- 松永史談会 -

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石井賚三「電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究」大正10年、洛陽堂

2014年03月13日 | 断想および雑談
タイトル
電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究
著者
石井賚三 著
出版者
洛陽堂
出版年月日
大正10


河本俊三はこんな本を出版した。彼は白樺同人に対しても経営の負担になっていた彼らに対して相当嫌味なことを言って武者小路あたりからも嫌われていたらしい。胆力のなさと経営感覚のなさが痛い俊三だったように思われる。
河本俊三時代の出版物だが、こんなものをよく出版したものだ
石井賚三 は広島県人では?
  沼隈郡松永町の吉井石井家の息子で得雄の弟、墓地は今津薬師寺石井一族の新墓地にある。東京帝大法科を卒業し、一時期朝日新聞名古屋支局長を務めるが、退職し、東京に出て入江屋石井家の再興のために企業経営(電気時計の製造)に乗り出すが、関東大震災などで被災するなど不運が重なり、失敗。ただ、いちはやく電気に注目した松下幸之助と同じ着眼点を持った起業家だった訳だ。石井は社交的だったこともあり東京在住の福山出身者の郷党組織・福山学生会の役員など努め、郷党の間に知己が多く、没後かれの追悼録が福山学生会雑誌掲載されていた。

三島蕭三(みしましょうぞう、高須村、東京帝大医科卒、法医学、関東大震災で被災。疎開させた娘は尾道高女に一時通学、瀬戸町出身の高須小学校校長三島静の息子ではなかったかと思っているところだが、大正13,14年頃尾道高女子に籍を置かれた娘さんのことを含め、いまだに消息不明状態)・石井賚三(らいぞう)
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鴨沂会雑誌第十二号(明治32年12月)

2014年03月13日 | 教養(Culture)
古書店で珍しい校友誌を見つけた。わたしは以前京都府立鴨沂高校の近所に10年程居住していた関係で鴨沂高校のテニス場隣の古風な洋館の存在には気づいていた。ところが、左程気にも留めなかったので、恥ずかしながら昔の記憶と鴨沂会とが結びついたのはついさっきのこと。いまは公益社団法人京都鴨沂会が古風な洋館=鴨沂会館を運営しているらしい。

所在地は河原町荒神口西入る、護浄院(通称 清三宝大荒神)の荒神口通りを挟んで北側。古風だけどモダンで京都府立文化芸術会館の建物ともども中々控えめだが品よい洋館だ。ここが京都鴨沂会館の場所。念のため再度表示!ここだ鴨沂会館
鴨沂会雑誌を見ると国学者猪熊夏樹の名前も・・・・。志知ふみが新設された日本女子大学校(高島平三郎は明治36年嘱託教授に就任)への進学希望を口にしたときに学校を愚弄するつもりかと叱ったという人だ。当時の志知はキリスト教社会主義関係の講演会(足尾鉱毒事件)に出入りし、女学校の教師たちからマークでもされていたのだろうか。


昭和11年十河安雄設計の鴨沂(おうき)会館

女子教育の重要性を力説していた高島平三郎「女子の天職」(進化論、遺伝という外来の新しい概念を紹介しつつ、男女の社会的分業を説き良妻賢母の奨励、文章を一読して感じることは高島は物事を順序立てて説明し知的にも当時としては垢抜けした感じ)。河原一郎は西川文子『平民社の女ー西川文子自伝』にも登場する京都府女学校在勤26年の名物校長。


わたしが入手したものは植木美津代(みつよ)という人物の所有物だった。彼女は現在の長崎市雲仙市出身で、宮家の子女が入学した日本有数の名門女学校:京都府高等女学校出の(裕福な家に生まれた)才媛だったようだ。肥前国南高来郡多比良村の植木といえば・・・・・植木元太郎という人物がGoogleすると簡単に検索できる。この人物の周辺に京都府立女学校卒の才女植木みつよ(美津代)はいたのだろうか。


鳳さとは後年、旧友志知ふみの兄善友と結婚


鳳さとは本書にいくつかの短歌を書いている。寄稿文は「質素倹約」の勧め、それに対して志知ふみは国民の健康を引き合いに出しながらの強国論。
共に古臭いお決まりのテーマ(雑誌の性格上「教訓」・「決意表明」が中心)だが、志知には当時から国家や社会に対して向けられる独特のまなざしというものがあった事が判る。
女学生の寄稿文を通覧すると「言語は心の絵なり」というのもある。「平安の都」とか「和歌の浦に遊ぶ」とか「香港の御話」とか、「汽車」「電信機」・・・・・これら以外は「目的なき舟には順風なし」といった優等生的というか教訓めいた型通りのものがやや目立つかな~
わたしが一番興味をひかれたのは当時の女学生たちの文体が近世的なものから近代的なものまで各人各様な点。

鴨沂会雑誌の分析例

この鴨沂会雑誌は京都府立総合資料館に明治23-昭和13分が所蔵されている。

児童研究1-8(明治32年)雑録(423頁)によれば、高島は明治32年3月23日 京都府教育会の招待講演会。24日より1週間児童心理学の集中講義(講習会)。
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日本美術画譜

2014年03月13日 | 断想および雑談
明治~昭和初期の本は広告が史料的に面白い。
鴨沂会雑誌に木版画を掲載した望月玉泉、前田玉英(望月玉泉門下)らは上村松園の画学校時代の顔見知りだが、望月は京都府女学校の教師になった。ここで紹介する画譜には望月の名前も・・・・。

タイトル
日本美術画譜. 上編
出版者
日本美術新報社
出版年月日
明43.2


望月玉渓と望月玉泉が同一人物ではない? この望月の名前と上村松園のそれが見受けられる。


望月玉泉の絵に猪熊夏樹の讃。かれらは明治32年段階にはともに京都府高等女学校で教鞭をとっていた。

玉泉と夏樹の筆跡が同筆に見えてしまう?!

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