愛犬の若い頃の顔:
我が家には、写真の額縁に、様々な愛犬の写真が納まっている。1995年に、我が家に貰われてきてから、亡くなるまで、18年余も、一緒に、我が家の一員として、過ごしたわけで、子犬の時代には、まだ、デジカメが、普及していない頃だったから、フィルムを写真に焼いて、保存しているものが、大半で、後年になって初めて、デジカメやPCに画像の保存が可能になったものである。従って、後年は、随分と画像も短いビデオも、数多く、保存されているものの、子犬時代や若い頃の愛犬の写真は、残念乍ら、それ程、多く残っていないのが、実情である。それ故、額縁に入って、色々な場所に、おかれている写真は、今や、大変、貴重なものである。たまたま、ヒョイと、目を向けると、偉そうに、お座りして、凜として、こちらに向かって、まるで、挑戦的なようなポーズをとっている若い頃の写真がある。我が家の愛犬は、メスなのに、若い頃は、犬相が、オスのようないかめしい顔つきで、お座りしているときにも、まるで、偉そうな直立不動のような恰好だったから、よく、飼い主に似て、偉そうだなどと、家族からは、揶揄されたものである。従って、私には、他人事とも思えず、飼い犬までも、飼い主の顔や態度に、酷似するものなのかとも、何とも、複雑な気持ちになったものである。犬の相というものは、面白いモノで、時間の経過を辿ってみると、成る程、その年齢に応じて、違ってくるもので、確かに、子犬時代、若い頃と、壮年の頃と、老犬になってからでは、顔つきも、違っているものであることが、今にして、初めて、理解出来る。息子のグローブを噛んだり舐めたりして、結局、最後は、中身のあんこまでもが、出てしまったり、松の枝の棒きれを加えて、スックと、遠くをジッと、見つめている姿や、桜の花の下や花壇の花々と一緒に、或いは、落ち葉の中で、モミジの紅葉の下で、雪の散歩道で、一緒に、その影とともに、撮った写真など、尽きぬ事のない愉しい想い出が一杯である。愛犬の一生と言っても、18年余であっても、それは人間の年齢で言えば、92歳にも相当するもので、自分も、齢を重ねるに連れて、愛犬の一生と重ねて、想うようになってくるものである。額縁の中の若い頃の写真は、まるで、偉そうに、「あんたも、しっかりしなさい!」と言っているように、感じられるし、又、別の晩年の写真には、「ボスも、歳をとったものだね!」とも、言われているようにも、思われるものである。君は、今でも、想い出の中で、偉そうに写っている。