういうことをまったくやりたがらないしやってもできない人という2種類に分かれることになります。

前者の人にはあとからあとから仕事が舞い込んできます。

後者の人は仕事を振られること自体がなくなっていきます。

そして、大学の面白いところはこの2種類のタイプが平等に遇されるということです。

下手すると、後者のタイプのほうが研究に専念できますので、

業績を早く積むことができ早く出世できるということもありえます。

(その場合の出世とは早く教授になるというくらいで、

 学部長とか学長になれるのは前者のタイプだけですが…)

というわけで私は、仕事をこなせてどんどん仕事を任されてしまう人たちのことを 「負け組」 と、

仕事をしないし仕事ができなくて仕事を振られなくなる人たちのことを 「勝ち組」 と呼んでいます。

勝ち組の人たちは優雅です。

あちこちで問題が発生していてもまったく意に介することがありませんし、

誰になんと噂されようが気にも留めません。

負け組の人たちは人に迷惑をかけてはいけないという最低限の責任感をもっているので、

けっきょく勝ち組の人たちの尻拭いもすることになり、

ただでさえ忙しいのにさらに多忙化していきます。

かくして勝ち組と負け組の格差はどんどん開いていきます。

やはり負け組は生きていくのがツライので、できることなら勝ち組に入りたいものです。

いろいろとやらかしてしまうことの多い私は (あれこれや)、

完全に勝ち組に属しているだろうと思われるかもしれませんが、

意外とこう見えて負け組なんです (けっきょく相対評価にすぎませんから)。

さて、年度末が近づいてきてそろそろまた新学期からの委員会体制が発表される頃です。

この時期になると負け組の人たちの心の叫びがあちこちから聞こえてきます。

「早く勝ち組になりた~い!」

「授業公開&検討会」 FD報告書

2014-02-23 20:46:25 | 教育のエチカ
福島大学FD活動の一環として、前期に共通領域 「倫理学」 の授業を公開し、
検討会を開いていただきました。
そんな昔のこと、とっくの昔に記憶の彼方に追いやっていましたが、
年度末が近づいてきて、あのときの報告書を書くように要請されました。
(いや正確に言うと、公開した直後に依頼され、当初は前期中に、
 その後、年内にはぜひ、とお願いされながら、まったく意に介さずにいたところ、
 もう印刷に回さなきゃヤバイので2月中には絶対にくださいと泣きつかれたわけです。)
この事業が始まった頃は、授業を公開した本人に原稿を依頼するのではなく、
授業を参観した人に原稿を書いてもらうというような紳士協定があったはずなのですが、
10年のあいだにそのよき伝統は廃れてしまったようです。
せっかく授業を公開してくれた人にさらに報告書用の原稿というノルマを課すと、
ただでさえ公開してくれる人が少ないというのに、
よけいに引き受け手を減らしてしまうような気がするのですが、
それは委員会が配慮するべきことであって、
この件を依頼してきてくれた事務の方にはまったく責任はありませんので、
ゴタゴタ言わずに書くことにいたしました。
すでにこのブログ上でこの件に関して4本の記事を書いていましたので、
私が書くこと自体、それほど苦になるわけではありません。

共通領域 「倫理学」 授業公開 ・ 学生アンケート結果

先週の 「倫理学」 での講師の誤り

共通領域 「倫理学」 授業公開後の検討会

共通領域 「倫理学」 学生アンケート評価結果

むしろ問題はこれらのなかからどの部分を厳選してA4用紙2枚にまとめたらいいかということです。
やはりオーソドックスに3番目の記事を中心にまとめてみることにいたしました。
本日ちゃちゃっと原稿を作成し事務の方にメール送信したばかりですが、
FD報告書が刊行される前にこの場で大々的に公開してしまおうと思います。
どうせ刊行されても本学関係者だっていちいち目を通したりしないでしょうし、
著作権はどう考えても私にあると思われますので特に問題はないはずです。


第1回 「授業公開&検討会」
          
日 時  平成25年6月21日 (月) 2時限      
      10:20~11:50 授業公開 (M22教室)
11:50~12:30 検討会 (S24教室)
授業科目 「倫理学」
授業者  小野原雅夫 (人間発達文化学類)

授業者からの報告                              
1.授業の概要
 この科目は共生システム理工学類の樋口良之先生と2人で開講している授業です。前半は樋口先生が科学技術のテーマ (アポロ計画やマンハッタン計画、福島第一原発事故など) を取り上げて、そこにひそむ倫理学的問題を浮かび上がらせていきます。後半は私が脳死臓器移植の問題についてその事実問題 (概念定義や歴史的経緯等) と価値問題 (よいか悪いか) をディープに語っていきます。「総合科目」 という位置づけではありませんが、きわめて文理融合的な内容になっていると自負している講義です。互いにできるかぎり相手の授業を参観するようにして、講義内容に関してばかりでなく授業スタイルに関しても摺り合わせをしながら授業運営をしています。

