まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.なぜバーリンは自由を消極的自由に限定しようとするのですか?

2016-06-13 12:39:04 | グローバル・エシックス
このところ看護教員養成講座の受講生の方々に向けた投稿が続いてしまっていますが、
一昨日3日前4日前
本業 (「倫理学概説」) のほうでも質問は目白押しなのでした。
前回、制限つきの自由に関する質問にお答えしましたが、今回も制限つきの自由に関する質問です。
制限つきの自由のことをアイザイア・バーリンが 「消極的自由」 と名づけたことを紹介しましたが、
その消極的自由に関して何人かの方から質問をいただきました。

「消極的自由のみを自由というのではないかというアイザイア・バーリンの考え方が、いまいち理解できずにいた。」

「『自由を積極的自由と消極的自由に分けたが、無意味だから自由は消極的自由だけだ』 と著者は書いた、と先生は言ったが、アイザイア・バーリンはなぜ無意味なものだと判断したのか気になった。」

「アイザイア・バーリンの 『2つの自由概念』 についての疑問です。積極的自由と消極的自由の判断基準は何なのでしょうか。政治への自由が積極的自由に分類されるのはわかるのですが、残りの2つの自由についてはなんだかモヤモヤとします。」

バーリンの議論をきちんと説明せずに、ただ消極的自由という言葉だけを紹介してしまったので、
こうした疑問をもたれるのは当然の帰結ですね。
申しわけありませんでした。
この問題もきちんと説明しようとするとけっこう面倒くさくて、
バーリン自身はあの論文で何と言っているのか、
研究者のあいだではそれがどう理解されているのか等々、
正確を期そうとするとなかなか厄介な問題をはらんでいたりして、つい手抜きしてしまったのです。
まあ、あんまり学問的に厳密な話をしたいわけではないので、
とりあえずこのあいだの講義で話した3種類の自由の関係を理解してもらえる程度に、
補足説明を加えておきたいと思います。

バーリンは、各人がいかなる他人からの干渉も受けずに、自分のしたいことをし、
自分のありたいものであることを許されている状態を、消極的自由と呼びました。
この定義だけを見ると、誰からも何の束縛も制限も受けずに何でもありとあらゆることをしていい
「無制限的自由」 のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。
ここでバーリンが言っているのは、他人の自由を侵害しないかぎりでの制限つきの自由なのです。
(ちなみに 「無制限的自由」 とか 「制限つきの自由」 という語は、
 みんなの自由に対する誤解を解くために私が勝手に命名したものなので一般的には通じません。)
バーリンはこのような自由を 「~からの自由」 とも言い換えています。
不当な干渉や強制からの自由ということですね。
(私は細心の注意を払って 「不当な」 という形容詞を付け足していることに注意してください。)

これに対して積極的自由とは、まるで自分が物や動物や奴隷であるかのように、
外的な自然や他人によって決定されるのではなく、
主体としてみずから決定を下し、自分自身の主人であることのできる自由です。
バーリンはこれを 「~への自由」 と言い換えています。
自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する人間らしい、理性的な自由です。
バーリンによる積極的自由の説明を読むと、
まず第一に、ルソーやカントの言う 「自律的自由」(=自己決定への自由) のことが思い浮かびます。
おそらくバーリン自身が念頭に置いていたのも自律的自由なんじゃないかなという気がしますが、
ただ、先の説明にも 「自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する」 という表現が含まれていて、
それは 「実質的自由」(=目標達成への自由) のことを指しているようにも聞こえます。
バーリンは消極的自由 (=干渉・強制からの自由) を論じるときに強制についてこう述べています。

「強制とは、することのできぬ状態のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。」

ここで、強制という語には馴染まず、したがって自由の欠如とは呼び得ないものとされているのは、
自らの能力では自分の目標に到達することができないという実質的自由のように思えます。
このようにバーリンの言う積極的自由は、
自律的自由のことを指しているようにも見えれば、
実質的自由のことを指しているようにも見えて、判然と区別できないわけです。
バーリンが2つを同一視していたのか、
区別はわかった上でひとまとめに論じようとしていただけなのか、に関しても不明です。

というわけなので、のちの人たちも消極的自由と積極的自由のことを説明しようとする際に、
積極的自由を自律的自由と解釈したり、実質的自由と解釈したりいろいろなのです。
例えば同じウィキペディアでもこちら↓では積極的自由=自律的自由と捉えて解説しており、

「自由論 (バーリン)」

こちら↓では積極的自由=実質的自由と捉えて解説してます。

「消極的自由」

ただまあ両方読んでいただければおわかりのとおり、
どちらの意味でとってもバーリンの言う消極的自由とは対立することになります。
つまり、どちらの意味であれ積極的自由というのは、ある種の干渉や強制を容認してしまいます。
自律的自由としての積極的自由の場合は、民主的に多数決によって理性的な決定が下されれば、
それを少数者に対して強制してよいことになります。
同性愛や夫婦別姓制度は 「正しい」 家族のあり方に反していると多数派の人間が判断したならば、
異性愛や夫婦同姓を少数派の人たちにも無理強いしてよいということになってしまい、
少数派の人たちの強制されたり干渉されたりしないという消極的自由が奪われてしまいます。

