- 松永史談会 -

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阿部藩政をめぐるもう一つの断想

2019年03月12日 | 断想および雑談

本郷町の清光寺(無住寺)といえば本郷村の石井一統(上古屋・下古屋・下土居・増古屋・南などの屋号を有する石井一統)の墓地のあるところだが、明治40年に松永町に転居した端古屋の墓地は今津薬師寺の石井家墓地に移動していた。


笠付墓が5基(スペースの関係で2基は笠部分を廃棄)ある。『松永市本郷町誌』431‐433、712‐713頁によれば近世中期における本郷村きっての豪農だったらしい。初代庄左衛門(寛保3年歿)、二代目又三郎(宝暦2殁)そして三代目蘭蔵(文化)5年歿の時代にあたる。近世後期には藤江村の岡本山路家が江木鰐水らとの交流を重ねていたが、これは福山藩側からすれば太い献金のパイプを構築し、それを維持するためでもあったのだろ(幕府の御尋ね者で尊皇思想の唱導者森田節斎をかくまうに当たっては山路機谷と坂谷朗蘆・江木鰐水らは同志的連帯をした)。江木鰐水が書いた山路機谷編『未開牡丹詩』の序文には岡本山路氏に対する軍資金拠出の件が赤裸々に記載されているし、江木鰐水日記を読めば郡奉行の浜野徳蔵(濱野家は城下東町の足軽、子孫健在、徳蔵の息子は漢学者濱野章吉)が大量の鉄砲代金を献納(万延2年3月7日条、『江木鰐水日記』上巻、297頁)していたことが判る。能吏でもあった、この浜野の場合は幕末期の窮乏する藩に対する忠誠心の大きさが、民衆への負担増を強いる形で立ち現れ、それが結局のところ民衆的な反感をかうところとなった構図が手に取るように見えてくる。
【注】『江木鰐水日記』下巻は明治4年9月20日条において、沼隈郡芸領接界の農民騒乱の中では笠井治右衛門(浦崎、向って左側の墓誌の撰文は江木鰐水)と今津の河本(保平)が槍玉に挙げられたと記述している(58頁)。明治維新期に福山藩の意向を受けて新涯開発を主導した津川右弓・濱野徳蔵(戒名は「順善院義徳日行居士」。浜野家墓地は長正寺だが、徳蔵墓は行方不明、息子の浜野源吉墓は境内墓地北側壁に無縁墓石群の中にある。同じく北側壁墓石群中の津田右弓墓の近辺)、笠井治右衛門・久井屋栄介(沼隈郡柳津村・・「人夫らに提供した粥は米粒が少なく水ばっかりで、これを啜ると腹を壊したと人夫らは噂し合った」という意味のことが兵庫県在住の西久井屋の子孫の方の備忘録に記載されていた)らだが明治3年の海嘯(大潮)で堤防が不運にも破壊され、これが周辺住民の夫役負担を倍増。ために明治4年の農民騒乱時にこれらの人たちはことごとく焼討ちの被害を被ったと同書は記述。

沼隈郡本郷村における「藩政末期の献金」については『松永市本郷町誌』684‐690頁が参考になる。この段階には藩主信仰が浸透していたのか農村内部の富裕層に限らず村民こぞって拠出に応じている。

菅茶山らは中山南の何鹿桑田氏同様、この端古屋石井家との交流も密にした。こうした在り方は福山藩の政策として、少数の家中だけで藩領を支配することの困難さを熟知していた(他所からの来住型=よそもの)藩主水野・阿氏らが採った、広範な在地勢力を効率的に統制するために一部の住民に対して特権(例えば受とか受所=収税・徴税の業務委託、江戸後期のことであるが御用商人の顔を持つ在方扶持人資格)を付与する形で在方の豪農・豪商層に育て上げ、彼らに寄生する形で藩政運営を行おうとしたことの所産であった。菅茶山ら文化人たちの役割は藩主側から言えば自らとこれら在地勢力側との接点、接着剤として機能することであったはずだ。豪商・豪農たちはひと時の栄華の夢を見ることが出来たが、家運が傾けば、簡単に別の豪農・豪商たちによって交代させられ歴史の表舞台からは消えていった。近世中期に全盛を迎える神村屋石井家・端古屋石井家であったが、いづれも阿部藩政の上述のようなやり方に翻弄された悲劇的な旧豪農層の例であった。
私にはこういう構図が見え隠れするのだが、研究レベルの話としては夢想や妄想を排し、具体的な証拠を提示しつつ手堅く議論をしていく必要があろう。
さて、昨日は90歳近い品のよい老婦人と息子さんがお墓参りにきていたので早速挨拶をしておいた。墓地がきれいに手入れされ本日はまことに晴れやかな気持ちで帰途に就くことが出来た。

赤点マークが江戸中期の神村石井家の墓石
赤マーク墓石の中に高さ1メートル以上の塔婆型墓石5,6基あるが、いづれも福山市沼隈町枝広本家の寛文―元禄期の墓石。

細かく見ていくと完全倒壊のものも・・・


神村石井五郎兵衛近次とあるが、神村石井氏⇒和田石井氏第四代(『松永市本郷町誌』、317頁)のこと(享保4年=1719年墓)。


大型の笠付墓は宝永6(1709)~宝暦9年(1759 ),舟形光背墓や板碑型墓石は18世紀前半期のもの。薬師寺の場合は本堂裏手に局限。現在は枝広(子孫によって管理されている)・神村屋石井系、尾道屋高橋(ともに放置・放任状態)・・・その他は不明。






濱野徳蔵家との姻戚関係を通じて本郷町金原(東金原)氏は幕末期に急速に富裕化)
渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』2、続日本史籍協会叢書、527-529頁に「山岡八十郎ノ諌死(かんし)」という項目があり、その中で安政元年3月の事として、山岡が近年異国船が頻繁に襲来し、そのための海防経費負担が福山藩内では上下を上げて生活困窮化に拍車をかけているという意見を、藩主阿部正弘に直訴する形で話した。藩主に直接意見を述べることは山岡の身分(元締め役)には許されないことであったようで、直訴が身分を越えた行為であるとの武家社会の慣例に従って、翌日切腹(諌死)をとげ責任をとったという。この話題は濱野『懐旧紀事-阿部正弘事蹟-』には登場しない。なお、山岡八十郎とは岡田吉顕の伯父。阿部藩政の犠牲者は御用商人(在郷商人=豪農)だけではなかった訳だ。

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