今回も、「私が社会人になって、どんな勉強をしたか? その結果、どんな事が出来たか?」と言う事を書きます。次回にも続きますが、我慢して読んで下さい。
【計測器とセンサー】
私は、現役時代・40年の内、30年以上を機械の研究/開発に携わりました。種々の分野の機械でした。機械を開発する上では、計測器とセンサーの性能の向上と価格変化などの情報、原理などの知識が非常に重要でした。 私は若い時から、計測器とセンサーのカタログを集め、専用のノートにメモを取っていました。パソコンを使う様になってからは、データーベースが作成出来るソフトを買って、メモを整理しました。
極低温(-270℃程)の機械から600℃以上の高温になる機械を扱ったので、温度センサーも種々の物が必要になりました。 圧力センサーでは、圧力が『0.2秒間』に300kg/cm2(≒29MPa)まで上昇する状況のデーターを採取して、解析する必要も有りました。
小さな機械を開発する時、回転軸の振動を測定する必要が有りました。 ケンブリッジ大学の教授が発明した超小形の変移センサーを改良して、専用の変移センサーを作った事も有ります。
【振動と騒音の計測器】
前々回(7月25日)のブログに、「1972年頃に振動と騒音について勉強した」と書きました。その時、FFT(高速フーリエ変換器)という測定器を借りて、使用しました。大きさは独身者向けの冷蔵庫ほど有りましたが、キャスターが付いていたので”ポータブル”と言う事になっていました。価格は、私の100カ月分の給料より高かったです。
1985年に取り組んだ開発では、FFTがどうしても必要でした。それまで計測器には殆ど取り組んでいなかった、パナソニックが100万円台でFFTの販売を開始しました。開発費を工面して、直ぐに1台購入しました。納入に来たパナソニックの営業マンと小一時間雑談しました。
FFTを開発した技術者達は、「先行他社製品よりコンパクトで高性能だから400万円ほどで売りたい」、営業部隊は「計測器分野では実績が無いから、250万円で売る」と言って、収拾が付かなかったそうです。 まだ御存命だった松下幸之助に相談したそうです。「そんな優れた製品の販売予定台数を○✕台にしては駄目だ、△△にしたら幾らで売れるか?」と言われたそうです。 それで、思い切って100万円台で販売を開始したのです。
1996年に中小企業に出向した時、パナソニックのFFTを買って、製紙工場の設備診断を始めました。FFTを納入に来た営業マンに幸之助の決断の話しをして見ましたが、「聞いた事が無かった」と言いました。
私は1972年から騒音計を持って、各地に出張しました。 当時の騒音計は凄く高価で、質量が2~3kgも有ったので、旅行も測定も結構大変でした。
今年の5月に、近所の広い庭の改修工事を始めたのですが、けたたましい騒音と物凄い粉塵が発生しました。奥さん達は洗濯物を取り込んで、工務店の責任者に抗議したのですが、平謝りするだけで、彼は「あと5日間だけ我慢して下さい!」と言い続けました。私が、「規制値を大幅にオーバーしている、騒音計を持って来て測定しなさい」と言うと、彼は「騒音計は持っていません」→→私が「amazonで数千円で売っている、今注文したら明日か明後日には入手出来る」・・・結局手作業で工事を続けました。 「騒音計さえ持っていない工務店に仕事をさせてはいけない!」と思いました。市は、こんな工務店を野放しにしてはいけません!
