山本瀧之助の自伝だ。
ここで紹介する遺稿集中には河本亀之助のことは郷土の先輩・出版社の経営者を仄めかす「下り」がある程度で、ほとんど=まったく言及されない。郷土の後輩丸山鶴吉のことも同様だ。この遺稿集での山本の関心は中央官庁への陳情の成果とか中央官庁の高官たちとのコネクションとかといった人生の晴れがましい部分の記録保存だけだったのかもしれない。
それにしても軍医総監石黒と山本との関係を取り持ったのは誰だったのだろ?
多仁照広は山本と石黒との関係は明治34年に編集者五百木良三(「医海時報」)の招きを受け入れる形で眼病治療と雑誌編集の手伝いを行った中に出会いがあったように示唆している(本書77ページ)。
五百木はといえば正岡子規の知人だが、極めつけの大アジア主義者で、日露戦争後の我が国の朝鮮半島および満州政策面でミスリードした右翼の黒幕だった。あこがれの東京行きで山本が最初に頼った人物とはそのような御仁だった。
日本赤十字社は社長佐野常民の時代(1894)に西澤之助経営の国光社から雑誌「日本赤十字」を発行。国光社の印刷部門のトップは河本亀之助だったので軍医総監石黒(日本赤十字社社長、1917-1920)の日本赤十字社つながりで?
ちなみに河本と花房義質子爵(日本赤十字社長、1912-1917)の亡父瑞蓮@岡山とは遠縁にあたり、河本はむかし花房の父親を頼って故郷を後にしたことがあった。
山本が活躍できた時代状況に関してはたとえば金宗植「地方改良運動と青年政策」、東大日本史研究室紀要6(2002)、PP.23-43の説明が参考になる。日露戦後の日本の農村の疲弊とその再建策として民力としての青年團の活用が注目されたが、そういう時代の要請が山本らの活動の追い風になった訳だ。
青年団の軍事的転用を考案するのは田中義一(青年及青年団、第六巻第十号、大正4年に田中義一「田中義一「将来青年団体の採るべき道」」)だが、それは一田舎教師の山本の多分思いもつかないことだったろ。
山本もやがては軍の意向を受けた青年団組織化に加担させられていく。
執筆者には天野藤男もいるが、ほとんどは軍人。青年団運動が大正4年段階の軍部の思惑と合致したことをうかがわせる。明治維新後の新生日本に求心力を与えるために「忠君愛国」というイデオロギーを持ち込み、国防力の観点から青年層の組織化と教化が緊急課題だとドイツ留学を経験した田中は考えた。画像をクリックすると「青年及青年団、第六巻第十号」の目次を表示
しかし、大正4年2月中央報徳会主催の補習教育及び青年団体に関する協議会@文部大臣官邸に出席するなど、この大正4年段階には田中義一らと山本瀧之助とは一衣帯水の関係を構築していたようだ(本書130-132頁)。
この協議会には柳田國男も出席。
山本瀧之助遺稿集「青年団物語」、昭和8年
[目次]
標題
目次
序
初めて見た雜誌 / 1
一生の踏み出し / 2
日記の中から / 3
好友會を企つ / 5
靑年會を目ざして / 5
靑年黨の計劃 / 8
少年會の設立趣旨 / 9
日淸戰爭と少年會 / 12
眼を病む / 13
『田舍靑年』の著述 / 16
慈母の死 / 22
最初の先輩五百木良三氏 / 23
『日本』靑年會設立の議 / 24
『日本靑年』の發刊 / 28
いよ[イヨ]上京 / 30
初めて石黑子爵に御面會 / 31
國許の老父を東京に招く / 32
歸國 / 33
『地方靑年』を著す / 34
逆境靑年 / 36
『吉備時報』 / 38
地方靑年團體の第一義 / 40