実質的自由としての積極的自由の場合、目標の達成が困難な人々を助けるためであれば、
国民全員から税金や保険金を強制的に徴収してよいということになります。
貧しい人を救うために裕福な人に対して累進課税を課したり、
重い病気をもつ人の医療費をまかなうために健康な国民全員に保険加入を課すなど、
国家権力による財産権への干渉 (消極的自由の侵害) が制度化されてしまいます。

バーリンはユダヤ人として、ナチズムやファシズム、スターリニズムなどの
全体主義的政治運動がもたらした歴史的悲劇を目撃してきました。
その彼からすると、自律的自由であれ実質的自由であれ積極的自由というのは、
国家権力の権限を強めてしまうことによって全体主義を後押しする危険性をはらんだものであって、
国家権力による干渉や強制を最小限にとどめようとする消極的自由こそが、
本来、自由と呼びうるものということになるのでした。

この程度の説明で納得いただけたでしょうか?
前回書いた、国家権力と自由 (人権) と憲法の三者の関係にも関わるような問題でした。
大事な問題ですのでぜひ復習しておいてください。

看護教員養成講座インデックス2016

2016-06-11 09:42:34 | 哲学・倫理学ファック
一昨日から看護教員養成講座が始まり、その日のブログに次のように書いておきました。

「本日の午前中 『哲学の先生に聞いてみたいこと』 を書き出してもらい、
 グループの代表質問にはお答えしました。
 代表質問に選ばれなかった質問に関しては、
 たぶんたいがいの質問にはこのブログのなかで答えてありますので探してみてください。」

探してみてくださいと言われても、このブログにはすでに2,000近い記事が蓄積されていますので、
探しようがなくて困るだろうなあとは思っていました。
いつもだったらすぐにインデックス (目次) を作成して、
探すにしてもどこを探したらいいかヒントをあげるようにしているのですが、
このインデックスを作るのが意外と面倒なんですよ。
で、もうみんな大人だし、頑張って探してくれるんじゃないかなあと期待をこめて、
あんなふうに投げっぱなしの一言ですませてしまっていたわけです。
でもそれじゃあやっぱりムリだよなと反省し、昨日そのブログに微修正を加えて、
先に引用した文言のあとに次のようなカッコ書きを加えておきました。

「(こちらのインデックスをご利用ください。)」

この中の 「こちらのインデックス」 という部分にアンダーラインが引かれ、
文字の色が他と変わっていたと思います。
インターネットに詳しい人はこれを見てすぐにわかっただろうと思いますが、
ブログやウェブサイト中でアンダーラインが引かれ色が変わっている部分というのは、
他のブログやウェブサイトへとリンクが張られている箇所ですので (ほら、また張ったよ)、
とりあえずそこをクリックしてみると、別のページに飛ぶことができて、
そこに関連することが書いてあったりするわけです。
先ほどの 「こちらのインデックス」 のところをクリックすると、
同じまさおさまのブログの中の、この4月に相馬の看護学校の学生たちのために作成した、
「看護学校 「哲学」 FAQインデックス (2016年版)」 というページに移動することができます。
そこにはさらに過去に作った8つのインデックスへのリンクも張られていますので、
そのどれかのインデックスを探し回れば、自分が聞きたいことへの回答が見つかると思いますので、
ぜひあちこち探し回ってみてください。

自分の質問と同じもの、似ているものは見つかったでしょうか?
これらのインデックスに載っていなくてすでに書いたことのあるものや、
載ってはいるけれど問い方が違っているから見つけにくいものは、今回はあまりありませんでした。
なのでインデックスを作るのはそんなに大変じゃないみたいということが判明しましたので、
遅ればせながらこうしてインデックスを作ってみることにしたというわけです。
こんなことなら一昨日作ってしまえばよかったですね。
申しわけありません。
まずは何人かの方々から似たような質問が寄せられていました。

Q.「生」「老」「病」「死」 それぞれどう考えていますか?
Q.先生の死生観をきいてみたいです。生老病死観をぜひ。
Q.自分の死に対してどう思いますか?

