タイトル
電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究
著者
石井賚三 著
出版者
洛陽堂
出版年月日
大正10
河本俊三はこんな本を出版した。彼は白樺同人に対しても経営の負担になっていた彼らに対して相当嫌味なことを言って武者小路あたりからも嫌われていたらしい。胆力のなさと経営感覚のなさが痛い俊三だったように思われる。
河本俊三時代の出版物だが、こんなものをよく出版したものだ
石井賚三 は広島県人では?
沼隈郡松永町の吉井石井家の息子で得雄の弟、墓地は今津薬師寺石井一族の新墓地にある。東京帝大法科を卒業し、一時期朝日新聞名古屋支局長を務めるが、退職し、東京に出て入江屋石井家の再興のために企業経営(電気時計の製造)に乗り出すが、関東大震災などで被災するなど不運が重なり、失敗。ただ、いちはやく電気に注目した松下幸之助と同じ着眼点を持った起業家だった訳だ。石井は社交的だったこともあり東京在住の福山出身者の郷党組織・福山学生会の役員など努め、郷党の間に知己が多く、没後かれの追悼録が福山学生会雑誌掲載されていた。
三島蕭三(みしましょうぞう、高須村、東京帝大医科卒、法医学、関東大震災で被災。疎開させた娘は尾道高女に一時通学、瀬戸町出身の高須小学校校長三島静の息子ではなかったかと思っているところだが、大正13,14年頃尾道高女子に籍を置かれた娘さんのことを含め、いまだに消息不明状態)・石井賚三(らいぞう)
電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究
著者
石井賚三 著
出版者
洛陽堂
出版年月日
大正10
河本俊三はこんな本を出版した。彼は白樺同人に対しても経営の負担になっていた彼らに対して相当嫌味なことを言って武者小路あたりからも嫌われていたらしい。胆力のなさと経営感覚のなさが痛い俊三だったように思われる。
河本俊三時代の出版物だが、こんなものをよく出版したものだ
石井賚三 は広島県人では?
沼隈郡松永町の吉井石井家の息子で得雄の弟、墓地は今津薬師寺石井一族の新墓地にある。東京帝大法科を卒業し、一時期朝日新聞名古屋支局長を務めるが、退職し、東京に出て入江屋石井家の再興のために企業経営(電気時計の製造)に乗り出すが、関東大震災などで被災するなど不運が重なり、失敗。ただ、いちはやく電気に注目した松下幸之助と同じ着眼点を持った起業家だった訳だ。石井は社交的だったこともあり東京在住の福山出身者の郷党組織・福山学生会の役員など努め、郷党の間に知己が多く、没後かれの追悼録が福山学生会雑誌掲載されていた。
三島蕭三(みしましょうぞう、高須村、東京帝大医科卒、法医学、関東大震災で被災。疎開させた娘は尾道高女に一時通学、瀬戸町出身の高須小学校校長三島静の息子ではなかったかと思っているところだが、大正13,14年頃尾道高女子に籍を置かれた娘さんのことを含め、いまだに消息不明状態)・