こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置する
あー野麦峠の舞台旧街道を歩く 野麦峠後編を取り上げてみたいと思います
あー野麦峠の舞台旧街道を歩く後編
旧街道を野麦峠へと登って行きます(登り空身で50分程)
1968年(昭和43年)に出版された山本茂実のルポルタージュ『あゝ野麦峠』
について記されています
野麦峠旧街道の案内板
野麦旧街道を野麦峠へ
整備されている野麦旧街道を進む
野麦旧街道に設置されていた風化してしまっている石仏
急坂を登り詰めると緩やかな旧街道が続く
野麦旧街道に設置されていた石仏
野麦峠直下に設置されていた石仏群
野麦旧街道入口に設置されているあゝ野麦峠石碑
旧街道を登り野麦峠迄戻ってきました
野麦峠より眺める飛騨乗鞍岳
野麦峠お助け小屋
江戸時代に高山が天領となってからは代官が往来に利用したほか、
越中富山の薬売りが各地に出向く際にも利用された
しかし、峠道は厳しく、幕府は願い出を受けて天保の頃に頂上に「
お助け小屋」を設置した
明治の初めから大正にかけては、
当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、
現金収入の乏しい飛騨の村々の女性(多くは10代の少女)が
女工として出稼ぎのためにこの峠を越えた
この史実は、1968年に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)の
ノンフィクション『あゝ野麦峠』で全国的に有名になった
野麦峠お助け小屋 営業中でした
お助け小屋内部には『あゝ野麦峠』の映画化された
写真が飾られています
『あゝ野麦峠』続編 新緑篇の映画出演された女優写真画像
中井貴恵さん、三原順子さん、岡田奈々さん、石田えりさんが
続編に出演されていたようです
お助け小屋内部 当時が偲ばれる囲炉裏部屋
『あゝ野麦峠ヒロインの政井みねさん実際の写真が飾られています
政井みねさんは一番左側です
『あゝ野麦峠』
1968年(昭和43年)に出版された山本茂実の
ルポルタージュ『あゝ野麦峠』の映画化作品である
山本薩夫監督、大竹しのぶ主演(政井みね役)で1978年(昭和53年)
11月にクランクイン、11月と翌年2月に1週間ずつ野麦峠で撮影が行われた
1979年(昭和54年)6月に全国一斉に公開された
若い人気女優たちの共演や抒情的な主題曲などで人気を集め、
社会派映画としては突出したヒットとなった
20世紀初頭 「野麦峠」は岐阜県と長野県の境に
位置する地名でヒロインの政井みね(大竹しのぶ)は13歳の少女、
みねの実家は父母と2人の兄に加えてまだ小さい4人の弟妹を抱えており、
みねは苦しい家計を助けるため岐阜県飛騨地方の寒村から
長野県岡谷市の製糸工場に行く
みねの仕事は、繭を煮て生糸を取る「糸取り」という
作業 労働は「過酷」という言葉では形容できないレベルだった
朝4時半に起床、洗顔、トイレを慌ただしく済ませた後に
朝の労働 7時に朝食を10分で摂り、また労働 昼食も立ち食いで10分、
再び夕方まで労働 15時間近く働いた 職場環境は劣悪で、
気温40度に達する工場は締め切られており、
日光も風も入らない蒸し風呂状態 結核菌が繁殖するには絶好の条件だった
やがて、みね自身も結核に感染して重度の髄膜炎を発症する
しかし十分に医療を受けられず、隔離小屋で寝かされた後、
工場を訪れた兄の辰次郎(地井武男)に背負われ、
郷里の飛騨に戻るところでみねは息を引き取る
雪深い冬の険しい野麦峠越え手前に設置されていた石室跡
災害等で崩壊した石室を再建したもの
石室再建の記
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置する
あー野麦峠の舞台旧街道を歩く 野麦峠後編を取り上げてみたいと思います
あー野麦峠の舞台旧街道を歩く後編
旧街道を野麦峠へと登って行きます(登り空身で50分程)
1968年(昭和43年)に出版された山本茂実のルポルタージュ『あゝ野麦峠』
について記されています
野麦峠旧街道の案内板
野麦旧街道を野麦峠へ
整備されている野麦旧街道を進む
野麦旧街道に設置されていた風化してしまっている石仏
急坂を登り詰めると緩やかな旧街道が続く
野麦旧街道に設置されていた石仏
野麦峠直下に設置されていた石仏群
野麦旧街道入口に設置されているあゝ野麦峠石碑
旧街道を登り野麦峠迄戻ってきました
野麦峠より眺める飛騨乗鞍岳
野麦峠お助け小屋
江戸時代に高山が天領となってからは代官が往来に利用したほか、
越中富山の薬売りが各地に出向く際にも利用された
しかし、峠道は厳しく、幕府は願い出を受けて天保の頃に頂上に「
お助け小屋」を設置した
明治の初めから大正にかけては、
当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、
現金収入の乏しい飛騨の村々の女性(多くは10代の少女)が
女工として出稼ぎのためにこの峠を越えた
この史実は、1968年に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)の
ノンフィクション『あゝ野麦峠』で全国的に有名になった
野麦峠お助け小屋 営業中でした
お助け小屋内部には『あゝ野麦峠』の映画化された
写真が飾られています
『あゝ野麦峠』続編 新緑篇の映画出演された女優写真画像
中井貴恵さん、三原順子さん、岡田奈々さん、石田えりさんが
続編に出演されていたようです
お助け小屋内部 当時が偲ばれる囲炉裏部屋
『あゝ野麦峠ヒロインの政井みねさん実際の写真が飾られています
政井みねさんは一番左側です
『あゝ野麦峠』
1968年(昭和43年)に出版された山本茂実の
ルポルタージュ『あゝ野麦峠』の映画化作品である
山本薩夫監督、大竹しのぶ主演(政井みね役)で1978年(昭和53年)
11月にクランクイン、11月と翌年2月に1週間ずつ野麦峠で撮影が行われた
1979年(昭和54年)6月に全国一斉に公開された
若い人気女優たちの共演や抒情的な主題曲などで人気を集め、
社会派映画としては突出したヒットとなった
20世紀初頭 「野麦峠」は岐阜県と長野県の境に
位置する地名でヒロインの政井みね(大竹しのぶ)は13歳の少女、
みねの実家は父母と2人の兄に加えてまだ小さい4人の弟妹を抱えており、
みねは苦しい家計を助けるため岐阜県飛騨地方の寒村から
長野県岡谷市の製糸工場に行く
みねの仕事は、繭を煮て生糸を取る「糸取り」という
作業 労働は「過酷」という言葉では形容できないレベルだった
朝4時半に起床、洗顔、トイレを慌ただしく済ませた後に
朝の労働 7時に朝食を10分で摂り、また労働 昼食も立ち食いで10分、
再び夕方まで労働 15時間近く働いた 職場環境は劣悪で、
気温40度に達する工場は締め切られており、
日光も風も入らない蒸し風呂状態 結核菌が繁殖するには絶好の条件だった
やがて、みね自身も結核に感染して重度の髄膜炎を発症する
しかし十分に医療を受けられず、隔離小屋で寝かされた後、
工場を訪れた兄の辰次郎(地井武男)に背負われ、
郷里の飛騨に戻るところでみねは息を引き取る
雪深い冬の険しい野麦峠越え手前に設置されていた石室跡
災害等で崩壊した石室を再建したもの
石室再建の記
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