このうち 「生」 に関しては代表質問でもひとつお答えしましたし、
過去のインデックスから探せると思うので省略します。
次の 「老」 については、まとめて書いたことはありませんが、
これまでいろいろな機会にいろいろなことを書きましたので、以下の記事を読んでみてください。

  「哲学者は長生きしたもんの勝ち」

  「満腹感」

  「老いるとは?」

  「1リットルの男」

  「老化 (?) 現象」

  「スポーツ選手と老い」

  「歳をとること・成長・老い」

次の 「病」 に関してはあまりこのブログで書いたことはないみたいですし、
今後、授業で若干取り扱う予定ですのでこれも省略いたします。
最後の 「死」 についてですが、これはすでにインデックスのようなものを作ったことがありますので、
そこからあちこち見に行ってみてください。

  「Q.死に対しての先生の考えは?(その1)」

では、続いての質問に移りましょう。
今度はガラッと毛色の違う質問です。
「Q.好きなスポーツは何ですか?」 みたいな質問はよくいただくのですが、
こんな質問は初めて頂戴しました。

Q.(哲学からみた)スポーツはどんな存在ですか?

なかなかいい質問ですね。
それにしてもなんでこんな質問を思いつかれたのでしょう?
何かスポーツを専門にやってこられた方なんでしょうか?
残念ながら、今回いただいた問いに対する直接的答えにあたる記事は書いたことありませんが、
昨年まで、うちのスポーツの学生たち全員必修の 「文化創造論」 という授業を担当していたので、
スポーツに関しては折に触れていろいろと書いてきました。
それらを読んでみてください。
そもそもスポーツとは何か、という根本問題を扱ったのが以下の2本。

  「チェスはスポーツか?」

  「チェスはスポーツらしい」

スポーツにとってルールというのがひじょうに重要な役割を果たしていると私は考えていますが、
そのなかでも特に重要な 「構成的ルール」 というものに関して考察したのが以下の3本。

  「競技ダンスの構成的ルール」

  「競技ダンス新採点方式」

  「ダンクシュートっておかしくない?」

相撲ってたびたび八百長問題や黒い交流問題でニュースネタになりますが、
そもそも相撲はスポーツと言えるのかという観点から、
スポーツにおけるフェアの問題を考えたのが以下の3本。

  「日本の国技?」

  「相撲はスポーツか?」

  「八百長とは何か?」

野球の時事ネタに関連させて、フェアプレイのことやジャッジの問題について論じたのが以下の2本。

  「だます方もだます方、だまされる方もだまされる方」

  「誤審との闘い」

これらを読んでみると、だんだんとスポーツについて哲学的な思索が深まっていきませんか?
それでは最後です。
こんな質問。

Q.自分に自信がなく、子どもの頃からあまり自分の事が好きではないですが、
  それは良くない事ですか? また、どうしたら自分を変えられますか?

20歳前後の学生からはこの手の質問をもらうことはよくありますが、
看護教員養成講座でこのような質問を頂戴するとは思っていませんでした。
看護師の国家試験にみごと合格し、現場で看護師としての経験を積み、
今度はさらに看護教員として看護師の育成に携わろうというほど志の高い方が、
こんなふうに自分に自信を持てていらっしゃらないとは。
これはとてもいいことだと思いますね。
看護学校の先生方って自信に満ちた方ばかりですが、学生たちはそういう人ばかりではないので、
学生の気持ちに寄り添える教員というのは希少価値があってよろしいのではないでしょうか。
私も何の取り柄もない子どもでしたし、今の方向性に歩み出すまでものすごく遠回りをして、
32歳まで定職に就かずにいましたから、長いあいだ自分にまったく自信を持てずにいました。
ですので、この質問に関するようなことはこれまでいろいろと書いてきました。
とりあえずは以下の3本が直接関係するような内容かと思います。

  「Q.先生の好きな言葉は?」

  「Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか? (その2・回答修正)」

  「Q.性格を自分で作っていけるんですか?」

その他、このブログのなかの 「幸せの倫理学」 というカテゴリーに分類されている、
わりと初期のころの記事は、ご質問に対する答えを含んでいるかもしれません。
テキトーに見つくろって読んでみてください。

以上が皆さまのために用意したインデックスです。
たいがいの質問に対する回答はリンク先のどこかに書いてありますので探してみてください。
もちろん、まだお答えしたことがない質問もけっこう残っています。
それに対しては追い追いお答えできればと思いますが、
代表質問のときに質問の意味がよくわからずにお答えできなかった、
「Q.先生の中の自分とは何ですか?」 という質問や、
哲学・倫理学では答えられそうにない 「Q.子どもを失った母親・家族への関わりは?」
といった質問ばかりが残っているので、なかなか筆は進まないだろうと思います。
その点に関してはどうかご勘弁いただき、2,000近く蓄積されている駄文でも読みながら、
じっくり気長に待っていてください。

Q.講義中に寝ている学生がいるとき先生はどうしますか?

