アケビの天ぷらを食す:
先日、偶然にも、アケビを見つけて、熟した実を食べたことを記したところ、地元の知人から、『そんなものは、そこら辺に自生していて、地元の人は、見向きもしませんよ』と言うから、是非、とっておいて、宿泊客へ、振る舞おうではないかと云った。そうこうしているうちに、たまたま、外国人客が宿泊し、天ぷらの料理を手伝いたいと云うことで、ついでにと云っては何であるが、お母さんがアケビの天ぷらを作ってくれたそうである。私は、実の方しか、食したことがなかったが、鞘と云おうか、皮と云おうか、外側のややふやけた部分を半分に切って、天ぷらにしたところ、外見は、一寸、白なすの天ぷらに似ている。早速、食してみたが、それ程、違和感はない。存外、柔らかくて、食べられるものである。特別に、うまいモノでもなければ、決して、不味いものではない。強いて云えば、食べられないモノではないというところであろうか?それにしても、昔の人は、大したものである。食べるものが無いと云ってしまえば、それまでであろうが、食文化というものは、奧が深いものである。昔の人は、きっと、お彼岸の頃には、天ぷらにも、アケビの実を食した後に残った熟して柔らかくなった鞘の皮までも、天ぷらにして、食べたのであろうことは、容易に、想像がつく。サヤエンドウの天ぷらだけではないのであろう。信州では、その意味で、先人の知恵を、改めて、食文化を通じて、感じられることは、実に愉しい。鯉の甘煮や、洗いも、鯉自身が、そもそも、稲作の田んぼで、雑草を食べて貰い、更には、土壌をその背びれなどで、撹拌してくれるという一挙両得の効果を及ぼし、それを収穫後に、活用するとは、先人の知恵とは凄いものである。そんなことは、暖かい南国の土地で、年に2回も3回も、陸稲でとれる土地では、考えられないことであろう。この発想にも、改めて、大きな驚きを禁じ得ない。折角食した果実のみがたくさん残っているので、試しに、庭に、播いておくことにしようか、忘れた頃に、発芽して、成長して、実をつけることを心の底で、密かに、期待しつつ、、、、、、さて、どうなるであろうか?又、一つ、愉しみが、出来た。これで、桑の実と、アケビというレパートリーが我が緑溢れる庭にも、揃いそうである。