(笑い話し) 周囲が田圃の下水処理場から、引き合いを頂いて、昼間と深夜の暗騒音を測定した事が有ります。昼間の騒音は規制値以下でしたが、深夜に行って見ると、笑うしか有りませんでした! 溝や田圃の中で食用蛙達が大合唱していたのです。騒音規制法を考えた政治家も官僚も食用蛙まで、考えが至らなかったのです。
【営業活動と顧客対応】
私は、営業担当者が経験した事の無い機械に、設計者として携わりました。どういう顧客に、どういう風に売り込むか?営業担当者と一緒に考える必要が有りました。 入社したK社だけで無く、出向してからも同じでした。
K社に入社して2年目に故・海部八郎氏が育てた優秀な『海部軍団』のメンバーに営業活動のやり方を教えて頂きました。その直ぐ後に、大手重電のHT社の優秀な営業マン(FS氏)に事細かく指導して頂きました。国内だけで無く、外国の裏情報も勉強出来ました。 (FS氏は、私を実の弟の様に指導してくれました。)
【法律】
法律に規制されない機械も有りますが、私が開発した機械では、皆さんが予想される以上に沢山の法律を勉強する必要が有りました。 例えば、電気事業法、原子炉基本法、高圧ガス保安法、建築基準法、騒音規制法、振動規制法、特許法、製造物責任法(PL法)などなど・・・ (『ウイキペディア 産業法』で検索して見て下さい。ビックリするほど沢山の法律が存在します!)
(余談) 現在は、全ての法律がインターネット上に公開されて、無料で読む事が出来ます。法律以外にも、種々の『技術基準』があり、高圧ガス関係では『質疑応答集』が有ります。 刑事事件や民事事件では、弁護士と相談しますが、設計や製造関係の法律は設計者が法律や技術基準を精読して、法律が要求している事項を加味した図面と各種要領書を作成します。
(余談) 私は各種・産業法を読んだので、民法、刑法、地方自治法・・・を時々、暇つぶしに読みました。 『軽犯罪法』は短いので、法律の入門書としては打って付けです。但し、「こんな法律は世界に例が無いのでは? それほど日本人は行儀が悪いのか?」考えさせられます。
【規格】
戦後・長い間、JISの正式名称は日本工業規格でしたが、2019年からは日本産業規格になりました。JISは国際規格(ISO)に近づいて、現在は殆どISOを翻訳した様な内容になっています。
(余談) 私は入社2年目(1972年)から、ISOで設計していました。当時は『イソ』と呼んでいたので、つい『イソ』と言ってしまい、皆さんに笑われました。 現在・JISは日本規格協会が有料で出版していますが、法律と同様に「インターネット上に公開して、無料で読める様にすべきだ!」と考えます。
「アメリカは唯我独尊の国だ!」と私は思います。アメリカの規格は独特です。アメリカ政府では無くて米国国家規格協会(ANSI :American National Standards Institute)が、下部組織(280以上の団体)が作成した規格を認定して、ANSI規格として発行しています。 他に、材料の規格=ASTM(アメリカ材料試験協会規格)、石油プラントの規格=API規格(アメリカ石油協会の規格)などが有ります。アメリカ以外の国に建設されるプラントでも、ANSI、ASTM、API規格が要求される事が多々有ります。
船舶が典型ですが、保険に入るためには船級協会の基準で設計/製造する必要が有ります。日本では日本海事協会(NK)、イギリスはロイド船級協会、アメリカ船級協会等々・・・。 製造物責任法(PL法)が厳しい国に輸出する場合は、製造物責任保険(PL保険)に加入しますが、この場合は保険会社の基準で設計/製造する必要が有ります。
(余談) 私が、輸出が多いい工場の設計に所属していた時、関連する外国の規格が改定されると、入社三、四年までの若手社員を動員して、改定点を急いで翻訳し/纏めていました。私は年齢制限を超えていましたが、何故か?メンバーに選ばれました。(オリンピックのサッカーだったら、名誉なことですが!)