2016-06-10 15:58:11 | 教育のエチカ
昨日から始まった看護教員養成講座 「哲学」 の授業ですが、
「哲学の先生に聞いてみたいこと」 のワークで代表質問には選ばれなかったけれども、
あるグループでは第2希望の質問として標記のような質問を用意してくれていたみたいです。
さすがは皆さん教員の卵ということで、哲学そのものよりも授業の仕方に興味があるのですね。
以前に講義中の私語に対してどう対処したらいいかについて連作を書いたことがあります。
せっかくですからそれらも読んでみてください。

  「私語の世界(その1)・なぜ私語はいけないのか」
  「私語の世界(その2)・人間は私語する動物か?」
  「私語の世界(その3)・私語を許してはならない」
  「私語の世界(その4)・私語にどう対処するか?」
  「私語の世界 (完成バージョン)」

要するに、人間というのは私語する動物なので私語はどうしても発生してしまうけれど、
私語は、授業を聴きたいと思っている他の学生の授業を聴く権利を侵害する行為なので、
ゼッタイに許してはならない、ではそのためにどうしたらいいか、というお話でした。

今回の質問は授業中の居眠りに関してです。
これも私語と並んで教師を悩ませる頭痛のタネのひとつですね。
昨年、看護学校の学生さんからこんな質問をもらってお答えしたことがあります。

  「Q.授業で寝てしまう人のことをどう思いますか?」

この質問に対しては、第1段階として 「この人は眠いんだろうなあ」 と思い、
第2段階として 「起こしてあげなくちゃ、眠気を覚ましてあげなくちゃ」 と思います、とお答えしました。
私は、私語と同様、授業中の居眠りも人間本性に根差した自然な反応と思っていますので、
1人や2人に眠られたからといって怒ったりはしません。
(さすがに受講生の大半が眠っているという状態になると小っちゃな胸がキュンと痛みますが…)
そして、私語とは異なり、他の受講生の聴講の邪魔にならないかぎり、
学生には居眠りをする権利 (自由) があると思っています。
いびきをかいて他の受講生の邪魔になっている場合には、
私語と同様、強制的にやめさせることができますが、
そうでないかぎり、授業を聴かずに講義内容についていけなくなるという自己の不利益を、
当人が結果としてその責を負う覚悟があるのであればいくらでも寝ていいのだと思うのです。

なので、私の基本スタンスとしては寝るのは本人の自由だよ、ということになります。
ただ、私が自分の学生時代の経験に照らして思うのは、
学生というのはそこまでの覚悟をもって寝ているわけではないだろうということです。
眠りたくて寝ているのではなく、起きて授業を聴いていたいけど、
何らかの理由でどうしても起きていられなくて寝てしまうのだろうと思うのです。
なので私は寝ている学生がいたら起こしてあげるようにしています。
これははっきり言ってパターナリズムです。
おせっかいであり、干渉です。
ですから、あまり押しつけにならないように、本人がイヤな気分にならずにすむように配慮しています。
ましてや、本人が私に怒られたと思ってしまったらかわいそうなので、
とにかく本人もまわりのみんなも笑ってすませられるような起こし方を工夫しています。

一番よくやるのは次のような方法です。
私は 「オノハラ声」 と呼ばれる、ものすごく甲高い声を発することができます。
九官鳥のような声と言えばわかってもらえるでしょうか。
赤ちゃんや子どもにこの声で話しかけるとなぜかものすごく笑ってもらえます。
で、寝ている学生がいたらそこに近づいていって、
オノハラ声で 「オハヨー」 と叫ぶのです。
これをするとたいていの人はハッと目覚めます。
そして、ぼくと目が合ったら今度は穏やかな声で 「おはよう。目覚めた?」 と話しかけてあげます。
これをやるとたいがいみんな、恥ずかしそうな申しわけなさそうな顔で授業に復帰してくれます。
気をつけなきゃいけないのは、突然大きな声を出すとまわりのみんなのほうがビックリしてしまうので、
寝ている子の近くに行ってからちょっと間を置いて、
この先生何か企んでるなということをまわりのみんなに悟らせてからやったほうがいいでしょう。

だいたいこれで何とかなるものですが、たまに耳が悪いのかこの方法で目覚めない学生もいます。
そういう場合は聴覚ではなく体感に訴えかける方法として、
耳に息をフッと吹きかけてあげると全身をビクッとさせながら目覚めてくれます。
ただこの方法はひょっとするとセクハラと受け止められる可能性がなきにしもあらずなので、
女子学生にはあまり用いないようにしています。
肩を揺するという方法もよく効きますが、これも同様の危険性がありますので、
その代わりに机をガタッと揺すりながらオノハラ声で 「オハヨー」 と言う方法も編み出しました。

このどれかをやれば確実に目を覚ましてくれます。
ただし睡魔が激しい場合はいったん目覚めても、
授業が再開されるとまた眠りに誘 (いざな) われてしまったりすることがあります。
こういう場合は厄介ですね。
2回やってそれでもまた寝てしまう子がいたときは、
3回目に起こしたあと、その子としばらく会話したりしています。