2.当日の授業の工夫点
 授業公開の当日は樋口先生からバトンタッチした最初の回でした。基本的には昔ながらのチョーク&トークのスタイルで、目新しい工夫は何もしていません。ただ、前半の樋口先生が毎回A4裏表印刷の資料を配付されていたので、私もそれに倣って資料を作成し配付しました。そのおかげで以前より板書が少なくてすみ、事実的な問題はプリントに、そこから浮かび上がってくる倫理学的問題は板書にというような仕分けができたように感じました。もうひとつは毎回の平常点管理のためにミニットペーパーを取り入れているのですが、授業を終えてから質問や感想を書いてもらうのではなく、授業の冒頭で問いを投げかけ全員に記入してもらいました。まず問1 「あなたは脳死臓器移植をよいことだと思いますか、悪いことだと思いますか。その理由も書いてください」。これをけっこう時間を取ってみんなに書いてもらった後で、続いて問2 「脳死とはどのようなものかを説明してください。植物状態とはどう違うと思いますか」。問1はよいか悪いかという価値判断を問うています。学生たちはこれにはけっこうスラスラと答えてくれます。ところがこの価値判断を下す前にきちんと確定しておくべき 「脳死とは何か」 という事実に関わる問いを出されると、みんな答えに窮して固まってしまいます。つまり、みんな脳死とは何かをよく知らないまま、脳死臓器移植がよいか悪いかという価値判断を下してしまっている、ということを実感してもらうための意地悪な質問だったわけです。

3.検討会での質疑応答
授業参観してくださった先生方は9名、検討会に来てくださった方は6名でした。検討会では、やはり私が授業の最初に投げかけた発問に対して感想や意見が集中しました。最初に書かせることによって授業に引き込むことができていた、いきなりの問いかけによって価値判断と事実判断の問題がクリアに浮かび上がってきた、といった点を評価していただけたのはありがたいことです。あらかじめ学生に予備的な質問を投げかけ、それについて考えさせておくことによって、学生の興味・関心を喚起し、その後のこちらからの説明に集中し、より深く理解できるよう準備を整わせておくための方法論です。これは講義の最後に書かせる感想や質問とはまったく機能の異なるものです。特に今回は価値判断を書かせた後に事実判断を書かせて相手の意表を衝くという、ちょっと意地悪な出題の仕方をしましたので、よけいにインパクトはあったでしょう。先生方からも 「自分もまんまと引っかかってしまった」 と恨み言が聞かれました。この手法に対して、学生がすでに持っている知識やイメージや感覚を前提として出発し、それを認識へと高めていくという授業のつくりになっていると分析してくれた方もいらっしゃいました。
また、自分の授業でも発問は取り入れているが、個人作業の時間をあんなに取っていないかも、と指摘してくれた方もいらっしゃいました。それに関連して、書く時間を指定していなかったがそれはなぜか? という質問もいただきました。彼らがどれくらい書く時間が必要か読み切れなかったし、ひとりひとり書くスピードが違うということもあってあらかじめ時間を指定しなかったのですが、授業マネジメントという意味でも、書く側の心づもりという点でも時間指定は必要かもしれないと気づかせていただきました。
内職している学生がいないのは何か工夫をしているのか? という質問もいただきました。これに関しては、最初に問いを提示しミニットペーパーに書かせたことによって、授業への集中度を高めることができたのかなとも思いますが、それ以外にも板書をさせるなど学生に作業させる時間をところどころ取り入れるのは、講義に集中させるのにいい方法なのかもしれません。学生の様子を観察していた方からは、それまで寝ていた学生が、板書が始まったところで急に起きてノートに書き始めていたということも教えていただきました。
全体的には、何も授業していないうちのいきなりの問いかけから始まって、盛り上がり部分 (「和田移植」のところ) が明確に設定されているところなど、授業の組み立てに対して皆さまから高い評価をいただくことができました。個人作業時間をどうコントロールしたらいいのかといった今後に向けての課題も明らかになりましたし、私としてはたいへん貴重な時間となりました。お忙しいなか授業を参観してくださったり検討会に参加してくださった先生方に感謝申し上げます。

2月22日といえば

2014-02-22 14:27:30 | グローバル・エシックス
2月22日といえば私にとっては妹の誕生日です。

家族の誕生日とか覚えてる人間じゃないんですが、

2並びですからさすがに家族愛の薄い私でも覚えられました。

覚えているからといって特に何もしたことはありませんが…。

たぶん今日で50歳になったんじゃないかなあ。

彼女が50なんてなんか笑えます。

とまあ私にとっては半世紀間ずっと2月22日は妹の誕生日だったわけですが、

結婚してからは2月22日はお父さんの誕生日にもなりました。

義父 (と書いて 「ちち」) の誕生日も2月22日だったのです。

家族 (妻方も含めて) の誕生日がかぶることってそうそうないですよね。

それがまた一番覚えやすい2並びの日だなんて。

義父の誕生日も忘れられなくなりましたが、もちろんだからといって何ひとつするわけではありません。

今日2月22日は法政大学の牧野ゼミでの発表の日です。

このところずっと追い込まれていたのはそのせいです。

これからボコボコにされてきます。

先ほど東京駅に着いたのですが、キオスクで新聞の見出しがチラッと見えました。

韓国マスコミが激昂してるというような見出しです。

最初は女子フィギュアスケートの採点問題のことかと思いました。

そうしたらそうではなくて2月22日は島根県が条例で定めた 「竹島の日」 で、

それに対して韓国マスコミが猛反発しているというような話のようです。

(新聞は買わなかったので詳しくはわかりませんが…)