靑年會役員講習會 / 42
千年村靑年會の創立 / 44
校長兼靑年會長となる / 47
廣島に赴き知事に面會 / 48
竹岡氏を偲ぶ / 50
初めて井上書記官芳川內相に面接 / 52
靑年會の發達 / 54
第五囘全國聯合敎育會に出席 / 58
一生一代の大演說 / 64
會議後 / 70
文部省へ資料提出 / 72
地方靑年團體概況 / 75
靑年團中央機關設置の議 / 82
町村記念壇の案 / 83
中央機關組織の運動 / 86
『良民』の發刊 / 87
靑年團に對する當局の方針 / 88
實業補習巡囘講師となる / 90
德富氏の賛辭 / 91
第一囘全國靑年大會の開催 / 93
文部省靑年團體調査委員を命ぜらる / 97
貴族院豫算委員會議事錄 / 98
第一囘靑年團調査委員會 / 107
初めて田中少將にお目にかゝる / 109
通俗敎育講習會 / 110
關西敎育博覽會に出品 / 111
關西敎育博覽會便り / 113
床次地方局長に知らる / 118
靑年團と師範敎育 / 120
奔走と訪問 / 121
當時の田澤靑年館理事 / 128
兩大臣連署の訓令の出る前 / 129
田中少將の歸朝 / 130
少年團と乃木大將 / 132
兩大臣連署の訓令出づ / 133
今昔の感 / 138
大正4年9月の青年団体に関する文部省・内務省の訓令と次官通達
大正七年五月、地方青年団の全国的な提携を実現した全国青年団連合大会が東大法学部講堂で開かれている。文部省・内務省は訓令を出し、青年団を国家主義的な修養組織とする露骨な干渉を加えてきた。これに対して大正デモクラシーのオピニオンリーダー吉野作造は、国家による青年団の統制と軍国主義道徳注入に痛烈な批判をおこなっている(『中央公論』大正七年六月号)。
なお、時代は下るが・・・・・
丸山鶴吉は昭和12年頃の壮年団を捉え「子の壮年団を基盤としてわが国家改造の希望を強く抱いていたが、大東亜戦争突入前、軍部がこの壮年団の実力を認め、無理に大政翼賛会の一翼に納めて「翼賛壮年団」に改編したために、私どもの提唱した私どもの提唱した壮年団の本旨を遠ざかり、政府の手先機関」、「軍部の手先となって団体に変貌したことは、今でも惜しいことと考えている」(丸山「70年ところどころ」、267ページ)と語っている。
ここで紹介する遺稿集中には河本亀之助のことは郷土の先輩・出版社の経営者を仄めかす「下り」がある程度で、ほとんど=まったく言及されない。郷土の後輩丸山鶴吉のことも同様だ。この遺稿集での山本の関心は中央官庁への陳情の成果とか中央官庁の高官たちとのコネクションとかといった人生の晴れがましい部分の記録保存だけだったのかもしれない。
それにしても軍医総監石黒と山本との関係を取り持ったのは誰だったのだろ?
多仁照広は山本と石黒との関係は明治34年に編集者五百木良三(「医海時報」)の招きを受け入れる形で眼病治療と雑誌編集の手伝いを行った中に出会いがあったように示唆している(本書77ページ)。
五百木はといえば正岡子規の知人だが、極めつけの大アジア主義者で、日露戦争後の我が国の朝鮮半島および満州政策面でミスリードした右翼の黒幕だった。あこがれの東京行きで山本が最初に頼った人物とはそのような御仁だった。
日本赤十字社は社長佐野常民の時代(1894)に西澤之助経営の国光社から雑誌「日本赤十字」を発行。国光社の印刷部門のトップは河本亀之助だったので軍医総監石黒(日本赤十字社社長、1917-1920)の日本赤十字社つながりで?