「そんなに眠いの? 昨日の夜何かやってたの?」
「○○○○してました。」
「そっかあ、そりゃ眠いよねぇ。ぼくも眠いんだよ。昨日○○○○してたんだ。
 すっごい眠い。いいなあ、君ばっか眠れて。
 あ、じゃ順番で寝ることにしない?
 ぼくの代わりに授業やっといてよ、ぼくちょっと寝とくから。頼む、お願い。」
「そんなのムリですよ。」
「大丈夫、大丈夫。ぼくだってできるんだから。ほらこれ。ぼくの講義ノート貸すから。」
「ムリです、ムリです。いいから、早く授業やってくださいよ。」

とまあ、こんな感じ。
これぐらい喋ってるとさすがの睡魔も退散してくれます。
これだけやってそれでもさらに寝ちゃう子は今までいませんでしたが、
もしもそういう子が現れたときはもうゆっくり寝かせてあげたいと思います。
人間、本当に睡眠が必要なときというのもあるもんです。
そんなに眠いのにわざわざ授業に出て来てくれてありがとうというくらいです。
人間のすることで当たり前はありません。
学生たるもの授業に出て、眠らず、私語せず、真面目に聴講するのが当たり前などと決めつけず、
本能に抗って私たちの退屈な授業に付き合ってくれている学生たちに対して感謝の念を抱きながら、
大らかな気持ちで日々の授業に臨もうではありませんか。

看護教員養成講座@郡山・開始!

2016-06-09 18:49:57 | 教育のエチカ
この時期の木曜日は相馬の看護学校に通っているわけですが、

このところ相馬の看護学校もカリキュラム改変のために、

3年生たちはこの時期に実習に行くようになっていて、約1ヶ月 「哲学」 の授業はお休みです。

その間じっくり休んで、このところ追い込まれがちな事務仕事をやっておきたいところですが、

なぜかちょうどこの時期を見計らったように、看護教員養成講座の仕事が入ってきてしまいました。

看護学校の教員を目指す看護師の方々に、約1年弱の期間で教員資格を与えようという講座です。

(厳密にはそういう教員資格があるわけではないようですが…)

これまでに2度やったことがありますが (2009年2012年)、

そのときは自宅のすぐそばにある福島看護専門学校での開催でした。

たとえ寝過ごしたとしても、電話で叩き起こされれば2分で駆けつけられる地の利の良さでした。

しかし、今年度からは郡山の福島県看護協会での開催となったため、寝坊は厳禁です。

相馬ドライブほどの早起きではありませんが、

福大で1限の授業を担当する程度の緊張感は必要です。

しかもこれまでは、1回3時間の授業を5週通って計15時間行うというスケジュールでしたが、

それだと相馬の看護学校の授業の再開と重なってしまうので、

今週と来週は1回あたり6時間授業を行い、最後の週だけ3時間という授業計画です。

1日に6時間ということは、午前中に9時半から12時半まで授業をやり、

お昼をはさんで午後に再び13時半から16時半まで働かなくてはなりません。

受講生の皆さんにとっては丸1日 「哲学」 漬けですよ。

想像するだに拷問のような1日になることは間違いありません。

みんなぐったりして寝まくるんだろうなあと覚悟して行きましたが、

さすがは教員を目指す方々だけのことはあって、

誰ひとり眠らずに最後まで積極的に授業に参加してくださいました。

たいへん有り難いことです。

内容的には過去2回と同様、看護学校での 「哲学」 の授業の短縮版を追体験してもらいつつ、

授業の意図や工夫などについてちょいちょい解説を入れる、という感じでやってきました。

その中で、私が過去に書いた、

高等教育 (大学や専門学校での授業) に関する論文のことを紹介しておきました。

さすがにその論文をプリントして配布するだけの余裕はなかったので、

(配布資料があったらあらかじめ送っておいてくれたら印刷しておきます、と言われていたけれど、

 ギリギリスの私がそんなことできるわけもなく…)

ここにリンクを張っておきますので、興味のある方はヒマなときにでも読んでみてください。

看護学校での実践を中心に扱い、「哲学」 の授業に限らず、

授業づくりの際に一般に注意するべきことなどを書いてあるので、

皆さんにも参考になるんじゃないかなと思われるのは一番最初の論文です。

2番目と3番目の論文は教育方法学の専門の方と一緒に書いた論文で、

ワークシートについてと、グループ・ディスカッションについて、それぞれ詳しく書いたものです。

これらはいちおうご参考までに挙げておきますので、

ヒマでヒマでしょうがないときにでも読んでみてください。


1.「哲学/倫理学」 の講義をどう変えていくか ー「教え」 から 「学び」 への転換?ー

2.講義型授業において学生の主体的学びを支援する試み ーワークシートを活用した講義改革ー

3.講義型授業において学生の主体的学びを支援する試み ーグループ・ディスカッションを活用した講義改革ー


さて、本日の午前中 「哲学の先生に聞いてみたいこと」 を書き出してもらい、

グループの代表質問にはお答えしました。

代表質問に選ばれなかった質問に関しては、

たぶんたいがいの質問にはこのブログのなかで答えてありますので探してみてください。

こちらのインデックスをご利用ください。)

まだお答えしていない質問には、もしも答えられそうならこのブログでお答えするかもしれません。

ちょっと今追い込まれていますので、なかなかその余裕はないかもしれませんが、

いつか答えてもらえるかもしれないと期待しながら、ときどきこのブログを訪れてみてください。

それではあと2回、6時間+3時間、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます

Q.制限つきの自由=国家権力からの自由なのか?