なるほど、そんな日があったんですか、「竹島の日」 ね。

そんな日があるなんて知りませんでした。

調べてみると、2005年から2月22日は 「竹島の日」 になったんだそうです。

なんだ、つい最近の話ですね。

私が知らなくてもしかたないな。

いくらなんでも歴史が浅すぎる。

やはりまだ当分のあいだ私にとっては2月22日といえば妹の誕生日であり、

義父の誕生日であり続けるでしょう。

ただ2並びで覚えやすいから来年のこの日に 「竹島の日」 のことを思い出せるかどうか、

楽しみにしていたいと思います。

羽生ショタブーム

2014-02-21 08:16:11 | 性愛の倫理学
連日追い込まれていますのでソチオリンピックとかほとんど見ていませんが、
パソコンを立ち上げると毎日いろんなドラマが起きているんだなということは何となく伝わってきます。
先日は男子フィギュアスケートで羽生結弦選手が金メダルを取ったそうですね。
ショートプログラムで初めて100点を超えたとか、
何のことか意味わからないながらになんかすごそうだぞという気配だけは感じておりました。
本当におめでとうございます。
そんななかこんなニュースを目にしました。

「空前の “羽生ショタブーム” で写真集は争奪戦」(東スポWeb 2月18日(火)16時16分配信)

「ショタ」 というタームに敏感に反応してしまいました。
これは 「ショタコン」 の 「ショタ」 ですね。
ショタコンという言葉、私はつい最近まで知りませんでした。
ある知り合いが昨年お酒の席で 「自分はショタコンである」 と自己開示してくださり、
それで初めてその言葉を知ることになりました。
その言葉の由来も含めて、記事から少しだけ引用しておきましょう。

「ソチ五輪フィギュアスケート男子で金メダルを獲得した羽生結弦 (19=ANA) の争奪戦が過熱しそうだ。焦点は写真集の版権。同競技で男子初の金メダルに日本中が沸き返ったが、なかでも女性人気が圧倒的に高い。本人の凱旋を前に 「羽生くんの写真集あったら絶対買うわ」 「羽生くんのおかげでショタに目覚めそう」 と後世に残る “羽生ショタコン” ブームとなりそうだ。
(中略)
 ツイッターでは、羽生に心を奪われてしまった女性たちのつぶやきが数多く、投稿されている。「どんだけ羽生くんかわいいんだ」 と画像を投稿したり、「羽生くんの萌え顔とか胸きゅん」 とツイートしたりと、盛り上がりまくっている。幼いころにテレビ出演したときの映像や 「くまのプーさん」 がお気に入りという点に女性たちの “ショタコン心” に火がついたようだ。
 ショタコンとはロリコンとは異なり、幼い男子に心引かれること、またはそのような人を指す。語源は 「鉄人28号」 の主人公・金田正太郎から取られた 「ショウタロー・コンプレックス」。羽生をめぐっては 「羽生くんショタかわいい」 「少しショタが抜けてないところがいい」 と女性たちが大騒ぎ。「写真集を出すべき」 との声が高まるのも必然だった。」

ちょっと画像を見てみましょう。



たしかに、今どきの19歳男子とは思えないくらいの童顔ぶりです。
世の女性たちの熱狂もわからないではない気もいたします。
ただ、先述の私の知り合いは自他ともに認める真性のショタコンで、
この程度の童顔にだまされるようなぽっと出のショタコンとはわけがちがいます。
その方によると、男の子の老いはくるぶしに真っ先に現れるそうなのです。
私なんかにはもうまったく理解不能な世界です。
そう言われて自分のくるぶしをじっと見入ってみましたが、
くるぶしに年齢が現れるっていってもなあ、どこがどう違うんだろうという感想しか浮かびません。
たぶんその方にしかわからない萌えのポイントがくるぶしにはあるのでしょう。
その真性のショタコンの方にとって羽生結弦選手はどう映っているんだろうと気になって、
こんな質問のメールを送ってみました。

「全然どうでもいい話ですが、ネット上のどこかで、
 先日の金メダリスト羽生結弦氏について
 「ショタコンにはたまらない」 という評を見かけました。
 ○○さん的には羽生結弦君はどうなんでしょう?
 19歳というのはモノホンのショタコンにとってはやはり圏外ですか?」

それに対してすぐにこんなメールが返ってきました。

「あの体の線の細さがたまりません>羽生君
 これから首が太くなって足首が太くなって
 関節から大人になるんだなぁと、花火のような
 短命の20歳以下の線の細さを眺めております。
 ただ、本当に16歳の所謂 「少年」 のラインとは違うんですね。
 なので、本物のショタコンとしては
 どちらかというと羽生君は東北高校時代のVTRの方がストライクです。
 以上、率直な感想でした!」

