猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

東都はいつから二部制になったのか?~東洋大野球部の加盟時期など…。

2017-10-19 23:11:00 | インポート
*2017年10月19日更新=2012年6月にUPした記事に『東洋大学護国會報』の記事と昭和10年ごろの東都に関する新聞記事について加筆致しました。


開幕前は“春六連覇”を期待されながら、結局日大との“最終決戦”を勝ち抜いて、かろうじて入替戦を免れた東洋大。
秋のシーズンでは巻き返して“優勝争い”でファンをドキドキさせてほしいものであります。

毎年優勝争いと並んで注目を集める東都の入替戦ですが、この制度は一体いつから始まったのでしょうか?
ウィキペディアの東都大学野球連盟の沿革の項には

1931年 、中央大学、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学が加盟する五大学野球連盟(当時、通称で新五大学野球連盟)として発足、早大戸塚球場にて発足式を開催。第1回リーグ戦は専大が優勝。
  (中略)
1936年 東京商科大学(現在の一橋大学)が加盟し、東都大学野球連盟へ改称。
1940年 東京慈恵会医科大学(数年後に脱退)、上智大学、東京工業大学、東洋大学、東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)が加盟し、2部制と入れ替え戦を施行。

とあります。

1986年に発行された『神宮球場ガイドブック』Vol1のなかの東都大学野球の歩みにも
…日大、専大、国学院大の伎倆はようやく整備され、昭和4年頃には、当時隆盛を極めた東京六大学連盟の各チームと相対的にゲームを行える段階に至ったのであるが、以上三校の希望する東京六大学野球連盟への加盟が認められなかったので、三校が主体となり、中大と農大を加えて6年春の五大学野球連盟の誕生となった。
昭和10年春から五大学野球連盟を東都大学野球連盟と改称、同時に東京商大が加盟して農大が脱退、翌年(11年、秋には)農大が復帰し6校となったが、今のような6校対等制でなく、日大、中大、専大、国学大が一部、農大、商大を二部としたがこれまた翌年には改廃、学校の加盟脱退が相次ぎ、リーグ戦としての魅力を持てずこれが結論的に大きなマイナスとなったことは遺憾ながら隠れのない事実である。
連盟が6校の形体をとるに至ったのは昭和14年春以降で、同年には、慈恵大、文理大、工大、東洋大、上智大など加盟の増加をみて、一部六校、二部五校と分け、一、二部の入替戦を行った

(昭和14年は西暦だと1939年なので1940年とするウィキペディアとは年代に違いがありますが…)

との記述があり、筆者も以前は“東洋大は戦前から東都大学野球に加盟していた”ものと思っていました。
ところが、戦前の試合結果などを新聞記事などで調べているうちに、この昭和14年加盟説に疑問を持つようになりました。と云うのは当時の新聞記事などにはこのことが全く出ていないからです。
もちろん、新聞に出ていないから事実ではない、などというつもりはありませんが、当時の新聞を見ると東都大学野球に関する記事は六大学ほどではないにしても結構取り上げられており、春のリーグ戦前の展望記事では主な新人選手の一覧なども見受けられます。
また、当時は昭和7年に施行された『野球統制令』が強化され、平日試合が禁止されるなど学生野球に対する風当たりが次第に強くなってきた時代でもあります。このような時期に加盟校を増やし一・二部制にして入替戦を実施するといったリーグ戦の活性化につながる様な事が行われたのであれば、当時の新聞に記事が見当たらないのは不自然なことのように思います。
(“日大、中大、専大、国学大が一部、農大、商大を二部としたがこれまた翌年には改廃”というのも誤りで、この“変則二部制”は昭和11年秋から昭和13年秋までの5シーズン行われています。“変則二部制”と記したのは単にチーム数がアンバランスだからではなく、一部校と二部校はリーグ戦期間中一試合ずつ対戦し、勝敗は二部校にのみ記録されるというものだったからであります)


平成13年に発行された『東都大学野球連盟七十年史』でも、OBや古参記者の方の座談会記事などでは“二部ができたのは戦後から”といった発言はあっても“加盟校の変遷”は昭和14年から11校となっているなどこの点については明確にされていませんでした。


そこで、暇を見てはいくつかの学校の野球部史や年鑑、野球史の本などをあたってみて得た結果をまとめてみました。


『東京慈恵会医科大学野球部100年史』
まず気になるのが現在では東都リーグにはいない慈恵大ですが、2009年に『東京慈恵会医科大学野球部100年史』が刊行されたのでそれを見てみましょう。

