これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

植林から製材まで (その2)

2021-07-10 10:32:47 | 山林の問題
【はじめに】
 今回も木を育てる仕事について書きます。 日本の国土の2/3は森林ですから、森林の有効活用と維持は非常に大切な課題です。 政治家や官僚に『任せきり』には出来ない問題です。 出来るだけ多くの国民に、森林や林業について勉強して頂きたいと私は考えています。

 車で山間部を走る時、山の話を時々しましたが、興味を示してくれた方は一人もいませんでした。 ブログに森林の記事を投稿しましたが、読んでくれる方は残念ながら少なかったです。 然し、敢えて書きました。

【関連記事】
 森林や木材に関して、過去に投稿した記事を御参考までに列記しておきます。

★ 植林から製材まで (その1) :2021年7月3日投稿
★ 森林破壊と再生        :2021年6月12日
★ 木材価格が高騰している様です! :2021年5月29日
★ 過疎地の新しい産業は!  :2018年6月23日

【④間伐】
 杉や檜を植林した山では、成長の遅い木や、幹が曲がった木を間引いて伐採します。 これが間伐です。 地面に『木漏れ日』がさす様に、木と木の間隔を空けてやります。 そうすると、雑草や羊歯(しだ)が生えて来ます。雑草と羊歯のお蔭で、大雨が降っても・貴重な土の流失が最小限に抑えられるのです。

 理想的な植林した山の管理は、適宜に枝打ちと間伐を行って雑草や羊歯が生えるようにし、年輪の幅が均一になる様に育てる事です。

 「どの木を間引くか?」は、所有者や山番が幹に紐を結んだり、ペンキを塗って作業者が分かる様にします。 大山林地主の場合は番頭さんが間引く木を指示していました。

 残す木を傷を付けない様に、倒す方向を決めて、斜めに切ります。 多くの場合、枝と枝が絡まっているので、狙い通りの方向に倒れてくれません。間伐作業の近くに立つのは非常に危険です。

 民家に近い山の場合は、間伐材は薪や稲干し竿に利用しました。 間伐材は一般に細く、曲がった木が多い等の為に、人手を掛けて持ち出しても利益が出ないケースが多かったです。 その為に山に放置しました。 現在は間伐材の有効活用に種々取り組んでいる様です。

(余談) 私が小学生のころ、近所のご主人(HM氏)が持ち山の間伐をしていました。 私達・子供は20~30m離れた安全な所で何か(?)していました。HM氏が大声で、「倒れるぞ!」と叫びました。 木が予想外の方向に倒れて、HM氏の母親の真上に倒れ、母親は即死でした。HM氏は好人物だったので、「監獄に入るのでは?」と心配していましたが、起訴猶予か?執行猶予か?で収監は免れました。

【⑤ 伐採(ばっさい)】
 木を鋸で切り倒すと、何種類かの長さ(3m、3.64m、4m)に切断します。 そして、一本一本の端面に所有者の刻印に墨を付けて打刻しました。 大雨で流された時、海の近くでキャッチして、刻印で所有者を判別して引き渡すシステムが有った様です。

 倒す時に他の木を傷を付けない様に、山の裾の方から伐採します。間伐の時と同様に、倒す方向を決めて斜めに切ります。 チェーンソーを使用しますから、比較的短時間に出来ます。

 二十歳代の方(A氏)が、今年・杉や檜を植林したとします。A氏が80歳まで生きたとすると、”まあまあ”の木に成長すると思われます。 良質の正目の柱を得るためには、孫かひ孫の代に伐採する事になります。 後述の『1枚板の木の襖』に使用できる様な巨木を得るためには、玄孫(やしゃご)、来孫(らいそん)の時代まで育てる必要が有るのです。

(余談 :白蝋病) 私が高校に入学した頃(1962年頃)から、故郷でもチェーンソーが使用される様になりました。(それまでは鋸でした。) チェーンソーを使用すると、作業時間が大幅に短縮されるので、短期間に普及しました。 そして、少しずつ白蝋病(はくろうびょう)に罹る方が増えて来ました。 重症の白蝋病患者は、チェーンソーが使用出来なくなってしまい→林業従事者として生活出来なくなります。

 日本の政府は何をやるのも遅いですね! 白蝋病が労災対象になったのは1977年です。 コンクリートを破壊するのを『斫り(はつり)』と呼びますが、振動の激しい鑿岩機(さくがんき)が使用されます。斫り作業者も白蝋病の恐れが有るので、決められた作業時間しか働きません。(余程の事が無い限り、残業はしません。) 林業従事者も厳格に作業時間を守るべきだと考えます。

(余談 :流木の権利) 大雨で川に流された流木を取る事を黙認する慣習が有りました。 山林を所有しない村民が沢山いましたので、家や小屋を新築したり、修繕する為に必要な木材は、濁流を流れる木材を命がけでキャッチするか?川原に残された木材を拾うか?したのです。私が小学性だった頃、川下で一人流木に引っ張られて亡くなりました。

