昨日のあたため会議で白熱したせいか、みんながいろんな想いを抱えながらの保育当番。
登園後のお母さんもそこここで話している。
朝の会、座らないで離れて立っている子に年長G「ずるい」
母たち手遊びを始めると座っている子全員でたのしい雰囲気に。
1人1人に座るように促すのもよいが、こうした楽しい雰囲気作りも有効だと感じた。
本当は入りたそうな何人か・・・。離れた場所だけど、いつの間にか座っていた。
最近はおままごとが流行っている。
ござを敷くと年長M、年中に指示を出し長椅子運んでセッティング。
お店屋さんのお金はいつも葉っぱなのだけど、今日はなぜか「手裏剣じゃないとだめ」
折り紙がないので「じゃあ、葉っぱでいいや」となったのだけど。
そこで大人が折り紙を用意してあげることもできるが、たまご達は、足りないものは自分たちで作りだしていく。
そういうことができる子たちだと思っている。
私はここのやり取りを見てないのだけど・・・
あとで葉っぱで作った手裏剣?があった。
午前中はたまごまつりで使う楽器用と竹ぽっくり用の竹伐りに行く。
いつもの保育場所からは普段は入らない急斜面の竹林。
あえて子どもには「今日は竹伐りをします」と伝えなかった。
「大人が子どもの傍らでしている」を大切にしたかったから。
伐り出した竹を運び上げる時だけ子どもを呼んだ。そして斜面から引っ張り上げてもらう。
大人が竹を切っていると、次々に子供たちが寄ってきて、のこぎりを使いたがる。
ままごとに使うコップを作る年長M、ただ切ることを楽しむ年少。
手先が器用な年中K、熱中して次々に切っていく。
切ったものはそれぞれがイメージを膨らませ遊びにつかっている。
年少Hは輪切りにした竹をさらに縦に切って拍子木のように音を鳴らして遊ぶ。
打ち合わせる時の向きの違いで音が違うことを発見した時の嬉しそうな顔。
「ねえ、見て」と私のところでさっきと同じことをして自慢げ。
たまごまつりの楽器もこんなのでもよいかも・・・・
年長Mジャグに水を入れ作ったコップを一輪車にのせ「移動屋台?」
売り歩く先には木登りしている年中ボーイズ。
紐とプラスチックのコイルを使いブランコつくりが始まる。
桜の木なので私は「(折れてしまうから)みんなの腕より太い枝に縛ってね」と声をかけただけ。
年中ボーイズはそのブランコに満足して遊んでいた。
今日は新しい遊びをしてた。
年中AKままごと用に集めた葉っぱを上の段から蒔いて「菓子まき」遊び。
これは!!たまごまつりでしてみたいと思った。
お祭りの特別なワクワク感にぴったりじゃない!
午後は子どもの傍らでたまごまつりの垂れ幕を母がちくちく針仕事。
年長Gものえちゃんに教わりながらちくちく。糸がなくなるとまた新しい糸でちくちく。
裁縫が大の苦手な私もGに教わりながらちくちく。
今日は子どもたちが手仕事したり自分たちで遊びを作り出しよく遊んでいた一日だった。
帰りには年中、年長ボーイズでサッカー。
やのちゃん、当番りえちゃん、のえちゃんと「子どもたち、成長したね~」とニヤニヤウルウル。
大人が傍らで手仕事し、子どもどうしで遊ぶ環境。自分の手でつかみとっていく。
そうして子どもは日々成長していく。
この春からでも子どもたちはどれだけ成長しただろう。子どもたちには自ら育っていく力がある。
私はそういう子どもの育ちを楽しみ、まっすぐ向き合うことを大切にしたい。
とってもシンプルなことなのに、大人はあれこれ考えてしまう。
今ある子どもの姿だけをみてあれこれ模索しないで
今ある姿を認め、明日の姿、半年後の姿、1年後の姿、10年後の姿を楽しみに待ちたい。
ついつい、このままではだめになっちゃうんじゃないか、
今のままではだめなんじゃないかって不安に思ってしまったり、
足りない部分を埋めようと、変えようと考えて手を出し口をだしてしまう。
私自身、つい最近まで自分自身に対してそういう気持ちが強かった。
そういう時は本当に苦しかった。
でも「きっと大丈夫。」そう自分を信じられるようになったら、周囲も信じられるようになった。
それは、気持ちを受け止めてもらえる場があり、人がいたから。
いい時も悪い時も見守って、待ってもらえる環境だから。
自分自身の問題として向き合えたから。
自分の荷物は人は背負うことはできない。
自分の手でつかみ取っていくもの、乗り越えていくことは他の何物にも代えがたい。
そうやって、私は森たまで成長してこれた。
子どもたちにもそうやって歩んでいってほしい。
きっと子どもも森たまのあたたかい見守りの中でなら成長できないはずがない。
そう信じている。
(あり)
