こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は埼玉県鳩山町と同県嵐山町の境にある峠
笛吹峠(ふえふきとうげ)を掲載してみたいと思います
鳩山町より笛吹峠へ車を走らせていると、峠手前に案内表示
鳩山町側から見る笛吹峠(ふえふきとうげ)
笛吹峠(ふえふきとうげ)標高80m
笛吹峠看板隣に設置されている史跡案内板
笛吹峠は、嵐山町と鳩山村の境にある峠である
峠を起点として、坂東10番の岩殿観音から同9番の慈光寺観音へ続く
東西の道は、巡礼街道と呼ばれ、この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、
かつて、数多くの武士団等が往き来した所であった
正平7年(1352年)閏2月、新田義貞の三男、
義宗等が宗良親王を奉じて武蔵野の小手指が原で
足利尊氏と戦ったが、最終的に結末がついたのが
この峠の地であった
新田義宗等は越後に落ちて行き、
足利尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった
「笛吹峠」の名称については、この敗退の陣営で、
折からの月明りに宗良親王が笛を吹かれたことから
命名されたという伝承がある
なお、この付近は、遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、
武蔵国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、
その古窯跡が虫草山をはじめ須江・大橋・泉井などの山間部に
多く見られる>笛吹峠から、はるか北方に上州の山々、
西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され、
風光明媚な歴史の地である
と記されています 現在は風光明媚な環境ではないと思われます
「史蹟 笛吹峠」石碑
鳩山町側から見る笛吹峠(ふえふきとうげ)
笛吹峠の大きな標識板と説明板
嵐山町側から見る笛吹峠>町境が「林道将軍沢線」の終点
なだらかな勾配の笛吹峠
鳩山町側は「笛吹通り」と名付けられています
笛吹峠より鳩山町側を眺める
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は埼玉県鳩山町と同県嵐山町の境にある峠
笛吹峠(ふえふきとうげ)を掲載してみたいと思います
鳩山町より笛吹峠へ車を走らせていると、峠手前に案内表示
鳩山町側から見る笛吹峠(ふえふきとうげ)
笛吹峠(ふえふきとうげ)標高80m
笛吹峠看板隣に設置されている史跡案内板
笛吹峠は、嵐山町と鳩山村の境にある峠である
峠を起点として、坂東10番の岩殿観音から同9番の慈光寺観音へ続く
東西の道は、巡礼街道と呼ばれ、この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、
かつて、数多くの武士団等が往き来した所であった
正平7年(1352年)閏2月、新田義貞の三男、
義宗等が宗良親王を奉じて武蔵野の小手指が原で
足利尊氏と戦ったが、最終的に結末がついたのが
この峠の地であった
新田義宗等は越後に落ちて行き、
足利尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった
「笛吹峠」の名称については、この敗退の陣営で、
折からの月明りに宗良親王が笛を吹かれたことから
命名されたという伝承がある
なお、この付近は、遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、
武蔵国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、
その古窯跡が虫草山をはじめ須江・大橋・泉井などの山間部に
多く見られる>笛吹峠から、はるか北方に上州の山々、
西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され、
風光明媚な歴史の地である
と記されています 現在は風光明媚な環境ではないと思われます
「史蹟 笛吹峠」石碑
鳩山町側から見る笛吹峠(ふえふきとうげ)
笛吹峠の大きな標識板と説明板
嵐山町側から見る笛吹峠>町境が「林道将軍沢線」の終点
なだらかな勾配の笛吹峠
鳩山町側は「笛吹通り」と名付けられています
笛吹峠より鳩山町側を眺める
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