同誌に依れば戦前は大正10年ごろから昭和5年まで“東都医師薬野球リーグ”、昭和7年から昭和13年まで“全国医科大学野球大会”に参加し、昭和14年以降は大会に関する記録は残っていないようです。

東都への加盟について当時部員だったかたの回想には
昭和19年に入学し、26年に卒業した我々のクラスで大橋にあった予科の校庭で野球を始めたのが21年春頃である。当時、相手を求めて横浜高等工業や一高などと試合をしたのを思い出す。そのうち、中断前から野球部員であった先輩達とわれわれが合流し、戦後の野球部がスタートしたように思う。当時医大リーグなどもちろんなく、東京地区であったのはいわゆる六大学と東都大学リーグのみであった。慈恵が東都二部に入ったのは21年秋である。
二部がその時に初めて結成されたかどうか調べる余裕はなかったが、東洋、文理、農大、芝工大、上智を相手に加盟早々優勝してしまった。そして一部に昇格することになった。試合に勝つようになると練習に身が入るのも当然である。その頃予科のあった千鳥町のグラウンドでの猛練習は今でもよく憶えている。22年春は一部で専修、中央、日大他が相手だった。特筆すべきはこの時、専修、中央に次いで三位に入ったことだろう。時代の違うチームの強弱を論ずるのは無理な話だが、野球部の歴史の中では強かった時代だろう・・・中略・・・しかし、一部でやって行くことは所詮無理だった。同年秋を最後に、23年春からは医大リーグに加盟した。
(『東京慈恵会医科大学野球部100年史』昭和26年卒の小林健一名誉教授の回想記事より)

とあり、加盟した経緯については
加盟することになったきっかけは、わからないが小林教授曰く、「急に連絡があり、試合ができるということで参加することになった」という感じだったそうだ。

とことでありました。
慈恵大の東都加盟は戦後になってからのようです。“二部がその時に初めて結成されたかどうか調べる余裕はなかったが”と記しているのは、やはり昭和14年加盟説を意識してのことのでありましょうか?
当時、慈恵大が強かったのは戦争末期の“学徒出陣”が文系学生を対象としており、理系の大学生には引き続き在学中の徴兵は猶予されていたため、他校に比べ戦前からの野球経験者の復帰も早かったためと思われます。

つぎに、同じく昭和14年加盟説のある文理大について見てみましょう。

『茗渓野球史』
文理大は戦後、東京高等師範学校などと合併し東京教育大(現筑波大)となりました。そこで、1977年に刊行された東京教育大の野球部史である『茗渓野球史』をあたってみました。

文理大は拙ブログの“テーマ「歴史-戦前」のブログ記事”内の昭和6年の記事でも紹介したように、東洋大、拓殖大と三大学リーグを結成していました。このリーグは昭和七年に工大、昭和八年秋には商大が加わり五校による新大学リーグとなりましたが、昭和九年春に分裂。その際文理大は
…商、文、工の三大學によって新たに三大學野球聯盟が結成され、今秋リーグ戰を擧行する事となった。(『朝日新聞』昭和九年六月七日付朝刊)

と報じられていたのですが、商大は昭和10年に東都へ加盟し、他の二校についてはわからなかったのですが、『茗渓野球史』の昭和10年の項に
この年新たに千葉医大・東工大・文理大で三大学リーグを結成したが、これは結局太平洋戦争に突入する昭和十七年まで続いた。

とあり、さらに昭和17年には
九月二十六日東都大学リーグの農大に挑戦・六―二で勝つ。そこで上位の日大・中大・専修には及ばぬまでも、東都リーグで四位にはなれるとふんで加盟を打診したりした。これは実現しなかったが、結局終戦後野球部が復活した後、東都大学リーグのメンバーとして活躍する下地ができていたのである。


とあります。加盟を打診するところまで行ったものの、やはり昭和14年には加盟していません。

東都への加盟については、「茗渓ベースボール」という部誌の当時の選手の回想記事を引用して
「文理大野球部の戦後の復活は昭和二十二年で、部の発足、東都大学連盟の加盟に至る経過には大変難儀なものがあった。しかしながら、幸いにして野口部長、先輩諸氏のあたたかいご支援により二部校として春季リーグ戦に優勝し、引き続き入替戦で東京商大を十九A対三の大差をもって完勝、一部昇格の栄と夢を一シーズンで果たすことができた」

