マルタ日記

感謝な出来事。聖書からのみことば。
思いのまま吹く風と共にきらきら輝くキリストの花嫁の日々

水子供養とキリスト教会

2008-10-06 | 日々の出来事
先日ある方から、「水子供養は教会でどうしますか?」と聞かれた。
水子供養・・・私の考えでは、自分本位な(親側)、また、宗教側からはある意味暴利をむさぼるツールだと思ったりもする。
私のキリスト教的な考え方からすると、いわゆる「水子」=「胎児」は中絶であれ、流産であれ、死産であれ、自分で信仰を告白できないいのちは、神の御手にゆだねられている。それは何らかの障害をもって生まれ、救いの理解や告白ができない人も同じ。そして、キリスト教的に考えるとどんないのちに対しても死んだ人を「供養」する必要はない。
ただ、問題は、「中絶」されたいのち。
親が自ら中絶を選び(たとえ強要されたとしても)絶ったいのちに対しては、他のいのちを絶ったという罪の自覚と親の悔い改めが必要である。そこにはやはり、いのちは親や強いて言えば自分のものでもない、創造主なる神様から与えられているものであるという考えがある。

ただ、悔いた魂には神様は必ず慰めと赦し、癒しを与えてくださるお方です。
ですから、罪の告白と悔い改めのための祈り、慰めと癒しのための祈りをする。

そして、先に神様のもとに行ってしまった小さないのちが今は神の国で神と共にあるという慰めを得、その神の国で出会えることを願って共に神様の救いを願うものとなりましょうというお勧めをする。

今、水子供養という言葉で惑わされ、また、中絶を供養と言う形で正当化しようという考えに教会は、大きな声で言っていかなければならないと思う。元々水子供養は、日本古来からされていたものでもないようだ。水子供養の歴史を見るとそれがどのように始まり、扇動され、洗脳されてきたかがわかる。

ふぅ、ちょっと今日はまじめに書いてしまったよ。
     


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