久しぶりの八木校トウネです。今日はちょっと、重い話を。
3回目、でしょうか。4回目か。まあ、どうでもいいか。
さて、本日は奇しくも終戦記念日ですね。だからその話から。
1945年8月15日、いわゆる「玉音放送」が国民の耳に届きました。「シノビガタキヲシノビー」っていうあれです。一度は耳にしたことがあるでしょう。
これを聴いた人々は、それぞれの思いが交錯したことでしょう。屈辱だと涙する人、無気力感にうなだれる人、ほっとする人、解放されたと思う人。
戦争を知らない、現代を生きる我々には、絶対に味わえない感覚でしょう。
ただ、この日には、日本はポツダム宣言の履行を定めた降伏文書に調印していないのです。
実は、英米など諸外国の終戦記念日は、日本が調印した9月2日を対日戦勝記念日としています。
しかし、日本は8月15日。いかにこの玉音放送で多くの人間の心が揺れ動き、忘れられない瞬間となったかがわかるのではと思います。
実際の「文字」に基づく調印よりも、国民の「身体」の緊張感が一気にそぎ落とされた瞬間を、日本は記念日にしているのです。それを踏まえて、終戦記念日を想うべきでしょう。
私は先ほど、身体と書きましたが、どれだけ歴史の教科書を読んでも見えてこないものがあります。
それは、当時の人々の、普通に生きている人々や苦しい立場にある人、そうした人々にとともに闘う人々の身体、そこに息づく精神の動きです。
これがあまり触れられない。いつも無視されていると思います。
戦時下は、我々の言葉でいえば「理不尽」あるいは「絶望」そのものでしょう。
自分の人生をいかに生きるかを、自分で決められないのです。
特に戦地に赴いた人は、常に死が近くにある。敵が死ぬ。友人が死ぬ。死んでいながら生きている。いや、生きていながら死んでいるのか。
たとえ戦地にいなくとも、空襲の不安で夜も眠れず、しかし劣悪な環境で働かねばならない。いつまで続くかもわからない。同じことの繰り返し。反抗する気力など、無論持つわけもない。
これは自分で決めたわけではないし、明日の希望も自分で切り出せない。
では、今はどうでしょう。たしかにコロナが蔓延し、本当に苦しい時期です。不安が募っているはずです。
しかし過去との決定的な違いが一つあります。それは、私たちの場合、自分の人生を、自分の思考という過程を経て判断、選択できる権利が保障されているという点です。しかも、「侵すことのできない永久の権利」としてです。
ここに、理不尽ないし絶望と、今我々が抱く、不安の決定的な違いがあります。
理不尽や絶望は、自分で決めることのできない「諦め」なのです。自分の人生はすでに決められている「既決」の感覚なのでしょう。
一方、不安は自分で決めることができるからこそ、現れるものでしょう。
すなわち、自分が将来どうなるかわからないが、なんとか自分の選択で生き抜くことができるという「未決」状態なのです。
私たちは後者のはずです。
この自分の人生を自分で彩る(いろどる)ことができるという未決状態を、たった一瞬の不安で投げ捨てている人が、最近多いのではと感じるのです。
今はなんだか、無色透明が大事にされている気がします。色を決めたら空気を読めと言われ、価値観の押し付けと言われる。それに怯えて黙りこくる。
「自分らしさ」や「個性」が語られる昨今ですが、いつも近くの、周りの目が前提で、そもそも、本当の意味での自分という存在が忘れられているのかもしれない。
そもそも、自分という存在は、思った以上に遠いところにあるものです。かのニーチェ曰く、「各人はそれぞれおのれ自身にもっとも遠い存在である」のですから。
せっかく、絶望を乗り越え、自分の色を選べることの意味や価値を見事に忘れてしまっているのではないでしょうか。
コロナの中で、孤独にならざるを得ない状況だからこそ、改めて、かつての絶望を生きた人々に想いを馳せつつ、自分の心に問いかけてみてはいかがでしょうか。
最後に、親友が放った面白い言葉があるので、それを引用しておきます。
「白黒つかない世の中で 自分の色を大切に」
こんな中だからこそ、あらためて大切にしておきたいことです。