としています。文理大も部史の中では東都への加盟は戦後としていました。
ただ、“昭和二十二年”というのは著者の方の記憶違いと思われます。
『文理科大學新聞』昭和二十一年九月十日号に
野球部起つ
   東都リーグ参加
野球部ではこの程東都大学野球聯盟に新加入、工大、慈恵大、上智大、東洋大と共に二部を形成(一部は専、中、日、商、農、國)愈九月下旬からリーグ戦に出場することとなった。…中略…陸上競技あたりでは屡々覇を唱える文理大も野球部は從來とも殆んどあって無きが如き存在であったが、このたび時代の趨勢に和して野球部が蹶起したことは學内からも大いに稱讃されてゐるとともにその活動が期待されてゐる。
(『文理科大学新聞・教育大学新聞縮刷版』より)

という記事があります。『東京慈恵会医科大学野球部100年史』にもあるように昭和21年秋から二部リーグは始まったものと思われます。

ところで肝心の我が東洋大学はどうかと言いますと、野球部の部史はまとめられていませんし、『百年史』などの学史にも詳しい記述はありません。ただ、昭和16年に発足した護国会の会報に運動部に関する記事があるのを見つけました。

『東洋大學護國會々報』
護國會はそれまであった学友会が改編されたもので、運動部は鍛錬本部の中の体育部のもとに各部に分かれて活動しておりました。
『東洋大学護国會報』第一号(昭和16年5月25日発行)の中の「昭和16年度各部計畫表」の中に

○體育部
 △陸上競技部 
    ・・・本年度の同部の活躍は嘱目されており本年度も多彩な計畫が既になされてゐる。概要次の如し。
    イ、インターカレッジー六月一日に開かれるが二部優勝、一部に入るべく猛練習中。
    ロ、例年行ふ夏季休暇驛傳は今年は朝鮮を経て満州への豫定であるが、或るひは裏日本を廻ることとな
      るかも知れない。
    ハ、從來秋の大學祭に報知公園を以て開かれてゐたマラソン大會は全種目に亘る競技大會となす豫定。
    ニ、在來報知主催の驛傳は學生聯盟主催の下に開かれるが之に参加。
  
  卓球、野球、體操、蹴球、其他の各部は新設基礎建設の一年を送る。


とあります。
すでに関東インカレや箱根駅伝に参加していた陸上競技部の詳細な記事に比べ、野球部に対するそっけない扱いには、春秋二回のリーグ戦に参加している気配は読み取れません。

また、昭和17年12月1日発行の第八号には
野球部練習開始
八月以降學期試驗や學部入學等の爲一時活動を休止してゐた本學野球部は十月に入って活潑な練習を開始した。

とあります。
昭和17年は各大学野球リーグ戦が行われた最後の年で、東都大学野球も10月3日から11月7日まで一試合総当たりのリーグ戦が行われています。
『護国會報』第八号のこの記述に“練習を開始した”とあるだけで、リーグ戦などの試合に臨むような気配は読み取れません。

東洋大も東都への加盟はやはり戦後になってからのものと思われます。


それでは、なぜ“昭和14年云々~”の説が出てきたのでしょうか?

おなじく昭和14年に東都に加盟したとされている上智大学について『東都大学野球連盟七十年史』の野球部紹介の上智大学の項に『運動年鑑』1950年版の記述として
昭和10年には東都大学野球連盟が正式にスタートし、翌11年には、A、Bの二クラスに分けて、試合を行ったが、これは一年で終わり、翌昭和12年からは、上智他の参加校が加わって、一ー二部のリーグ戦が行われた。
この形式は昭和18年まで続いた、とあるが、上智は昭和18年以前に野球部の活動を停止していたと思われる。昭和18年には、甲子園大会も中断された時代でもあり、18年入学者の証言でも野球部はなかったという。


こんどは昭和12年という年代が出てきてしまいましたが、どうやら先の『神宮球場ガイドブック』の記述に近い内容が1950年版(昭和25年)の『運動年鑑』に書かれているようですので、それを見てみることにいたしましょう。

『運動年鑑』
運動年鑑は戦前から朝日新聞社が発行していたもので、戦後は昭和23年に復刊されたようです。したがって昭和23年版にはそれ以前の昭和21年度の東都大学野球についても書かれており、
終戦後の東都大學リーグ戰は6月1日から1回戰總當り戰を下高井戸、上井草兩球場で擧行、1部は中大、専大、日大、農大、商大、國大の6チーム、2部は慈恵、文理、東洋、工大、上智大の5チームの1部2部制を採用、1部は専大が5戰5勝で優勝した。

