融道玄の記述から自分の実家から言えば「すぐ向こう側にあった」高島の家。
明治21年に帰省した融道玄の実家というのは恐らく小田勝太郎の生家のあった天神町内のそれを指すだろう(徹道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房制作部、2013、27頁 「福山市深安郡福山町安西」とあるのは大いに誤りで”福山城下”位にしておこう)。
浜本鶴賓『福山藩の文人誌』に小田包貞として天神町居住とある(173頁)。濱野徳蔵(親父は小川某、息子は漢学者浜野源吉)の一族と思われる濱野文造(浜野知三郎の親父)として東町居住。
『慶応元年福山城下絵図』(同類の『廃藩直前の福山城下絵図』)を見るとその辺りには2,3軒ほど高島姓の武家屋敷が存在(昭和55年写本では一軒は高島ではなく畠島)。当然江戸屋敷住まいの高島錡之助(高島平三郎の親父)家はそこには記載されていないはずだが、本家を含め高島平三郎の親戚が2軒(東町の高島猪平と天神町の高島半蔵)の中には含まれていたのだと思う。小田勝太郎屋敷の近辺には(天神さんに至る道路沿いを)「すぐ向こう側にあった」高島の家という感じで大正8年以前、高嶋辰之助所有の居宅(天神丁南乙130番地)があった。これを『廃藩直前の福山城下絵図』記載の屋敷に合わせると、そこは高島半蔵の屋敷だったところで、この図面の中には小田という名字の付いた屋敷はない。小田勝太郎が天神町生まれだったことに間違いがなければ、おそらく「士長屋(敷)」内に生家があったのだろう。東町の高島猪平と天神町の高島半蔵
もしそうだとすれば明治21年当時の高島平三郎の実家は福山西町上小学校の学区から天神町の方へ転居していたことになる。また、小田勝太郎の母親小田芳(明治5年に夫銀八死亡後は未亡人、芳は明治38年歿)は天神町界隈にいた高島一族の人間からいろんな形で世話になっていたことは十分に考えられる。
銀八家は典型的な下級武士(「西備名区」記載の阿部家中の中では俸禄:金4両、2人扶持の御郡同心-小頭、勝太郎の親父銀八はやり手だっただろう、阿部正弘時代に蝦夷地探査のメンバーの一人)で、明治5年に三代目銀八が亡くなると次男・三男(坊の融道玄)は寺に預けられ、長男勝太郎は家族を養うために17歳の時(明治11年)には松永小学校(当時の校長は高橋新太郎、史伝作家高橋淡水の親父)の教員として働き始めている。
もし高島平三郎さんの戸籍謄本が入手できれば、以上述べてきたことの点の真偽を含めて、より一層事実解明が進展することだろう。
高嶋平三郎の姉・鎰子(イツ)は吉津(天神町の隣村)の寺尾三千助に嫁いでいた。その息子の一人が寺尾辰之助(明治12,3年頃の生まれ・・『高島先生教育報国60年』、171-172ページに寺尾の寄稿文)。高島辰之助と寺尾辰之助とは意外と同一人物であったかも・・・(一つの検討課題として、そう口にしてしまった私だが当時は親戚間でそんなことがよく見られたというだけで確たる証拠はない)
【メモ】「阿部家中系図纂輯」という手稿本に小田原時代からの足軽:高島四郎左衛門定儀の子孫の記載がある。ただし、高島平三郎家は曾祖父が信義、祖父が信賢となり、通字が「信」、高島四郎左衛門定儀の子孫家の場合は「定」。家筋が異なっていることが判る。高島平三郎の系統は曹洞宗泉龍寺(広島県福山市霞町4-2-3)の門徒(確認済)。現在は古い墓石は郊外の某所(神辺・新市方面)に移転と住職。いまは檀家に高島姓はないとのことだった。高島平三郎の父親の墓は泉龍寺境内ではなく、城北の木ノ庄墓地(城北中学北側・・・現存する門田重長墓近くだった)。
曹洞宗・真宗など最近は個人情報ということで坊さんは檀家のルーツに関してはほぼ沈黙(最近ある人物の墓石を調べてみたが、寺の住職は過去帳をPCで管理していて、私の目の前で正しく情報提供してくれたので、この辺は個人情報云々というよりもその寺院のPCなどを導入した最新の情報管理の存否の問題も影響していそう)。