津市栄町の四天王寺、
聖徳太子が全国に建立した四つの四天王寺のうちのひとつで、
1,000年以上の歴史があると言われています。
戦乱で荒れ果てていたのを、津に入府した藤堂高虎公が再建しました。
こちらのお寺には、有名な方々のお墓があるのですが、
墓地の一番奥の、最も高い場所にあるのが
花屋寿栄禅尼こと織田信長の生母・土田御前のお墓です。
土田御前という呼び名は、実家が土田氏だったからという説があり、
その土田氏が美濃可児郡の土田氏であれば「どた」、
尾張清洲の土田氏であれば「つちだ」と読むらしいのですが、
現在においても、どちらが正しいという決め手は無いようです。
土田御前は、織田信長、信包(安濃津城主)と、お市の方の生母で、
1590年、信包を頼って伊勢安濃津城に移り、1594年に死去、ここ四天王寺に葬られました。
夫・織田信秀の死後、「尾張のうつけ者」と評判の変人・信長を嫌い、
土田御前は信長の弟・信行に肩入れしていました(後に信行は信長に誅殺された)。
それが原因となって信長とは不仲だった、という説もありますが、
実際は、家を継いだ信長と一緒に暮らし、信長の子(自分の孫)の面倒を良く見ていたといいます。
本能寺の変の後は、信長の二男・信雄の元へ行き、
信雄が秀吉に追放された後には、津の信包の元へとやってきた、ということです。
こうした親子あるいは兄と弟の確執というのは、武田信玄や伊達政宗においても共通します。
戦国時代においては、武家の女性は、
そのような肉親の間の争いも受け入れ、従うしかなかったのだろうと思います。
四天王寺にはほかに、
・久芳院 藤堂高虎の正室。津城で没し、四天王寺に葬られた。
・斎藤拙堂 津藩の学者、有造館の督学(校長)を勤めた。
・堀江鍬次郎 津藩出身、日本初の写真技術者。
らのお墓があります。
津にも関係のあった、方広寺鐘銘事件