羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

2008年02月21日 18時48分40秒 | Weblog
 最近のことだが、2月になると片づけをすることにしている。
 最初は少し寒いが、片付けている間にからだがあたたかくなる。汗をかく季節だと、途中で疲れが出やすいのだ。真冬というのは、その意味では動きやすい。疲れないで片づけが出来る。
 その年の予定をたてて、毎朝、ひとつずつこなし、終わった印をつけていく。
 
 ところが今年は新刊本づくりのことがあって、片付けの計画もたてられなかった。
 昨日、思ったよりはやく確定申告を提出することができたので、行き当たりばったりに今朝から始めようと思いたった。
 とりかかったのは三面鏡の片付けだ。

 結構捨てるものがあり、思いがけないものも出てきたりして、片付けというのはそれなりに面白い。
 最近ではほとんど使わなくなった12枚ほどのハンカチーフが押し込まれていて、それを洗いアイロンをかけて、綺麗な状態で鏡台の引き出しに納めたのは、お昼時だった。

 鏡台といえば思い出すことがある。
 江藤淳さんが奥様を亡くされて、彼女の鏡台に掛けられていた布を見て悲嘆に暮れる話だ。
 昔の女性が使っている鏡台は一面鏡で和服を着るときなど姿見の代わりになるくらい幅は狭くても思いがけない高さがある。長年使い込んでいると、その間、何度か鏡にかける布が新しいものに替えられるのだ。
 江藤さんのお宅も、新しくお気に入りの布にかけかえられてそれほどの時間がたたないうちに奥様が帰らぬ人となられたらしい話を、たぶん昨年のことだったか、新聞で読んだ。
 
 その話を思い出しながら、15歳の誕生日に両親からプレゼントされた三面鏡を綺麗にした。
 よく見なくても小傷や手垢がついていて、なぜ、もっと大切に使わなかったのかと悔やまれた。
 おそらくその新聞記事を読まなければ、これほどの思いは持たなかっただろう。

 四月で四十四年間の自分を映してくれた鏡だ。
 なんだか怖いようないとおしいような微妙な心持ちだ。
 嬉しかったとき、悲しかったとき、悔しかったとき、憤りに燃えたとき、熱に浮かされたとき、喜びに浸ったとき、そして愛する人を失ったとき、優しい気持ちになれたとき、元気溌剌なとき、失意に打ちひしがれたとき、……私をじっと見守ってくれた鏡だった。

 あと何年、この鏡に向かって髪を結い化粧をするのだろう。 
 母の鏡は、戦争が激しくなる前に祖父が手に入れ、嫁に来るときも持ってきたという。後生大事に使っていて、こちらは六十七年は優に超えている
 
 あぁ~、私の鏡は、これから先、これまで過ごした時間、使い続けるというのは無理というもの。
 いずれにしても女にとって鏡は、日常の道具の中でも特別なものに違いない。
コメント
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