こんにちは!
新たなカテゴリーとして登山に通った峠道を加えてみたい思います
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外はほとんど素通りして記録に残っていないのが
現状です 年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
幕末の剣士、机竜之助を主人公にした中里介山の小説大菩薩峠で
よく知られた峠 大菩薩峠(だいぼさつとうげ)を第十二弾として
掲載してみたいと思います
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は、山梨県甲州市塩山上萩原と
北都留郡小菅村鞍部の境にある峠 標高1,897 m
古来、修験道の山岳修業の場だったといわれている
江戸時代までは武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州道中の裏街道であった
青梅街道の重要な峠として利用され、青梅街道の最大の難所でもあった
峠を越えると街道は北都留郡丹波山村を通過する丹波山通と
小菅村を通過する小菅道に分かれ、武州川野村
(現在の東京都西多摩郡奥多摩町)で再び合流した
峠より以西では、両村からの米や塩、木材など物資の輸送にも利用された
現在の峠は近年に認定されたものであり、
江戸時代からの街道としての旧峠は賽の河原という地名で残っている
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)に建つ山小屋 介山荘
大菩薩峠から大菩薩嶺へと続く尾根筋
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)から眺める甲府盆地と南アルプス山並
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)に設置されている中里介山記念碑
1913年(大正2年)から1944年(昭和19年)の32年にわたって
『都新聞』に連載された、中里介山の未完の大河小説
『大菩薩峠』で広く知名度があり、大菩薩峠から流れ出す
多摩川流域の自然や、そこを往来した人々に触れたことで
介山の人格や思想形成に大きく影響したともいわれている
1954年(昭和29年)には記念碑が立てられ、介山祭も開かれている
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
新たなカテゴリーとして登山に通った峠道を加えてみたい思います
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外はほとんど素通りして記録に残っていないのが
現状です 年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
幕末の剣士、机竜之助を主人公にした中里介山の小説大菩薩峠で
よく知られた峠 大菩薩峠(だいぼさつとうげ)を第十二弾として
掲載してみたいと思います
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は、山梨県甲州市塩山上萩原と
北都留郡小菅村鞍部の境にある峠 標高1,897 m
古来、修験道の山岳修業の場だったといわれている
江戸時代までは武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州道中の裏街道であった
青梅街道の重要な峠として利用され、青梅街道の最大の難所でもあった
峠を越えると街道は北都留郡丹波山村を通過する丹波山通と
小菅村を通過する小菅道に分かれ、武州川野村
(現在の東京都西多摩郡奥多摩町)で再び合流した
峠より以西では、両村からの米や塩、木材など物資の輸送にも利用された
現在の峠は近年に認定されたものであり、
江戸時代からの街道としての旧峠は賽の河原という地名で残っている
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)に建つ山小屋 介山荘
大菩薩峠から大菩薩嶺へと続く尾根筋
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)から眺める甲府盆地と南アルプス山並
大菩薩峠(だいぼさつとうげ)に設置されている中里介山記念碑
1913年(大正2年)から1944年(昭和19年)の32年にわたって
『都新聞』に連載された、中里介山の未完の大河小説
『大菩薩峠』で広く知名度があり、大菩薩峠から流れ出す
多摩川流域の自然や、そこを往来した人々に触れたことで
介山の人格や思想形成に大きく影響したともいわれている
1954年(昭和29年)には記念碑が立てられ、介山祭も開かれている
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