登園後のお母さんもそこここで話している。
朝の会、座らないで離れて立っている子に年長G「ずるい」
母たち手遊びを始めると座っている子全員でたのしい雰囲気に。
1人1人に座るように促すのもよいが、こうした楽しい雰囲気作りも有効だと感じた。
本当は入りたそうな何人か・・・。離れた場所だけど、いつの間にか座っていた。
最近はおままごとが流行っている。
ござを敷くと年長M、年中に指示を出し長椅子運んでセッティング。
お店屋さんのお金はいつも葉っぱなのだけど、今日はなぜか「手裏剣じゃないとだめ」
折り紙がないので「じゃあ、葉っぱでいいや」となったのだけど。
そこで大人が折り紙を用意してあげることもできるが、たまご達は、足りないものは自分たちで作りだしていく。
そういうことができる子たちだと思っている。
私はここのやり取りを見てないのだけど・・・
あとで葉っぱで作った手裏剣?があった。
午前中はたまごまつりで使う楽器用と竹ぽっくり用の竹伐りに行く。
いつもの保育場所からは普段は入らない急斜面の竹林。
あえて子どもには「今日は竹伐りをします」と伝えなかった。
「大人が子どもの傍らでしている」を大切にしたかったから。
伐り出した竹を運び上げる時だけ子どもを呼んだ。そして斜面から引っ張り上げてもらう。
大人が竹を切っていると、次々に子供たちが寄ってきて、のこぎりを使いたがる。
ままごとに使うコップを作る年長M、ただ切ることを楽しむ年少。
手先が器用な年中K、熱中して次々に切っていく。
切ったものはそれぞれがイメージを膨らませ遊びにつかっている。
年少Hは輪切りにした竹をさらに縦に切って拍子木のように音を鳴らして遊ぶ。
打ち合わせる時の向きの違いで音が違うことを発見した時の嬉しそうな顔。
「ねえ、見て」と私のところでさっきと同じことをして自慢げ。
たまごまつりの楽器もこんなのでもよいかも・・・・
年長Mジャグに水を入れ作ったコップを一輪車にのせ「移動屋台?」
売り歩く先には木登りしている年中ボーイズ。
紐とプラスチックのコイルを使いブランコつくりが始まる。
桜の木なので私は「(折れてしまうから)みんなの腕より太い枝に縛ってね」と声をかけただけ。
年中ボーイズはそのブランコに満足して遊んでいた。
今日は新しい遊びをしてた。
年中AKままごと用に集めた葉っぱを上の段から蒔いて「菓子まき」遊び。
これは!!たまごまつりでしてみたいと思った。
お祭りの特別なワクワク感にぴったりじゃない!
午後は子どもの傍らでたまごまつりの垂れ幕を母がちくちく針仕事。
年長Gものえちゃんに教わりながらちくちく。糸がなくなるとまた新しい糸でちくちく。
裁縫が大の苦手な私もGに教わりながらちくちく。
今日は子どもたちが手仕事したり自分たちで遊びを作り出しよく遊んでいた一日だった。
帰りには年中、年長ボーイズでサッカー。
やのちゃん、当番りえちゃん、のえちゃんと「子どもたち、成長したね~」とニヤニヤウルウル。
大人が傍らで手仕事し、子どもどうしで遊ぶ環境。自分の手でつかみとっていく。
そうして子どもは日々成長していく。
この春からでも子どもたちはどれだけ成長しただろう。子どもたちには自ら育っていく力がある。
私はそういう子どもの育ちを楽しみ、まっすぐ向き合うことを大切にしたい。
とってもシンプルなことなのに、大人はあれこれ考えてしまう。
今ある子どもの姿だけをみてあれこれ模索しないで
今ある姿を認め、明日の姿、半年後の姿、1年後の姿、10年後の姿を楽しみに待ちたい。
ついつい、このままではだめになっちゃうんじゃないか、
今のままではだめなんじゃないかって不安に思ってしまったり、
足りない部分を埋めようと、変えようと考えて手を出し口をだしてしまう。
私自身、つい最近まで自分自身に対してそういう気持ちが強かった。
そういう時は本当に苦しかった。
でも「きっと大丈夫。」そう自分を信じられるようになったら、周囲も信じられるようになった。
それは、気持ちを受け止めてもらえる場があり、人がいたから。
いい時も悪い時も見守って、待ってもらえる環境だから。
自分自身の問題として向き合えたから。
自分の荷物は人は背負うことはできない。
自分の手でつかみ取っていくもの、乗り越えていくことは他の何物にも代えがたい。
そうやって、私は森たまで成長してこれた。
子どもたちにもそうやって歩んでいってほしい。
きっと子どもも森たまのあたたかい見守りの中でなら成長できないはずがない。
そう信じている。
(あり)
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