このところ看護教員養成講座の受講生の方々に向けた投稿が続いてしまっていますが、
(一昨日、3日前、4日前)
本業 (「倫理学概説」) のほうでも質問は目白押しなのでした。
前回、制限つきの自由に関する質問にお答えしましたが、今回も制限つきの自由に関する質問です。
制限つきの自由のことをアイザイア・バーリンが 「消極的自由」 と名づけたことを紹介しましたが、
その消極的自由に関して何人かの方から質問をいただきました。
「消極的自由のみを自由というのではないかというアイザイア・バーリンの考え方が、いまいち理解できずにいた。」
「『自由を積極的自由と消極的自由に分けたが、無意味だから自由は消極的自由だけだ』 と著者は書いた、と先生は言ったが、アイザイア・バーリンはなぜ無意味なものだと判断したのか気になった。」
「アイザイア・バーリンの 『2つの自由概念』 についての疑問です。積極的自由と消極的自由の判断基準は何なのでしょうか。政治への自由が積極的自由に分類されるのはわかるのですが、残りの2つの自由についてはなんだかモヤモヤとします。」
バーリンの議論をきちんと説明せずに、ただ消極的自由という言葉だけを紹介してしまったので、
こうした疑問をもたれるのは当然の帰結ですね。
申しわけありませんでした。
この問題もきちんと説明しようとするとけっこう面倒くさくて、
バーリン自身はあの論文で何と言っているのか、
研究者のあいだではそれがどう理解されているのか等々、
正確を期そうとするとなかなか厄介な問題をはらんでいたりして、つい手抜きしてしまったのです。
まあ、あんまり学問的に厳密な話をしたいわけではないので、
とりあえずこのあいだの講義で話した3種類の自由の関係を理解してもらえる程度に、
補足説明を加えておきたいと思います。
バーリンは、各人がいかなる他人からの干渉も受けずに、自分のしたいことをし、
自分のありたいものであることを許されている状態を、消極的自由と呼びました。
この定義だけを見ると、誰からも何の束縛も制限も受けずに何でもありとあらゆることをしていい
「無制限的自由」 のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。
ここでバーリンが言っているのは、他人の自由を侵害しないかぎりでの制限つきの自由なのです。
(ちなみに 「無制限的自由」 とか 「制限つきの自由」 という語は、
みんなの自由に対する誤解を解くために私が勝手に命名したものなので一般的には通じません。)
バーリンはこのような自由を 「~からの自由」 とも言い換えています。
不当な干渉や強制からの自由ということですね。
(私は細心の注意を払って 「不当な」 という形容詞を付け足していることに注意してください。)
これに対して積極的自由とは、まるで自分が物や動物や奴隷であるかのように、
外的な自然や他人によって決定されるのではなく、
主体としてみずから決定を下し、自分自身の主人であることのできる自由です。
バーリンはこれを 「~への自由」 と言い換えています。
自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する人間らしい、理性的な自由です。
バーリンによる積極的自由の説明を読むと、
まず第一に、ルソーやカントの言う 「自律的自由」(=自己決定への自由) のことが思い浮かびます。
おそらくバーリン自身が念頭に置いていたのも自律的自由なんじゃないかなという気がしますが、
ただ、先の説明にも 「自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する」 という表現が含まれていて、
それは 「実質的自由」(=目標達成への自由) のことを指しているようにも聞こえます。
バーリンは消極的自由 (=干渉・強制からの自由) を論じるときに強制についてこう述べています。
「強制とは、することのできぬ状態のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。」
ここで、強制という語には馴染まず、したがって自由の欠如とは呼び得ないものとされているのは、
自らの能力では自分の目標に到達することができないという実質的自由のように思えます。
このようにバーリンの言う積極的自由は、
自律的自由のことを指しているようにも見えれば、
実質的自由のことを指しているようにも見えて、判然と区別できないわけです。
バーリンが2つを同一視していたのか、