【気体軸受】
MRI(核磁気共鳴画像法)やリニア新幹線には、超電導マグネットが使用されます。マグネットを極低温(-270℃ほど)に冷やす必要が有りますが、液体ヘリウムで冷却する以外に方法が有りません。
極低温近くまで冷却したヘリウム・ガスを膨張させると液体になります。 少量を液化する装置では、レシプロ膨張機が使用されますが、1時間に数十リットル以上の液体ヘリウムを得る装置では、膨張タービンが必要になります。私は、膨張タービンの開発に携わりました。
大雑把な話をしますが、ラジアルタービンでは、流入するガスの音速で羽根を回転させると高効率になります。 ガスの温度が低下すると、音速も下がります。 然し、気体のヘリウムは極低温になっても音速は高いので、タービンの羽根を高速で回転させる必要が有るのです。 市販の軸受が使用出来無いので、気体軸受の自作が不可欠になります。
私は最初に、液化能力・50、100、150リットル/時間・3機種のヘリウム液化機用の膨張タービンを開発しました。軸受は静圧気体軸受でした。 次はティルティングパッド形動圧気体軸受を用いた、500リットル/時間用膨張タービンの開発に参加しました。 最初の静圧気体軸受の開発には手こずりましが、ほぼ1年間で完成しました。
ティルティングパッド形動圧気体軸受は6か月程で完成したので、周りの社員達は「私は天才だ!」と思ったでしょう。 種明かしすると、以前に担当したガスタービンの軸受がティルティングパッド形油圧軸受だったので、原理/形状/加工方法に付いて勉強していたのです。
ヘリウム膨張タービンの開発には、それまでに蓄積していた知識と経験をフル動員しました。大きなキングファイル2冊分程の英文の論文を短時間に読破する必要が有り、FFTを用いた振動解析、銀ロウ付け技術などなど。不足していたのは精密機械加工技術でした。
(余談 :精密機械加工) ヘリウム膨張タービンの開発には精密機械加工が不可欠でした。私が勤務していたK社の協力会社には対応出来る会社が無かったので、探したのですが、”なんと!”私の家から歩ける距離(2km程)の所に、(日本を代表する様な)素晴らしい会社(前田精密製作所)が有ったのです。 当時の社長は、故・前田豊三郎氏で、東京工業大学で機械を勉強された様でした。 精密機械加工に一生を捧げた様な方でした。 (私とは、親子程の年齢差が有りましたが、対等に付き合って頂きました。)
社長は商売抜きで、私に精密機械加工について初歩から教えてくれました。「新しい機械が入ったから見においで!」とか電話してくれ、機械の特徴を説明してくれた後で、美味しいコーヒーを飲みながら工学の話しをしました。故・前田豊三郎氏は、私の大切な恩人の一人です!
(余談 :ミスが金の卵を産む事も有ります!) 最初に開発した静圧気体軸受・膨張タービンは軸径がφ9.5mm、φ12mm、φ15mmの3機種でした。3機種の常温実験が出来る実験装置を製作しました。ある日、φ12mmの実験をしたのですが、実験担当者がφ9.5mmだと勘違いして加速しました。 (当時・公表されていた論文では、)Φ12mmでは出せない回転数で問題無く運転していたのです。
ギネスブック級の素晴らしい結果が得られたので、「若い社員に国際学会で発表させたい」と上申したのですが、頭の固い上層部が許可してくれませんでした。せっかく、「気体軸受は従来の常識以上の高速でも使用出来る」事を証明出来たのに、”金の卵”をカチンカチンの岩の上に生んだので、割れてしまいました!
