野取帳の表紙に注目
「鐘鋳久保 善性寺 附り 福寿庵」 より「上組 神本又吉」に至るとあり、鐘鋳久保は1810番地の土地の地名らしい。
野取帳中の1810番地は善性寺の所有地であった。
火葬場の東隣だった。
56番山は組持ち山、その一角に火葬場。
黄色丸マークの場所に比定できる。鐘鋳久保 善性寺 附り 福寿庵とあるので、ここでおそらくは善性寺
付属福寿庵が建っていたことが分かる。その場所の地名が鐘鋳(かねい)、つまり梵鐘を鋳造した久保=谷間のくぼ地。考古学的調査結果を待つ必要がある話なので梵鐘を鋳造したことのある場所云々には言及しないでおこう(その後の調査で同じ地名が沼隈郡東村・西村にあることが確認された。結論的に言えば梵鐘の鋳造地ではなく、釣り鐘状に抉られた谷間の形状起源の地名のようだ。ちなみに西村の鐘鋳久保は西村龍王山山頂に立地する龍王社の祠から福山大学のサッカー場側にかけての明治和紙公図上の地名)。今回取り上げた沼隈郡今津村の鐘鋳久保は火葬場はすでに別の場所に移転していたが、真っ赤な赤土土壌のとれたスプーンで抉ったような形状の小浸食谷の頭(谷頭部)に立地。その辺りで子供時代に土器探しを兼ねて土壌採取した記憶がある。
長波地区には今回紹介した福寿庵のほか、屋号の「尾庵」、通称地名の「長庵」など庵の呼称がつくものがある。
鐘鋳久保(かないくぼ)・・・・「カナイクボ」と言う地名は沼隈郡東村、同郡高須町や西村にも存在する。西村の場合は現在の福山大学の野球場・サッカー場から南の竹藪(一角に西村高オカミ社が立地)一帯、かなりこの地方ではポピュラーな地名だと判ろう。
「鐘鋳久保 善性寺 附り 福寿庵」 より「上組 神本又吉」に至るとあり、鐘鋳久保は1810番地の土地の地名らしい。
野取帳中の1810番地は善性寺の所有地であった。
火葬場の東隣だった。
56番山は組持ち山、その一角に火葬場。
黄色丸マークの場所に比定できる。鐘鋳久保 善性寺 附り 福寿庵とあるので、ここでおそらくは善性寺
付属福寿庵が建っていたことが分かる。その場所の地名が鐘鋳(かねい)、つまり梵鐘を鋳造した久保=谷間のくぼ地。考古学的調査結果を待つ必要がある話なので梵鐘を鋳造したことのある場所云々には言及しないでおこう(その後の調査で同じ地名が沼隈郡東村・西村にあることが確認された。結論的に言えば梵鐘の鋳造地ではなく、釣り鐘状に抉られた谷間の形状起源の地名のようだ。ちなみに西村の鐘鋳久保は西村龍王山山頂に立地する龍王社の祠から福山大学のサッカー場側にかけての明治和紙公図上の地名)。今回取り上げた沼隈郡今津村の鐘鋳久保は火葬場はすでに別の場所に移転していたが、真っ赤な赤土土壌のとれたスプーンで抉ったような形状の小浸食谷の頭(谷頭部)に立地。その辺りで子供時代に土器探しを兼ねて土壌採取した記憶がある。
長波地区には今回紹介した福寿庵のほか、屋号の「尾庵」、通称地名の「長庵」など庵の呼称がつくものがある。
鐘鋳久保(かないくぼ)・・・・「カナイクボ」と言う地名は沼隈郡東村、同郡高須町や西村にも存在する。西村の場合は現在の福山大学の野球場・サッカー場から南の竹藪(一角に西村高オカミ社が立地)一帯、かなりこの地方ではポピュラーな地名だと判ろう。