やっぱモノホンは違いますね。
関節のラインなんだな、チェックポイントは。
そしてもうすでに高校時代まで押さえているんですね。
失われゆく美学。
浅田真央選手ももうすっかり大人の女性になってしまったし、
ショタコンやロリコンの人たちって常にアイドルの喪失に怯えてなきゃいけないから、
ショタコン、ロリコンとして生きていくのってけっこう大変なんだろうな。
2次元の世界に救いを求めたくなる気持ちが少しだけ理解できたのでした。

市井の人の名言 (恋愛・結婚編)

2014-02-20 18:14:49 | 性愛の倫理学
昨日は自己啓発系著述家・山崎拓巳氏の名言をお届けしましたが、

今日は市井の人の名言をご紹介いたします。

どれが誰の言葉とは言いませんが、すべて私の知り合い、

友人であったり行きつけのスナックの女性であったりから直接聞いた、心に残る言葉です。

今日はとりあえず恋愛・結婚編を。

その手の名言としてはこの 「性愛の倫理学」 のカテゴリーの第1回目の記事に昔の恋人の、

「恋は勝ち負け。惚れたほうの負け、惚れさせたほうの勝ち」 という台詞を載せたことがありました。

名言は有名人からのみ発せられるとは限らないのです。

ただ厄介なのは名言はたいていお酒の席で発せられることが多いということです。

ただでさえ記憶力に問題を抱えている私は、

アルコールが入ると極度に物忘れがひどくなってしまいます。

なので私は日ごろから 「書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと」 をモットーに、

何かあったらすぐに手帳やケータイに書き留めるよう心がけているわけですが、

以下は、そうやってメモっておいたなかからの掘り出し物です。


まずはこれ。

「恋愛は学習しない」

うーん、いいですねえ。

てつカフェ常連の皆さんには周知の名言ですが、あの方の恋愛観を凝縮した言葉です。

私なんかはいろいろと悲しい経験を重ねながら人は成長していくものだと信じていたのですが、

それを根底から突き崩すようなアンチ・テーゼです。

恋愛においては経験は積み重ならない、そして何度も何度も同じような過ちを繰り返してしまうという、

物悲しい人間の真理 (と心理) を衝いています。

私はまだこれには賛同しかねますが、たしかにこれに当てはまるケースはあちこちで見かけます。


続いてこれ。

「カネとオンナは追いかけたら逃げる」

これもインパクトあります。

冒頭にご紹介した 「恋は勝ち負け。惚れたほうの負け、惚れさせたほうの勝ち」 とも、

根底において通じるところのある真理です。

それを恋愛問題だけに限らず、経済的問題にも敷衍させているところに味があります。

私の場合、おカネを追いかけたことはほとんどありませんが、

一時期ほんの気の迷いでちょっと追いかけたことがあって、

そうしたらみごとに逃げていかれた経験がありますし、

女性関係のほうは言うまでもなくそんなことばかりですから、この名言とても心に沁みます


シメはこれ。

「夫婦は答えを今出す必要がない」

これは恋愛と結婚の違いを表した台詞です。

男女関係においてはいろいろな問題が突発的に、あるいは恒常的に発生してしまうものです。

特に結婚すると、恋愛時代とは違って、それまで予想もしなかったような問題が生じるものです。

そういうとき若いカップルの場合、性急に白黒つけようとしがちですが、

それを戒める成熟した大人の知恵がこれです。

結婚している場合は答えを急がなくていいのです。

恋愛は基本1対1の関係ですが、

夫婦の場合はそれぞれの家族がいるし、もう子どももいるかもしれません。

より複雑な関係だからこそ問題も生じてきてしまうのですが、

複雑なネットワークができあがっているおかげで2人がただちに直接対決しなくてもいいとも言えます。

いろいろな人に話を聞いてもらいながらちょっと時間を置いてじっくり相手と向き合えばいいのです。

時間が解決してくれる問題ってけっこうありますからね。

これは夫婦としての経験をある程度積んだ人にしか言えない奥深い言葉だと思います。

若くして結婚してあっという間に離婚していく芸能人カップルによく噛みしめてもらいたいものです。

それにしてもフツーの人たちがけっこういい言葉を残しているなあ。

お仕事の名言

2014-02-19 16:32:03 | お仕事のオキテ
今度の22日に大事な発表を控えているのですが、あいかわらずはかどりネコさんは来ません。

この期に及んで何をしておるのだ、と。

もう待ちくたびれてしまったぞ、と。

ネコが来ないからこうやってまた逃避をしているわけですが、

今日はお仕事の名言をご紹介します。

すでに追いつめられているのにいっこうに仕事がはかどらずにいるあなたに捧げます。

もともとは Facebook でこんなセリフが出回っていたんです。

「死ぬこと以外はかすりキズだ。」

これってなんか明石家さんまの名言 「人生、生きてるだけで丸儲け」 に通ずるところがあり、

なんとなくカッコいいなと思っていたんです。

そうしたらそのセリフの出所をある方が Facebook で紹介してくれていて、

それを見るとちょっと私が思っていたのとニュアンスが違っているようでした。

元ネタはこの本だそうです。



山崎拓巳著 『人生のプロジェクト』 です。

その書から取ったいくつかの名言がネット上で紹介されています。

「山崎拓巳の名言 第1集」

「山崎拓巳の名言 第2集」

どうやら、目標を定めそれに基づいて人生の段取りをしっかりと立てていこうという哲学らしいです。

「明日できることは今日やらない」 派の私とは真反対の人生哲学をお持ちのようですね。

ふだんだったらこういうのにはまったく耳を貸さないんですが、

