小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、<原田 要、平和への祈り:元零戦パイロットの100年>を観る:

2018年07月30日 | 映画・テレビ批評

=映画、<原田 要、平和への祈り:元零戦パイロットの100年>を観る:

県立上田高等学校のO君から、紹介された、上田の上田映劇のパスポートを購入したところ、スタンプラリーならぬ、映画の消しゴム・スタンプを、押して貰え、これがなかなか、趣のある出来映えで、自分も、数年に一度の消しゴム版画家(?)だから、共感してしまう。台風襲来の予想にも、関わらず、午前中の上映には、数十名の観客が、上映時間前から、着席していて、少々、驚いた。
 人の人生における死に際とは、何か、見えざる何者かの御手か、それとも、ある判断でもあるのかと、そんな感慨を、見終わって思わざるを得ない。年若くして、むなしく、人生を終わる者もあれば、偶然、どう考えても、不条理というか、理解に苦しむようなそうした死の存在も、実際垣間見られるのも、事実である。それに比べれば、99歳の、まさに、100歳を目前とした、しかも、米国のともにミッドウェーで戦った米国の退役軍人達の訪問当日に、奇しくも、息を引き取るとは、、、、、、、。或いは、壮絶なガダルカナル戦でも、不時着するも、生還して、内地に、帰還したり、セイロン島でも、行方不明の中を、母に似た夕空雲に、導かれて、生還したりと、数え上げれば、そうしたエピソードが、尽きないことに、驚きを禁じ得ない、太平洋戦争の開戦の時に、結婚して、更には、身重の妻を残して、戦争に、出向いてゆくと言うこと自体が、今の若い人には、想像もつかない、考えられないような状況である。戦争とは、いかなる理由があるにせよ、とりわけ、原田が、危機感を持ったのは、湾岸戦争当時のあのCNNテレビに映し出されたテレビの画像をみて、若者達が、<まるで、花火を観ているようだ>という、コメントだという。確かに、3.10の東京大空襲も、雨あられに降り注ぐ焼夷弾の恐怖も、アニメ映画の世界でしか、観たこともなく、体験、実感は、戦後生まれの我々世代でも、亡くなった親たちの世代からの伝聞にしか過ぎない。
 いかなる戦争も、その人間性、基本的な人権そのものの全面的な否定の上に成り立ち、勝者も敗者も、そこにはないと、殺さなければ、殺されてしまうという、過酷な現実があるばかりである。私には、父方の叔父が、マキン・タラワ海戦で、海軍佐世保陸戦隊の一員で、未だに、Missing in Action状態で、お墓には、遺骨はない、又、母方の叔父も、フィリピンで指揮の途中で、太もも貫通銃創で、昇降が、捕虜になることを恥じて、自決している。これとは違って、父は、騎馬隊で、ずっと勝ち戦で、中国から、ベトナム、シンガポール、最後は、インドネシアのボルネオで、終戦、途中、痔の手術で、ガダルカナルへの派遣に、奇しくも、漏れたと後年、語っていたのを思い出す。父は、生前、二度ほど、タラワ島を、夫婦で、記念碑追悼に、訪れているが、私も、一度は、行ってみたいと思うが、身体との相談である。
 戦後の公職追放、軍人への評価の逆転、幼稚園の経営に至るまでの経緯は、何とも、散々、終戦直前までも満蒙開拓団へ、若者を送り出したものの、戦後は、一転して、民主主義者に転校してしまった教師達や、朝鮮戦争以後、再び、公職へ復帰することになる旧軍人など、人生の在り方は、実に様々であるが、自ら、希望の○をつけて、一歩踏み出して、命を投げ出すことを選択した人に対して、断固として、確固たる信念から、拒否した人間がいたことを、何か、一筋の光明を見いだしたような気がしてならない。
 きっと、原田要という人は、何か、そうしたミッションでも背負わされて、生まれてきて、そして、100歳を前に、白寿を全うしたのではないだろうか?
私たちは、初期の段階では、零戦が優位だったのに、米軍による不時着機への徹底的な部品の分解と弱点の解析と、改造により、徐々に、総力戦で逆転され、敗戦へと追い込まれた事実を、後年、知ることになるが、それでも、そうした一コマ、一コマの中にも、個々人の人生に於ける生死の分かれ目があったことを忘れない。死者への鎮魂と戦後の託児所から始まった幼稚園教育、命の大切さを子供達に教えた戦後の後半生も、常に、死者達と向かい合いながら、その言わんとするところを、代弁していたように思われる。終戦を前に、ジェット機の試作機用のパイロットの要請という皮肉な結末は、誠に、象徴的であるし、亡くなった日に、米国退役軍人が、会いに来たというのも、決して、偶然の出来事ではないように感じる。きっと、この人は、最期の最期まで、自分の体験を後世に伝えるべく、生き証人として、命を長らえるべく、多くの死者達に、使命を託された一人なのかもしれない。そして、後世の託された私たちは、それをしっかりと、胸に刻みながら、心して、生きてゆかなければならないのかもしれない。
8月3日(金)まで、上田映劇にて、上映中、
http://sensou.suzaka.jp/