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パソコン上で行う高島平三郎の旧居宅探し パート2

2019年03月25日 | 高島平三郎研究
今回は「パソコン上で行う高島平三郎(1865‐1946)の旧居宅探し」の続篇だ。
高島平三郎の友人小田勝太郎(1862‐1935)の弟:融道玄(1872-1918)が雑誌「新仏教」に掲載したエッセイの中にそれを考えるヒントがある。

融皈一という筆名で雑誌「新仏教」に投稿した文章の一部だ。この文の前に高楠順次郎のところに本を返しに行ったときに、高楠から密教の教理を研究するより、博物館がスタッフ不足で困っている仏教美術史家を目指したらどうかと言われ、融道玄は仏師の倅じゃあるまいし、こんなご時世に骨董品いじりなどしている暇などない、バカバカしいと憤慨していた。そういうプライドをもった鼻っ柱の強いところがあったのだろうか。そして最後に高島平三郎のことに触れ、つぎのように記述していた。
1903年、道玄41歳のことだった。


明治22年の夏休みといえば高島25歳の事。その数か月前に当たる明治21年10月22日に学習院幼稚舎取締になったところで、我が国における児童教育界のリーダー的存在に就き始めたころのこと。このとき融は18歳で第三高等中学校に入りたて。家が近所で、親同士が懇意で道玄の兄小田勝太郎と高島とが友人関係にあったことから融は高島とはすぐに仲良くなれたらしい。お互いにインテリ同志だという意識が強かったのか相当の英語かぶれだったようだ。参考までに高島と融の身長差は25センチ位はあっただろか。融道玄はいわゆる永井潜同様の神童で、典型的な山椒は小粒でもピリリと辛い&歯に衣を着せぬ人だった。
この文章から高島の家は道玄の実家の「すぐ向こう側」にあったらしい。ってことは高島は城北にではなく士族屋敷の一角を占めた天神町辺りに住んでいたのか。この辺の問題は徹底的に追究していくつもりだ。まず最初に

いずれにせよ「パソコン上で探す高島平三郎の旧宅探し」は前回提示の仮説の修正を急がなければなるまい。

参考までに融道玄(後年高野山大学教授)は東京帝大初代梵語学講座教授(1897年)の高楠順次郎(三原時代の長谷川櫻南の教え子)に盾を突くくらいの人間だったので姉崎正治のように東京帝大における高楠の後継教授にはなれなかったし、当時流行していた留学経験がなかったために3年先輩の鈴木大拙のように国際的な活躍をすることなく46歳の若さで亡くなってしまう。高楠も姉崎も留学経験が豊富で、相当の語学の達人だった。


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松永史談会2019‐4例会のご案内

2019年03月25日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2019‐4例会のご案内

日時と場所
4月26日(金曜日)、午後1時半
3月例会と同じ、東村・石井さんのお宅

晴天時には15:30~16:30をめどに小学校の屋上より「屏風絵に描かれた『遺芳湾』」の実景を展望。

話題 福山の嘯雲嶋業(しょううんとうぎょう)編「備後国名勝巡覧大絵図(復刻版)」について。 


虚実を交えながら備後国および当該国内14郡の成立過程を説明。この中に嘯雲嶋業(メモ:金嶋嘯雲の方は明治25年に67歳なので、万延元年と言えば33歳。これが嘯雲嶋業その人であったのか否か。明治維新後さびれた福山から尾道に転居したヵ。どうなんだろ。)類似の人名の尾道図模写者:金嶋嘯雲)の神儒仏が渾然一体となったユニークな(=前科学的)思惟・思考の一端が垣間見れる(検討中)。

76-8 福山 嘯雲嶋業製 - 彫刀 西備福山 學古堂 萬延元年庚申二月發行 木版(彩色) 1舗 141.3×122.6cm(30.1×16.7cm) 舟里漁翁
印記: 蘆田文庫, 蘆田伊人圖書記
注記・解題: 袋付。出版者として「京都書林」とのみあり。その下は板木を削りとったと見える。袋の表に「清溪堂」「嘯雲字成賀」(朱角印)あり。裏に嘯雲堂著の近刊広告あり。この部分でも「皇都書肆」の下の板木を削りとっている。道路の朱は色刷り。

