松本恒吉「征露土産」、国光社、明39.3
陸軍歩兵大佐恒吉忠道(最終階級は少将)とは正岡子規の妹正岡律の最初の夫(律15歳で結婚し9か月で離縁された。律は恒吉の従兄妹)。
長堀均の序文は天皇皇后に対する謝辞に終始しているが、この種の間抜けな表現は北朝鮮国民が共産党トップを世襲する金一族に対して使うだけだけだろ


洛陽堂刊になる松本恒吉の著書
「日露戦役婦人の力」、洛陽堂 (1912/1/1)は大空社「女と戦争・第三巻」で復刊。


この中に松本恒吉が赤十字広島病院に入院中、看護婦として勤務していた河本テルとの会話が収録されている。
その中で、河本テルの方から、こまめに日記を書いていた松本に対し、原稿を本にしてみないかといった勧誘をしている。そのときテルは新聞記者が書いたものより、事実を記載したものの原稿としてはよいという意味のことを発言している。テルは松本に看護婦になるような女はろくでなしが多いというようなことを言い、揶揄う。それに対し、子供を残し仕事に従事せざるを得ない身の上など話しながら、松本の言葉によるジャブに涙を浮かべながら言い返している。このときの原稿を本にする商談が松本恒吉「征露土産」、国光社、明39.3という形で実現したもの。編集発行者は松本本人、発売元は松本家農場。そういう形式の出版を河本亀之助は洛陽堂時代も実践。
この当時看護婦鈴木テルには高島平三郎との間に出産直後に養子に出した謙ちゃん(猪瀬謙一)をもうけていた。
夫人の松本もと(1885-1955)
松本モト「貧女の一灯」T11
ジュネーブでの国際労働機関(ILO)の第3回総会及び国際婦人労働者会議に出席する政府側代表委員顧問として参加し、政府見解に沿った発言をした(河本亀之助『『かまくら及江の島 』1901も同様)。すなわち、労働問題についてのもとの考えは「献身的努力と温情の待遇」という言葉で表現されるもので、会議では政府見解に則って、農業労働者の就業時間制限の問題を討議事項から削除する立場をとったとされる。

陸軍歩兵大佐恒吉忠道(最終階級は少将)とは正岡子規の妹正岡律の最初の夫(律15歳で結婚し9か月で離縁された。律は恒吉の従兄妹)。
長堀均の序文は天皇皇后に対する謝辞に終始しているが、この種の間抜けな表現は北朝鮮国民が共産党トップを世襲する金一族に対して使うだけだけだろ



洛陽堂刊になる松本恒吉の著書
「日露戦役婦人の力」、洛陽堂 (1912/1/1)は大空社「女と戦争・第三巻」で復刊。


この中に松本恒吉が赤十字広島病院に入院中、看護婦として勤務していた河本テルとの会話が収録されている。
その中で、河本テルの方から、こまめに日記を書いていた松本に対し、原稿を本にしてみないかといった勧誘をしている。そのときテルは新聞記者が書いたものより、事実を記載したものの原稿としてはよいという意味のことを発言している。テルは松本に看護婦になるような女はろくでなしが多いというようなことを言い、揶揄う。それに対し、子供を残し仕事に従事せざるを得ない身の上など話しながら、松本の言葉によるジャブに涙を浮かべながら言い返している。このときの原稿を本にする商談が松本恒吉「征露土産」、国光社、明39.3という形で実現したもの。編集発行者は松本本人、発売元は松本家農場。そういう形式の出版を河本亀之助は洛陽堂時代も実践。
この当時看護婦鈴木テルには高島平三郎との間に出産直後に養子に出した謙ちゃん(猪瀬謙一)をもうけていた。
夫人の松本もと(1885-1955)
松本モト「貧女の一灯」T11
ジュネーブでの国際労働機関(ILO)の第3回総会及び国際婦人労働者会議に出席する政府側代表委員顧問として参加し、政府見解に沿った発言をした(河本亀之助『『かまくら及江の島 』1901も同様)。すなわち、労働問題についてのもとの考えは「献身的努力と温情の待遇」という言葉で表現されるもので、会議では政府見解に則って、農業労働者の就業時間制限の問題を討議事項から削除する立場をとったとされる。