 集落にコンクリート造りの長さ数十メートルの堤防が有りました。 あと数十センチ増水すると堤防が水没しそうな状況の中で、近所のK氏が鳶口(とびぐち)で流木を取っていました。友人と二人で見に行きました。 K氏は、見事な技で流木の後部に鳶口を打ち込んで、堤防の方に引き寄せていました。 打ち込む位置を誤ると、人間が濁流に引っ張り込まれてしまうのです。

 紀州には欅(けやき)は殆ど生えていないので、貴重品です。 太い欅(けやき)が流れて来ました。 K氏は素晴らしい身のこなしで、直径数十センチも有る欅の丸太をゲットしました。 今でも、その時の状況を覚えています。 私は、この時からK氏を尊敬する様になりました。

 K氏は、その後すぐに私の家の隣に新築して、素晴らしい女性と結婚されました。 欅の丸太は大黒柱になっていました。 無口だったK氏が奥さんの影響(?)で多弁になり、愉快な人になりました。 私は帰省したら、K氏宅にお邪魔する様になり、大黒柱を眺めています。

【⑥ 乾燥】
 生木は多量に水を含んでいますから、急激に乾燥させると割れてしまいます。 割れが入ったら商品価値は、ガクンと低下してしまいます。 昔は、伐採したら道路の近くまで運んで、山に野積して数か月~一年間・乾燥させて出荷しました。

 竿(さお)として使う細い木材は皮をむいて乾燥させたと記憶していますが、太い木は皮付きで乾燥させていました。

【⑦ 木挽(こびき)】
 現在、屋久島以外では巨木は殆ど見られなくなっていますが、私が小学生だった頃(1955年前後)、大洪水の時、2回・巨木が川原に流れ着きました。直径が1.5m以上✕長さが4m近く有ったと記憶しています。 川原に流れ着いた木材は、所有者の刻印が有っても、欲しい人が貰って良い事になっていました。

 大鋸(おおが)と言う鋸で、木材から板や柱を切り出す職人を『木挽(こびき)』と呼びます。葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「遠江山中」に描かれています。 近所の木挽が使用していた大鋸はもっと幅が広かった様に記憶しています。

 昔は巨木の搬送が難しかったので、伐採現場の近くで木挽が板や柱にしました。 私の育った集落に木挽が一人住んでいて、川原に流れ着いた巨木は彼の物になったのです。 下校時に必ず彼の仕事を見物しました。「今日は、どこまで進んだか?」楽しみにしていました。  木挽職人は、大分前に絶滅してしまったのでは?と思います。 鋸・一挺で巨木から板や柱を切り出すには技術が必要ですが、根気も必要です。

(余談 :1枚板の木の襖) 昔の旧家では、部屋の仕切りや、押し入れに『1枚板の木の襖』が使用されていました。 襖の幅は半間(≒0.9m)ですから、巨木から木挽が切り出したのだと想像します。 母の実家の襖は全てピカピカに磨かれた『1枚板の木の襖』でした。

【⑧ 輸送】
 トラック輸送が毎年増えてきていましたが、私が小学校を卒業する(1960年)頃まで、筏(いかだ)で海まで搬送していました。 筏は、数本の丸太を大きな鎹(かすがい)で繋ぎ、貨物列車の様に紐で連結して、竿を操って川を下って行きました。

 小学生の頃、県道の大掛かりな改修工事をしました。日本丸か海王丸のマストにする丸太を運ぶ為だと言っていました。 長さが40m~50mほど有りそうな丸太を運ぶのを見学した記憶が有ります。

(余談 :筏からトラック輸送) 1958年頃から、難所の峠を通ら無くて良い様に、手掘り/発破のトンネル工事が始まりました。 トンネルは1960年頃に完成して、筏乗りは廃業してしまった様に記憶しています。 このトンネルは、今でも現役です。

【⑨ 製材】
 1960年代の前半に、私の集落に製材所が出来ました。 これが、村の最初の製材所だったと思います。 規模が小さかったので、大半の木材は田辺市の文里(もり)湾に有った製材所にトラックで運んでいました。 文里湾には貯木場が有り、その周辺に製材所が数軒有ったと記憶しています。

 文里湾の貯木場には、ソビエトから輸入した太い丸太が沢山浮かんでいて、一時期・活気がありました。 製材された木材(板、合板など)が輸入される様になって、現在は貯木場は無くなり、製材所が三カ所残っているだけの様です。 (製材所は山間部に数か所出来ています。)

 日本には大規模な製材所は少ないです。 日本一は、呉市に有る『中国木材』です。従業員が2,300名ほど、売り上げが1,200億円ほど有る様です。

(余談 バーク堆肥) コーナンなどのホームセンターでは『バーク堆肥』を売っています。バーク(Bark)とは樹皮の事です。 一般に針葉樹(杉、檜、松など)の樹液は作物の成長に害を及ぼす様です。針葉樹の樹皮にも樹液が含まれています。製材所で発生する樹皮は邪魔者だったのです。 私が子供の頃は、製材所で樹皮を燃やしていました。