こうやって追い込まれているときにはいやでも頭と心に染み込んできてしまいます。

例えば次のお話なんてやっぱりグッと来ちゃうよなあ。


二人の男がレンガを積んでいた。
「君たちは何をしているんだ?」
とたずねると、
一人は 「レンガを積んでいるんだ」
と答えた。
もう一人は 「教会を造っているんだ」
と答えた。
そして二人の未来は、
まったく違うものになった。


あるいは、こんなのも。


目の前の 「やるべきこと」 の山に
押しつぶされてはいけない。
時間内にできることは限られているし、
今できることは、
ひとつしかないのだから。


イテテテテテ。

さしづめ私なんかは 「やるべきこと」 の山に押しつぶされて、

ネコが来ないと言ってはレンガを積むことすらしないでいる人間なんだろうなあ。

フーム、段取りかあ。

師匠とかは段取りの神だよなあ。

ウーム…。

永遠平和への道・資料

2014-02-18 18:24:22 | カント倫理学ってヘンですか?
アーレントに続き、カントについても、
「社会思想入門」 のときに配ったレジュメ資料をアップしてきましたが、
その最終便となる第2回目講義のときの資料です。
この資料は 「戦争と平和の倫理学」 のカントの回に配っている資料とほとんど同じです。
「戦争と平和の倫理学」 では抵抗権の話にはまったく触れずに、
戦争と平和の話だけに限定して話しているのです。
わかりやすいという意味では 「社会思想入門」 のように2回分話したほうが、
いろんな意味でわかりやすくなるとは思うのですが、
「戦争と平和の倫理学」 は盛りだくさんな内容なのでどうしてもカントについて1回話すのが限度です。
自分の一番大好きな話を禁欲的に我慢している自分ってエライなあ。
ところで今回のこの資料、「戦争と平和の倫理学」 で配っているものとほとんど同じなのですが、
ほんのわずかに、でもものすごく根本的なところがちょっとだけ違っていたりします。
持っている人は比べてみてください。



         カント②「永遠平和への道」 資料

1.『永遠平和のために』目次

第1章「この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む」
 第1条項「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。」
 第2条項「独立しているいかなる国家 (小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない) も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。」
 第3条項「常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」
 第4条項「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。」
 第5条項「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。」
 第6条項「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる。」

第2章「この章は、国家間の永遠平和のための確定条項を含む」
 第1確定条項「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。」
 第2確定条項「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。」
 第3確定条項「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されねばならない。」

第1補説「永遠平和の保証について」
第2補説「永遠平和のための秘密条項」
付論1「永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について」
付論2「公法の超越論的概念による政治と道徳の一致について」

2.『永遠平和のために』『道徳形而上学』より

①戦争と平和
「戦争とは、自然状態において (この状態においては、法的な効力をそなえた判決を下す裁判所がない)、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段にすぎない。またこの状態においては、両国のいずれも不正の敵と宣告されることはありえないし (なぜなら、それはすでに裁判官による判決を前提とするから)、どちらの側が正義であるかを決定するのは、戦争の結果でしかない。」(『永遠平和のために』)

「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。なぜなら、その場合には、それは実はたんなる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである。平和とは一切の敵対行為が終わることで、永遠のという形容詞を平和につけるのは、かえって疑念を起こさせる語の重複とも言える。」(同上)

②永遠平和の実現手段としての国際連盟
「理性は道徳的に立法する最高権力の座から、紛争解決の手続きとしての戦争を断固として処罰し、これに対して平和の状態を直接の義務とするが、それでもこの平和状態は、諸国民の間の契約がなければ、樹立されることも、また保障されることもないのである。それゆえ、平和連合とでも名づけることができる特殊な連合が存在しなければならない。」(同上)

「国際法は自由な諸国家の連盟の上に基礎づけられるべきである。…これは国際連盟と言われるものであろうが、しかしながらこの連盟は決して諸民族合一国家であってはならないであろう。」(同上)