松平亮『東備郡村誌 高島』、天保8年

【解説】嘯雲嶋業と松平亮とはともに吉備国のルーツ説明を『大成経』の黄蕨譚に依拠。両者の違いは後者はこの典拠を明示の上、そういえばという形で高島宮旧跡付近には蕨が繁茂するというような話(根も葉もない話に現実味を付与.本居宣長『古事記伝』の主張を受け入れるかたちで、高島宮に関しては断定は避けながらも備前・高島は狭小すぎるとして、児島・宮之浦のほうがふさわしいと見ていた)を展開。ただ『大成経』が言うところの黄蕨⇒吉備説は疑問視し、代わりに寸簸(きび)⇒吉備説を提示。さらに備前の名山:箕山は「簸の山」の起源になった山だとし、ここからスサノオの八岐大蛇退治神話と連結した簸川⇒「簸(み)の山」説へと暴走。それに対し嘯雲嶋業の方は、どうも松平亮『東備郡村誌』の件は知っていたように思われるのだが、『大成経』の黄蕨(きび)譚を不正確に引用しながら、かつその典拠をさりげなく隠蔽(沈黙)、その上で五行思想の中での黄色の色彩象徴を下敷きにしつつ黄蕨国(「当国」=吉備国)が八州(=おおやしま)の中央だとの一歩踏み込んだ説明。神武天皇の高島宮の所在地を古都として捉え、その話は嘯雲嶋業の沼隈郡・宮崎村説へとつながっていく。この説は国府犀東『神武天皇鳳蹟志』(73-91頁)が紹介している通り、菅茶山『福山志料』説(巻之29、弁説・名勝雑事 「高島」)そのものだった。
嘯雲嶋業と松平亮といったある程度教養を身につけた御仁たちの学知的水準といったものも今から考えればその程度のものだったわけだ。
資料

ネット公開中の海図@東北大学

岩礁情報はこちらが豊富国土地理院の沼隈半島南部のゾワイ


『大成経』には言及のない神道研究家の労作。


国文学研究資料館蔵『備後国名勝巡覧大絵図

金嶋嘯雲関連のメモ
資料に関する注記

一般注記:
タイトル注記:原題簽存(中央双辺)。内題「備後国御調郡尾道市街地絵図」。
縹色表紙。表紙寸法18.5/12.9。書写者金嶋嘯雲は伝不詳。尾道の人か。
カテゴリ名:無し
資料の種別:地理 地図
資料の分類:一枚物-地理 地図 地方図 山陽道
公開範囲:ウェブ公開
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資料詳細
内容細目:
備後尾道市街の略地図。寺院と神社名、及び僅かの地名を注記する。彩色入り(山は緑、海は藍、道路は代赭色)。亀山士綱編『尾道志稿』(文化11年成)に拠るもので、図の右に尾道の建置沿革、諸方道法、名臣について補訂記事を記す。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)
解題・解説:
冒頭に書写識語「此ノ図ハ文化十三年丙子孟春尾道処士亀山士綱著ハス処尾道志十一冊第十之巻中ニ図スルヲ模写スル所也余地図ノ癖アリテ此書閲センコト既ニ年アリト雖得ル不能一日葛西喜水翁ト閑談ノ折リ其書籍ハ予カ家ニ蔵セリト乃チ借覧ヲ乞フ翁コレヲ赦ス仍テ熟読スルコト再三ニ至リ頗ル地勢沿革ヲ悟リ心欣然トシ老筆ヲ揮ヒ僅カ脱漏ヲ補フ明治廿五年壬辰八月四日六十七歳ノ老夫金嶋嘯雲此日陰雲醸雨嗚呼暑熱難堪」。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)








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