意思の疎通というとまず話すこと、そしてネットを含め、書くこと。
これ以外にも音楽、絵画、踊り、映画、ジェスチャー・・・などいろいろ表現方法はあるかもしれないけど、
やっぱり普通にはまず話すことだろう。
しかしこれがなんともまどろっこしい。
話すことは伝える手段としては、とっても不十分な手段、未完成な手段だと思う。
同じことをしゃべっても聴く人によってそれぞれ違った意味に受け取られるから。
年とともに、しゃべるのがとっても億劫になってきた。
この顎の上下運動がなんとも煩わしくなってきた。
もともと無口な人間、その上、話したいことと、それを言葉にして音にする、その間のテンポのずれがなんとも煩わしい。
それでついつい早口になってしまう。
それで話し相手から何度も聞き返されて、さらに手間がかかりとっても煩わしい。
もっと早くストーレートに通じ合えるすべがないものか。
禅問答のように、おたがい風呂敷包にどっさりと積み木などを用意して、それを見せ合って、意思を通じ合うなどという方法もあるのではないか?
でもそうなると落語の豆腐屋談義のようなことにもなりかねない。
禅寺でたまたま豆腐屋が留守番をしていた。
そこに一人の僧がやってきた。
すると僧はいきなり両手の指で丸く囲む。
すると豆腐屋はすかさず三つ指を立てる。
今度は僧は指を2本かざす。
豆腐屋は指を自分の目に当てる。
これを見て僧は慌てて逃げ出した。
そして言うことに、
いやぁ~あの寺の僧は大したものだ。
「世界は?」と聞くとすぐに「三界」と答えた。
そこで「日本は?」と聞くと「眼中にあり」と答えた。
いやぁ~大したものだ、恐れ入ってすぐに退散した。
一方、寺では留守を頼んでいた坊さんが帰ってきて豆腐屋に聞いた。
「留守中誰も来なかったか?」
そこで豆腐屋は一人の坊さんが来たことを告げた。
そして指を丸く差し出したので・・・
ははぁん~豆腐の値段を聞いてるのだな?
そこで「3文」と答えたら、
「2文にしろ」という。
それで、あっかんべぇ~!をしたらあきらめて帰っていったよ。
このように禅問答で意思を通じさせようとしても、なかなかうまくいかないものだ。
それに誰しもきっと経験があるように年を取ると話に固有名詞が多くなる。
会話はもっぱら、あれが・・・とか、それが・・・とか、で済ませてしまう。
そしてそれで会話が成り立つのだけど、困ったことに後で考えると、お互いの「あれが」も「それが」も実はまったく違った「あれが」や「それが」だったりする。
それでもやっぱり、つたない手段ながらも、意思の疎通の手段としてはまずは会話ということになる。
なんとも厄介なものだ。