「このような平和を維持するための若干の諸国家の統一は、常設的な諸国家の会議と名づけられうるものであって、近隣の諸国家はいずれもこれに加入することを許されている。…だが会議というは、ここでは、ただ各種の諸国家の、任意の、いつでも解消しうる会合のことだけを意味しているのであって、(アメリカの諸州の統合のように) 国家的体制に基づき、それゆえ解消しえないような結合のことを意味しているのではない。―こういう会議によってのみ、諸民族の係争を民事的な仕方で、いわば訴訟によって解決し、(未開人たちの仕方にならって) 野蛮な仕方で、すなわち戦争によって解決したりしないという、諸民族の間に設定されるべき公法の理念は、実現されるのである。」(『道徳形而上学・法論』)

③世界帝国による平和実現の危険性
「国際法の理念は、それぞれ独立して隣り合う多くの国家が分離していることを前提とする。こうした状態は、(諸国家の連合的合一が、敵対行為の勃発を予防する、ということがない場合には) それ自体としてはすでに戦争状態であるが、しかしそれにもかかわらず、まさにこうした状態の方が、理性の理念によるかぎり、他を制圧して世界帝国を築こうとする一強大国によって諸国家が溶解してしまうよりも、ましなのである。どの国家 (あるいはその元首) も専制政治を望んでおり、こうした仕方でできれば全世界を支配し、それによって持続する平和状態に移行しようと望んでいる。しかし法は統治範囲が拡がるとともにますます重みを失い、魂のない専制政治は、善の萌芽を根だやしにしたあげく、最後には無政府状態に陥るのである。」(『永遠平和のために』)

④理念としての永遠平和
「個々の人間たちの間の自然状態と同様、諸民族の間の自然状態は、そこから脱出がなされて、ある法則的状態が結成されなくてはならない。それ以前には、諸民族の一切の権利ならびに一切の外的な所有権はまだ単に暫定的であり、したがってそれは、(一民族を国家たらしめる統一と類比的に) ただ一個の普遍的な諸国家の統一においてのみ、決定的に有効となって、ある真実の平和状態を現出することができるのである。だが、こういう諸民族合一国家が広い地域にわたってあまりにも拡大されると、その統治は、したがってまた各成員の保護もついには不可能とならざるをえず、かくしてそこに所属する一群の諸社団は再び戦争状態を惹起するのであるから、永遠平和はもちろん一個の実現不可能な理念である。だが、そういう目標をめざしていく政治的諸原則、すなわち、そういう目標への連続的な接近に役立つような諸国家の諸結合を形成するための政治的諸原則は、実現不可能ではなくて、そういう接近が人間たちと諸国家との義務に基づいて、したがってまたそれらの権利に基づいて設定された課題である限り、たしかに実現可能である。」(『道徳形而上学・法論』)
 
「普遍的にして永続的なかたちで平和を樹立することは、単なる理性の限界内における法論の一部分を成すのみならず、その全究極目的を成す、と言われうる。というのは、平和状態のみが、多数の相互に隣り合った人間たちにおいて、各自の所有権が諸法則の支配のもとに保証され、したがって彼らが相共に一つの憲政組織のうちにある状態だからである。…もしその実現が革命的に、ある飛躍によって、すなわち、これまで存立してきた不完全な憲政組織の暴力的な転覆によってではなく、…確固たる諸原則に基づく漸次的改革によって企てられ遂行されるならば、この理念は連続的接近というかたちで、政治的最高善へと、すなわち永遠平和へと導きうるのである。」(同上)

3.参考文献
〈カントの翻訳書〉
 ・『永遠平和のために』(宇都宮芳明訳、岩波文庫)
 ・理想社版『カント全集 第13巻』(『永遠平和のために』所収)
 ・岩波書店版『カント全集 第14巻』(同上)
 ・理想社版『カント全集 第11巻』(『道徳形而上学』=『人倫の形而上学』所収)
 ・岩波書店版『カント全集 第11巻』(同上)
〈カント社会思想の解説書・研究書〉
 ・日本カント協会『カントと現代』(晃洋書房)
 ・シセラ・ボク『戦争と平和 カント、クラウゼヴィッツと現代』(法政大学出版会)

カメムシの威力

2014-02-17 19:23:06 | 人間文化論
昨年の11月に 「カメムシ大発生」 という記事を書きました。

日本全国でカメムシが大量発生しており、そういう年は大雪になるという話です。

そんな話、初耳だったもので、その記事の最後は、

「本当にこの冬、大雪になるかどうか楽しみに結果を待ちたいと思います」 なんて、

今思えばノーテンキな台詞で締め括っておりました。

それがこれですよ。

2月の初めくらいまでは雪も少なくて、けっこう暖かい日が続くこともありましたから、

なんだよ、大ハズレじゃないかよと内心バカにしたりしていたんですが、

それがここに来て2週にわたって全国的にやられてしまいました。

山梨県なんかはもう被災といっていいレベルのようです。

一刻も早く復旧、救援の手が差し伸べられることを期待したいと思います。

そういう所に比べれば、私なんて笑い話ですむ程度の影響しか受けていませんが、

それでも2月8日は大阪に行くのに東海道新幹線が1時間半遅れましたし、

2月15日はてつがくカフェの参加者がたったの9人と、史上最低を記録してしまいました。

2月16日はビストロスズキさんが店にたどり着けないとのことで、

予定されていたワイン会が中止になりましたし、

本日2月17日は午前と午後に予定されていた会議やミーティングがすべてキャンセルになりました。

そして明日の2月18日には附属中学校に参観実習の付き添いで行く予定でしたが、

これも附属中学校が休校とのことで中止になってしまいました。

雪のせいでこんなに何日も生活に支障が出たのは福島に来て以来初めてです。

カメムシ恐るべしっ!