2016-06-08 23:48:07 | グローバル・エシックス
「倫理学概説」 で自由についての講義をしたあとのワークシートでいろいろな質問を頂戴しました。

可能なかぎり順番にお答えしていきたいと思いますが、

まずは次のような質問からお答えしてみましょう。

「制限つきの自由=国家権力からの自由とされたが、イマイチよくわからなかった。

 国家権力が制限を加えることで、その範囲内で自由を保持しているのであるから、

 国家権力による自由ではないのか?」

これは学生さんによく見られる誤解ですし、

人権を考える場合にこの誤解を解いておくことは最も重要ですので、

この問題から考えていきましょう。

「制限つきの自由」 と言う場合に、自由を制限するのは法やルールであるという感じがします。

実際のところ最終的にはその通りになるのですが、

私は制限つきの自由を説明するときに次のように言い換えました。

「万人の自由と両立するかぎりでの自由」 とか 「他人の自由を侵害しないかぎりでの自由」 と。

つまり、ある人の自由を制限する根本にあるのは法やルールではなく、他の人の自由なのです。

では具体的にどういうふうに他人の自由によって制限されるのか、

どんなことをしてしまうと他人の自由を侵害したことになるのかといったことは、

個々の法律 (実定法) によって規定されることになるので、

最終的にはそうした法律の範囲内での自由ということになります。

しかし重要なのは、それらの法律はあくまでも

万人の自由を両立させるために立法されたものでなければならない、ということです。

というのも、法律は強制力をもっていますから (違反者に対しては暴力的に罰を科することができる)、

いったん法律が制定されてしまうと、人々の自由はその範囲内に制限されてしまいます。

もしもこの法律が国家権力によって恣意的に、

権力者にとってのみ都合のいいように制定されてしまったら、

万人の自由の共存どころか、一方的に国民の自由が損なわれることになってしまいます。

ですから、法律の範囲内でのみ自由が許されるということではなく、

むしろ逆に、万人の自由を共存させるような法律のみが立法されることを許され、

そのような法律のみが自由を制限することができる、という関係になるのです。

歴史的に見ても、国家権力こそが国民の自由を毀損し抑圧してきたということは明らかでしょう。

ですから、万人の自由はまず何よりも国家権力からの自由でなければならないのです。

そのために定められたのが憲法です。

憲法というのは国民の自由 (人権) を国家権力から守るためのものです。

国家権力が勝手に法律を定めて国民の自由 (人権) を奪ってしまわないように、

万人の自由 (人権) を守るための法律や政策だけが行われるよう、

国家権力を制限しているのが憲法なのです。

その憲法の枠内で立法された法律であるからこそ、法は人々の自由を制限することができるのです。

制限つきの自由が、国家権力によって守られる自由ではなく、

国家権力から守られるべき自由である、ということの意味がわかっていただけたでしょうか。

以前にダグラス・ラミスの 『憲法は、政府に対する命令である。』 という本を紹介しましたので、

ぜひそのブログと本も読んでみてください。

国家権力と国民の自由 (人権) と憲法という三者の関係は、

今後の日本政治において重要な争点になってきますので、ぜひ正しく理解しておいてください。

特に18歳から選挙権が与えられた今日、

大学生である皆さんはもちろんのこと、皆さんが教員となってから教える子どもたちにとっても、

何よりも重要で、ヘタしたら彼らの自由 (人権) が根こそぎ奪われることにもなりかねません。

政治のイロハ (例えば立法府と行政府の区別とか) も知らない政治家たちによって、

私たちの人権が、国家権力の定める法律の範囲内での自由に狭められるなんてことになったら、

未来永劫、日本に生まれてくる子々孫々に対して顔向けができなくなってしまうでしょう。

時勢に流されず責任もって正しい知識を伝えられるよう、研鑽を積んでおいてください。

えっ、もう6月なのに今まで1度も授業を…?

