
我が家の墓の近くに、シーボルトの妻、滝さんと、その娘、「オランダおいね」として有名なイネさんと、シーボルトの誠実な弟子で優秀な外科医だったといわれる、二宮敬作さんの墓がある。
シーボルトの業績を考えるととっても小さな墓。
お滝さんはアジサイの学名としてシーボルトが登録した「オタクサ」に名を残している。
おイネさんは数奇な運命をたどったあと日本で初めての女医となった。
一方シーボルトはドイツに一時帰国する際、国外への持ち出しを禁じられていた伊能忠敬地図を持ち出した罪で日本から追放された。
晩年のシーボルトの日本への思いをドーデは「月曜物語」で書いている。
「日本狂い」のシーボルトを・・・侘しいその晩年を。
・・・シーボルトの家族の墓の案内板もすっかり色あせて読むことが出来なかった。
幕末から明治にかけて多くの外国人が長崎にやってきた。
そして数多くの記録を残している。
そしてその記録を見るたびに西洋人の傲慢さを感じてならなかった。
ピエールロチの「お菊さん」などはお菊さんの立場で読むととうてい最後まで読むことが出来ない。
その一方で当事の日本の政治家や役人の愚かさが日本の文献を見るよりもずっと透けて見える。
それは今でも変わっていない。
幕末の役人そして第二次世界大戦の時の軍事官僚がいかに愚かであったか、
これをちゃんと歴史で教えないから今でも同じような間違いばかりしている。
原発事故の政府や東電の対応などまるで江戸時代だ。
・・・同じ墓所にフェートン号事件の責任を取って切腹した長崎奉行の墓がある。
このような事件が起こっても幕府の役人は何の手も打たず、黒船を向かえて慌てふためいた。
長崎奉行の死は無駄死にだった。