自然や自然にまつわる言い伝えを甘く見てはいけませんね。

皆さん、まだまだ予断を許しません。

くれぐれもお気をつけください。

卒業制作展覧会2014&IN展

2014-02-15 12:47:01 | 哲学・倫理学ファック


来週は福島大学人間発達文化学類スポーツ・芸術創造専攻の美術の4年生たちによる、

「卒業制作展覧会2014」 が開催されます。

ここ数年、開催が早まっていましたが、以前の開催時期に戻ったようです。

また、会場もアオウゼから福島県文化センターに戻りました。

震災によって長らく福島県文化センターは使用不可でしたが、

やっと震災の傷手から少しずつ回復しつつあるということでしょうか。

震災の年に入学してきた学年がどんな4年間を過ごし、どう成長してきたのか、

彼らの集大成としての卒業制作を楽しみにしたいと思います。


福島大学人間発達文化学類スポーツ・芸術創造専攻美術分野4学年

『卒業制作展覧会 2014』

2014年2月20日(木)~27日(木)

福島県文化センター 3階

10:00~19:00(最終日のみ16:30まで)

入場無料



そして、さらに。



時を同じくして大学院生たちによるIN展が開催されます。

例年のごとくIN展は開催期間が短いので気をつけないといけません。

こちらも福島県文化センターです。

4年生の卒業制作展覧会と併せて見に行くのがオススメです。


IN展

2/20 (木) ~ 23 (日)

10時~19時 (最終日のみ17時まで)

福島県文化センター2階 会議室兼展示場

入場無料

永遠平和への道 ―国際連合の理念と現実―

2014-02-14 09:42:42 | カント倫理学ってヘンですか?
「社会思想入門」 という授業で2回にわたってカントの話をしたときの2回目のレジュメです。
先日、1回目のレジュメ資料をアップしましたので、まだ未読の方はそちらを先にどうぞ。
カントのどこが好きって、理想の捉え方のところが一番好きなので、
前回の理想と現実の二元論の話、
そして今回の、現実と理想が食い違っているときにどうしたらいいかという話、
このへんの話は自分で書いた文章にもかかわらず、読んでるとテンション上がりまくるなあ。
この熱い思いが読者の皆さんにも伝わってくれるといいのですが…。


 カント②「永遠平和への道 ―国際連合の理念と現実―」

Ⅰ.カントの抵抗のしかた

 抵抗権・革命権を認めず、暴力的抵抗行為を否定して、平和的手段による漸次的改革を唱えたカントですが、果たしてそのような生ぬるい方法で現実を変えていくことができるのでしょうか。カントは「言論の自由こそは国民の権利を擁護する唯一の守護者である」(「理論と実践」) と主張したわけですが、その言論の自由すらをも許さずに、検閲などの方法によって思想統制しようとしてくる絶対主義権力が存在した場合に、カントは為す術を失ってしまうのでしょうか。
 じっさいカントは1794年に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世から直々に、「宗教・神学に関する著述や講義を今後一切行ってはならない」 という勅令を下されてしまいました。これは平穏だったカントの人生の中でも最も劇的な、そして最も危険な事件でした。
 当時のプロイセン政府はルター教会と結びついていました。フランス革命の勃発前から、フランスでの啓蒙主義運動の高まりに対抗するように検閲令や宗教勅令を発して、ドイツでの啓蒙思想の流行を抑えようと必死になっていました。これに対してカントは、理性宗教の立場を唱えて、特定の宗派 (啓示という歴史的事実に依拠する経験的宗教) を越えた普遍的な宗教的連帯の必要性を訴えていたのです。カント自身は啓示宗教を否定したり批判したつもりはなかったのですが、政府はこれを危険な思想とみなし、カントには厳しい禁令が下されました。当時の人々はカントにさらに重い処分 (禁書、解雇、投獄等) が下されるのではないかと心配していたようです。
 このような弾圧に直面してカントはどう対処したのでしょうか。カントはこのような状況下でも言論の力 (説得による理性的・平和的改革) を信じたのでした。翌1795年、カントは 『永遠平和のために』 を出版します。これが禁令後はじめてのカントの公的発言になったわけですが、その中身は徹頭徹尾、政治に対する哲学的提言 (理想主義的立場からする現実政治の批判) となっています。当時の政府が宗教的発言を禁じたのは、それが政治批判へとつながりかねないからでした。しかしカントはまさにその点を逆手にとって、自分が禁じられたのは宗教・神学に関する発言である、だからそれに関しては口をつぐみ、自分は法や政治を論じるのだ、と自己の行為を正当化しつつ、堂々と政治哲学書の刊行に及んだのです。たしかにこれは理屈上は合法的な行為でしたが、これを政府がどのように受け止めるかは明々白々でした。つまりこの出版行為そのものが、政府の蛮行に対するカントの抵抗だったと言えるのです。以下、『永遠平和のために』 の内容を見ていくことにしましょう。