【パソコン】
ガスタービンの技術提携先のノールウェーの兵器廠(KB社)は、1972年に既に大形コンピューターを用いた社内メールシステムを構築していました。 私の会社(K社)でもIBMの大形コンピューターを導入していましたが、社内メールシステムの導入はずっと後になってからでした。 当時は、各工場と各営業所に端末機を電話回線で接続して、予備品の受注データの遣り取り、案件の予算管理等に活用していました。
1982年にNECが9800シリーズのPCを発売しました。直ぐにK社は導入しました。私はベーシック(BASIC)と言う言語を勉強して、簡単なプログラムを作成して、技術計算をしました。 98PCは高価だったので、1985年頃に自分でNECの88PCを買って家で使いました。その後直ぐに、富士通のワープロ(オアシス)も買って、家で報告書等を作成しました。
K社の一部の部署で、1991年にアップルのパソコン(PC)を用いた、社内メールシステムがやっと導入されました。私にも専用のPCが支給されたのです。私の所属していた部署では、部長が部員全員を集めて、「1年以内にPCの操作をマスター出来無かったら、辞めてもらう」、「PCに慣れるまでは、勤務時間中にゲームをやって良い」と言われました。その日から、部長も含めた古手の社員達は、日中にゲームを楽しんでいました。
お陰様で、私は、会社からアップルのPCが支給された日から操作出来ました。そして、私にとってPCは不可欠な存在になりました。 それから5年程して中小企業に出向したのですが、「専用のPCを用意してくれる事」と言う条件を出しました。当時・まだ中小企業では、PCを導入している所は少なかったのです。
(余談) 現在は購入したPCが壊れていたと言う様な事は考えられませんが、当時は時々有りました。前述の部は50台ほど一度に購入したのですが、マッキントッシュの若い担当者が、その一台を使って簡単な操作説明を始めようとしました。よりにもよって、その1台は壊れていたのです。マッキントッシュ君は必死の形相で、「何とかしよう!」としましたが、埒が明きません。誰かが、「別のパソコンを使ったら!」とアドバイスしたら、マッキントッシュ君は「そういう手も有ったんだ!」と言う様な顔をしました。
(余談) 2001年に出向した会社が準備してくれていたPCは中古品で、直ぐにハードディスクが壊れてしまいました。 加古川市に大西ジムと言う会社が有りますが、当時は全国的にPCを売っていました。会社が近くだったので、大西ジムに買いに行ったのですが、年齢を聞かれました。「55歳」と答えると、「50歳以上の方には売れません」と言うのです。老人に売ったら、交換出来無くて、「引き取れ」と要求するので年齢制限を設けていたのです。「交換出来無くても返品しない」と言う念書を書いて、売ってもらいました。
ハードディスクの交換は簡単でしたが、OSのウインドウズを再インストールするのに手間取りました。(当時のPCにはバックアップCDが付いていました。) 画面に表示される通りに操作しても、微妙なタイミングが要求され→途中で進まなくなり→最初からやり直し! この繰り返しで、結局・3日ほど掛かってヤット出来ました。(現在のウインドウズは、簡単に再インストール出来るそうです。)
【計測器とセンサー】
私は、現役時代・40年の内、30年以上を機械の研究/開発に携わりました。種々の分野の機械でした。機械を開発する上では、計測器とセンサーの性能の向上と価格変化などの情報、原理などの知識が非常に重要でした。 私は若い時から、計測器とセンサーのカタログを集め、専用のノートにメモを取っていました。パソコンを使う様になってからは、データーベースが作成出来るソフトを買って、メモを整理しました。
極低温(-270℃程)の機械から600℃以上の高温になる機械を扱ったので、温度センサーも種々の物が必要になりました。 圧力センサーでは、圧力が『0.2秒間』に300kg/cm2(≒29MPa)まで上昇する状況のデーターを採取して、解析する必要も有りました。
小さな機械を開発する時、回転軸の振動を測定する必要が有りました。 ケンブリッジ大学の教授が発明した超小形の変移センサーを改良して、専用の変移センサーを作った事も有ります。
【振動と騒音の計測器】
