東京の築地市場が 紆余曲折を経て 豊洲の新市場に引っ越して話題を集めているね・・
連日、物見高い見学者が 押し寄せてすごい賑わいになっているようだね
軽井沢にも 高級料亭の出張店などで 築地モノ が早くからうたわれている事があったけれど
今度は 「 豊洲直送 」 になるんだろうか・・? 時代とともに変わって行くね・・
軽井沢には 多くの観光客の中に 江戸時代の中山道を辿る人が少なくない
軽井沢宿、 沓掛(今の中軽井沢)宿 追分宿と 中山道69次 といわれる宿場のうち
日本橋から数えて 18番、19番、20番目と 3つの宿場があったんだって
各宿場に 問屋、問屋場 と呼ばれる リレーでいう バトンパスの場所があって 次への宿場へと
江戸 と 京の都の間の 公の荷物や手紙などの 速やかな伝達輸送をつかさどっていた
公人の 移動の宿泊の為には 本陣 や 脇本陣と呼ばれる宿泊施設が設けられ
民間人の通行が盛んになるにつれて 旅籠(はたご)と言われるような 宿が設けられて増えていったらしい
そんな 旅をして通行する人の道中の目安になるようにと ほぼ一里(約4km) 毎に 街道の両側に
こんもりと 丸い築山のような 「塚」 を 設けて おおよその距離の目安としたそうなんだ
設置当時のお達しには 塚の上に木を植樹して 目印にと
日差しのきつい季節には 「 木陰でひと息 」 の 効果もあったらしい
大雑把な 歳月の話だけれど 開設してから400年もの歳月が流れ 江戸時代だけでも250~60年
設けられた 「 当時の姿のまま 残っている 」 と言われる一里塚は少なくなり
江戸時代のうちに 自然災害や 経路変更でなくなったらしいものや
文明開化以後の変換時期に姿を消したり 移設されたものもあるようだ
軽井沢宿の周辺にも 一里塚があったはずで 1806年頃描かれたという 「分間延絵図(ぶんけんのべえず)」
という 当時の絵図には 宿場のど真ん中?に その姿が見えるようだけれど はて・・?
宿場の場所が変わったのか? 中山道の当時の通りは 今の旧軽井沢銀座と呼ばれる通りじゃないのか
はたまた 69次のうちには 道筋が変わって一里塚だけが開設当時の場所に姿だけ残っている場所もあるけれど
絵図が描かれてから50年そこらで 明治維新・・ 影も形もない 軽井沢の一里塚
今のどの お家かお店かの下に 埋まっちゃっているのかな・・?
誰か いきさつを知りませんか~~