とあり、二部の結果については記載はありません。試合結果を見ると國大(国学院大)は3試合が不戦敗で、同年秋のリーグ戦では“國學院大學は全試合棄權”で“來シーズンより2部に轉落”となっています。慈恵大が一部に昇格したのは入替戦ではなく自動昇格であったようです。

で、問題の1950年版(昭和25年)の『運動年鑑』には“解説”としてリーグの歴史が載せられており、“2部制の採用”の見出しで以下のように書かれていました。
昭和10年東都五大学野球連盟を東都大学野球連盟と改称すると同時に、東京商大が加盟したが農大は脱退した。欲11年の秋には再び農大が復帰した。試合の方法は日本、中央、専修、国学院をAクラスとし、農大、商大をBクラスとしたが、この方法は1年だけで終り、その後は慈恵大、文理大、工科大、東洋大、上智大など参加校の増加に伴って第1部6校、第2部5校と分け、毎シーズン末には第1部の最下位と第2部の首位と入替戦を行うようになった。
この連盟は昭和18年の春一時解散したが、昭和21年春東京六大学野球リーグ戦の開幕に先立って再びリーグ戦を行って現在にいたった。



初めの方でご紹介した『神宮球場ガイドブック』Vol1にかなり近い内容になっていますね。特に“変則二部制”を1年だけと誤って書いているので、どうやらこの『運動年鑑』1950年版が間違いのもとではないでしょうか。

ただ、読んでお分かりの通り年代がはっきり書かれているのは商大が加盟し連盟の名前を変えた昭和10年と農大が復帰した昭和11年秋だけです。
先ほどの『東都大学野球連盟七十年史』の上智大学の項で“昭和12年”という記述は“…この方法は1年だけで終り、その後は慈恵大…”の“その後”を昭和12年と読み取ったためと考えられますが、元々の『運動年鑑』の記述は慈恵大などが加盟した時期を特定していない曖昧な表現がとられていました。


では、『運動年鑑』以外の野球史の本ではどうなっているのでしょうか。

『運動年鑑』から少し時代は後になりますが、1964年発行の広瀬謙三著『日本の野球史』を見てみることにいたしましょう。


『日本の野球史』
『日本の野球史』の著者広瀬謙三氏は戦前のプロ野球公式記録員で1973年に野球殿堂入りした野球規則・記録の権威であり、『日本の野球史』も名著として現在でも復刻版が25,200円という価格で出されています。

その中の東都大学野球の項では
…昭和十年には東京商大が加盟して農大は脱退するなどのことがあり、東京五大学連盟を東都大学野球連盟と改称した。十一年秋には再び農大が復帰したが、商大、農大を二部とし他の四校は一部となった。十二年春には関西六大学の優勝校と優勝同士が試合したが中大が立命大に二勝した。十四年には慈恵大、文理大、工大、東洋大、上智大など参加チームの増加をみて一部六校、二部五校と分け、毎シーズン末には一部の最下位と二部の首位と入替試合を行うのは十一年秋以来であるが実力のあるのは専修、日本、中央の三大学であり、シーズン初めには東京六大学のチームをやぶったこともあったが、神宮大会などの晴れの舞台で名声を得ることができなかった。昭和十八年には東京六大学と同様解散したが、戦後は同様に昭和二十一年春再建した。

としています。

ここで初めて“昭和十四年”という年代が出てきました!

“…入替試合を行うのは十一年秋以来…”と変則二部制が終わった時期を『運動年鑑』と同じように誤って記しているので、この項は『運動年鑑』1950年版をベースにして書かれたもののように思われます。

ではなぜ昭和14年という年代を特定しているのでしょうか。
以下はあくまで筆者の憶測ですが、昭和14年は昭和11年秋から昭和13年春まで行われていた一部四校と二部二校の変則二部制が廃止され、六校で一つのリーグ戦となった年でありますが、“一部の校数”という点では四校→六校となった訳です。
ベースとなった『運動年鑑』1950年版が変則二部制は“1年だけで終”ったものと誤り、かつ慈恵大などが加盟した時期を特定していかったために、『日本の野球史』で変則二部制が終わり、一見すると一部四校→六校に加盟校が増えたように見える昭和14年を“…慈恵大、文理大、工大、東洋大、上智大など参加チームの増加”した年と勘違いしてしまったのではないでしょうか…。