 確か東京農大の先生(植村誠次氏?)だったと記憶するのですが、1960年代に、針葉樹の樹皮を堆肥にする方法(バーク堆肥の製造方法)を考案した様です。

 公共事業で使用する資材の単価を纏めた『土木工事積算標準単価』と言う本が毎年発行されます。バーク堆肥は発売される様になって直ぐに、この本に記載される様になりました。 街路樹を植える時等に、バーク堆肥を多量に使用します。 「国がバーク堆肥にお墨付きを与えた形になって、バーク堆肥が急激に普及したのだ」と私は思いました。

(余談 :私とバーク堆肥) バーク堆肥や腐葉土には種々の物が販売されています。シンプルな物は、20リットル入り袋で、バーク堆肥は700円程、腐葉土は1,000円程で入手出来ます。 私は鉢植えや花壇にバーク堆肥を入れています。 何でも程々が良い! 無闇矢鱈にバーク堆肥を入れると、肥料過多になってしまいます。

(余談 :私と有機肥料) 私は昔、古紙を水を使わないで『紙綿』にする機械を開発しました。 水分の多いい『魚のはらわた』や雑草に、『紙綿』を混ぜて有機肥料の原料を作る機械も開発しました。『植繊機』と命名して、商標登録しました。 現在、植繊機は(株)アーステクニカが製造販売しています。

 「有機肥料の作り方や業界の状況を勉強をする必要が有る」と考えて、(株)兵庫バークセンターを3回訪問して、苦労話を聞いたり、親切に色々教えて頂きました。

 葦(よし)、セイタカアワダチソウ、ツタ植物等を植繊機で粉砕して堆肥にする実験をしました。 私が有機農業を教えて頂いていた先生(HM氏)が、モンゴール人のテント『ゲル』に似た(プラスチック・シート製の)発酵槽を販売していたので、数セット購入しました。 一台の容量が4立方メートル程有りました。 HM氏の工場の空き地で、堆肥を作ったのです。 殆ど無臭で、一か月程で堆肥になりました。

 数軒の農家が、堆肥が出来たら使ってくれる約束をしてくれました。 HM氏の工場に様子を見に行くと、堆肥が全て無くなっていました。北島三郎氏の馬を預かっていた厩舎が軽トラで来て、「少し堆肥を分けてくれ」と言い、次に大型のトラックで来て、「馬が良く食べるから」と言って残り全部持っていったのだそうです! 私は大損害!で、約束して農家と社内に、言い訳するのが大変でした。

【結論 :私の主張】
 「杉や檜を育てる為には種々の手入れ(仕事)が必要だ!」と言う事が分かって頂けたと思います。 然し、日本には・林業従事者は45,000人しかおらず、一人が平均550ha(1km✕5.56km)もの広大な面積を管理する必要が有るのです。 高騰前の木材価格では、国からの補助金無しでは45,000人の林業従事者すら満足に食べていけ無かったのです。

 植林した山は、枝打ちや間伐を繰り返さないと良質の木が得られないだけでは無く、下草や羊歯が生えないと・大雨が降ると『土』が多量に流失してしまいます。 流出した『土』は川底に堆積するので、鮎が食べる苔が育たなくなってしまいます。 何らかの対策をしないと、清流が減ってしまいます。

 戦中と戦後に木材の需要が急激に増加し、全国で雑木林を伐採して杉や檜を植林しました。 その後、外国から安価な丸太や製材した板や木材チップが多量に輸入される様になって、国産の木材価格が少しずつ低下して来ました。 手入れをしないで放置する山が増加してきたので、植林から40年間の費用を国が全額援助する様になりました。 良質の木材を得る為には、40年は短すぎると思います。 国の出費を減らす事も重要ですから、『十把一絡げ』の考え方は止めて、植林に向かない山を選別をして、植林面積を減らす事が肝要だと思います。

 戦後、国は林道網の整備に莫大な金を投入してきました。 全国の森林を綿密に調査して、(ハザードマップの様な、)①雑木林が適切、②杉や檜の植林に適している・・・を示す地図を作成し、不要な林道は廃止すべきです。

 森林の維持/管理には、常識的な自由経済理論を適用しては駄目です! ①美しい自然を維持し、子孫に残す。②過疎地の崩壊を防ぐ!③上質の木材を育てる。・・・の様な、縦割り行政では無い・総合的な視点で政策を立案すべきです。

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【余談の余談 :ロシアの宝石】
 もう時効なので書きます。田辺市の文里湾にソビエト船が来ていた頃、船員達が宝石を隠し持って上陸していた様です。 宝石店の上得意で口の堅い人に限って、格安で売っていた様です。 義理の母から大きな宝石の付いたネクタイピンを四、五本頂きました。 そのうちの一本は、プラチナの台にエメラルドと思われる綺麗な大きな石が付いていました。 義理の母は、値段は言いませんでしたが、非常に高価だったとだけ言いました。 そのネクタイピンを着けて、迂闊にも銀座線の超!超!満員電車に乗ってしまったのです。 ドンドンと体がぶつかった瞬間、ネクタイピンは無くなっていました。