(京都市七条七本松交差点付近)
鎌倉御家人工藤祐経の子孫で、
三重県の津市北部を本拠として、
鎌倉・室町時代にこの地方を支配した長野工藤氏。
その強力な軍事力を背景に、
幕府軍の一員として出兵することもありました。
その長野工藤氏の「デビュー戦」とも言われる、
「建武の争乱」での登場シーンをご紹介します。
室町時代に書かれた「梅松論」という軍記物で、
「伊勢国の住人長野工藤左衛門尉」が、足利方の武将として
活躍する場面です。
1333年、後醍醐天皇の「建武の新政」がスタートしましたが、
天皇はお気に入りの楠木正成、新田義貞ら重用する一方で、
共に戦った足利尊氏とは、徐々に溝ができてしまいます。
1335年の「中先代の乱」において、尊氏が勝手に将軍を名乗り、
乱の鎮圧に御家人を指揮したことに腹を立て、
新田義貞らに尊氏の追討を命じます。
当初は天皇側が優勢でしたが、
1336年の「湊川の戦い」で楠木正成が敗れると、
足利方が優勢になります。
勢いに乗って京都に攻め上った足利軍と守る新田軍との間で、
3か月に及ぶ京都攻防戦が行われます。
攻防戦終盤の8月23日、加茂糺河原で両軍が激突し、
足利軍の大将高師直が奮戦して、義貞は敗れて後退しました。
それでも敵は阿弥陀が峰(京都東山の標高196mの峰)を占拠しており、
足利軍の作戦会議では、この敵をどう攻めるかが焦点になりました。
ここで発言したのが細川直俊(帯刀先生)という武士で、
「阿弥陀が峰にいる敵はたいした者(軍勢)ではない。
我々はまず(敵が集まっている)竹田に向かい、敵を淀川へ追い落としてから、
山に登り峰伝いに敵の前後から攻め立てれば、
(山頂の敵は)容易に追い散らせるだろう。」
と言いました。
竹田(竹田縄手)とは、都の南、現在の京都南IC付近の平地で、
北に淀川上流の鴨川が流れており、川を背にして、敵が陣を張っていました。
本隊が敵陣の南から攻め上がり、
下御所(足利直義)の部隊が七条河原で
逃げてくる敵を待ち伏せる作戦に、一同が賛成しました。
翌8月24日、足利軍が竹田の敵陣地に向かって進むと、
味方の中から三騎の武者が二町ほど先に立ち、先を争って突入しました。
黒馬に乗った武者が、敵の櫓の下に入り、
城戸を下ろさせまいと、馬に乗ったまま両手で城戸を持ち上げると、
それに続く二騎が開いた城戸から突入します。
そのあとに軍勢が続いて、敵陣を打ち破り、敵を淀川に追い込みます。
前日からの雨で水位が増えており、多くの将兵が流されてしまいました。
足利軍の大勝利です。
先駆けした三騎の武者は、前日の軍議で作戦を提案した細川直俊、
直俊の家人の古山平三、もう一騎は伊勢国の住人長野工藤三郎左衛門尉でした。
直俊は奥州細川家の次男で、このとき18歳の若武者でした。
この翌年、河内国葛井寺前大路(現在の藤井寺市)で戦死しています。
同月、足利尊氏はついに京都を占領し、光明天皇を擁立します。
後醍醐天皇と新田義貞は比叡山に逃れ、
やがて分裂して天皇は吉野へ、義貞は北陸へと落ちていきます。
さて、ここで登場した「伊勢国の住人長野工藤三郎左衛門尉」は、
長野工藤氏の一族と思われます。
工藤一族は各地にいたので、伊勢の長野に移った工藤氏として
「長野工藤」と名乗るようになった時期のことです。
では「三郎左衛門尉」とは誰なのか、
「左衛門尉」とは、 左衛門府の判官であり、六位相当の官職、
庁内の取締や部下の作成した文案の審査を行う役人で、
先祖の工藤祐経の官職名でした。
つまり、この「梅松論」の筆者(筆者は不詳とされている)には、
「工藤左衛門尉祐経の子孫で、伊勢の長野工藤の者」と伝わっていたので、
このような書き方になったのでしょう。
年代から推測すると、
長野家3代当主祐房、あるいは弟の祐高、祐宗、かと思われますが、
「三郎」は長野家の惣領息子を指していると思われるので、
当主の祐房ではないかと推測します。
余談ですが、
この京都攻防戦の前年、関東での「中先代の乱」では、
「工藤入江左衛門尉」という者が活躍して
新田軍を撃退したと「梅松論」に記されています。
この者は駿河の工藤入江氏ですが、同じ工藤一族で、
同じ官職名が付いているのが興味深いです。
また「太平記」には、
長野工藤の一族と思われる者を指して
「工藤判官」と書かれたものがあります。
これも、左衛門府の判官であった工藤祐経の子孫、
という意味だろうと思われます。
最後に、
関東から攻め上ってきた足利軍に、
長野工藤氏はどこで合流したのでしょうか。
この時点ではまだ守護大名は置かれておらず、
国人領主らに出兵を命じることはできませんでしたから、
京へ上る途中で、足利軍が各地の旧鎌倉御家人に
声を掛けていったと思われます。
鎌倉以来の繋がりというよりは、
「武家政権への期待」から尊氏の人気が高まっていたので、
長野工藤氏も軍勢を整えて
足利軍に呼応したのでしょう。
この戦いにおいて、冷静な分析力と
勇猛果敢な戦いぶりでヒーローになりながら、
その後に若くして死んでしまう細川直俊、
上洛のため、湯治中の父頼貞に息子らが別れを告げに行くと
父は「征くからには思う存分戦ってきてほしいが、
父のことを心配して戦えなくなっては申し訳ない」と
その場で自害したといいます(諸説あります)。
敵陣に飛び込んで、両手で城戸を持ち上げるなんて、
なかなか出来ることではないと思いました。
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