野球史では広瀬氏以上に知られている大和球士氏の『野球百年』では
…十年に東京商科大、十一年に農大が加入し、十四年には大量校の参加をみた。
慈恵医大、文理大、工業大、東洋大、上智大
の五校の新加入があったので、リーグを一部と二部に分けた。
(『野球百年』1976年の改訂版より)


これも筆者の憶測ですが、この『野球百年』は『日本の野球史』を踏まえて書かれたものかと思います。


以上、長々とあれこれ書きましたが、あらためてまとめると

東都大学野球に東洋大、慈恵大など五校が加盟し二部を形成したのは昭和21年秋
               ↓
それは各校の部史などから裏づけられる
               ↓
にもかかわらず“昭和14年説”が出てきたのは
               ↓
『運動年鑑』1950年版が“変則二部制”廃止の時期を誤って記述した
               ↓
加盟校の増加した時期は年代を特定せずあいまいに記述をしていた
               ↓
その為『運動年鑑』をベースにして書かれた『日本の野球史』が“変則二部制”が終わった昭和14年を加盟校増加=一部六校・二部五校の年としてしまった
               ↓
その後『野球百年』などもその説を採用した
               ↓
広瀬謙三氏、大和球士氏といった野球史では権威ある著者の説であるため“昭和14年説”が定説化していった


という流れだったのではないかという事であります。
(くどいようですがあくまで筆者の憶測であります)



以前は連盟の旧HPにも『神宮球場ガイドブック』Vol1と同じ沿革が載っていましたが、新HPでは昭和10年に名称を変更した後“加盟校は引き続き増加し”とあるだけですし、『神宮球場ガイドブック』も現在では東都の沿革を載せていません。おそらく東都に関する資料自体が少ないので、“昭和14年説”はどうやら違うようだけどかと言って完全否定する材料も乏しいといったところなのでしょうか。

まだまだ埋もれている文献などもあろうかと思いますので、引き続き調べていきたいとは思うのでありますが・・・。


『運動年鑑』1950年版
画像


*平成29年10月19日追記
商大の加盟が決定した昭和10年2月の讀賣新聞には下記のような記事が掲載されています。
五大學リーグ
「東都」と改稱

商大加盟 門戸開放

五大學野球聯盟では十二日午後六時から京橋明治屋ビル中央亭に理事會開催、各校部長、主将、マネージャー十八名出席、昨年十一月中旬當番校専修大學宛にリーグ加盟を申し込んで來た東京商科大學の加入に關しては𦾔■(判読できず)來數次に亙る理事會を重ねた結果五大學リーグ創立當初のスローガンたる學生野球の向上を圖ると云ふ立場から欣然その加盟を承認し又將來も加盟を希望し來る大學専門校に對してもその門戸を開放し加盟を歓迎する事を申し合せ商大加盟により名稱を東都大學野球聯盟と改稱し直ちに文部省に申請し許可を仰ぐこととなった。
(『読売新聞』昭和十年二月十三日付朝刊)


更に、翌昭和11年の東京朝日新聞には
六大学との聯携
 促進を決議

意氣込む五大學聯盟

東京五大學野球聯盟では豫てより同聯盟の更生策を講じ、先進六大學聯盟との提携を熱心に希望しつつあったが五日夜山水樓における同聯盟理事會の結果文部省體育課宛に六大學聯盟に對し積極的に働きかけ合同の機運を促進することを決議したので近日中に開催される六大學野球聯盟では本問題に就き相當論議されるものと見られてゐる。なほ五大學聯盟側の希望するところのものは
一、六大學側前シーズン最下位チームと五大學側優勝チームとの對戦
一、五大學聯盟の六大學聯盟加盟

(『東京朝日新聞』昭和十一年五月六日付朝刊)

とあります。

商大の加盟については、承認された後に中大が一転して反対を表明し、それが農大の一時脱退へと繋がるのですが、この事については折を見て稿を改めて書いてみたいと思います。

いずれにせよ、商大加盟ー農大脱退―再加盟といった動きと“門戸開放”宣言なども、その後の記録(or記憶)が混乱する遠因となったのかもしれません。
(昭和11年にはすでに東都に改称されているのに、上記の東京朝日はまだ五大學と表記している辺りにも、東都への関心の低さが表れているように思います)


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