2016-06-06 18:02:49 | 教育のエチカ
お昼のことです。

体育のY先生と学内ですれ違いました。

そうしたら、たまたま会えてちょうどよかった、みたいな感じでこんなことを言われました。

「小野原先生、うちの学生から聞いたんですけど、

 先生、まだ今年度1度も月曜日の1限の授業にいらっしゃっていないそうですね?」

えっ、何のこと

ぼくが1度も授業してない

たしかに水曜1限の大学院の授業を1度すっぽかしてしまったことはあったけど、

そういえばさらに、月曜3限のオムニバス授業を1週間カン違いしてて、

すっぽかしそうになったことはあって、たまたま受講生が廊下を歩いているぼくを見つけてくれて、

何とか事なきを得たってこともあったけど、

でも、もう6月に入ってしまったというのに、まだ1度も授業をしてないですって

「え、何のことですか?」

「月曜1限の体育の授業ですよ。」

そこまで言われてハッと思い出しました。

そう言えば昨年度、今年の授業計画を立ててるときに、

Y先生から 「S先生が来年度で退職されるんですけど、身体の具合が優れないみたいなんですよ。

小野原先生、たしか学生時代ダンスやってらして、今もダンス部の顧問でいらっしゃいましたよね。

S先生の授業、全部とは言いませんので、月曜1限のダンスの授業だけでもお願いできませんか?」

みたいなことを頼まれて、あのときは忙しくて断るのも面倒くさく、

ついつい 「ええ、じゃあ来年度だけですよ、これは貸しですからね」 なんつって、

安請け合いしてしまったような記憶が蘇ってきました。

あれって月曜1限だっけ、そして前期開講だったっけ?

そもそもシラバス書いたような記憶もないし、授業で何やるか何の計画も立てた覚えがありません。

「ウソー、ホントに? あれって前期・月曜・1限だっけ?」

半信半疑で急いで手帳を確認してみたら、

なんと手書きの前期の時間割の月曜1限の欄に、

くっきりはっきりと 「体育 (社交ダンス)」 と書かれているではありませんかっ

ギャボーーーーン

授業1回寝過ごしたどころの話ではありません。

もう今日って前期が始まって9週間目です。

15回の授業のうち60%に当たる9回をまるまる全部無断休講してしまいました

ヤッチマッターーーーーーーーーーーーッ!!!!

これってどうやって挽回をはかったらいいんでしょう?

謝罪文書いて許してもらえるような話ではないですよね?

懲戒とか新聞沙汰とかの文字がちらついてくるようなレベルの失態ですよね。

いや、でも待てよ。

ぼくは月曜の1限って 「キャリア形成論」 の授業をやってるじゃないかっ!

しかも、今年はいつものように2回だけ授業やればいいだけじゃなくて、

授業全体の世話人を引き受けてるから、基本毎週 「キャリア形成論」 に出てるじゃないかっ!

だからそもそも前期・月曜・1限なんかに体育の授業をできたはずはないんだよ。

なんでそんな時間に体育の授業がダブルブッキングされてるんだよ

これってぼくの責任じゃないんじゃないの

落ち着いて考えてみたらだんだん腹が立ってきました。

そもそもぼくが体育の授業を教えるなんておかしいんじゃないの

ぼくは倫理学者であって体育学者じゃないんだし…。

大学時代に部活でやってたとか、今部活の顧問だからって大学の授業を持てるはずないじゃん

どこからそんな話がわき出てきて、自分も自分でなんでそんな話を引き受けてしまったんだろう?

なんかおかしいよなあ

どうなってんだろう………
































と、頭が混乱してきたところでやっと目が覚めました。

おおおおおおっっっっっ、夢だったのかああああああ

スゲェ、ビックリしたあっっっっっ

夢でよかったあ

毎度の夢オチで申しわけありません。

だけど、ホントにビビったんですよ。

夢のなかってどういう構造になってるんでしょうね?

Y先生に 「月曜1限の体育の授業ですよ」 って言われたときは本当に思い出したんです、

そういえば去年、頼まれたよなあって。

だから心底凍りついたんです。

2ヶ月経ってるのに1度も授業やってないぞ、ヤッベェって

そんなこと引き受けた覚えもないし、頼まれた覚えもないのに、

夢のなかではたしかにそんなことがあったよねっていう気持ちになってしまったんです。

まあ、これまでいろいろやらかしてきた歴史があるので、

夢のなかでも自分で自分のことを信じ切れていないんでしょうね。

あのまま夢のなかにいたら自責の念でそのまま心臓止まってしまっていたかもしれませんが、

ダブルブッキングのこととか授業を教える資格のこととか、

合理的な疑いが頭をもたげてきてくれたから、何とかこの悪夢から脱出することができました。

いやあ、ホントに夢でよかったです。

こういう夢は心臓に悪いのでやめてほしいです。

もっと夢のある夢を見たいです。

君は脂肪だったのか!