ちなみに河本と花房義質子爵(日本赤十字社長、1912-1917)の亡父瑞蓮@岡山とは遠縁にあたり、河本はむかし花房の父親を頼って故郷を後にしたことがあった。
山本が活躍できた時代状況に関してはたとえば金宗植「地方改良運動と青年政策」、東大日本史研究室紀要6(2002)、PP.23-43の説明が参考になる。日露戦後の日本の農村の疲弊とその再建策として民力としての青年團の活用が注目されたが、そういう時代の要請が山本らの活動の追い風になった訳だ。
青年団の軍事的転用を考案するのは田中義一(青年及青年団、第六巻第十号、大正4年に田中義一「田中義一「将来青年団体の採るべき道」」)だが、それは一田舎教師の山本の多分思いもつかないことだったろ。
山本もやがては軍の意向を受けた青年団組織化に加担させられていく。
執筆者には天野藤男もいるが、ほとんどは軍人。青年団運動が大正4年段階の軍部の思惑と合致したことをうかがわせる。明治維新後の新生日本に求心力を与えるために「忠君愛国」というイデオロギーを持ち込み、国防力の観点から青年層の組織化と教化が緊急課題だとドイツ留学を経験した田中は考えた。画像をクリックすると「青年及青年団、第六巻第十号」の目次を表示
しかし、大正4年2月中央報徳会主催の補習教育及び青年団体に関する協議会@文部大臣官邸に出席するなど、この大正4年段階には田中義一らと山本瀧之助とは一衣帯水の関係を構築していたようだ(本書130-132頁)。
この協議会には柳田國男も出席。
山本瀧之助遺稿集「青年団物語」、昭和8年
[目次]
標題
目次
序
初めて見た雜誌 / 1
一生の踏み出し / 2
日記の中から / 3
好友會を企つ / 5
靑年會を目ざして / 5
靑年黨の計劃 / 8
少年會の設立趣旨 / 9
日淸戰爭と少年會 / 12
眼を病む / 13
『田舍靑年』の著述 / 16
慈母の死 / 22
最初の先輩五百木良三氏 / 23
『日本』靑年會設立の議 / 24
『日本靑年』の發刊 / 28
いよ[イヨ]上京 / 30
初めて石黑子爵に御面會 / 31
國許の老父を東京に招く / 32
歸國 / 33
『地方靑年』を著す / 34
逆境靑年 / 36
『吉備時報』 / 38
地方靑年團體の第一義 / 40
靑年會役員講習會 / 42
千年村靑年會の創立 / 44
校長兼靑年會長となる / 47
廣島に赴き知事に面會 / 48
竹岡氏を偲ぶ / 50
初めて井上書記官芳川內相に面接 / 52
靑年會の發達 / 54
第五囘全國聯合敎育會に出席 / 58
一生一代の大演說 / 64
會議後 / 70
文部省へ資料提出 / 72
地方靑年團體概況 / 75
靑年團中央機關設置の議 / 82
町村記念壇の案 / 83
中央機關組織の運動 / 86
『良民』の發刊 / 87
靑年團に對する當局の方針 / 88
實業補習巡囘講師となる / 90
德富氏の賛辭 / 91
第一囘全國靑年大會の開催 / 93
文部省靑年團體調査委員を命ぜらる / 97
貴族院豫算委員會議事錄 / 98
第一囘靑年團調査委員會 / 107
初めて田中少將にお目にかゝる / 109
通俗敎育講習會 / 110
關西敎育博覽會に出品 / 111
關西敎育博覽會便り / 113
床次地方局長に知らる / 118
靑年團と師範敎育 / 120
奔走と訪問 / 121
當時の田澤靑年館理事 / 128
兩大臣連署の訓令の出る前 / 129
田中少將の歸朝 / 130
少年團と乃木大將 / 132
兩大臣連署の訓令出づ / 133
今昔の感 / 138
大正4年9月の青年団体に関する文部省・内務省の訓令と次官通達
大正七年五月、地方青年団の全国的な提携を実現した全国青年団連合大会が東大法学部講堂で開かれている。文部省・内務省は訓令を出し、青年団を国家主義的な修養組織とする露骨な干渉を加えてきた。これに対して大正デモクラシーのオピニオンリーダー吉野作造は、国家による青年団の統制と軍国主義道徳注入に痛烈な批判をおこなっている(『中央公論』大正七年六月号)。
なお、時代は下るが・・・・・
丸山鶴吉は昭和12年頃の壮年団を捉え「子の壮年団を基盤としてわが国家改造の希望を強く抱いていたが、大東亜戦争突入前、軍部がこの壮年団の実力を認め、無理に大政翼賛会の一翼に納めて「翼賛壮年団」に改編したために、私どもの提唱した私どもの提唱した壮年団の本旨を遠ざかり、政府の手先機関」、「軍部の手先となって団体に変貌したことは、今でも惜しいことと考えている」(丸山「70年ところどころ」、267ページ)と語っている。