小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

地方紙の存在意義を再考する:

2013年07月09日 | 社会戯評
地方紙の存在意義を再考する:
信濃毎日新聞が、7月5日で、創刊140年を迎えるという。東京では、散々、長い間、全国紙を購読していたし、貿易に携わっている間は、40年以上もの間、日本経済新聞を愛読していたものである。今から考えれば、新聞が、とりわけ、メディアの、或いは、情報の中心に位置し、毎朝、出勤前には、隅から隅まで、小さな記事も読破したものである。今日、インターネットやスマホが発達した結果、どこでも、デジタルで、ニュースや情報に接することに不自由はなくなったし、海外に出張したり、旅行に出たりするときにも、大概の情報は、インターネット経由で、知ることが可能になった。そう言えば、海外では、サテライト衛星電信印刷なるものもあったのを想い出す。ビッグ・データの時代、とりわけ、全国紙でなく、地域に密着した地方紙の存在意義は、果たして、こうしたデジタル化の時代に、何処に求められるのであろうか?少なくとも、「情報」に接した後のその見極め、判断は、どうしても、即時性のネットには劣るものの、それこそが、逆に「弱みから強み」になるものであり、「思索・判断の時間猶予と深化」というものであろうか?その意味では、ネット右翼のような、これは、中国でも日本でも同様に、共通するものの、軽薄な即発的な感情的な反発しかなく、付和雷同することなく、一歩冷静に立ち止まった哲学的な深遠な熟慮はみられない。地方紙は、全国紙とも異なり、地域密着とは良いながらも、こうした新聞というメディアの有するじっくり考える思考方式の「訓練をする場」をに日常から与えたいものである。さもなくば、本当の意味での「意見の発信」というものは、育ってこないのではないだろうか?仮に、「情報の発信」というものが、即ち、「意見表明」ということであるとするならば、単なる矮小な「情報の共有」ではなくて、「情報の取捨選択」なり、「騙されないような判断能力の構築」を、培う場として、おおいに、期待したいものである。次の百年後には、絶滅危惧種として、指定されるか、それとも、かろうじて、生き残っているのであろうか?