区別はわかった上でひとまとめに論じようとしていただけなのか、に関しても不明です。
というわけなので、のちの人たちも消極的自由と積極的自由のことを説明しようとする際に、
積極的自由を自律的自由と解釈したり、実質的自由と解釈したりいろいろなのです。
例えば同じウィキペディアでもこちら↓では積極的自由=自律的自由と捉えて解説しており、
「自由論 (バーリン)」
こちら↓では積極的自由=実質的自由と捉えて解説してます。
「消極的自由」
ただまあ両方読んでいただければおわかりのとおり、
どちらの意味でとってもバーリンの言う消極的自由とは対立することになります。
つまり、どちらの意味であれ積極的自由というのは、ある種の干渉や強制を容認してしまいます。
自律的自由としての積極的自由の場合は、民主的に多数決によって理性的な決定が下されれば、
それを少数者に対して強制してよいことになります。
同性愛や夫婦別姓制度は 「正しい」 家族のあり方に反していると多数派の人間が判断したならば、
異性愛や夫婦同姓を少数派の人たちにも無理強いしてよいということになってしまい、
少数派の人たちの強制されたり干渉されたりしないという消極的自由が奪われてしまいます。
実質的自由としての積極的自由の場合、目標の達成が困難な人々を助けるためであれば、
国民全員から税金や保険金を強制的に徴収してよいということになります。
貧しい人を救うために裕福な人に対して累進課税を課したり、
重い病気をもつ人の医療費をまかなうために健康な国民全員に保険加入を課すなど、
国家権力による財産権への干渉 (消極的自由の侵害) が制度化されてしまいます。
バーリンはユダヤ人として、ナチズムやファシズム、スターリニズムなどの
全体主義的政治運動がもたらした歴史的悲劇を目撃してきました。
その彼からすると、自律的自由であれ実質的自由であれ積極的自由というのは、
国家権力の権限を強めてしまうことによって全体主義を後押しする危険性をはらんだものであって、
国家権力による干渉や強制を最小限にとどめようとする消極的自由こそが、
本来、自由と呼びうるものということになるのでした。
この程度の説明で納得いただけたでしょうか?
前回書いた、国家権力と自由 (人権) と憲法の三者の関係にも関わるような問題でした。
大事な問題ですのでぜひ復習しておいてください。
(一昨日、3日前、4日前)
本業 (「倫理学概説」) のほうでも質問は目白押しなのでした。
前回、制限つきの自由に関する質問にお答えしましたが、今回も制限つきの自由に関する質問です。
制限つきの自由のことをアイザイア・バーリンが 「消極的自由」 と名づけたことを紹介しましたが、
その消極的自由に関して何人かの方から質問をいただきました。
「消極的自由のみを自由というのではないかというアイザイア・バーリンの考え方が、いまいち理解できずにいた。」
「『自由を積極的自由と消極的自由に分けたが、無意味だから自由は消極的自由だけだ』 と著者は書いた、と先生は言ったが、アイザイア・バーリンはなぜ無意味なものだと判断したのか気になった。」
「アイザイア・バーリンの 『2つの自由概念』 についての疑問です。積極的自由と消極的自由の判断基準は何なのでしょうか。政治への自由が積極的自由に分類されるのはわかるのですが、残りの2つの自由についてはなんだかモヤモヤとします。」
バーリンの議論をきちんと説明せずに、ただ消極的自由という言葉だけを紹介してしまったので、
こうした疑問をもたれるのは当然の帰結ですね。
申しわけありませんでした。
この問題もきちんと説明しようとするとけっこう面倒くさくて、
バーリン自身はあの論文で何と言っているのか、
研究者のあいだではそれがどう理解されているのか等々、
正確を期そうとするとなかなか厄介な問題をはらんでいたりして、つい手抜きしてしまったのです。
まあ、あんまり学問的に厳密な話をしたいわけではないので、
とりあえずこのあいだの講義で話した3種類の自由の関係を理解してもらえる程度に、
補足説明を加えておきたいと思います。
バーリンは、各人がいかなる他人からの干渉も受けずに、自分のしたいことをし、
自分のありたいものであることを許されている状態を、消極的自由と呼びました。
この定義だけを見ると、誰からも何の束縛も制限も受けずに何でもありとあらゆることをしていい
「無制限的自由」 のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。
ここでバーリンが言っているのは、他人の自由を侵害しないかぎりでの制限つきの自由なのです。