前々回(7月25日)のブログに、「1972年頃に振動と騒音について勉強した」と書きました。その時、FFT(高速フーリエ変換器)という測定器を借りて、使用しました。大きさは独身者向けの冷蔵庫ほど有りましたが、キャスターが付いていたので”ポータブル”と言う事になっていました。価格は、私の100カ月分の給料より高かったです。
1985年に取り組んだ開発では、FFTがどうしても必要でした。それまで計測器には殆ど取り組んでいなかった、パナソニックが100万円台でFFTの販売を開始しました。開発費を工面して、直ぐに1台購入しました。納入に来たパナソニックの営業マンと小一時間雑談しました。
FFTを開発した技術者達は、「先行他社製品よりコンパクトで高性能だから400万円ほどで売りたい」、営業部隊は「計測器分野では実績が無いから、250万円で売る」と言って、収拾が付かなかったそうです。 まだ御存命だった松下幸之助に相談したそうです。「そんな優れた製品の販売予定台数を○✕台にしては駄目だ、△△にしたら幾らで売れるか?」と言われたそうです。 それで、思い切って100万円台で販売を開始したのです。
1996年に中小企業に出向した時、パナソニックのFFTを買って、製紙工場の設備診断を始めました。FFTを納入に来た営業マンに幸之助の決断の話しをして見ましたが、「聞いた事が無かった」と言いました。
私は1972年から騒音計を持って、各地に出張しました。 当時の騒音計は凄く高価で、質量が2~3kgも有ったので、旅行も測定も結構大変でした。
今年の5月に、近所の広い庭の改修工事を始めたのですが、けたたましい騒音と物凄い粉塵が発生しました。奥さん達は洗濯物を取り込んで、工務店の責任者に抗議したのですが、平謝りするだけで、彼は「あと5日間だけ我慢して下さい!」と言い続けました。私が、「規制値を大幅にオーバーしている、騒音計を持って来て測定しなさい」と言うと、彼は「騒音計は持っていません」→→私が「amazonで数千円で売っている、今注文したら明日か明後日には入手出来る」・・・結局手作業で工事を続けました。 「騒音計さえ持っていない工務店に仕事をさせてはいけない!」と思いました。市は、こんな工務店を野放しにしてはいけません!
(笑い話し) 周囲が田圃の下水処理場から、引き合いを頂いて、昼間と深夜の暗騒音を測定した事が有ります。昼間の騒音は規制値以下でしたが、深夜に行って見ると、笑うしか有りませんでした! 溝や田圃の中で食用蛙達が大合唱していたのです。騒音規制法を考えた政治家も官僚も食用蛙まで、考えが至らなかったのです。
【営業活動と顧客対応】
私は、営業担当者が経験した事の無い機械に、設計者として携わりました。どういう顧客に、どういう風に売り込むか?営業担当者と一緒に考える必要が有りました。 入社したK社だけで無く、出向してからも同じでした。
K社に入社して2年目に故・海部八郎氏が育てた優秀な『海部軍団』のメンバーに営業活動のやり方を教えて頂きました。その直ぐ後に、大手重電のHT社の優秀な営業マン(FS氏)に事細かく指導して頂きました。国内だけで無く、外国の裏情報も勉強出来ました。 (FS氏は、私を実の弟の様に指導してくれました。)
【法律】
法律に規制されない機械も有りますが、私が開発した機械では、皆さんが予想される以上に沢山の法律を勉強する必要が有りました。 例えば、電気事業法、原子炉基本法、高圧ガス保安法、建築基準法、騒音規制法、振動規制法、特許法、製造物責任法(PL法)などなど・・・ (『ウイキペディア 産業法』で検索して見て下さい。ビックリするほど沢山の法律が存在します!)
(余談) 現在は、全ての法律がインターネット上に公開されて、無料で読む事が出来ます。法律以外にも、種々の『技術基準』があり、高圧ガス関係では『質疑応答集』が有ります。 刑事事件や民事事件では、弁護士と相談しますが、設計や製造関係の法律は設計者が法律や技術基準を精読して、法律が要求している事項を加味した図面と各種要領書を作成します。
(余談) 私は各種・産業法を読んだので、民法、刑法、地方自治法・・・を時々、暇つぶしに読みました。 『軽犯罪法』は短いので、法律の入門書としては打って付けです。但し、「こんな法律は世界に例が無いのでは? それほど日本人は行儀が悪いのか?」考えさせられます。
【規格】
戦後・長い間、JISの正式名称は日本工業規格でしたが、2019年からは日本産業規格になりました。JISは国際規格(ISO)に近づいて、現在は殆どISOを翻訳した様な内容になっています。
