心象画マイ・バイオグラフ(2009・2・15~2009・2・21)
木曜日(2月19日)
憧れ、羨望、嫉妬
あ、水曜日のバイオグラフの記事とは全く関係ありません。
テーマは似ていますが、切り離してお考え下さい。
ある時は、私が左のモノクロ樹で、対象となる誰かが右のカラー樹。
私は上の三つの言葉でカラー樹という対象を見ている。
又ある時は、誰かが左のモノクロ樹で、私が右のカラー樹。
誰かが上の三つの言葉で私というカラー樹を見ている。
たまにモノクロ樹に興味を持つ人がいるから、
世の中の人間の関係はうまく繋がって、
回ってるんだろうなあと思う。
それを思うと、ほんと、人の嗜好ほど理解し難いものはない。
まあ、多数決で多いもの、大多数に支持されるものが、
世の中に認められる標準的とか普通とか言われるものなのだろうけれど、
だからといって必ずしもそれが絶対的なものなわけではなくて、
そこにキワドク存在するのが個性なのだろう。
そういえば、『個性や才能を大衆に認めてもらう』で思い出した。
このことについて、最近よく考える事がある。
個性って何だ?才能ってなんだ?
これの見極めも見えるようで見えないボーダーがあり、
一つ間違えば紙一重で奇異だったり猟奇的だったりで、犯罪にもなり兼ねない。
かと思えば、ただ単に多数支持に支えられているだけだったり。
普通というボーダーをどこに設定するかで、
そこから外れれば個性ではなく病的扱いになることも、これも紙一重。
何にしても多数支持のないものがその存在を主張しても、
認めて貰うのは簡単ではないということ。
けれど逆に、多数支持さえ得ればその個性や才能は認められるということか。
これを逆手にとって賢く立ち回れば、
(多少ずるく…でもそれが頭脳戦略的世渡りというものだと思うし)
頑なにつまらないポリシーを掲げて少数派『個性』を主張するより
(時にその行動はただの自己満足や自己陶酔として扱われることの方が多い)
自分の望むものを手に入れたいなら、望む方向性とは多少違えど、
持っている長所を活用するのもまた、
その人だけに許された賢さではないのかと思う。
『ガムシャラ』とか『一途』とかをよく人は賞賛し美徳扱いするけれど、
やっぱりただの不器用な馬鹿だ。
と、世の中と言うものを知ってきて、少し賢くなった私は、
昔の私のことをそう思う。
あの時に、今みたいに冷静に物事を考える事が出来て、
もう少し頭を使い柔軟に世間を受け容れることができたら、
もっと幅広い生き方ができたのかなあ、などと思う。
それに気付かなかった過去の、『一生懸命』とか『一心不乱』とかを
私は手放しで肯定出来ない。
やっぱりただの不器用な馬鹿だ。
あれ~?
こんな結論に達しちゃったよ、どうすんべ……
あ、hiiroさんの油絵23『聖者の行進』に貼ってあったYouTubeの曲、
変わりました。
ルイ・アームストロング「聖者の行進」
よろしければ、また覗いてください。