(ちなみに 「無制限的自由」 とか 「制限つきの自由」 という語は、
みんなの自由に対する誤解を解くために私が勝手に命名したものなので一般的には通じません。)
バーリンはこのような自由を 「~からの自由」 とも言い換えています。
不当な干渉や強制からの自由ということですね。
(私は細心の注意を払って 「不当な」 という形容詞を付け足していることに注意してください。)
これに対して積極的自由とは、まるで自分が物や動物や奴隷であるかのように、
外的な自然や他人によって決定されるのではなく、
主体としてみずから決定を下し、自分自身の主人であることのできる自由です。
バーリンはこれを 「~への自由」 と言い換えています。
自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する人間らしい、理性的な自由です。
バーリンによる積極的自由の説明を読むと、
まず第一に、ルソーやカントの言う 「自律的自由」(=自己決定への自由) のことが思い浮かびます。
おそらくバーリン自身が念頭に置いていたのも自律的自由なんじゃないかなという気がしますが、
ただ、先の説明にも 「自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する」 という表現が含まれていて、
それは 「実質的自由」(=目標達成への自由) のことを指しているようにも聞こえます。
バーリンは消極的自由 (=干渉・強制からの自由) を論じるときに強制についてこう述べています。
「強制とは、することのできぬ状態のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。」
ここで、強制という語には馴染まず、したがって自由の欠如とは呼び得ないものとされているのは、
自らの能力では自分の目標に到達することができないという実質的自由のように思えます。
このようにバーリンの言う積極的自由は、
自律的自由のことを指しているようにも見えれば、
実質的自由のことを指しているようにも見えて、判然と区別できないわけです。
バーリンが2つを同一視していたのか、
区別はわかった上でひとまとめに論じようとしていただけなのか、に関しても不明です。
というわけなので、のちの人たちも消極的自由と積極的自由のことを説明しようとする際に、
積極的自由を自律的自由と解釈したり、実質的自由と解釈したりいろいろなのです。
例えば同じウィキペディアでもこちら↓では積極的自由=自律的自由と捉えて解説しており、
「自由論 (バーリン)」
こちら↓では積極的自由=実質的自由と捉えて解説してます。
「消極的自由」
ただまあ両方読んでいただければおわかりのとおり、
どちらの意味でとってもバーリンの言う消極的自由とは対立することになります。
つまり、どちらの意味であれ積極的自由というのは、ある種の干渉や強制を容認してしまいます。
自律的自由としての積極的自由の場合は、民主的に多数決によって理性的な決定が下されれば、
それを少数者に対して強制してよいことになります。
同性愛や夫婦別姓制度は 「正しい」 家族のあり方に反していると多数派の人間が判断したならば、
異性愛や夫婦同姓を少数派の人たちにも無理強いしてよいということになってしまい、
少数派の人たちの強制されたり干渉されたりしないという消極的自由が奪われてしまいます。
実質的自由としての積極的自由の場合、目標の達成が困難な人々を助けるためであれば、
国民全員から税金や保険金を強制的に徴収してよいということになります。
貧しい人を救うために裕福な人に対して累進課税を課したり、
重い病気をもつ人の医療費をまかなうために健康な国民全員に保険加入を課すなど、
国家権力による財産権への干渉 (消極的自由の侵害) が制度化されてしまいます。
バーリンはユダヤ人として、ナチズムやファシズム、スターリニズムなどの
全体主義的政治運動がもたらした歴史的悲劇を目撃してきました。
その彼からすると、自律的自由であれ実質的自由であれ積極的自由というのは、
国家権力の権限を強めてしまうことによって全体主義を後押しする危険性をはらんだものであって、
国家権力による干渉や強制を最小限にとどめようとする消極的自由こそが、
本来、自由と呼びうるものということになるのでした。
この程度の説明で納得いただけたでしょうか?
前回書いた、国家権力と自由 (人権) と憲法の三者の関係にも関わるような問題でした。
大事な問題ですのでぜひ復習しておいてください。