2016-06-03 12:11:35 | がんばらないダイエット
このところダイエットは停滞気味です。

特に年度末から年度始めにかけて食欲が完全に破綻して、糖質を食べまくっていましたから、

レッドゾーンの65kg台をあっさり超えて66kg台まで記録したりしていました。

しかし、幸いなことに例の謎の腹痛のおかげで強制的に食事制限がかかり、

63~64kg台まで何とか戻すことができました。

以後はそれ以上痩せることもなく、といってレッドゾーンを超えることもなく、

だいたいそのあたりを行ったり来たりしているところです。

年度末のころは体重計に乗るのもイヤで、現実から目を背けていましたが、

最近はまたこまめに体重を測るようになってきました。

暖かくなってきたというのも大事なポイントです。

シャワー前の時間、室温が低いと素っ裸で体重計にのんびり乗っているのもツラく、

ついつい体重測らないまま浴室に直行してしまうものなんですが、

最近は全裸で家のなかをウロウロしていてもまったく問題ない陽気になってきました。

(あ、私、体重測るときはきっちり測りたいので、全裸でないとイヤなんです。)


さて今朝もシャワー前に体重計に乗りました。

体重は64.4kg、体脂肪率は22.6%でした。

このところ63kg台のことが多かったのですが、昨日食べすぎたためか少しリバウンド気味です。

まだ排便もすませてないことだしまあ仕方ないか、

なんて思っていたところ急に便意が催してきました。

突然の来客に驚きましたが、シャワー浴び終わるまで待っていてくれそうな雰囲気もなく、

そのまま (全裸のまま) トイレに駆け込みました。

いつものように気持ちよく用を足した後フロ場に戻ってみると、

さっき乗っていた体重計がそのままそこに出しっ放しになっています。

(ふだんは体重計は洗面台の下のスペースに格納されているのですが…)

おお、これはいい機会だと思い、もう一度体重計に乗ってみることにしました。

意外と排便前と排便後に体重を測ってみたことって今までなかったかもしれません。

はたしてどれぐらい変化しているものなのでしょうか?

いよいよ驚愕の結果発表です。





ダラダラダラダラダラダラダラダラ~ (ドラムロールです)





体重64.4kg → 64.0kg、体脂肪率22.6% → 21.6%でしたあっ

おおっ、みごとに減っているじゃないかっ

重さは400gですか。

フーン。

あんなに出たのにたったそれだけかという気もするし、

ビーフステーキで考えるとそんなにあるのかという気もするし…。

まあビミョーな結果です。

それよりも驚いたのは体脂肪率の変化です。

えっ、ウ○コすると体脂肪率が変わっちゃうんですか?

しかも1%も

22%から21%のなかの1%って相当な割合ですよね。

体脂肪って身体に付いてる脂肪のことだと思っていたんですが、

ウ○コも脂肪の一部だったんですか?

だとしたら1日に10数回ウ○コをしたら体脂肪率1ケタの美ボディに生まれ変われるんですか?

まあ、体脂肪率の測定って別に脂肪量を直接測ってるわけじゃなくて、

電気を流してその抵抗か何かで測ってるだけで、けっこう誤差が出ると聞いていますし、

自分でも同じときに何回か測定してみるとそのたびに違う数値が出てくるので、

もともとそんなに信頼はしていなかったのですが、

それにしても排便前後でこんなに変わるとは思っていませんでした。

これからはできるかぎり体重測定は排便後に実施したいと思います。

第37回てつカフェ・ポスター完成!

2016-06-01 17:41:36 | 哲学・倫理学ファック
3日後に迫ってきた第37回てつカフェですが、

Facebook のイベントを作成したりしていい気になっていて、ポスターを作成するのを忘れていました。

もう掲示期間もあまりありませんが、いちおう大慌てで作ってみました。

こちらです。



まだ研究室の新しいA3プリンターで作成するだけの準備が整っていなかったので、

以前から使用している大型プリンターとそれとセットのアプリケーションソフトを使って作りました。

そして、今回はテーマがわかりやすいですのでよけいな説明文とかは抜きにして、

以前のような画像だけでテーマを表現する手法に立ち返ってみました。

本来なら今年に入ってからマスコミをにぎわせてくれた面々の画像を使いたいところですが、

さすがに皆さん著作権や肖像権をお持ちでしょうからそれは控えておきました。

まあでも、なかなかいい感じに仕上がったのではないでしょうか。

右下のグラフは画像検索したら出てきたものなので出所がわからず、

どこまで信用していいかわかりませんが、なかなか面白いデータです。



若い人ほど不倫はゼッタイに許されないと思っている人の割合が高いのですね。

それはわかるような気がします。

イニシエーション・ラブをまだ通過していない純粋な若者は、

恋愛や結婚が永遠に続くべきものと信じているのでしょう。

それはとても素晴らしいことですが、年を経るにしたがってその割合は減っていき、

10代と60代では、ゼッタイに許されないと思っている人と、

好きになってしまったら仕方ないと考えている人の割合がちょうど逆転しているのが印象的です。

この問題、世代によって答えに差が出るテーマなのかもしれませんね。

今度の土曜日、ぜひいろいろな世代の人が集まって、

「〈不倫〉 はイケナイのか」 についてみんなで考え話し合ってみましょう!