Ⅱ.政治的最高善としての永遠平和

 カントは理想的国家のあり方ばかりでなく、国際的な平和秩序の構築についても思索をめぐらせました。この点がホッブズやロックと決定的に異なる点です。カントは 「いかなる戦争もあるべからず」 と断言した、世界史の中でも稀有な思想家の一人です。カントにとっては 「永遠平和」 が政治的な究極目的です。『永遠平和のために』 はそのような理想主義的な観点から政治のあるべき姿を論じた書物でした。
 この本の本論部分は2つの章から成っており、第1章は 「永遠平和のための予備条項」、第2章は 「永遠平和のための確定条項」 と題されていますが、これは当時の国際条約の形式を踏襲しています。第1章では、国家が行う個々の行為についてカントは注文をつけています。1つ1つ見てみると、そのどれもが、プロイセン政府のみならず、当時の諸国家が日常茶飯事のように行っていた政策を念頭に置いていることがわかります。裏切りや暴力的干渉をなくし、常備軍も撤廃していくべきだという主張は、当時だけでなく今日においてもひじょうにラディカルな考えだと言えるでしょう。かくして、たんなる一時的な休戦状態ではなく、まさに国同士の 「一切の敵対行為が終わる」 状態を作り出していくこと、それがカントの言う 「永遠平和」 という理想なのです。

Ⅲ.国際連盟の提唱

 ところでこの永遠平和という理想的な状態をどうやって実現したらよいのでしょうか。永遠平和を達成するためにカントが考えた方策が 「国際連盟」 の創設でした。第2章の第2条項でこの問題が詳しく論じられています。カント以前の平和思想においては、いずれかの国家やいずれかの宗教が全世界を平定し、国境や宗教の違いをなくすことによって平和な世界が樹立される、と考えられていました。カントはこのような世界帝国による強権的な上からの平和樹立という考え方に反対します。諸国家にはそれぞれの国民としてのまとまりがあり、その自由 (自律) が尊重されねばなりません。対等な国家どうしが永遠平和の樹立のために一堂に会して、様々な利害の対立を話し合いによって解決しようと努力する場、それがカントの言う国際連盟です。これをカントは 「平和会議」 とも言い換えています。永遠平和は、このような強制力をもたない会議の場でのねばり強い話し合いによって築かれていかなくてはならないのです。

Ⅳ.永遠平和への道のり

 このように強制力を持たない国際連盟を通じて永遠平和を樹立するなんて、とても無理な話のように聞こえるでしょう。カント自身もこれによってただちに永遠平和が実現されうるとは考えていません。しかしこれ以外の、力 (すなわち戦争) による方法では、原理的に平和を招来することはできないのですから、人類には他の選択肢はありえないのです。暴力の連鎖から脱却するためには、平和的手段によって平和を達成しようとしていく以外ないのです。とすると人間はこの課題を正面から引き受けて、どんなに遠い道のりであろうとも、どんな障害が現れようとも、ひるむことなくこの理念に向けて一歩一歩、歩みを進めて行くしかないでしょう。このようなユートピア実現に向けての無限に続く努力の過程、これがカントの歴史の考え方です。理想的な社会があっさり実現されるなどということはありえません。現実は常に何らかの欠陥を含んでいます。頭の中の純粋な理念に照らして現実を少しずつ改善していく長い長いプロセス、それが人類の歴史なのです。

第22回てつがくカフェ@ふくしま開催!

2014-02-13 17:33:51 | 哲学・倫理学ファック

いよいよ明後日は 「第22回てつがくカフェ@ふくしま」 です。

遅ればせながら当日用のポスターを作りました。

今回は初めて雪のイメージで作ってみました。

画像は肉とブロイラーと野菜、そして… (はたして皆さんわかるでしょうか?)。


ところで、てつカフェのブログではすでにお知らせしましたが、

朝日新聞の県内版で先日の 「シネマdeてつがくカフェ」 の様子を取り上げていただきました。

先々週、民友新聞にも取り上げていただいたばかりですが、

今回は参加してくださった高校生に焦点が当てられていて、

今までとはちょっと趣を異にする記事となっています。


(画像をクリックすると拡大されます)

しかも記事の最後には、明後日のてつカフェ開催予定と、

さらには来月の 「てつがくカフェ@ふくしま特別編4」 のことまで書いてあります。

これはものすごい宣伝ですね。

はたして明後日はどれくらい人が集まってしまうのでしょうか?

たぶんこのあいだの 「シネマdeてつがくカフェ」 で味をしめた方もいらっしゃるだろうし、

agato に入りきれるのかとかそういう取ってもいない狸の皮算用をしてしまう世話人たちでした。