(余談) 私は入社2年目(1972年)から、ISOで設計していました。当時は『イソ』と呼んでいたので、つい『イソ』と言ってしまい、皆さんに笑われました。 現在・JISは日本規格協会が有料で出版していますが、法律と同様に「インターネット上に公開して、無料で読める様にすべきだ!」と考えます。
「アメリカは唯我独尊の国だ!」と私は思います。アメリカの規格は独特です。アメリカ政府では無くて米国国家規格協会(ANSI :American National Standards Institute)が、下部組織(280以上の団体)が作成した規格を認定して、ANSI規格として発行しています。 他に、材料の規格=ASTM(アメリカ材料試験協会規格)、石油プラントの規格=API規格(アメリカ石油協会の規格)などが有ります。アメリカ以外の国に建設されるプラントでも、ANSI、ASTM、API規格が要求される事が多々有ります。
船舶が典型ですが、保険に入るためには船級協会の基準で設計/製造する必要が有ります。日本では日本海事協会(NK)、イギリスはロイド船級協会、アメリカ船級協会等々・・・。 製造物責任法(PL法)が厳しい国に輸出する場合は、製造物責任保険(PL保険)に加入しますが、この場合は保険会社の基準で設計/製造する必要が有ります。
(余談) 私が、輸出が多いい工場の設計に所属していた時、関連する外国の規格が改定されると、入社三、四年までの若手社員を動員して、改定点を急いで翻訳し/纏めていました。私は年齢制限を超えていましたが、何故か?メンバーに選ばれました。(オリンピックのサッカーだったら、名誉なことですが!)
【気体軸受】
MRI(核磁気共鳴画像法)やリニア新幹線には、超電導マグネットが使用されます。マグネットを極低温(-270℃ほど)に冷やす必要が有りますが、液体ヘリウムで冷却する以外に方法が有りません。
極低温近くまで冷却したヘリウム・ガスを膨張させると液体になります。 少量を液化する装置では、レシプロ膨張機が使用されますが、1時間に数十リットル以上の液体ヘリウムを得る装置では、膨張タービンが必要になります。私は、膨張タービンの開発に携わりました。
大雑把な話をしますが、ラジアルタービンでは、流入するガスの音速で羽根を回転させると高効率になります。 ガスの温度が低下すると、音速も下がります。 然し、気体のヘリウムは極低温になっても音速は高いので、タービンの羽根を高速で回転させる必要が有るのです。 市販の軸受が使用出来無いので、気体軸受の自作が不可欠になります。
私は最初に、液化能力・50、100、150リットル/時間・3機種のヘリウム液化機用の膨張タービンを開発しました。軸受は静圧気体軸受でした。 次はティルティングパッド形動圧気体軸受を用いた、500リットル/時間用膨張タービンの開発に参加しました。 最初の静圧気体軸受の開発には手こずりましが、ほぼ1年間で完成しました。
ティルティングパッド形動圧気体軸受は6か月程で完成したので、周りの社員達は「私は天才だ!」と思ったでしょう。 種明かしすると、以前に担当したガスタービンの軸受がティルティングパッド形油圧軸受だったので、原理/形状/加工方法に付いて勉強していたのです。
ヘリウム膨張タービンの開発には、それまでに蓄積していた知識と経験をフル動員しました。大きなキングファイル2冊分程の英文の論文を短時間に読破する必要が有り、FFTを用いた振動解析、銀ロウ付け技術などなど。不足していたのは精密機械加工技術でした。
(余談 :精密機械加工) ヘリウム膨張タービンの開発には精密機械加工が不可欠でした。私が勤務していたK社の協力会社には対応出来る会社が無かったので、探したのですが、”なんと!”私の家から歩ける距離(2km程)の所に、(日本を代表する様な)素晴らしい会社(前田精密製作所)が有ったのです。 当時の社長は、故・前田豊三郎氏で、東京工業大学で機械を勉強された様でした。 精密機械加工に一生を捧げた様な方でした。 (私とは、親子程の年齢差が有りましたが、対等に付き合って頂きました。)
社長は商売抜きで、私に精密機械加工について初歩から教えてくれました。「新しい機械が入ったから見においで!」とか電話してくれ、機械の特徴を説明してくれた後で、美味しいコーヒーを飲みながら工学の話しをしました。故・前田豊三郎氏は、私の大切な恩人の一人です!
