小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ヘイト・スピーチに考える:

2014年10月28日 | 社会戯評
ヘイト・スピーチに考える:
橋本大阪市長と所謂、在特会なる団体との狂った闘犬のような何とも、品格に欠けたテレビ報道を観たが、全く、食傷気味である。全く、何か、悪いものを観てしまったそんな思いをしたのは、私一人だけであろうか?それにしても、辞任する前の松島うちわ法務大臣による国会での答弁にも、全く呆れかえるが、「被害を特定できない以上は、規制は出来ない」式の法的解釈には、全く、法を守る番人としての誠意さえも感じられないのは、全く、こんな報道が、海外に配信されていたとしたら、日本人として、恥ずかしくて、困ったものである。それにしても、戦後のドイツに於けるネオ・ナチのヘイト・スピーチの規制に較べたら、全く、戦後70年間、一体、日本は、マイナリティーに対するどんな保護政策や教育政策を施してきたのであろうか?明らかに、ヘイト・スピーチの延長線上には、ヘイト・クライムに繋がり、更に、その行き先には、民族浄化に名を借りたジェノサイドが、あることは、歴史を検証するまでもなく明らかなことである。問題は、法制度の整備や解釈だけではなくて、我々一人一人の心の中の在り方と、不断の心構えこそが、こうしたヘイトスピーチを断固として許さないという素地を作ることこそが、必要不可欠ではないだろうか、さもなくば、小さな虐めや虐待や差別にも、或いは、マタハラにも、人権侵害や弱者保護にも、我々は、常に、見て見ぬ振りをしたり、眼をつぶってしまうのではないだろうか?法解釈の課題もさることながら、我々の「心の在り方」が、同時に、問われそうである。