小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ハザード・マップの持つ危うさ:

2018年07月15日 | 社会戯評

=ハザード・マップの持つ危うさ:

 

50年来の古い友人が住む住所が、テレビで、報道されていたので、ビックリして、メッセージを送信したところ、三日三晩、激しい雨に、晒されて、危うく、被災するところだったと連絡があった。その後のニュースでは、各地域とも、未曾有の大水害に見舞われているのは、周知のごとくである。それにしても、近所の友人宅に、電話留守録で、救助を懇願している音声には、流石に、災害弱者のむなしさと無力感を禁じ得ない。

それにしても、ハザード・マップで、被害想定されていたとか、もっと、情報提供や避難勧告の早期の指示をしていたらとか、毎年毎年、同じ反省と教訓が、繰り返されるのはどうしたものか?大体、行政というものは、いつも、箱物建設ではないが、ハードを作ることが、自己目的的に、なし崩し的に、目的化され、決して、それに伴う十分なソフトの提供は、セットとして、行われることはないし、そんな総合的な専門家は、各地方自治体には、ましてや、小さな村や限界集落には、いないし、そんなところでは、SNSによる情報チェックや収集から、救助要請の情報発信などは、ましてや、できるはずもない、せいぜいが、防災無線の放送が聞こえたとか、聞こえなかったとかというレベルではなかろうか?

寝たきり老人や老齢災害弱者は、別にしても、そもそも、ハザードマップなどを後生大事に、眺めたり、それは、水害に限らず、地震災害や火事の延焼地図も含めて、それらに頼っていたら、それこそ、命がいくつあっても、足りないし、自分の命は、決して、守れることはないであろう。

それこそ、古文書や、昔の言い伝えも含めて、自分の住むところの周辺の過去の災害を自らが、学び、どのように備えたら良いかを、普段から、考えておかないと、自分の命は、自分で、守る意識がない限り、難しいのかもしれない。尤も、水害には、二階に寝ていた方が良いかもしれぬが、火事の時には、どうしたらよいのであろうか?土砂崩れには、どのように、対処したら良いのだろうか?<ここら辺は、災害が少なかったからねぇ>というのは、もはや、今日的な天候の急変や線上降水帯の雨雲の流れは、事前に、スマホで観ていても、全く、予測がつかないモノである。<友人の被害は、明日は、我が身になる>のかもしれない。約4年前も、似たような被害に遭った友人は、当時、1週間、ボランティアで、復旧に、参加したが、今回は、もう、腰も悪くなり、そんな厳しい土方仕事は、到底無理で、せいぜいが、夜警見回りボランティアくらいかなと、自嘲気味に言っていた。いよいよ、こちらも、災害弱者予備軍に近づきつつあるのであろうか?どうしたものか、深刻に、考え直さないといけないかもしれない。まずは、お見舞いに、保存可能な飲料水でも、送るとするかな、

 


一発屋芸人列伝評後書きのPS:

2018年07月15日 | 社会戯評

一発屋芸人列伝評後書きのPS:

 

 

新聞を読んでいたら、なかなか、面白い記事があった。

一世を風靡した茶の間の英雄達も、テレビ画面から一旦は消えた負け組と嘲られがちであるが、一度は、瞬間的であれ、その頂点を極めたのであるから、その芸(?)といえるかどうかは、わからないが、必ずしも、単純に、負け組とかと、断定できないものであろう。

しぶとく、別のジャンルで、過去のブランドの栄光を利用して、隙間産業で、したたかに、生き延びているのも、事実であろう。流行語や、社会現象になるべくしてなるその芸(?)とは、一体何なのであろうか?頂点を一度は極めたのであるから、再び、<頂点を求めることなく、むしろ、敢えて、頂点を目指さない生き方>であるという。短時間で、謂わば、時間を凝縮したような、視覚的な、或いは、話芸ではなくて、パーフォーマンスで、笑わせるという、あたかも、生産性を最大限化させる方向性に、いつの間にか、視聴者のニーズ(?)が、変わってきてしまったのであろうか?商品が、大量生産されるにつれて、当然、流通量が増えれば、増えるほど、飽きられるスピードも、増してきて、ライフ・サイクルも、短くなってしまう訳である。そうすれば、当然、バージョン・アップや、付加価値をつけてゆかなければ、永続性は、維持されなくなり、失速してしまうことは、必然である。

 天国も地獄も、両方とも、観た一発芸人達にとって、長い人生は、まだ終了したわけではなくて、人生には、仮に、その成功度合いを高度としてみた時に、そんな高低差が、あるのも事実なのであろう、そして、そのどん底から、再び、死んだふりをしながら、したたかに、負けたふりをしながら、低空飛行でも、再びの頂点を望むことなく、人生を生き抜くことは、何か、もう、人生哲学のその向こう側に、あるような時空を超えたものを目指しているかのようである。それにしても、働き方改革ではないが、ライフ・バランスとか、オン・オフの切り替えとか、議論されているが、いつの間にか、お笑いの業界では、圧倒的な生産性の局限化の結果としての一発屋という芸(?)を、不可避的に、生み出してきたのだろうか?お笑いには、記憶に残る生き方があっても良いのかもしれないが、その人間の人生には、人々の記憶に残る芸人の人生というものは、許されるのであろうか?