(余談 :ミスが金の卵を産む事も有ります!) 最初に開発した静圧気体軸受・膨張タービンは軸径がφ9.5mm、φ12mm、φ15mmの3機種でした。3機種の常温実験が出来る実験装置を製作しました。ある日、φ12mmの実験をしたのですが、実験担当者がφ9.5mmだと勘違いして加速しました。 (当時・公表されていた論文では、)Φ12mmでは出せない回転数で問題無く運転していたのです。
ギネスブック級の素晴らしい結果が得られたので、「若い社員に国際学会で発表させたい」と上申したのですが、頭の固い上層部が許可してくれませんでした。せっかく、「気体軸受は従来の常識以上の高速でも使用出来る」事を証明出来たのに、”金の卵”をカチンカチンの岩の上に生んだので、割れてしまいました!
【パソコン】
ガスタービンの技術提携先のノールウェーの兵器廠(KB社)は、1972年に既に大形コンピューターを用いた社内メールシステムを構築していました。 私の会社(K社)でもIBMの大形コンピューターを導入していましたが、社内メールシステムの導入はずっと後になってからでした。 当時は、各工場と各営業所に端末機を電話回線で接続して、予備品の受注データの遣り取り、案件の予算管理等に活用していました。
1982年にNECが9800シリーズのPCを発売しました。直ぐにK社は導入しました。私はベーシック(BASIC)と言う言語を勉強して、簡単なプログラムを作成して、技術計算をしました。 98PCは高価だったので、1985年頃に自分でNECの88PCを買って家で使いました。その後直ぐに、富士通のワープロ(オアシス)も買って、家で報告書等を作成しました。
K社の一部の部署で、1991年にアップルのパソコン(PC)を用いた、社内メールシステムがやっと導入されました。私にも専用のPCが支給されたのです。私の所属していた部署では、部長が部員全員を集めて、「1年以内にPCの操作をマスター出来無かったら、辞めてもらう」、「PCに慣れるまでは、勤務時間中にゲームをやって良い」と言われました。その日から、部長も含めた古手の社員達は、日中にゲームを楽しんでいました。
お陰様で、私は、会社からアップルのPCが支給された日から操作出来ました。そして、私にとってPCは不可欠な存在になりました。 それから5年程して中小企業に出向したのですが、「専用のPCを用意してくれる事」と言う条件を出しました。当時・まだ中小企業では、PCを導入している所は少なかったのです。
(余談) 現在は購入したPCが壊れていたと言う様な事は考えられませんが、当時は時々有りました。前述の部は50台ほど一度に購入したのですが、マッキントッシュの若い担当者が、その一台を使って簡単な操作説明を始めようとしました。よりにもよって、その1台は壊れていたのです。マッキントッシュ君は必死の形相で、「何とかしよう!」としましたが、埒が明きません。誰かが、「別のパソコンを使ったら!」とアドバイスしたら、マッキントッシュ君は「そういう手も有ったんだ!」と言う様な顔をしました。
(余談) 2001年に出向した会社が準備してくれていたPCは中古品で、直ぐにハードディスクが壊れてしまいました。 加古川市に大西ジムと言う会社が有りますが、当時は全国的にPCを売っていました。会社が近くだったので、大西ジムに買いに行ったのですが、年齢を聞かれました。「55歳」と答えると、「50歳以上の方には売れません」と言うのです。老人に売ったら、交換出来無くて、「引き取れ」と要求するので年齢制限を設けていたのです。「交換出来無くても返品しない」と言う念書を書いて、売ってもらいました。
ハードディスクの交換は簡単でしたが、OSのウインドウズを再インストールするのに手間取りました。(当時のPCにはバックアップCDが付いていました。) 画面に表示される通りに操作しても、微妙なタイミングが要求され→途中で進まなくなり→最初からやり直し! この繰り返しで、結局・3日ほど掛かってヤット出来ました。(現在のウインドウズは、簡単に再インストール出来るそうです。)